7.「炎」
天使が去った後、俺を待っていたのは野外で過ごす初めての夜であった。
もちろん俺はすがりついて、「せめて人のいるところまで連れて行ってくれ」と頼んだのだけれど、ニコリと微笑んで断られたのである。
非人情なことではあるが、天使に人情を求めても仕方ないのかもしれない。
暗い、野の夜。
遠くで獣のようなモノが吼えるのが聞こえる。
頼りは手元の「魔法瓶(微火)」と「小さなパン」だけである。
これらはステラちゃんポイントを消費して手にいれたのだ。
パンはすぐに腹へと消えた。あまり美味くもない。いや、パンとしては普通の味だったと思うけれど、何の味付けもないのは色気がなさすぎるのだ。第一、量が全然足りない。
うう。お腹が鳴っちまう。
ミチミチと腹筋の張った腹も、キュルルと情けない音を出しては形無しである。
一方、魔法瓶は持続的に役立った。むしろこれがなければどうして一夜をすごしていただろうと思う。
魔法瓶と言うと、普通水筒を思い浮かべるだろ?
要は、内容の温度を長時間保ってくれる水筒だ。
しかし、これはそういうんじゃない。
ほんとうに魔法が詰まった瓶なのである。
見てくれは栄養剤の瓶のような小さな瓶。
これが透明で、中が透き通っているのだけれど、普段は空っぽに見える。
そこで「ライタ」と一つ唱えると、口から小さな火がポウっと起こるという次第だ。
早い話、効用的に言えばライターのようなものである。
が、これでどういう仕掛けで火が付くのかわからない。
中に油が入っているようにも見えないし、火打ち石のあるようにも見えない。
ステラちゃんの話だと
「魔法なんですから仕掛けなんてあるはずないじゃないですか。仕掛けがあるとすればそれは魔法だからです」
と言う。
あの天使。まるで人を小バカにして、理屈のような理屈になっていない理屈を言うから腹ただしい。
顔が可愛くなかったらどうしてやろうかと思うところである。
さて、とは言ってもライターのような魔法瓶の火だけではあまりに小さすぎて大して温かくもなければ明るくもない。
そこで、俺は焚き火を作るために葉っぱや木の枝を集めはじめた。
さらにそれを一晩絶やさぬようにと大量の枝葉を集めようとするとこれは大事業だった。何せまだ足腰を上手く操れないのだからほとんど這って集めるのである。
また、葉っぱや木の枝、それから種火があっても、それを焚き火とするまでには想像以上に骨が折れた。
なかなかボウっというふうには燃えあがらないのだ。
手で風をよけたり、いっとう燃えやすそうな葉を集めたり工夫を凝らして、ようやく落ち葉に炎が上がる。
バチバチと火が、葉や木枝に絡む音。
そうやって一度火が付けば勢いを絶やさないように気をつけていさえすれば良かった。
炎は暖かい。
太ももに立っていた鳥肌が、次第に和らいでいく。
ホッと息をつく俺。
しかし、その炎の光が鮮烈であればあるほど、闇は不気味に濃くなっていくような気がする。
夜の木々はほんとうに深い闇をたたえていた。
これは、少なくとも木々を分ければすぐに人里が見えるとは行かないかもしれない。
そう思わせる闇であった。
それは、闇そのものがこちらを伺っているようにも思われる。
俺は、倒した魔物の脇に転がっている剣を拾ってそばに置いた。
まるでお守りのように。
魔物も怖ろしければ、オバケもおっかなかったのだ。
するとその矢先に、また木々の隙間から何らかの気配がするのを感じる。
また、さっきのような魔物が出てくるのか?
そう緊張して剣を握りしめる。
さっきよりは上手く柄を握れているような気がする。
来たらすぐに叩き切ってやる。
……そう心構えをつけると、気配は去った。
やはり安堵した俺は、天を仰ぐ。
しかしその時、その夜空があまり不気味で、笑いが込み上げてきてたまらなくなった。
「うふふ、あははっ」
何故って、その天にはご丁寧に月が二つあって、「ここは今までお前が住んでいた世界とは違う世界なんだぜ」と教えてくれていたからである。
もっとも、今さら驚きもしない。
魔物や天使はもちろん、この魔法瓶だって、通常の原理原則、物理法則、一般通念がまったく通用していないのだ。
ここまでくれば世界が丸ごと違うものだと言われた方が納得がいくというもの。
しかし、違う世界といっても、どのように違う世界なのかということは依然として不明なままだ。
星が違うのか、次元が違うのか。
死んで転移したのか、生きている状態で神隠しにあったのか。
そういうところはわからない。
まったく。あの天使はいろいろ知っているふうだったのに、そういう肝心らしいところは何も教えてはくれなかった。
俺がつい先日まで男であったことをどうして知っているのかということすら、ステラちゃんははぐらかして去っていったのだ。
まったく、これからどうしようか……
と、途方に暮れかかったけれど、そして具体的な結論や解決方法は編み出されなかったけれど、目の前の炎を見つめて俺は何とかなる気がしてきてはいた。
思えば、これまで自分の切実な必要によって火を起こすなどということはしたことがなかった。火というのは何かしら必要があればボタンひとつで簡単に起きたものである。
しかし、これは魔法とやらの力を借りているけれど、それを炎に加工したのは自分である。
こうやって自分で存立を確保する気概さえあれば、何とかなるのではないか。
炎を見つめて、俺はそんなふうな根拠薄弱な自信を持ったのであった。