◇二つの日の出
地面が湿り気をもち心地よい香りを漂わせる。緑屋根の下にも雨がふることはあるのだろうか。
全身の血が凝固して血の流れをさえぎっているようだった。手足はしびれてうまく動かず、木の根に全身を預けるしかできない。彼は青い葉を通じた柔らかい光をあびていた。
なにかが揺れた音がした。ベイビーだろうか、それとも風か。確認する気もおきず、ただ土の香りを楽しみ、彼は鼻歌をくちずさんでいた。頭の中は燃えつきた灰のように真っ白で、もうこのまま朽ちても構わない気分だった。
「……」
日差しが急に陰った。雲がでたのだろうか。彼は薄くまぶたを開ける。
すぐ眼前に、そう息がかかるほどの距離に、二つの宝石が輝いていた。
「……っ!」
彼は夢見心地のままそれを見つめた。視界は曇っていて、すぐには焦点が合わない。しっかり像を捉えた瞬間、彼は飛び起きる。
その「宝石」は琥珀色をした二つの瞳だった。彼を一人の少女がのぞきこんでいる。少女は銀色の髪を地面に垂らし、無垢な瞳で彼を見つめていた。
「……」
少女はさらに近づく。彼は間抜けに口を半開きにしながら、彼女を頭から眺めて行く。
頭のてっぺんから流れ落ちる銀髪は一本一本がとても細く繊細なガラス細工のよう。光に反射すると虹のように輝いた。ゆるやかにウェーブしたその髪は腰ほどまで伸びている。
彼女は少し首を傾げる。そうして髪は再び光を反射した。ルビー、サファイア、エメラルド、アメジスト、様々な宝石を一本の糸に紡いでできたようにきらびやかで、それでいて羽毛の様な軽やかで柔らかいと触れずともわかる。
二つに分けられた前髪の下には、とても印象的な瞳が輝いている。琥珀色のそれは炎のようにゆらめき、自ら光を発しているようだ。大きな目の中に、これまた大きなくりくりとした瞳が場所を取っている。まつ毛はとても長く、瞳の色が反射しているからか黄金のように輝いた。その瞳は邪なものを捉えたこともないように澄み切っている。
肌は雪の様に白く、それでいて虚ろなもろさもなく、幼く健康的なエネルギーにあふれていた。頬はマシュマロのよう。鼻は少し低かったが、それが均整の取れすぎた顔のアクセントとなり、幼い愛らしさをよりいっそう表していた。
身長は百二十センチもないだろう。麻でできたような黄緑色のワンピースを身にまとい、木製の靴をはいている。質素な服装にも関わらず、てっぺんからつま先まで豪華絢爛に飾り立てられた西洋人形のようだった。
「こん……に…ちは?」
彼女の声は幼く、舌足らずな子供のしゃべり方だった。
頭の中の灰をかき集め、彼は今の状況を把握しようとした。だが、あまりにも唐突な出会いは突風となり彼の思考など吹き飛ばしてしまう。
「……っ!」
彼は少女の肩を両手でつかみ、何か口にしようとした。その熱意は喉を通るころには燃えつきてしまい、ただかすれた吐息だけが漏れる。
涙に瞳を潤ませて、彼は少女の顔を見つめた。人形のようなその顔を。少女は無表情のまま彼をみかえす。彼は彼女がこの緑の森に住む妖精のように見えた。その考えに気づくと同時にのどに異様な圧迫感が襲う。
彼女から手をはなし背を向ける。せきをし続け、えづきかけた。
少女は不思議そうにまんまるい目を輝かせながら彼を観察している。彼は少女に向き直り、瀕死の男が助けを求めるように口を開いた。
「き、み、は」
彼の喉はたった三文字、しゃがれた声を出すので精一杯だった。彼は彼女から何か情報を聞き出したかった。どこにいたのか? 他に仲間がいるのか? 何者なのか? 何しに来たのか? 疑問ばかりが浮かぶも言葉にできない。喋ることから離れすぎていた。
彼女はより興味深そうに彼の顔を眺めて言葉を待った。彼は大きく息を吐き、熱くなって暴走気味の思考にブレーキをかけた。彼は優しく、しっかりと彼女の目をみて尋ねる。やっと出会えた話し相手を逃す訳にはいかない。
