4.「私は、天使です!」
「俺は悪くねえよな」
と、呟く。
が、当然答える者はいない。
ただ、青い血にまみれた緑色の肢体を――その醜い化け物の成れの果てを眺めると、胸のモヤモヤが少し晴れるようだった。
そう。こんな化け物。
目が一つしかない、指が足りない、肌の緑色の、ただ奇声をあげるだけの化け物。
そいつに何をされるか分からなかったんだ。
正当防衛。
そうだ、正当防衛ってやつだろう。
対人だったら過剰防衛かもしれんけど、相手はこんな化け物だ。
化け物というのはつまり何をするか予測の付かない相手である。
予測が付かない以上、要求せらるる防衛の見積もりの精密さも、その分割り引いて考えられて然るべきであろう。
そうだ。
だって、何をされるか分からなかったんだから。
「俺は悪くねえよな」
もう一度そう呟く。
「ええ。全然悪くなんかありませんよ」
しかし、今度は答える者があった。
あれ? ここには俺一人のはず……
「うわあ!!!」
振り返ると一人の少女がちょこんと立っていて、俺は驚きのあまりひどい叫び声をあげてしまった。
少女は形の良い眼を丸く見開いて、そんなふうに驚いた俺に驚いたといった様子である。
「えっ。あ……い、いや。ごめん。俺一人だと思ってて……」
ドギマギと言い訳をする俺。
そんな俺をよそに、彼女はその宝石のように美しい碧の瞳で、醜い化け物の死骸を刺すように一瞥する。
怖くないのか?
少女があまりにも超然としているから、驚き叫んでしまった自分の方が変なヤツみたいになっているのがたまらない。
いや、そんなことはこの際どうでも良いだろ。俺はそう考え直す。
だって、少女でも何でも人に会えたのはありがたい。
今の自分の状況を鑑みれば人に助けを請う他ないのだから。
しかし……この子、とっても怪しいんだよなあ。
「大丈夫ですよ。私は決して怪しい者ではありません」
俺の懸念を見透かしたように少女が言う。
頭に響くような綺麗な声だ。
でも、そんなことを言われても怪しいものは怪しい。
確かに、単なる可憐な少女と言えばそう言えなくもない。
歳は15、6に見える。
日本人離れした顔立ち。ハーフかクウォーターなのだろうか。
銀の髪が豊かになびくと、シルクのようになめらかな陰影をたたえて、人形のように端整な顔が一層際立った。
なるほど、美少女である。
でも、美少女であるか、怪しいかどうかはまた別の話だ。
一言でいって、バリバリに怪しい。
第一、「怪しい者ではない」と言っているところからして怪しいではないか。
また、何と言っても格好がヘンテコだ。
レースのような薄い白布を何重にも巡らせたような複雑怪奇な衣。そして彼女自身の身体よりも大きい純白の翼。
そう、翼である!
何かの仮装か?
そもそも、そんなに大きな翼をどう布地に支えているのだろう。
洋服に翼をしつらえるなど、おおよそ正気の沙汰とは思われない。
まあ、格好がヘンテコなのは、こちらも露出狂と見まごうべきビキニアーマーを召しているわけで。そう考えるとお互い様かもしれんけど。
もっとも、格好のことについては、こっちにはこっちの事情があるわけだが、それならば向こうには向こうの事情があるのかもしれない。
それに、やはり自分の今のどうにもならない状況を思えば、多少の怪しさには目を瞑ってなんとか彼女に助けてもらう他ないのも、また疑う余地のない事実である。
やはり最終的にはそこに行き着くのだ。
そういうわけで、さしあたって少女の家へ泊めてもらえるように頼めないものだろうか。
このままでは野ざらしで眠らなければならないのだから、一番差し迫った問題はそこである。
それに、もし泊めてもらって、そうしてこんな可愛い子と仲良くなれれば嬉しいよね。
もしかするとふざけたフリをしてチューくらいできるかもしれないし。
何せこちとら女になっているわけだからな。
多少のセクハラはどうとでも誤魔化せるというわけだ。
うん。これは何としても家に泊めてもらわなければ。
ゲヘヘ。
そんなゲスな結論を何とか顔に出さぬよう、いかにも常識人ぶった口調で俺は尋ねた。
「君、このあたりの子かい?」
「いいえ」
「じゃあ君も迷ってる最中とか?」
もしそうだとしたら困るなあ……とドキリとして聞いたが、これも、
「いいえ」
と答える少女。
「じゃあ、ここで何してんの?」
「決まっているじゃないですか。あなたに会いにきたんです」
