3.「なんだそりゃ!」
「な、なんだそりゃ……」
木の間から出てきたそいつの異形を見て、俺の背筋に悪寒が走る。
想像していた最悪は、熊や狼といった獰猛な獣の登場であったが、そいつはそんな想像を上回るおぞましい姿をしていたのだ。
もっとも、それはシルエットを見る限り人のような形をしてはいた。サイズは小さく、少年ほどであろうか。手があり、足があり、頭があり、背筋を曲げてはいるが二足で立っている。
しかし、人ではない。
断じて人ではない。
まず、肌の色がおかしい。
光源が少ないから確かではないが、おおよそ緑色の肌をしている。
肌の色だけならば外人だって違うが、目鼻立ちはもっとおかしい。
異様に尖がった耳、唾液を滴り落としながら伸びる舌はリコーダーほどに長く、鼻はギザギザと折れ曲がっている。
そして、何よりも……目が一つしかなかった。
異形の化け物。
そいつの姿は、酷く心を不安定にさせる。
おそらく、ある程度ヒトの姿に似ていながらも人から外れているので、余計におぞましいのであろう。
見ているだけで胸の奥がムカムカとして、ふつふつと吐き気が沸きあがってくるのだ。
「ギュズー、ボホー。クチュクチュ……」
生きているだけで苦しくてたまらないといったふうな汚らしい呼吸と、口の中で唾液を持て余す音を醜く鳴らしながら、そいつは一歩一歩こちらに近づいてくる。
「く、来るな!」
そう叫ぶものの、言葉が通じている様子はない。
逃げなきゃ!
そう身体に命ずる。
何とか踏ん張って立ち上がるところまではいったが、しかし、足がでない。
無理やりに右足を踏み出すと、その瞬間よろける。
やはり、つい男のクセがでて軸がバラバラになるのだ。
俺はあえなく草の上に転んでしまった。
「イイイ……キキ」
そいつは何かワケのわからない声を発しながら、さらに忍び寄ってくる。
俺は赤ん坊がはいはいをするように地を這って懸命に逃げるが、それでは大したスピードになるはずもない。
すぐに追いつかれて、そいつは俺の足首を後ろから掴んだ。
「ひっ……」
恐怖で喉が詰まる。
俺は情けのない悲鳴を上げながら、メチャクチャに手足をバタバタさせた。
すると、ハッタリが効いたのか。意外にもそいつは怯んだようだ。
一歩距離をとって、顔の真ん中にある一つ目がギョロリとこちらを伺っている。
うう、見れば見るほど怖ろしい。
と言うかコレ、どういう生物だよ。未確認生物ってヤツか。あるいは宇宙人?
でも、知性のようなものがあるとはとても思えない。
だったら、どうにか脅かして追い払えないものか。
「シッシッ!」
「ギ、イイ……」
そうやって獣を追い払うように声を上げると少し怯む。が、またすぐにその皺々な指をこちらに伸ばして纏わりついてくるのだ。
あっ。
良く見ると指も5本ついていない。
4本?いや、左手は3本だ。
手の甲はやはり緑色だが、掌は黄土色の汚らしい色をしている。
うん。状況が膠着してきて、俺は少し冷静になれてきたようだ。
人間は慣れの動物だから、いつまでも持続しておっかながっていることもできないのだろう。
俺はそいつへの注意を保ちつつ、辺りを見渡す。何か棒切れのようなものがあれば、それで叩いて追っ払えないだろうかと思ったのである。
果たして、それはすぐに見つかった。
少し離れた場所に、軽自動車ほどに盛り上がった土の山がある。その頂点にちょうどいい棒のようなモノが刺さっているのだ。
あれを使おう。
そう思って、俺はまた這い始める。
「イギ、ガっ!」
すると、化け物はその隙を逃さじとて飛びついてきやがった。
そいつは俺の背中へひしっとしがみ付き、離れない。
「ギギ……イギ、ウギ」
「うお!やめろ!離れろよぉ!」
声を張り上げるが言うことを聞く様子はなかった。
怖い!