「君の、名前を、教えて、ほしい」
「なまえ? わからない。バンゴウならある」
「分からないのかい? おとうさんや、おかあさんには、なんて、呼ばれているの」
口にしたことで自分の父、母、友人の存在が頭に介入しはじめめた。緑がかる前の生活が頭で再生されていく。それらは色あせていて、記憶を探ろうとも鮮明にはならない。唾液が苦く感じ、頭がずきずきと痛んだ。現実が彼の頭を蝕んでいく。
「おかあさん? おかあさんならわかる?」
彼女はむきなおり後ろを指差した。その先には、大樹が、このドームの柱となっている緑の大樹がずっしりと構えていた。
根元付近に彼は訪れたことはなかったので、人間が暮らしているのに気づかなくても納得がいく。だが遠くから見ても異様なあの場所でわざわざ生活をしている人間がいるのだろうか? 彼女は、彼女の母は、いったいなにものなのだろうか? 少女の容姿も普通ではない。
彼は歪な感情をいだいた。砂漠で太陽に灼かれ喉が渇いてしかたない時に、口にゆっくりツララを突っ込まれるような歪な感情を。
少女との会話は飢えた心を癒してくれる。だがそれは冷たいツララから一滴たれた水滴のようなもの。話せば話すほど、ツララは彼の喉へ近づき、そのまま一突きに喉をかききってしまうかもしれない。
「君は、どうして、ここに来た?」
質問なんてすべきではないと知りつつも、不思議と言葉はなめらかに転げ落ちていた。ツララからの一滴を求めて。
もし、予想が的中してしまったら? 少女に何らかの行動をする必要がでてしまう。彼はそんなことは望んでいない。思考の材料にしかならない情報なんてものは不必要なはずだ。それでも、もう尋ねてしまった。
「バクハツしたの。きになった! ゲンインしらべた?」
彼女は立ち上がり、彼に熱い視線を向けた。そこに敵意は見つけられない。蝶をつかまえた時のように、美しい花をつんだ時のように、子供達が彼らにとって重大なものを発見して報告したくてたまらない時と同じように生き生きと話し出した。
「あれは俺がやったんだ。怒っているのかい?」
「んーん。わからない」
「分からないか。でも君のお母さんなら……いや、なんでもない」
彼は口ごもり、顔を伏せ、右手で顔を覆う。苦悶に表情がゆがむ。頭の中ではいろんな声がわめく。
俺は何を知ろうとしている? 俺の状況を? 俺の現実を? そんなことを知ってどうする。昨晩知っただろう? 俺はもう現実に負けるしか出来ない。どうすることもできないということを! 彼女がもし……そう……だったとして、だからどうなんだ! 思考など捨ててしまえ!
一人の生活が続き、彼は自分との会話になれすぎていた。雄弁に主張を続ける。
結論を出さなければ、俺は、俺は、孤独から抜けられるかもしれない! だって彼女と、俺は! 話せているのだ! そうだろう? ならば俺は……
「あなた、なまえ、なんていうの?」
演説を止めたのは少女の愛らしい声。彼女は彼の様子など気にしていないようだ。彼の頭の中のいくつかの主張はボーリングのピンのように弾き飛ばされる。少女が初めて自分に質問したことに気づき、直ぐに答えようと口を開く。
「俺の名前か……」
彼はすぐに自分の名前を思い出せなかった。誰にも呼ばれていない日々は自分の名前を忘れさせるには十分だった。家族、友人の思い出がぼやけていたと同様に、自分の存在も虚ろになっていることを自覚する。
「……!」
まぶしさに目が眩んだように彼はまぶたを閉じる。明るいはずの空を見上げる。
自分が呼ばれていたであろう名前を思い出した瞬間、今までの記憶が色鮮やかに塗りたくられた。家族の笑った顔や怒った顔、友人のおちゃらけた顔、映像だけでなく、家族や友人たちの声も、片思いしていた女子の少し鼻にかかった声も聞こえる。皆が暖かい声で呼ぶ。自分の名前を! 目をつむっている間は暖かい思い出に包まれ、幸せを感じていられた。