そう微笑む少女に、今度は違った意味でドキリとした。
しかし、俺は差し込まれないように気合をキっと入れてまた問う。
「会いにきたって言われても、俺は君みたいな美人と知り合いになった覚えはないのだけれど。それとも俺が覚えていないだけか?」
「いいえ。私もあなたと知り合いになった覚えはありませんよ」
「じゃあ君は何なんだよ」
「私は……」
少女は、実に無駄のない動きで一旦くるりと一回転して、銀の髪と純白の衣を凛々となびかせるという無駄な動きをしてから、首を傾げて微笑んだ。
「私は、天使です」
「は?」
「天使のステラちゃんです」
目がマジである。
ヤバイ。
こいつは電波のなかでも特に厄介なヤツだ。自分のことをちゃん付けするところなんか特にヤバイ。
うーん。これはいくら可愛いくてもあまり関わりたくはないかも……
いや、確かにヤバイはヤバイ。が、今は選り好みをしている状況ではないから、何とか会話を常識的な方向へ持っていかなければならない。
「あのさあ。もう日も暮れているし、君みたいな女の子がこんなところで一人じゃあ危ないんじゃないか?」
「一人じゃありません。あなたも一緒にいるでしょう」
そういってステラはそのか細い指で俺の手をそっと握って、また柔らかく微笑む。
指はそよりと温かい。
か……か、可愛いな。
三日月型の目、ぷっくりとした唇、そして目の覚めるような銀髪の煌めきは、確かに天使と形容してやっても構わない気もする。
……と、ダメだ。ペースに乗ってはいけない。
いくら天使みたいな女の子でも、本当に天使なわけないんだから。
「いや、そうじゃなくて。帰らないとお家の人が心配するだろ?」
「帰るお家なんてありませんよ。お家の人なんていうのもいません」
え、マジか……
何か悪いことを聞いちゃったかな。
俺は彼女を直視できなくなって、目をそらす。
「ステラちゃんは天使ですから、帰るお家なんていらないのです」
「てめえ!」
くそ。気まずい思いをして損した。
そんなふざけたことを言っていてもいやに口調が淡々として起伏がないから、冗談なのか本当なのか分からない。
「わかった。わかったよ。それじゃあステラ……」
「ステラちゃんです」
「ステラだろ?」
「ステラちゃん!」
め、面倒くせえ……
「じゃあステラちゃん」
「はい」
「君は天使なんだろ」
「ええ」
「俺は天使と会うのは初めてなんだ」
「そうなんですか。じゃあ私と会えて天使童貞卒業ですね。おめでとうございます」
天使童貞?
「ま、まあ、そーかもな。でもそういうわけだから、俺からすると君が天使かどうかなんて確証が持てないわけさ。と言うか普通の女の子にしか見えない。何か天使だって証明できるものはある?」
「証明、と言いますと?」
「例えばその後ろの翼で空でも飛んで見せてくれたら信じても良いんだけどな」
我ながら意地悪な言い方だ。
でも、電波や厨二病を見ると、こんなふうにイジメて遊びたくなってしまう。
悪い癖だろうか。
「うーん。天使も遥か太古は翼で飛んでいたらしいのですが……空間移転が主流になってからは翼の力が退化してしまったのです」
おお、なかなか作り込まれた設定。
昔のヴィジュアル系バンドみてーだ。
「じゃあその翼は飾りか」
「そういう言い方は酷いです。それを言ったら、人間の尾てい骨だって尻尾の退化したものでしょう。ただのお尻の飾りじゃないですか。でもだからと言って尾てい骨がなくなってしまったら、世の尾てい骨フェチたちの心は救われなくなってしまいます」
尾てい骨フェチなんてものがあるのか。
相当こじらせた連中だな。
「天使の翼も同じです。たとえ本来の機能を失っても、天使には翼があるべきなんです。天使の翼フェチだってきっといるはずですから」
この女、何でもフェチで片付けようとしてないか?
「でも、それじゃあステラちゃんを天使だと信じることはできないな」
そう言うと、ステラちゃんは動きをピタッと止めて、饒舌な口をつぐんだ。
ふふふ、勝ったぜ。
そう心中でガッツポーズをした時だ。
「わかりました。天使の証明をしましょう。だから少しあちらを向いていてください」
「何で?」
「服を脱ぐから見ていて欲しくないんです。あなたは女の人の身体をしていますけれど、男の人の心を持っているでしょう?しかも童貞」
「な、何故それを……」
そう聞きかけた時、ステラちゃんの指が白い衣へかかったので、俺は慌てて後ろを向いた。