◇さようなら、青年
青年、緑のドームに一人残された彼のことをそう呼び続けてきた。彼も日本人らしい苗字と名前をもっていたのだろうが、日記帳の表紙にも記されておらず、誰かが彼の名前を呼ぶこともなかった。だから彼は青年という表現でことたりたのである。
彼自身は名前を呼ばれる事を切実に求めたかもしれないが、その名前が語られる機会は残念ながら来ることはないだろう。
三つの孤独と戦う青年はここで死んでしまうからである。
青年は夕闇の中、昔は住宅街だったであろう場所にいた。ふらふらとした足取り、片手にはスコッチウィスキーの瓶が握られている。顔は赤らみ、目ははれていた。
意識を取り戻すと地面に寝転んでいた。目を開けるとあの日と同じように緑の空が広がっていた。そして、それ以外のものを見たくないという気持ちもまったく同じだった。
気持ちに反してでも彼は壁を確認せずにはいられなかった。上半身を起こし、目の前の状態を確認し、数秒間そのまま固まった。そうして瞳を閉じた。壁は再び元の通りに戻っていた。
いっそ殺してくれればよかったのに! なぜ希望を奪い去り、絶望しか残さずむざむざと自分だけ生き残すんだっ! 彼はむせび泣き、何度も死んでしまおうと思った。だが、そんな気力も彼からは失われていた。
しばらくして何かきっかけがあったわけでもなく彼は立ち上がり、生きた屍のように歩きはじめた。コンビニからウィスキーの瓶を奪い取り、瓶に口をつけて飲み続けた。そのおかげで彼は少し陽気になり、街を歩いた。
「俺は希少生物なのか? 優しい侵略者様は俺を保護してくださっているのだろうか! たいそう疑わしい優しい方だ!」
青年は叫びながら、頭をからにして歩き回る。彼はつかもうとした「時間」を手放した。孤独にも、時の粒子にも負けてしまった。
「いっそアダムとイブのようにツガイくらい残しておくべきだ! なんで俺だけ! 俺が悪い事をしたか!?」
青年は飲んで、吐いて、飲んで、吐いて、酒が足りなくなったらコンビニから拝借して胃の中身をシェイクした。
「ああ、全て審判が悪いんだ! 赤子も幼児も悪いんだ!! ちくしょう……ちくしょう……」
彼は歩くこともままならなくなり、侵略者の根によりかかり眠りについた。
青年が目を覚ますと辺りは暗くなっていた。このドームの中、夜外にでているのは初めての事だ。本来ならば不安がるのだろうが、今の彼にはどうでもよかった。
手元にあった黒いラベルが貼られた瓶をつかみ、酒を口にふくむ。頭はガンガンと痛んだが、それでも飲まずにはいられない。そうして自己分析を始めた。
ここでは誰も俺に興味を持たない。認識されているかも怪しいものだ。あれだけ抵抗しても全く危害を与えず放置とは、よっぽど俺へと関心がないらしい。いたずらしかできない俺は幽霊のようだ。
彼はこんな風にも考えた。
幽霊とはどんな存在だろう? 死んでもなお現世に興味を持ち、影響力がなくなった自分に嫌気がさしつつも、生きてる人々を見ずにはいられない。そして人々が生き生きとしているのを眺めて、悔しがり、不幸にしてやろうと呪いをかけるのだろうか。幽霊は人の目には映らず、精一杯努力しても悪夢を見させることしかできない。人々には忘れられ、名前さえ呼ばれることのない。
ああ、まるで今の俺だ。俺は幽霊なのだろうか? そう思えば全てに納得がいく。生きている状態で幽霊をみれば異次元の存在は不気味なものに見えるだろう。俺自身が幽霊となり、今までと別の次元で生活を始めた。世界の見え方がちがってしまったのだ! ベイビーは宇宙人ではなく、ここに住む普通の人間なのだろう! 俺は稲妻に打たれて死んでしまったんだ!
彼は酒を口に含み、そして唾と一緒に吐き出した。
バカな考えだ! そんなことはない。俺は今生きていてる。努力の成果を求めて、ただそれを徒労と知り絶望しているだけだ。ああ、徒労。なんという響きだろう。無駄な労力。ドームの内で俺はそれを再び実感したわけだが、以前にも確かなその辛酸を味合わされた。
街一つ滅びた状況と野球の試合を同列に語るのはおかしいだろうか? だが俺にとっては同じだた。どれだけ個人が努力しようと大きな力には通用しない。全て徒労に終わる。その現実をこの二つの出来事は教えてくれた。
青年は自嘲気味に笑った。彼はあることに気づいた。
言葉なんて、思考なんてなんの役にも立たない。俺を亡霊とするふざけた考えと同じだ。孤独という感情をいろんな言い訳をしてごまかそうとしてきた。だが、感情はそれを飛び抜けた! 思考の鎖は、覚悟なんてものは役に立ちやしない。むしろその重みは飛行の邪魔にしかならない!
だが、俺にそれ以外に頼れるものはあるのか? 無限に広がる青空を自由に飛び回れたとして、それは大海をに漂流するのと同じじゃないのか? 架空の人物でも、つながりがなければ俺は身動きがどれないのではないか。鎖の上を綱渡りでもしなければ、俺は歩けないのではないか……。
「……」
彼を睡魔が襲う。青年はめっきり言うことを聞かなくなった弱々しい肉体に懇願した。このまま安らかに二度と起きぬ様に眠っていておくれ、と。