プロローグ
地下鉄電車の車両はあまり混んではいなかったけれど、俺は銀色の格子へ手をかけてぼぅっと突っ立っていた。
車窓の外は地の底がおどろおどろしく暗く深い。
そこへリクルートスーツを着た黄色い猿のような男が映っている。
なんて陰鬱な顔をしたヤツだ……と思ったけれど、すぐにそれが自分の顔であることに気づいてさらにその眉間へ陰を深めた。
ああ。
何故、俺はそんなに不景気な顔をしているのだろう。
モラトリアム(学生生活)が終わりかけているから?
馬鹿言え。学生生活なんてそんなに上等なものでもなかった。
未練がましく思うほどの青春でもねー。
じゃあ、何故こんなにも憂鬱なのか。
それはむしろ、これまでの猶予期間のような惰性が、引き続き一生続いてゆきそうな予感がしているからじゃあなかろうか。
学生生活の馴れ合いをちょっと進歩させて、さらに苦痛だけを付加しただけの「凡庸な一般市民」を演じるか。それでなければ、カネ儲けを基準とした競争で躍起になる「ビジネスマン流」を演じるか。あるいはその折衷か。
そして、この惰性を呑むことの対価としての恋愛ごっこ。
石のように転がる、ベタベタして、小生意気な、カレシ・カノジョ契約。
この延長としての薄っぺらな結婚と空虚な核家族に、社会人となる対価として釣り合う価値はあるのか?
まあ、どちらにせよ。シャカイジンになっても、これまでとあまり変るところはないだろう。
要するに単なる執行猶予である。社会人の方が学生よりも苦しみの総量が多いので、その苦しい度の分だけ社会人の方が立派だと勘違いされているだけで、本当のところ何も変らないのだ。
だって、「苦しみの多さ」と「立派さ」は、別に比例関係にないはずだから。
無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない……一人一人の市民としての社会人。
そんなモラトリアムが続くのであれば、いっそのことさっさと死刑執行をしてくれれば良いのに。
窓に映る黄色い猿は一つ冷笑を浮かべる。
「まあ、だけど。そんなふうなことを考えるのは、俺だけじゃないんだろうな」
そう小さく呟いて、車両の中の人々の幸せでも不幸せでもないといった画一的な表情を眺めてみた。
なるほど。みんな生きているけれど、死んでいる。
ただ、その死に方には二種類あるように見えた。
第一の死は、死んでいるけれど、死んでいることに気づいていないで、集団でピーピー馴れ合って不自然な笑顔を作る者たち。
第二の死は、死んでいることに気づいてはいるけれど、生きるためには死んでいなければならないので、頑張って死んでいる者たち。
そこで俺自身の性質を『自己分析』してみると、どうやら俺は、第二種類目の死に方で、死ぬまで生きて行かねばならないようだった。
それにしても、就職活動の指南書に載っているいわゆる自己分析にも、こういう切り口があってしかるべきではないか?
よくある薄っぺらな自己分析で納得しておれるのは、第一の死に方をしている軽薄な連中だけだろう。
ここまで俺の考えが浮遊した時、俺は自分が決定的に何かをあきらめ始めているのを感じて、深く、沈鬱で、長い溜息をついた。
果たしてそれが起きたのは丁度そんな時である。
キキーイ!!!!
突如、耳をつんざく甲高い音が車内に響いた。
何だ?
と辺りを見回そうとした瞬間、電灯が薄暗くなって、女たちのヒステリックな悲鳴が起き始める。
俺だって酷く戸惑ったが、それも数秒だっただろう。
続いて遠くで爆音が鳴り響くと、すぐに世界はまさに均衡を失ったからである。
床であったものは床ではなくなり、ガラスは割れ、鉄は曲がり、人は宙を舞う。信じられない光景が瞬時に繰り広げられる。
全身の毛が逆立ったような心持ちで、心臓がむき出しになっているようだ。
ただ、面白いことに、そんな状況の中、俺は人々の生きる顔を見た。
先ほどまでは一様に死んでいた人々が、画一的な黄色い猿の顔ではない、活き活きとした『人間の顔』をしていたのである。
俺も今、そんな立派な顔をしているだろうか。
そう思った時、意識が途切れた――