第二章 撫子 十七 蓬子
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「では行ってくる」
「お、おう……。き、気い付けてな」
「ん?」
撫子が首を傾げる。
「何だよ」
「なんじゃ、今の言い回しは」
「な、何が?」
「何やら、耳慣れぬ言葉が聞こえた気がしたが?」
「べ、別に……。けどほら。お、おめえの体はもうおめえ一人のものじゃねえんだからよ……」
「くふっ」
撫子が、小さく笑いを漏らす。
「何だよ! 心配しちゃわりいのかよ!」
「いやいや、私の身を案じてくれるとは嬉しい限りじゃ。では愛しいわが夫よ、行って参ります」
そう言って、深々と頭を下げる。
「お、おう」
俺は、撫子が女達と連れ立って名主の屋敷を出て行くのを、憮然とした顔で見送った。
あのやろう、夫とか言いやがった。
「兄さんよ」
俺と一緒に女達を見送っていた佐助爺さんが、隣でボソッと呟いた。
「なんだい」
「とうとうやったんけ?」
「うるせえ黙れクソ爺」
「まあ、なんにせよ目出度えこった」
チラリと隣に目をやると、爺さんはからかう風でもなく、穏やかな顔で去って行く撫子の背中を見つめていた。
「よく判らねえけんどよ。あの巫女さんは、世の中の不幸を全部一人で背負い込まにゃならんと思い込んでいる風に見えるだよな」
背負い込んでいるんじゃなくて、無理矢理押し付けられているだけだよ。
「まあ、あの人なりにそうしなきゃならねえ理由があんだろうが、あんな生き方を続けていたんじゃあ、世間が救われてもあの人が救われねえ。
だども、狼さんみたいな人が側に付いていてくれれば、幾らかは変わるかも知んねえでよ。
どうかお頼もうしますだよ」
「ふん、何だか自分の娘みてえな言い草だな」
「ああ、あんな娘なら何人でも欲しいだな。ついでに兄さんも、おらの息子になっかい?」
「やなこった」
撫子は、怪我をした連中にもう一度治療を施す為、女達と一緒に村を見回りに出かけて行ったのだ。
昨日の処置はただ命を保たせるだけで精一杯だったが、体調さえ万全なら、痛みを和らげたり、多少は傷を回復させるなんてこともできるらしい。
しかも、世界に満ち溢れる力とやらを上手に使えば何人を相手にしても全然平気ということだ。
とはいえ怪我人は何百人もいるし、一度で完全に治すというわけにもいかないらしいから、暫くは通い続けることになる。女達はその手伝いという訳だ。
そして俺の方はというと、焼けた家の片づけや荒らされた田畑の手入れなどの手助けだ。
男手はいくらあっても足りねえからな。
そうやって、そんな感じで。その日は何事もなく一日が過ぎ去った。
嵐がやって来たのは、その翌日のことだ。
―*―*―*―
朝……。
本堂の外に出た俺は、思わず目をゴシゴシと擦った。
「へ?」
撫子が二人いる? いやいや、そうじゃなくて。
撫子は、広場の隅の焚火の所で、鍋を火に掛け、ゆっくりと中をかき回していた。
そしてその隣に撫子と一緒にしゃがみこんで鍋を覗き込んでいる、姿形はそっくりな、だが二回りも小さな娘がいた。
村の娘っこか? とも一瞬思ったが、その恰好がどうにも変だ。
その娘は撫子と同じ巫女装束を身につけていて、それに長い黒髪も撫子にそっくり。まるで双子、と言うより親子のような……。
いやいやいや、まさかまさかそんなそんな。
「おお、起きたか。
ちょうど朝餉の支度ができたところじゃ。こっちに来て座れ」
俺に気づいた撫子が、手招きをする。
「その餓鬼は……誰?」
俺はその場に突っ立ったまま、呆けたような声で尋ねた。
そしてニッコリと笑う撫子。
「喜べ狼よ。生まれたぞ」
「はあっ?!」
「ほれ、とと様じゃ。行って抱いてもらうが良いぞ」
「はい、かかさま」
娘は立ち上がると、両手を広げて俺の方へ駆け寄ってきた。
「ととさまー」
えっ? えっ? ええーっ??
娘は俺の所まで来ると、腰にしっかと抱きついて「うふふふー」と嬉しそうに笑った。
俺はもう何がなんだか訳がわからず、娘に抱きつかれたまま凍りついたように固まってしまっていた。
「何をしておる、早う抱いてやらんか」
「お、おおう」
撫子に叱られて、両手をぎこちなく動かし娘の背中を抱く。
「ととさまあ」
ちょちょちょっと待て!