だが太陽のように輝かしい思いでも、すぐにかげりはじめる。彼らはどうしてしまったのだろう? 無事でいるのだろうか? いや、そんなことは、おそらく、ありえない……。思考の鎖が闇の奥へと引きずりこむ。彼は目を大きく開いた。
「俺は……」
彼は酒瓶を力強く握っていることに気づいた。そしてその黒いラベルを眺める。
「俺はジャック。俺の名前はジャックだ」
寸前までそんな名前を名乗るつもりはなかった。彼は野球青年として生きてきたそのラベルを破り捨てた。それは衝動的におこなわれた。今まで暮らして来た名前で呼ばれるのがなぜか罪深いことのように思えたのである。
「じゃく?」
「いいや、ジャックだよ」
外国人の名前は格好をつけているようで気恥ずかしく、それでも名を呼ばれるのは嬉しかった。「少女」は「彼」を呼ぶ。孤独に沈んだ彼が求めていたことだった。
「じゃっく! じゃっく!!」
少女はその響きが面白いのか声に出して笑う。彼の周りを踊るようにはねて繰り返し名を呼ぶ。彼の存在と名前を結びつけようとしているようだった。
「そんなに楽しいか?」
「なまえ、おもしろい! いいなあ、なまえ!」
少女は生き生きとしていた。人形のような印象が嘘みたいだった。地面をけって根に登りバレリーナのようにくるくると回る。
「そんなに喜ぶなら君も名乗ればいいんじゃないか」
彼はそもそも君と呼ぶのがキザったらしくて恥ずかしかった。かといって「お前」「あなた」と呼ぶのも気に食わない。名前があるなら名前で呼びたかった。少女はぴしっと背筋を伸ばし、真面目な顔に変わる。
「かってにつけて、いいの?」
「ダメじゃないとは思う」
「……でも、どうやってきめたらいいかわからない」
ジャックという名前をうらやましそうに、ねだる様に彼を見つめた。太い木の根にのぼったことで彼と彼女の目の高さが合わさる。
「じゃあ、俺がつけようか?」
「……うん?」
彼女は根から飛び降りて、元から大きい目をこれでもかというほどに開いて、琥珀色の瞳をキラキラと輝かせる。彼はその視線を受け止めて考えを巡らせた。
花や木の名前を思い浮かべ、それらを却下した。知人たちの名前は思い出すとつらくなることが分かっていたので頭の隅に押し寄せた。そして、ジャックと名乗った時の様に、直感的にある単語が思い浮かんだ。
「すあま。君の名前は、すあま。……どうだい?」
「……」
無表情のまま見つめられ、彼は申し訳ない気分になった。流石に食べ物の名前は失礼だろうか。愛らしい桃色でもちもちとした和菓子と、彼女の印象はどこか通じるものを感じた。
少女の瞳の奥を探る。黒真珠のような瞳孔を虹彩が囲んでいる。澄み切っていてどんな感情も読み取れない。
「ダメかな……?」
「んーん! すあま! すあま!」
少女はぴょんと跳ねて、自分の名前を高らかに叫んだ。
「わたしはすあま! あなたはじゃっく!」
彼は彼女が喜んだことを彼女と同様に喜んだ。胸は喜びであふれていた。世界のどんなことも気にならない。世界には自分たち二人しか存在しないようだった。互いが喜んでいるのだから、世界中が幸せに溢れているように思えた。
「そうだ! 俺はジャック。君はすあまだ!」
「じゃっく! すあま! じゃっく! すあま!」
少女は口をいっぱい開いて笑う。彼の周りをくるくる回った。彼もそれを追いかけて「すあま!」と呼ぶ。
彼は初めて見た。彼女の笑顔を。彼は気づいていなかったが、彼女もまた初めて見た。彼の笑顔を。
こうして名前を呼ばれることのなかった青年は消え去った。夏の日差しに鎖は断ち切られる。そして、彼は生まれる。黒い髪をした青年、ジャックが誕生する。