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ジャックと豆の木  作者: 周防 夕
第一章 あなたへの手紙
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◇赤児と息子

 日記を書いていた青年のその後を告げず終わるわけにはいかないだろう。時を逆流しよう。彼が取り戻そうとした時間のしおりを目印にして。

 そう、今は白紙の一日、十月十一日の朝である。

 緑の日差しの元、ひび割れた道路を車が走っている。窓ガラスは土ぼこりでくもり、車体にはたくさんの引っかき傷がついている。子供が遊びすぎて塗装がはげたミニカーのように黒い高級車は変わり果てている。

 運転しながら青年はのびた髪をわずらわしそうにかきあげた。顔も髪も脂ぎっていて清潔感はなく、無精髭も合わさって高校球児には見えそうもない。

 元から上がり気味だった眉はさらにいかめしくなり、たれ目にもかかわらず威圧的な雰囲気を発している。鬼のお面のような印象を受けるかもしれない。濁ったガラス玉のような瞳で前を見るも、その焦点は合わない。

 街道を直進していく。ここは異界だった。地面から飛び出た根は家々をおしのけて自己主張をはじめている。建物は全壊こそまぬがれているものの、斜めっていたり、ヒビがはいっていたり、そしてそのほとんどがツタに絡まれていた。

 途中、青年の瞳にベイビーの姿が写る。彼は自覚もなしにその個体の右目を確認する。なにも特徴がないことを確かめて視線を戻した。

 街道を左手に曲がり、薬局の横を通る。タバコを灰皿で押しつぶし、大きく白い煙を吐き出した。ダニエル、あの子は右目の下にほくろのようなこぶがついていた。パンをなげつけても食べようとせず、ひたすらがれきで遊んでいるダニエル。石を積み重ねて遊んでいたこともあった。彼は紫煙のスクリーンに愛すべく赤子の姿を投影し、自嘲気味にほほえんだ。

 青年はダニエルと友情を結ぶ光景を妄想してきた。話し合い、理解できる日が来ることを期待した。だが、それは空虚な片思いに過ぎなかった。

 もう一度角を曲がる。後部座席のぶっそうなものが揺れた。鉄の体にオイルの血液が流れ、不吉で不気味な高い金切り声をあげるぶっそうなものが。その隣にもまた更なるぶっそうな彼の息子が寝ている。一度火がつくと止まらず、それでいて限界を超えると無におちつくあれが。

 早く終わらせたいという焦燥感と、前の世界に戻れるという希望が胸中ではねあい、青年は落ち着けなかった。

 スーパーボールのような二つの感情に哀れみと恐れを感じて彼は目を逸らした。何をはしゃいでいられる? うまくいくとは限らない。期待しすぎるな! 彼はそう自分を叱りつける。二つの球体に影が落ちている事には目がいかない。

 道の先には緑を背景にキャンディのようにカラフルなものが並んでいるのが見えた。赤、青、銀。色とりどりの車が並列され、その隣にはガソリンが入ったドラムが置かれている。距離をとって車を止め、鉄の体をしたぶっそうなものをとりだした。

 彼はチェーンソーを手にして、左右を車ではさまれた道をふらふらと歩いていく。群衆に挟まれ死刑台へと向かう絶望した死刑囚か? それとも従者に囲まれ玉座へ向かう病弱した支配者か? どちらにも見える。そんな足取りだった。

 青年は三つの視線から逃れるように足を進める。壁についても焦点の合わない瞳で壁を見つめたまま動かない。焦りはただ手を震わすだけで、息を荒くするだけで、行動を促してはくれなかった。

 彼はふと甲子園の予選で完敗したことを思い出した。青年のミスで負けたわけではない。ただ圧倒的な力に押しつぶされ、ぺしゃんこにされただけの話だ。

 奇妙な音がなり響く。鎖の一つ一つが追いかけっこを始め出した。青年はそれを壁へとつっこむ。鈍い音がうなり続ける。無機質な内壁はじょじょに削られ、生臭い臭気が広がる。青年の嗅覚はうつろだった。一面緑がかったこの世界もモノクロに見えているのかもしれない。

 削りかすが飛びちる。青年の心は黄色い日差しの下、球場にいた。回ってきた打席、バットがその役目を果たすことすらなかった。今まで何度素振りをしたことだろう? マメを潰し、青春の時間を削り、垂れ流した汗と混じった努力というエキスは血液より濃いように思えた。でも、だからといってなんだ。まったく、徒労にすぎなかった! だが……今回は! 彼は胸中で吠える。

 握る手に力が入る。壁の内部へと鎖を押し進む。甲高い不快な音を立てる。彼の苛立ちはそのまま鎖に注がれる。

 ブチンッ。チェーンが切れてしまった。青年はしばらく身動きせず、そしてはっと目を開いた。ここはどこだ? ああそうだ。どうして俺は夏の試合を思い出した? 知ったことではない! 鼻息を荒くし、歯をきしませる。行きのおぼつかないとした足取りとは逆に力強く車へ向かい、後部座席からもう一つのぶっそうなもの、彼が生み出した息子へ手を延ばした。

 くそったれをこれでどうにかする! 俺をこんな目に合わせたやつをぶっ壊してやる! ああ、そうだ! これですべて解決だ! 彼は振り返り、後ろにそりたつ巨大な柱を睨みつけた。