あいつとヤッたのが一昨日の晩でその翌朝子を孕んだと言われて今朝になったらもう生まれたといくら何でもそんな馬鹿なしかしそんな当たり前の道理なんてこの女の出鱈目さの前では何の意味もなくてこいつなら何が起きてもおかしくない……、って……。
「お、おめえ……。ホントに俺の子なのか?」
娘が顔を上げ、ニコリと笑う。
その無邪気な笑顔につられて俺もつい笑い返しそうになったその時、俺を見上げる娘の顔が大きく歪んだかと思うと、その可愛らしい口から信じられない言葉が吐き出された。
「戯言に決まっておろうが、この間抜けめ」
「んあ……?」
一瞬、何を言われたのかよく判らなかった。
「撫子姉さまがやれと仰せられたので仕方なくやってはみたが、まさか本当に引っかかるとは夢にも思わなんだわ。
まったく、ようもまあこんな大馬鹿がこの歳になるまで平気で生きてこられたものじゃな。我なら、恥ずかしうてとっくの昔に首を括っておるわ」
とても小さな娘の口から出たとは思えねえ雑言に、俺は返す言葉もなく、ポカンと口を開いたまま完全に石になる。
「クックックッ……、クハッ……、クククッ……」
向こうの方で、撫子が腹を抱えて悶えている。
「てめえ……」
「ぶはーっ、はははっ! あははははっ!」
「このやろう! 何考えてんだこのクソアマッ!」
「あははははっ! 狼っ、狼よ! おぬしは本当に素直な良い奴じゃのう!
どうじゃ蓬子、私の言った通りであろう?」
娘が俺に抱きついたまま、後ろを振り返った。
「姉さま、これは素直というのではなく阿呆と言うのでございます」
「あはは、まあそう言うな。ともかく私の勝ちじゃな」
「はあ、仕方ありませぬな」
こいつら……、俺が引っかかるかどうか賭けをしてやがったのか。
「撫子姉さま、本当にこの男を夫となされたのでございまするか?」
「うむ、駄目か?」
「こんな馬鹿、信用できませぬ」
「嫌いか?」
「嫌いでございます」
「そうかそうか、ふうむふむ」
撫子は顎に手を当て、考え込むような素振りをして見せる。だがその仕草は実にわざとらしく、目元もいやらしげに笑っていた。
「しかしのう、蓬子よ」
「何でございまするか?」
「おぬし、さっきからずっと狼にしがみついたままではないか。とても嫌っておるようには見えぬぞ」
すると娘は真っ赤になって飛び退き、俺を睨みつけた。
「なっ、この……し、痴れ者」
なんでだよ、ったく。
「おめえよ、自分から抱きついといてそりゃあんまりじゃねえのか?
まあ、餓鬼のやることにいちいち腹を立ててもしょうがねえけどよ。もうちっと娘らしくできねえもんかね」
「うるさい! この馬鹿男がっ!」
餓鬼っ娘はそう言い放つと、俺の脛を思いっきり蹴っ飛ばした。
「痛ってえー! 何しやがんだ、このクソ餓鬼!」
とっ捕まえて尻でも叩いてやろうかと思ったら、クソ餓鬼の奴め、とっとと逃げて撫子の後ろに隠れやがった。
「餓鬼ではない! 我には蓬子という名がある!」
「蓬子?」
「そうじゃ」
「ああそうかよ。わかったよモグサっ子」
その一言で、何故か蓬子の顔つきが見る見る変わった。
「その名で呼ぶなっ!」
再び俺に向かって来ようとするのを、撫子が後ろから捕まえる。
「あーわかったわかった、もう良い蓬子。狼よ、蓬子はそのように呼ばれるのが嫌いなのじゃ」
「へー、そうなの。そりゃいいこと聞いた。よろしく頼むぜ、モグサっ子」
「このおっ! 姉さま、離して下され! この馬糞男を成敗してくれます!」
モグサのお返しにマグソとは、なかなか気が利いてる。
「まあまあ、二人とも座れ。せっかくの芋粥が冷めてしまう」
「むっ!」
「ぬっ……」
芋粥というその魅惑的な言葉に、言葉を止めて暫し睨み合う俺とモグサっ子であった。




