8.「訓練!」
どうやら、俺は次元の違う世界に飛ばされてきてしまったようだ。
この世界はほんとうに、魔物が現れ、魔法の存在するような世界である。
夢であるという当初浮かび上がった説は、睡眠と覚醒を繰りかえしても一向に様子の変ることがないことからも棄却された。
もし、夢のようなものであったとしてもこれだけ実存的感覚が持続されているのであれば、それはある種の「世界」である。
そう言えば、俺は生まれてからこれまでいくつかの異世界トリップやタイムトラベルものの小説に嗜んだことがあった。
要は、現代日本で生活を送っている主人公が、異世界や別時代へ神隠しされて帰れなくなるというものだ。
そういう物語は、物語であればこそ楽しめるのであって、実際にそういう目にあったら大変なのだろうな……と思っていたが、実際大変である。
特に、森の中で着る物に困り、食うものに困り、寝るところに困るこの状況は、現代的な生活をしていては決して味わうことのない苦境であった。
この具体的な苦境ゆえに、俺は「元の世界へ戻らなければならない」とか、「女になってしまった身体から元に戻りたい」とか、そういうことを考える余裕を持たなかった。
もっとも、よく考えればそこにはいろいろな問題があろう。
第一、「元の世界、元の身体に戻る方法はあるのか」という以前に、「俺は元の世界、元の身体に戻りたいと欲求しているのか」という問題がある。
そりゃあ今の状況だって大変だけれど、元々現代日本で送っていた生活や将来への見通しや希望が、現状よりもマシなものであったかどうかは微妙なところでもあった。要は、戻りたいと思うような世界であったかどうかという話だ。
もちろん衣、食、住の満たしやすさ、娯楽の多さなどなどにおける現代日本の水準は至って高度である。
しかし、だからと言って人間が活き活きするかどうかは全然別問題だということは、これだけ異世界や異次元、異時代へのトリップが物語になっていることからも用意に伺い知れることだ。
その辺り、自分の心を一つ一つ分解して、この先どういう指針を持って行動するかということを深く考えるには、かなりの時間と労力がかかるに決まっている。
今はそんな時間や労力をかけている余裕はないので、そういう自分の心の分析はとりあえず保留にして目の前の具体的な問題に取り掛かる他ないと判断したのであった。
さて、現状、俺が生存を確保するためには、天使の力を頼る他ない。
何せここに来てから天使としか会話の成立する存在と会った例がないのだから。
でも、この天使というのが喰わせ者である。
見かけは可憐な少女で、可愛い顔をして、チューして抱きしめてやりたいような容姿をしているけれども、ただ懇願しても助けてなんかくれない。
彼女の力を頼るためには、「sp」、ステラちゃんポイントが必要である。そして、spを獲得するためには魔物を殺さなければならない。
魔物を殺さなければならない……と言っても、殺すためには戦わなければならない。戦うためには動かなければならないだろう。
でも現状、俺は女の身体を上手く動かすことができないのだ。
したがって、まずやらなければならないのは、身体を動かす訓練だった。
ここに、一つ目ゴブリンを倒す時、土山から引き抜いた剣がある。
これは日の下で見ると思った以上に重厚な作りであった。
装飾は確かにくすんでいるけれど、素人目に見てもその刃は鋭く鉄のキメは細やかだ。
また、よく見ると柄の部分には名が刻まれていて、文字は読めぬものの、その字体の様が剣そのものに威厳を与えてくれているようにも見える。
俺は、そんな立派な剣を、あろうことか杖代わりにして立つのだった。
仕方ないだろ。
二本足だとバランスが取れないのだ。
今の俺はまるで年寄りが歩くように杖(剣)を拠り所にして一歩一歩進む他ない。
もっとも、そうやって補助輪付きで歩いていると次第に女の身体特有のバランスというものが学習されてくる。
なるほど、大きく違うのは骨盤と脚の付け根だ。
子供を産むための、ふくよかな腰を実現する骨格。
これによって、立つときの力点のようなものが、男のそれとは微妙にズレるのである。
そこをつかめれば、特に力を込めなくても数十秒は自然に立っていられるようになった。
対して、上半身の違いはそれほど苦にならない。
骨盤回りほど厄介な違いはないからであろう。
軽くならば剣を振るうこともできた。
ただ、剣を振るう時におっぱいが二の腕にぷにぷにと当っていちいちドキドキしてしまうのだけが難点であった。
おっぱいが大きいのは良いことだし、やむをえないだろう。
しかし、ステータスにFとあったけれど、ひょっとしてこれからも成長するのか?
経験値を積むと、レベルアップするような形式で、FからG、GからHへおっぱいが膨らんでいくという話であったらたまらない。滑稽だし、第一おっぱいにありがたみがなくなってしまう。最終的にZカップなどとなっては化け物だ。
これ以上大きくなっては剣も振るいにくいだろうし、レベルアップがおっぱいに還元されないことを祈るのみである。
まあ、おっぱいの話はほどほどにして、俺は剣を振るえるようになった。
普段は杖のようにして歩く補助輪にする剣を、攻撃の時にはしばらく自力で立ち、そのまま剣を振るう。
もっとも、これでは犬がちんちんをするような調子で立って剣を振るうというわけだから、それほど鋭い攻撃にはならないだろう。
筋力的にはもっと強く振ることも出来そうだが、そうしようとするとまだ腰が安定せずに転んでしまうのだ。
まだまだこの身体の強靭性を活かせていないのは明らかである。
それでもこの間の一つ目ゴブリンくらいなら簡単に倒せる気がする。
一回倒したからというのではないけれど、あれは動きもあまり鋭敏ではなかったし、力も強い感じでもなかった。
おそらくこの剣が上等であり、刃物の鋭利さを頼って殲滅することもたやすい気がするのである。
そう気丈夫な心持ちになって、俺は決断する。
森へ魔物を狩りに行こう、と。
もしかしたら早計かもしれないが、このまま身体の使い方の訓練ばかりしていては、ステラちゃんポイントが獲得できない。腹も減ってたまらないし、魔法瓶の火だって幾度も使えば付かなくとのことである。このままではジリ貧だ。
そういうわけで、剣を杖にして脚を引きずりながら、そーと木々を分けて行った。