9.「リーチ」
森は平坦だった。
木々が生い茂っているところを森というのだから、それが平坦というと何かおかしなことを言っているようだが、傾斜のことを言っているのである。
俺もハイキングやら何やらのレジャーに嗜むことはあったので、森を歩くのが初めてというわけではない。
しかし、日本における森というのはおおよそ山のことであった。
この森はそういう意味で平坦なのだ。山ではない。
山ではないところの木々がずっと続いているというのは、それだけで不思議な感覚であった。
まるで外国に来ているみたいだ……
そう考えて、外国どころの騒ぎではなくって、異世界にいるのだということを思い出して噴出した。もしかすると、世界観という意味では現代の外国よりは「異世界」の方がまだ日本人に馴染みがあるのかもしれない。異世界の多くは何故か日本語を使ってくれているようだし。
木の葉が幾重にも覆いかぶさって、昼だというのに暗い。
それが木漏れ日や陽だまりをやたらと幻想的にしていて、そうしたところに精霊やら何やらが宿ると考えた昔の人々の心持ちも理解できないでもない気がした。精霊が想起されれば、逆に暗闇には悪霊が宿ると想起されるのはある種必然であろう。
ゾロアスター教の生じたのも、ユダヤ教に悪魔の概念が取り入れられたのも、和魂に対して荒魂のあったのも、なるほど人間の性質として頷ける。つまり、絶対を希求すれば相対が、相対を観相すれば絶対が、自ずと沸き起こってくるものなのだろう。
しかし、この森の雰囲気は和魂という感じはしないな……
そんなふうにセンチメンタルになりつつも森を行き行くと、急に魔物が視界に現れてギョッとした。
木の根の隆起した場所で、最初に倒したアレに似た連中が3匹ほどたむろしている。
もっとも、それは角の生えたのやら、目の三つのやら、鼻が男のイチモツになっているのやら、異形にもヴァリエーションがあった。
こちらからすれば唐突なことであったが、相手はまだこちらに気づいてもいないようである。
俺は別の木の陰へ隠れて、連中の様子を眺める。
鼻のヤツは、昔そういう小説があった気がする。いや、アダルト・ビデオだったか。両方か。
実際に目にすると、こんなに醜い顔はない。
目が三つの隣のヤツが可愛く見えるくらいだ。
今すぐ殲滅してやっても、何の感慨も起こらん気がするけれど、俺の脚は止まる。
いくら何でも三匹同時はキツイんじゃないか?
角の生えたヤツとか、ちょっと強そうだし。
第一、人間の中でも強い弱いがあるくらいだから、ヤツらにも強い弱いがあるはずだ。
一つ目のヤツと実力が同じとも限らない。
そんなふうにいろいろと考えてしまって、脚が動かないのである。
……いや、分かっている。
いろいろ理屈をつけているけれど、要するに俺は戦いが怖いのだ。
でも、仕方ないだろ。
これまでケンカもしたことがない俺である。
戦いにおけるメンタルのやりくりがよくわからないのだ。
多分、実力的には遥かにこちらに分があると思うけれど、こちらが敵対すればあちらからの敵意を浴びることになる。
いくら知性のなさそうなヤツらであっても黙って殺されてくれるというわけにはいくまい。
戦いになれていない俺のような者からすると、何よりもその「敵意を浴びる」ということが怖ろしいのだ。
一つ目の時は、相手の敵意も何もない間に殺してしまったからマシだったのである。
ああ、魔物が去っていく。
しょうがない。三匹かたまってたんだ。
次、一匹でいる魔物を狙えばいい……
そう諦めかけた時に、俺の腹が鳴った。
その音はヤツらに気づかれはしなかったけれど、俺を吹っ切らせてはくれたのである。
「おい!」
俺は愚かにも、去っていく魔物たちに声をかけた。
せっかくの不意打ちのチャンスをパァにしたのである。
ただ、これもやむを得まい。
今の俺は去っていくヤツらを追いかけるだけの、走るスピードというものはないのだから。
一匹が俺に気づく。
三つ目のヤツだ。
俺はなるべく弱そうに、剣という杖をついてヤツらの方へ歩みを進めた。
この策略は当った。
他の二匹よりも早く俺に気が付いた三つ目のヤツが、ふらーっとこちらに近づいてきやがる。
まだ遠い。
俺はまだまだ剣を地について、腰をかがめる。
相手は三つも目があって表情が読み取れないけれど、何となくこちらを侮ってくれているように見える。
それを見ると、俺は早く切りかかりたい誘惑に駆られる。
だが、もう少し近く。油断して剣のリーチの中まで入ってくるまで、弱そうにしていなければならない。
もう少し、もう少し……
今だ!
俺は地についていた剣を天にかざし、振るった。
夢中であったから何が何やらわからない。
しかし、次の瞬間にドサリと落ち葉の上に何かの落ちる音が響いた。
三つ目のヤツの首であった。