第三章 与一 十七 決死
頭を下げる瑚兎葉姉さんに、俺は尋ねた。
「そんで、姉さん達はこれからどうするんだい? 逃げるったって、その体じゃあ容易じゃねえと思うが」
「御心配には及びませぬ。衣津納彦兄が守ってくれたおかげで、私は何事もなく大禍をやりすごすことが出来ました。
私が皆を連れ出しますゆえ」
何事もなかったって、姉さんも傷だらけでとてもそんな風には見えねえが。
「そうかい。で、行く宛はあるのかい?」
「河童の里は此の地のみでは御座いませぬ。山々の各地に同じような隠れ里が設けられて御座います。
それに外には二人の兄もおりますゆえ、何れかに身を寄せようと」
「そりゃあいい。だったら一刻も早く発った方がいい。
道中は大変だろうが、イヅナ兄さんだっていてくれるしな」
「いや、オイラは一緒には行かねえ」
「何だって?」
「コト、マリモを頼む」
「はい、兄様」
コト姉さんはマリモを受け取ると、愛おしそうに頬を寄せた。
「兄さん。いったいどうするつもりだ」
「皆は何処へ移ろうとも何が何でも生き延びて、一族を絶やさぬようせにゃならねえが、オイラ一人だけは違う。
オイラだけは、戦わねえわけにはいかねえんだ。
それが、二人の兄からこの地を任されたオイラの役目だ」
「戦うったって、その体でどうやって。いや、そもそも奴等が何処にいるのかだって……」
すると兄さんは、すっと手を上げた。
兄さんの指さす先。
沼を、いやかつては沼だった大穴を見下ろす山の一つ、中でも一番高い峰の頂の辺りに奇妙なものが映っていた。
「なんだありゃ」
何やら、そこだけ妙に黒い霞が掛かっているように見えた。
いや、あれは霞なんかじゃなくて、鳥の群れだ。大小様々な鳥が一か所に群れ集って大騒ぎをしている。その後からも、四方から無数の鳥たちが次々とあの場所へと集まって来る。
それだけじゃねえ。山肌を、数えきれねえ程の動物たちが群れを成して駆け登って行く様子も見えた。
どうやら皆、同じ場所を目指しているらしいが……。
「あそこに、盗賊の親玉がいる」
「なんだとっ!」
「戦っているんだよ、皆」
「馬鹿野郎、そんなことしてる場合か。一刻も早くここから逃げねえと、こんな毒の嵐の中にいたらみんな死んじまうぞ!」
「オイラが呼び掛けたんだ。
逃げる者は急いで逃げろ。生きながらえて子孫に血を継ぐのは、命ある者の義務だ。
そして戦う者は戦え。ここであいつを仕留めねば、いずれ逃げ延びた者達にも害を及ぼすのは間違いない。
戦い抜いて一族の盾となれ。それもまた命を繋ぐに必要な務めだ、とね。
あそこで戦っている者達はもう、死ぬ覚悟なんかとっくに出来ているのさ」
俺は再び山の頂上に目をやった。
みんなやられちまったのかと思っていたが、まだこれほど多くの動物達が生き残っていたとは驚きだ。
とは言え、連中だって無傷な奴なんか一匹もいねえはずだ。ここにいる河童達と同じく、やっとの思いで生き残ったに違いねえ。
そのせっかく拾った命を、自分から捨てようってのか。ったく馬鹿野郎共が。
だが……。
「そうかい、判ったよ。ならもう言わねえ。
こうなったら俺っちも一緒にやってやるぜ。
兄さんはその体じゃあ、あそこまで辿り着くのも辛えだろう。この狼さんの背中を借りるといい」
「ああ、そうさせて貰おう」
狼達はコト姉さんの所に群がって、マリモの顔や手をペロペロと舐めている。
何の反応も示さないその体を、必死で生き返らそうとするかのように……。
「ああそうだ、助っ人を一人紹介しとくぜ。こちらは那須与一の大将だ。人間だけど頼りになるぜ。
こっちはイヅナの兄さん、こう見えて龍神様の皇子様だ。それとあちらは姫様だ」
「ほお、龍神の。那須与一宗隆だ、良しなに頼もう」
「衣津納彦だ。けど、人間……? あんた、本当に人間なのかい?」
「元、人間だ。今は何なのか俺にも判らん」
ニヤリと笑う大将に、それで納得したのかどうか、イヅナ兄さんはコクリと頷いた。
「さて、じゃあ行くか。コト姉さんも早く行った方がいい。
マリモを……、よろしく頼む」
「お任せ下さい。癒すに百年と申しましたが、魂のみなればそれよりも早くに戻すことが出来得るやも知れませぬ。
再び狼さまに見えることも叶おうかと」
「本当かい? そうか、それなら生きている内に会えそうだな」
「はい、狼さまもその日が来るまでどうか御身を大切に下さりませ。
くれぐれもお忘れ無きよう。狼さまには化け物を倒すことの外にもう一つ、摩璃桃を嫁に貰って下さるというお約束が御座います。
御命を落とされては、それも果たせませぬ」
「なっ、何で姉さんが知ってんだよ」
「摩璃桃が毎日言っておりました、いつお嫁に行けるのかなあと。
この子は今でも、狼さまのお迎えを心待ちにしております」
「そうか、それじゃあここで死んじまう訳にゃあいかねえな」
「はい」
ニコリと。
かつてここにあった水面の煌めきを思い起こさせる、そんな笑顔だった。
「さあ、いつまでももたもたしている暇はねえ。そろそろ行った方がいい」
姉さんの懐に抱かれたマリモの頬に、そっと手を添える。
暖かいような、冷たいような。俺が触れても動く気配は感じられねえ。
「早く元気になれよ」
そう言って手を放そうとしたその時、閉じた瞼の端からつー…と、一筋の涙が流れ落ちた。
「泣くな、馬鹿。じゃあな、行ってくるぜ」
俺と狼達が離れると、姉さんを中心に緑色の光が広がり、そこに立つ河童達を包み込んだ。
マリモの鮮やかな緑よりは少し淡い。藻色といったところか。
その優しい色味が、コト姉さんには似合っているように思えた。
「では狼さま、兄を宜しくお願い致します」
瑚兎葉姉さんと河童達は、頭を下げたまま光の中に消えて行った。