気持ち悪い!
生ぬるくて生気のない化け物の肌の感触が背中いっぱいに纏わりついて、鳥肌が総立ちになる。
「いいい……ひぃー」
俺は半狂乱になりつつも、土山へ這っていった。
幸いそいつの体重は大したことがない。
すぐにてっぺんへ辿りつき、棒を手にすることができる。
「おらぁ!」
俺は、背中にいるであろう化け物へむけて棒を打ちつけた。
ペチ、ペチ……
上手くいかない。
脚を上手く操れないのと同様、棒をしっかり握るということもあまり上手くいかないのだ。
上手く握れないと、どうしてもヘナヘナと手ごたえのない叩きようになってしまう。
「ギッギッギッ」
心なしか笑われているようで腹が立った。
「ちくしょう……」
と、歯噛みしたその時である。
俺が拾った棒が、実のところただの棒ではないということに気づいたのは。
そう。
良く見るとそれは、鞘に収まった剣であった。
剣、ソード。まったく名状し易い。
その形状は、中世ヨーロッパ風ファンタジーでしばしば見られるようなそれである。
柄は真っ直ぐ横に伸びてシルエットを十字架のように見せる。その中央に赤い玉がはめ込まれてはいるが、それはすでにくすんで輝きを失っていた。古いものなのだろうか。
俺はおそるおそる、それを鞘から抜く。
すると、刀身は剣としての誇りを示すがごとく銀色に輝いている。内容は錆び付いていないようだ。
俺は瞬間、逡巡する。
これならば――この刃物ならば、この化け物をひっぺがすことができるだろう。すなわち、刺し殺すという手法によって。
でも、そんなの普通尻込みするだろ?
虫を殺すのとわけが違う。
いくら異形な化け物とは言え、目鼻口があり、手足があり、体温があるのだ。
そう言えば子供の頃、野良猫の慙死体が次々と発見されるという事件が、家の近くで起こった。そういう鼓動の感じられる生物を切り刻むことに愉悦を感じるヤツが世の中にはいるのだろう。
しかし、少なくとも今までの俺の人生で、自分がナマモノを刃物で殺傷するなど考えたこともなかった。
今だってそれには非常に抵抗があり、イヤであり、非倫理的に思われる。
つーか、そこまでする必要はないんじゃないか?
姿はおぞましいけれど、こいつだって本当に敵意があるのか分からないのだし……
そんなふうに考えた時である。
もたもたしている間に、後ろの化け物の長い舌が横へ回って来て、俺の頬をヌルっと舐めたのだ。
「うわああああああ!!」
俺は、腹から込み上げるおぞましさが頭へ上るにしたがって怒りのような感情へ変換されるのを感じた。そして、気づくと剣を後ろへ突き出していたのである。
ドン。
頼りない手ごたえではあったが、頼りなくとも手ごたえがあったことは確かだ。
生まれて初めての、刃物で肉をえぐる手ごたえである。
刃からぬくもりが伝わってくるかのような……
果たして、背中のそいつはドサリという音と共に地へ落ちた。
「グググ、ギ、ギギ。ギー、ギギ……」
少年のように小さく、老人のように枯れた弱々しい肉体がのたうつ。その貧弱な腹部から青い血が湧き水のように噴出して、みるみるうちに血溜まりを作った。
それを、俺がやったのだ。
「イ、ギギ……ギ」
動きが止まった。死んだのだろう。
「あ」
やってしまった、と俺は思った。
化け物の血は紅くない。異形の青い血。
それでも「殺し」という字が脳裏をよぎって、俺を震え上がらせる。
口の中に錆びた鉄のようなものが沸いてくるような感覚。
ひとつ何かの扉の鍵を開けてしまったかのような……
日はもうとっぷり沈んでいた。
銀の月光が、青い血溜まりをやたらと美しく輝かせていたのを、俺は恨めしく思った。
※1話2話、一部修正






