プロローグあるいはエピローグ
プロローグあるいはエピローグ
当然のことだけど、世界では一日に何十万人の人が死に、何十万人の人が産まれている。 なんでも一日に死亡している人達は二十五万人を超えるとか、三十万人近いとか聞いたこともある。
それでも人口が増加傾向で食糧危機だのなんだのと問題があるようで。ただ正直な話、どれだけ多くの人が死に、多くの人が産まれても自分に関係の無いところで起こったことなら気にならない。 数字として「へぇ多いな」と思うくらいであるし、近いところであってもたいして親しくない人のおめでたの話を聞いても「よかったね」くらいにしか思わないし、訃報を聞いて同情してもしばらく経てば忘れてしまう人も多いだろう。
でもこれが自分の親しい人で、となると話は別である。僕は身を持って今それを実感している。 理由としては単純明快である。 僕の大切な友人二人が僕の前から消えてしまった。二人とも理不尽な暴力、実態の知れない不幸によって消えてしまった。 この単純明快な理由を僕自身が納得し、理解できるかは全くの無関係であるのだが。
大切な友人とそして好きだった人が消えてしまった、いなくなってしまった。もういないのだ。 世界の他の人々にとって大した問題でなくても僕にとっては衝撃的なできごとで、どうにかしたくてもどうしようもない問題なのだ。 僕の何も無かったけど、何でもあった、友のいた、想い人のいた日常はもう絶対に帰ってこないのだ。どうしようもないことで、どうしようもなく、哀しい……。
◇
万物の因果を遡っていくと、全宇宙の誕生の瞬間に、全宇宙の意志の発現行き着くことになる。 全ては一つから起こり、一つは、すべてに繋がる。 そしてそれがそれぞれに終わる。 それが道理、自然、摂理である。
だが、こうした万物が従うべき理から独立した存在がある。 それはなにか。 いうまでもなく、それは「万物」の定義から外れたものであるし、この宇宙に属しているとは言えない存在と推察できる。 だが、ここで別の仮定に立つこともできる。 その仮定となる存在の定義とは────
◇
どれだけ接近しても、それは漸近。 決して触れ合うことはない。
限りなく近づき、それでも決して触れ合わない、辿り着かない、接し合わない。
故に近づき合い、触れ合おうとする。 そして離れることを求める。
近くにいないから不安になり、離れているから安心できる。
突き放す、離す、話す、接近、近づく、触れ合う、遇う、逢う、愛し合う。
触れ合わざるを得ない、離れざるを得ない。
会いたくない、いっそ消えてほしい。
消してしまいたい。消してやろうか。消えてしまえ。
他者の道理はあなたの理不尽。あなたの不幸は他者の幸福。
絶対確かなことではないかもしれない。でも変えようのない漸近。
決して効率的でない、決して論理的でない、およそ倫理的でない人のロジック。
そんな不確かで、変えようのない当然の事実に、今、光城 信也みつき しんやは気づき、絶望する。