12.「女戦士とオーク」
そのオークは威嚇のためか、近くの木へ一つ張り手をしてドスンと大きな音を上げた。
眼をギラ付かせて、息を荒げている。
怖い……
ひょろひょろなゴブリンとは全然おっかなさが違う。
ゴリゴリの肉体に、ちゃんと凶暴な雰囲気をまとっている。
果たして、自分の状態を顧みると指が震えて、足がガクガク言ってる。
これは……逃げなくちゃならない!
オークが大きくて強そうだからそう思ったのではない。
オークが大きくて「怖ろしい」と思っている自分に気づいたから、こう思っている自分では負ける可能性が高いと判断したのである。
コトは暴力だけではなくスポーツ何だってそうだけれど、精神的に差し込まれたら実力がどうあれ勝つ見込みは薄い。
そして、一度差し込まれた精神を立てなおすのは非常に難しいものである。気合というのは単純に「気合入れるぞ!」と思って気合が入る、というシロモノではないのである。
これがただのスポーツやケンカであれば勝つ見込みが薄くても、チャレンジしてみても良いだろう。
あるいは死を賭した最終決戦とかそういうものであれば特攻でも何でもやって無理矢理行く他ないだろう。
しかし、今はそのどちらでもない。
負ければ死ぬだろうし、死を賭してまでコイツと戦う理由もないのだから。
そりゃあステラちゃんポイントは高そうだけれど、一時退却して少なくとも「こういう魔物もいるのだ」という事前の心構えや対策を打ってから、別の機会に戦うというのでも良いはずだ。
自分内の方針が固まったことにより、震えは止まった。
俺はまず、逃げるために駆け出すタイミングを見計らった。
また、逃げるということがバレバレにならぬよう、剣先をヤツへ向け牽制する。
この牽制のうちに、相手の俊敏さも読み取りたい。
俺はまだ森を速く駆けることはできないから、もしこのオークが鈍重そうな見かけに反して思いのほか俊敏であれば、脚を奪うくらいはしなければならないかもしれないだろう。
「ウウウウウ……オオ!」
ソイツは唸り声を上げながらドスドスと詰め寄ってくる。
威圧感がすごい。
すくんで棒立ちになってはたちまち接近されてしまう。
俺は咄嗟に剣を一振りしてヤツの進路をふさごうとした。
「グ、ググ」
すると、ソイツはこれを避けるでも防ぐでもなく、ただ怯んで立ち止まるのみである。
これは、少なくとも刃に対する経験なり耐性なりが希薄だということではあるまいか?
俺は距離を保ちつつ、ヒュン、ヒュンっと二、三剣を振るってみた。
「ググ、グフぅ……」
やはり、刃に怯んでいる。
これならば、特に斬撃を当てずとも逃げおおせそうだ。
俺は剣を鋭く振って相手を威嚇しながら、徐々に距離を取っていった。
これに面白いようにビビッてくれるから、ヤツから眼を離さぬよう慎重に脚を運んで行けば少しずつだが遠巻きになって行く。
木の茂る森の中だから、そうやって距離を取っていくと、すぐにその姿は見えなくなった。
諦めたのだろうか。
「ふっ、ざまあねえ」
俺はホッとする。
あれだけ剣にビビッていたのだから追ってはこまい。
もう後ろを気にするのをやめて、普通に歩いて帰っても良いだろう。
そう思った、その時だ。
その相当な距離を取っていたはずのオークが、予測に反して再び現れたのである。
先ほどとは比べ物にならないくらいのスピードで猛烈なダッシュして距離を詰めてくるのだ。
俺はびっくりするけれど、とにかくまた剣をヒュンっと振るって威嚇をする。
「グフ……オオオ!」
駄目だ、止まらない。
ソイツの眼は、獣の眼だが腹を括った光を帯びていた。
何故、こんな何でもない状況でそんな危険を冒そうと決意したのか?
分からない。でも、魔物は人間のように理屈で行動するわけではないということだろう。俺はそこらへんを見誤って、自分が考えるように敵も考えるだろうと思い過ぎてしまったのだ。
俺は慌てて二撃目を打とうと構えようとする。が、遅い。
ヤツの逞しい肩が、俺の肩――これも逞しくはあるが人間の、女性の肩――に激しくぶつかった。
「うァ!……があっ、が」
スゲー衝撃だった。
車に轢かれたことはないけれど、車に轢かれたかと思うくらいである。
地を舐めると、肩に激痛が走る。
右腕が動かない。
これは肩が外れているということか?
ヤバイ、剣はどこだ?
大した考えも起こらぬうちに、ヤツは追い討ちをかけてくる。
「ちょ、ちょっ……タイム、タイム」
と言っても通じるはずがない。
オークは地を這う俺に跨り、いわゆるマウントポジションを取る。
そして、その硬い拳を、俺の顔へ打ち下ろした。
「うがあ!い……ひいぃっ」
痛い!
オヤジにも殴られたことがない、とまでは言わないが、俺とて暴力に慣れていない現代人である。
ポッキリと心が折られそうになる。
まるで奥歯に釘を打ち付けられたようで、口の中がマズくなり、頭がガンガン響く。
それでもまだ意識はあった。
意識がある分それは嵐のようで、もう何が何だか分からなくなる。
クっ、殺せ……
と心の中で呟いて、もういっそのこと死を覚悟しちまおうと考えたその時だ。
次に来たのは殺意ある攻撃ではなかった。
そう。オークは無抵抗な俺を見て、胸の装甲をペロンと剥がしてきやがったのである。
重たい乳房はブザマに丸出しになって、ぷるん、ぷるん、とヤツの眼前へ晒された。
なるほど。
この豚鼻の息の上がり方、肉の強張り方、目の充血、そして、そういうもの全体が放つ禍々しい雰囲気。
このオーク……俺の身体に発情していやがる。
いや、今の自分がムチムチな女戦士であり、相手がゴツゴツなオークであることを考えれば、発想的に一番憂慮しなければならないのはこういうコトではなかったか?
俺はどこかでまだ『悲惨』に関する想像力が足りていないのかもしれない。
いずれにせよ、このままでは死より怖ろしいことが待ち受けていると悟り、血の気が引いていくのを感じた。