2.「何かいる!」
さて。一通り泣きはらすと、それなりに冷静になってきた。
でも、冷静になればなるほど、自分がまさに超常現象の中にいることが自覚されてくる。
目が覚めたら女になっていただと?
マンガじゃねーんだから。
しかし、何度確かめてみても無いものは無い。
また、あるはずのない膨らみが胸にある。しかも結構たっぷりとした重量感だ。
むふう……
胸には水着のように露出度の高い装甲が乳房をムニッと覆っているのみで、その赤裸々なシルエットと谷間は童貞の俺にとっては目の毒でしかなかった。
というか、恥ずかしくてたまらない。
しかし、まあ。
このようなメチャクチャなことって起こるんだな。ってことは、もう何だって起こりえる気がした。
そう考えるとスゲー不安になってくる。
この前提が突き崩された感。
つーか、そもそもここ何処だよ……
そういうわけで、俺は改めて辺りを見回し、まず自分が今どこにいるのかを考えてみた。
俺の座っているのは、草花の生い茂る野原。緑の背丈はどれも高くない。
よく見ると地面は緩やかに隆起していて、温かな太陽がポカポカと降り注いでいる。
そんな牧歌的な空間はサッカーのコートほどの広がりを見せるが、その向こうは背の高い木々が生い茂って四方を囲んでいた。
うーん。やっぱこんな場所に見覚えはない。
そもそも、俺はとある政令指定都市の地下鉄電車に乗っていたはずなのに。
そこでまず思ったのは、これは夢なのではないかということだ。これは夢だと知っている夢を、自分は何度かみたことがあったから。
電車の中で最後に覚えているのは、無機質な車両運行が一転、飛び散る窓ガラスや捻り曲がる鉄、そして人々が衝撃で宙に舞い上がる光景だ。
俺自身、首から背中へかけて鈍い衝撃が走り、一瞬で意識を奪われていったのも覚えている。
すると、まだ俺はそれから気を失ったままで、病院のベッドの上か何かで夢を見ているだけなのかもしれない。
それならば女の身体になっているのもありえることだ。夢であればそういうこともあるだろうし。
まあ、フロイトの夢判断的に、「一体俺はどういう変態的リビドーを抱えているのか」という問題は生じそうだけれど……
次に考えられたのは、やはりここが天国、ないしは死後の世界であるという説である。
地下鉄の事故?に遭って気を失い、次に目覚めたらこうだったのだから、当然思い浮かぶ考えだ。
しかし、ならば何故女になっている?
ユーレイになるとみんな女になるだなんて理屈はねーだろ。
また、死後の世界なんてものが本当に存在するのかという疑問もある。
あるいは、病院で眠っている間に黒づくめの男に実験途中の薬を飲まされ、みごと女の姿になってしまったところを持て余し、森に捨てられたとか。
そういう推理系な話であればここは現実だということになる。
でも、その場合は家の近くという保証はない。
それどころか最悪外国かもしれないぞ。
まあ、何にせよ。ここでジッと考えていても埒があかない。
回りを囲む木々がどれほどの規模かは分からないが、誰か助けてくれる人を見つけなければどうしようもなさそうだ。
すぐに誰か見つかれば良いけれど……
「よっこいしょ」
そう思って立ち上がったその時だ。
下半身がぐらぐらと揺れ、
すってーんっ
と転び、尻もちをついてしまった。
!?
なんだこりゃ。
もう一度立ち上がる。
すってーん。
全然ダメだ。立っていることができない。
これは……どこか身体を悪くしているのだろうか。
そう思いつつ打ち付けた尻をさすると、ムチっとした肉感に手が喜ぶ。
そうだ、俺は女になっていたのだった。
もしかして、男の身体と女の身体では「立ち方」が違うのか?
この身体はどう見てもいたって健康。それどころか女の身体でありながらかなり鍛えてあるふうに見える。
筋骨隆々とした様は欠損なく均整がとれているし、何よりも身体の奥から言いようもないパワーがみなぎっている感じさえした。
それなのに、この上手く操れない感はなんだ?
それからもう何度か立ってみようとしたけれど、やはり腰の辺りがヘナヘナして立っていられなくなる。
何べんも尻を打って痛い。
前へ倒れる場合はまだ良いが、後ろへ倒れると尻を打ってどうにも痛いのだ。
よく見るとパンツの後ろはTバック型にすぼまって、まるでふんどしみたいになっていた。すると、左右のお尻の肉はぷりぷりと丸出しで、転ぶと直に打ち付けることになるわけだ。
ペチペチと叩いてみるとお尻も相当に筋肉が発達しているのが分かるが、丸出しになっているお尻を地面へ打つと痛いのは、鍛えてあっても同じようであった。
「くっ……うう。はぁはぁ」
そりゃあ、こうやって思いっきりギュッと腿に力を入れれば十数秒くらいは立っていられる。
でもこれでは立っているものの数には入らないだろう。
不自然すぎるし、第一疲れすぎる。
この苦労は、長いこと男をやっていて、急に女になってしまったという経験を持った者にしか分からない苦労であろう。
そんな人間が果たして俺の他にいるのかどうかは知れない。が、女の身体を持ちながら男の感覚で動こうとすると、もはや立つことすら満足にいかないのである。
男と女は、骨格やらなんやらもうまるで違った生物の身体と言っていいくらいなのだ。
もっとも、「そこまで分かっているのなら、男の動きではなく女の動きで身体を動かせばいいではないか」と思われるかもしれない。
でも、そこまで話は簡単ではない。
そもそも、長年染み付いた男の動き、男の感覚、男の主観性が、俺にはあるのだ。たかだか身体が女になったくらいで、すぐに長年培ったそれらが払拭されるはずなどないだろ。
第一、女の動きってなんだ?
全然感覚わかんねーよ。
うーん……なんだろう。
冷静に現状把握をしようとすればするほど、ひたすら現状がどうにもならないと明らかになってくるだけのような気がする。
だって、これではこの場を移動することすらままならないだろ。
赤ん坊のようにハイハイすれば移動できないこともないけれど、それでは木々の合間を越え行くことはできない。
ほんとうにどうしようもない。
そして、さらにどうしようもないことに、辺りの緑が美しく茜色に染まっていることに気づく。
日が暮れかかっているのだ。
自然はのんきなもので、空では陰影を深くした雲のたなびきを鳥が横切って悲しげに哭いて行った。
しかし一方、俺は焦った。
こんな知らない、木々に囲まれた野原に一人。
女の身体になってしまったという異常事態の中、満足に移動することもできない。
何という理不尽。俺が何をしたってんだ!
叫びたくなるような状況だが、大自然様は非情だ。
それでも影法師は長くなり、次第に空は幻惑的な紫色をたたえはじめる。
「うう、寒っ」
と思わず呟く。
実際はそこまでの気温ではないのかもしれないが、格好が格好なのでどうにも肌寒い。
こんなところで、こんな姿では一晩だって寝ていられないぜ。
そう途方に暮れていた時である。
ガサ、ガサガサ……
暗く沈みはじめた木々から何か音がした。
熊、狼、猪。
そんな獣たちの姿が頭に浮かんで血の気が失せる。
俺は慌てて振り返って、目を凝らしてみた。
何もいない。
気のせいだろうか。
いや、気のせいであって欲しい。
ガサガサ……
しかし、願望は叶わず。
それはのっそりと、黒い塊として、木々の隙間から這い出してきたのであった。