第一章 狼 十二 川底
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「へえっくしょい!」
ほら見ろ、風邪引いちまったじゃねえか。
まだ冬は遠い夏の終わりとはいえ、山の朝ともなれば、平地とは違って冷え込みは厳しい。
昨夜は雨こそ降らなかったものの、一晩中外に放り出されっぱなしだったこの俺の体は、夜露をもろに浴びてびしょ濡れの古雑巾状態だ。
すっかり冷えちまって、凍えそうなくらいだぜ。
まったく、こんな目に遭わされると屋根の有難さがよく判るってもんだよ。
それにしても、あの河童どもめ。
迎えに来てくれるとは言っていたが、いつ頃来くるとまでは言ってなかったよな。
朝一番で来てくれりゃ有難えが、そうと決まった訳じゃねえし。それまでただボーッと待っていても仕方がねえ。
とりあえず、このグルグル巻きから抜け出すとすっか。
まずは、体がちゃんと動くかどうかだ。
手……おお、動く動く。縛られているからブンブン振り回すって訳にはいかねえけど、指先から、手首、腕、肩と順番に動かしてみても、何の問題もなさそうだ。
足……おお、ちゃんと付いてるぜ。足の指から、足首、膝、腿。あっはは、動く動く。
狼さん感動だ。すげえぞ、河童の秘薬。
おっと、うまいことに蔓の方も夜露でふやけて縛りが緩んでいるようだ。
よおし、これなら。
まずは右腕を引っこ抜いて、と……うん。
続いて左手……っと。よし、これで両手が自由になった。
次はこの胸のあたりに巻きついているやつを押し上げて、頭から……。よいっしょ……。
いてて、鼻に引っかかっちまった。んっ……この……、もうちょい……よっっと。
ふう。
「よおし、これでもう抜け出せたも同然」
後は体を起こして下半分を抜くだけ……、と。
「あれ?」
よっこらせーの……。
「あれ?」
せーのっ。
「おっかしいな……。あれ?」
変だな、体を起こすことができねえぞ。
手足は自由に動く。が、腰が石みてえに固まってビクともしねえ。
いや、腰だけじゃなくて胴体が丸ごとだ。
試しに体を捻ってみようとしたが、ピクリとも動かねえや。
むう、こりゃあひょっとして……。
千切れた所をくっ付けたはいいけど、くっ付きすぎて今度は動かなくなっちまったってことなのか?
まいったな、こりゃ。
勘弁してくれよと河童に文句の一つも言ってやりてえとこだが、なにしろ命が助かっただけでも有難うございます、だもんな。
しゃあねえ。とにかく手足だけは動くんだから、何とかなんだろ。
よっこらせっと、腕で体を押し上げながら、脚で蔓を…っと。
くそ、蔓が引っかかって…だめだ、外れねえ。……このっ……とりゃっ……。
んっがあっ!!
やけくそになって体を揺すってみる。
と、絡みついた蔓が少し緩んだような気がした。
「よし、もいっちょ。んがああっ!」
お、いい感じだ。もうちょい。
「だありゃあああ!」
動いた!
えっ、動いた? 何が? 俺? 空? いや、地面? ……じゃなくて。
俺の乗っかっている丸太が、グラリと動いたのだった。
「おいおいおいおい」
視界を占めていた青い空と緑の梢が、ゆっくりと右の方へ流れて行く。
代わりに左側に見えていた木々が正面へと移り、更に景色は変わって目の前に真っ黒な地面が……。
「っっ!!!」
ぐしゃり……。
という音がしたかどうかは判らねえ。
でも丸太ん棒下敷きになった俺の背骨がボキボキッと、聞き覚えのある、だが二度と聞きたくなかった音を立てたのは確かだった。
こないだは一瞬のことで痛みを感じる暇すらなかったが、今回はごろおりとじっくり時間をかけてやってくれたおかげで、骨を砕かれる痛みをじっくりと味わうことができたぜ。
味わいたくなんかなかったけどな!
しかも、悲鳴を上げようにも口も鼻も地べたに押し付けられて、息もできねえときたもんだ。
やがて無限とも思える時間が過ぎたと思った頃、やっと丸太が俺の体を乗り越えて、反対側の景色を拝むことができた。
「ぶはっ! はあっ、はあっ。し、死ぬかと思った」
丸太ん棒がちゃんと転がってくれたからいいものの、あそこで止まっていたらほんとに下敷きになったまま死んじまうところだったぜ。
ごろおり……
ああ、目に映る木々の緑が美しいぜ。
ごろおり……
それに続く、青い空。
ごろおり……
そして再び緑の木々…と…。
ごろ…
じ、地面っ!!
ぐしゃり、ボキボキッ……。
「ぶはっ……。くそっ。と、とまっ……」
ごろおり……、ごろおり…、ぐしゃっ、ボキボキ…。
「ぐえ……」
ごろり…ぐしゃ、ボキ…。
「かふ……」
ごろ…ぐしゃボキ、ごろぐしゃボキごろぐしゃボキ……。
どうやらここは平らな場所ではなくて、坂になっていたらしい。
丸太は次第に勢いを増し、俺の体を地べたに何度も何度も叩きつけながら斜面を転がって行き、それから藪に飛び込んだ。
バサササッッ!!
「痛ててて!」
体のあちこちに小枝が刺さる! でっ、でも、これで止まってくれるなら!
だがそこにあったのは、藪と呼ぶには余りにもささやかな下生えの塊りに過ぎなかったようだ。
俺の切なる願いも空しく、丸太はその小さな草むらを易々と踏み越えそのすぐ向こうを流れていた谷川に、俺ごとドボンと飛び込んだ。
「ぶクッ……」
まずいまずいまずい!!!
いくらなんでもこれはまずい! 今度こそ本当に死ぬ!
川の流れはさほど急でもなかったが、それでも深さは十分。
水の中で俺の体は重しのように丸太ん棒の下側にぶら下がり、このままでは二度とお天道様を拝めないような状態で下流に流されて行った。
くそっ、こんなとこで死んでたまるか!
両手を必死に動かして、水を掻く。
何とかして岸までたどりつかねえと。
いやせめて浅瀬にでも乗り上げてくれさえすれば、後は這いずってでも。
そう思った矢先、ゴン……という鈍い音と共に丸太が動きを止めた。
まさか、岩か何かに引っかかっちまったのか! こんな深みで!
そのうえ丸太が流れを遮ったせいで水流が乱れ、俺の体をもみくちゃに振り回し始めた。
「ん…ぐぐっ……、がぼっ……」
なんとか堪えようとしたものの、あまりの水圧に耐えきれずとうとう肺の中の空気を全部吐き出しちまった。
今度こそ……だめか……。
くそ…、目が…霞んできやがった……。




