第四章 衣津納 十 飛翔
「ぬううんっ! っがあああっ!!」
大猿の背中がミシミシと音を立てて盛り上がる。
いったい何事が起こるのかと眼を見張るその前で、深い毛に覆われた肉を突き破って何かが飛び出した。
焼け焦げた枯れ木を束ねたような、真っ黒い塊。それは大きく広がると、巨大な翼へと形を変えた。
それも鳥のものじゃねえ、膜を張ったような奇怪な形をした、蝙蝠のそれだ。
「ぬははははっ! ではさらば!」
バサリと羽搏くと、赤銅色の巨体が宙に浮かぶ。
「てめえ!」
鏢を投げ付けたが、太刀で易々と叩き落された。
「くそっ!」
先日の竹とんぼで逃げられた時のことが頭を過る。まさか、こんな手を隠していやがったとは。
「逃がすな! 追えっ!」
背中に撫子の声が飛ぶ。
応よ。こっちだって、こないだと同じじゃねえんだ。
「頼む! 脚を貸してくれ!」
叫ぶや否や、俺は牡鹿の背に飛び乗った。
「クオオオォォーーっ!」
甲高い雄叫びと共に、牡鹿が跳ねる。
「行けっ!」
牡鹿は、狼とはまた一味違う、飛ぶような軽やかさで山中を駆け抜けた。
と言うより、一味どころか一足ごとにぴょんぴょんとぶっ飛びやがって。こりゃ暴れ馬より酷え!
こいつに較べりゃ、あれほど激しかった狼の走りも地を這うような滑らかさだったと言いたくなる。振り落とされねえようにするだけでも死にもの狂いだぜ。
その代わり身の軽さは狼に勝るとも劣らず、どんな急坂も断崖も越えられぬ障害なんかありはしねえ。
大穴から広がった大地の亀裂も、立ち塞がる光の壁ごと気合でぶち抜いて、荒れ果てた大地を一直線に疾走して行く。
だがそれでも、大猿、いや地球王の野郎を追うには厳しい。
なにしろあっちは空高く飛んで行くのに対し、こちらは逆に山の頂から下って行かなきゃならねえ。
俺は鹿の首に必死でしがみ付きながら、上空に少しずつ小さくなっていく赤いい光点を歯噛みしながら見上げていた。
くそっ、このままじゃ逃げられちまう。
と、目の前に断崖が迫ってきた。それも向こう側なんてねえ、ただの絶壁だ。
だが牡鹿は足を緩める気配を見せず、全力で突っ込んで行く。
おいおい、いくら何でもあそこから跳んだらただじゃ済まねえぞ。あの狼達だって、ちゃんと足場を捕らえて駆け降りたんだ。
などという俺の心配を気に留める様子もなく、牡鹿は崖っぷちから天にも届けとばかりに高く跳んだ。
一瞬にして足元から地面が消える。その下は、昼間とは違って本当に何も見えねえ、底知れぬ暗闇だ。
「ひっ……」
思わず悲鳴を漏らそうとした、その時だった。
いきなり背後が明るく照らし出されたかと思うと、振り返ろうとした俺の両肩を、何者かがガシッと掴み取った。
驚く暇すら与えられず、頭上でズバンッと風を叩く音がしたかと思うと、俺は体ごとグイと引っ張り上げられ、空中に投げ出された。
手を伸ばそうとするその先で、牡鹿の背中が見る見る遠ざかって行く。
振り向いて頭の上を見ると、そこには夜の闇を真っ白い光で切り裂く、巨大な翼があった。
鷹?! いや、鷲か!
「クワアアーッ!」
牡鹿よりも更に甲高い雄叫びが、夜空に響き渡る。
俺の肩を掴んでいるのは、鷲の鉤爪だった。
バサッ、バサッと二度三度。鷲は大きく羽搏くと、一気に上空へと飛び上がった。
「お前も、山神の仲間なのか」
「クワァッ!」
遥か下界を見下ろすと、大穴を中心に、橙色に光る地割れが蜘蛛の巣のように広がっていくのが見える。
その中に、網の目を縫うように動く白い光点が一つ。
きっと目の錯覚だろう、こんな遠くからそんなものが見える訳がねえ。だがその時の俺の目には、撫子を背に乗せて山中を疾走する白狼の姿が、はっきりと映っていた。
急げ、どうか無事に。
心の中で祈りながら、再び前方に眼を向けると、フラフラと暗闇の中を飛んでいる銅色の光が見えた。
「見つけたぜ。頼む、あいつを追ってくれ!」
俺の声に応えるかのように、大鷲がバサリと羽ばたく。その一振りで更に上空へ昇ると、大鷲は地球王に向かって一気に突っ込んで行った。
正に獲物を狙うが如く、体当たりをかます勢いで襲い掛かって行った大鷲だったが、大猿は寸前で背後の気配に気付き、蝙蝠の翼を巧みに操って突撃を躱した。
大鷲は勢い余ってその脇を通り過ぎ、かなり下方まで落ち込んでしまう。
その隙に大猿は方向を変え、山から離れようとする。
大鷲はすぐさま翼を翻し、二度三度と羽搏いて、再びその後を追った。
その力強さと言ったらもう、風を斬ると言うよりも、蹴ると言った方が似合うくらいに強烈なものだった。
一度の羽搏きで、大猿との距離が半分になっちまうかと思うほど、一気に引っ張られて行く。
両肩をがっちりと掴まれているので振り落とされる心配はねえが、その代わり体を引き千切られちまうんじゃねえかと不安になる。鉤爪が肉に食い込む痛みで、気を失いそうだぜ。
このままじゃ千切れないまでも、いざって時に刀を振るえなくなっちまうぞ。と、本気で心配になって自分の肩を見たら、傷口が緑色の光を放っているのに気付いた。
「ああ、これなら心配ねえか。マリモちゃん、色々と世話になるな」
どっちを向いたら良いのか判らねえので、空の彼方に向かって礼を言った。
大鷲はそんなことにはお構いなしに、大きく弧を描きながら大猿の後を追う。
あっという間に追いついたはいいが、その追撃を大猿はまたしてもヒラリと躱した。
速さだけなら大鷲の方が圧倒的だが、身軽さではあっちが上のようだ。繰り返し襲い掛かる鋭い嘴の攻撃を、小馬鹿にするようにヒラリヒラリと躱し続けている。
どうやら、あの蝙蝠の翼も伊達じゃねえらしい。
くそっ、このままじゃ埒が開かねえ。