 青年は前へ向き直り、あれを手に取ると不思議そうに首をかしげた。ひもがのびた紙製の筒。いったいなんだろう? なぜ俺はこんなものをつかんでいるのか? ああ、そうか。これは、これは。なぜ俺の子を忘れてしまったんだろう。図書館で資料を、研究所から材料をかき集めて出来たこの子のことを。

 青年の胸ではさらに感情が跳ね回る。脈が早くなる。その一方で頭はもやがかかったようにぼやけている。彼は壊れたおもちゃのように笑いながら叫んだ。

「誰かいるなら出てきてくれ! はやく出てこい! 俺は壊すぞ! 爆発だ!」

 想いがあふれ、吐き出された。しゃがれた声は終わりかけたセミのうめき声ようにかすかだった。何を口にしたのか分らなかった。

 そう、胸の中は黒いものに浸されている。焦燥感も、希望も、飛び跳ねてはいない。それらの影は巨大な黒い沼となり、持ち主を沈ませる。不安というぬかるみに包まれた二つの感情はもがきつづける。

 青年は駆け足で壁に向かい、チェーンソーで作った穴にダイナマイトをつっこむ。車に戻り、役目を果たそうとうずうずしている息子たちを抱え、所定の位置に落ちつけた。青年はどんどんと狭くなり続ける視野のまま、全ての前準備をし終えた。

「……これですべてうまくいく。すべて。すべて」

 青年はボソッとつぶやいた。異様に感情が乗った重い言葉だった。彼が日記に書いたような未来へ進むような明るい響きはそこにない。今の彼は大事な人を守るために脅迫され、罪を犯そうとしている男とよく似ていた。

 

 ダイナマイトを作れる高校生が日本にどれだけいるだろう? 材料に何が必要なのか? ニトログリセリン? どこから手に入れれば良い? もし理屈を知っていても自ら作ることとは別である。そもそも作っても用途すらない。

 青年はあの壁を壊すためにいろいろなことを思索した。一ヶ月前から図書館で爆発物などの専門的な書籍を漁るようになっていた。この計画はずっと妄想じみていたが、一週間前から意欲がわきたち、いつの間にか彼の中で義務に変わっていた。

 四日前には書籍を持ち帰り、電池式のランプを明かりに寝ずに勉強を続けた。青年は理科そのものが苦手であり、それらの仕組みを理解するためには基礎の基礎から学ぶ必要があった。

 彼は頭がパンクするほどに爆発物関連の知識をつめこみ、研究所から材料を集め、たった四日間で目当てのものを完成させた。彼は死ぬ気で努力して、ぶっそうな息子を生み出した。青年は子供たちに成果を望む。

 

 あの青年は緑の壁から離れたビルの屋上にいた。敵を視察する兵士のように腹を下にして寝転んでいる。その左には望遠鏡、右にはウィスキーのボトルがおかれている。また眼前にはダンボールでつくられた四角い箱があった。息子たちと親をへその緒のようにつないでいる。

「おーい! 誰か居ないのか? 爆発させるんだ。近くにいたら危い! 嘘じゃないぞ!」

 数日前から付近の確認は念入りにやっていた。当然、彼の訴えに返事はない。

 青年は踏ん切りがつかないようだった。昨晩日記を書きながら実感していたはずだ。孤独から逃れるにはこの壁を壊すしかないことを。それに彼は自分の命に危機がせまるとは全く考えていない。なぜ行動しないのだろう。

 ただただ時が流れた。朝に家を出たはずなのに太陽は柱の真上に佇んでいる。祝杯のために持参したアルコールはぬるくなる一方だった。もうそろそろ真昼という名前が似合う頃合いだ。

 彼は膜越しに輝く太陽を目にして、ぼろ負けした試合を思いだした。大きく首をふり、酒瓶に口を付け一度に胃まで流し込んだ。喉が焼けるように熱を持つ。彼は進む事に義務感を抱き、目を見開く。

 スイッチを押した。子供の工作のようなそれの中で電極と電極が作用し火花を散らす。導線へと灯火を伝える。

 胸には不安があった。出られないことへの不安ではなく、あの試合で味わった負の感情が再来することを恐れた。彼はそれをアルコールで分解してやろうと乱雑に酒瓶を手に取る。

 彼はまた酒を喉へぶつけ、息を切らし、絶望した目で息子たちとへその緒のようにつながっている導線の先を追い続けた。導線は灰に変わり続けその役目を終えて行く。解放は近かった。灯火がとうとう息子に届く……。

 

 視界が白く染まる。鼓膜が破れんばかりの震えが届く。

 

 まばゆい閃光があたりをうめつくした。けたたましい子供たちの産声は緑をすべて追い払い、世界は白く、無に帰る。ただ一瞬だけ。

 息子たちの命は潰えた。青年は目を閉じたまま爆発の余韻に浸っていた。俺は勉強などまるっきり苦手だったが、それでも努力すればこんな、圧倒的な力を手に入れられた。そう! 努力が無駄になることなんてないんだ! 心の中で叫ぶ。

 彼は立ち上がり、ゆっくりとまぶたをあげていく。クリスマスの朝、プレゼントに胸を躍らせる子供のように期待に瞳を輝かせる。門は開き、彼は孤独から逃げることができるのだろうか? そしてその外にいる家族や友人たちによって病んだ心は癒されるのだろうか? 

 黒い瞳はいまだ光に包まれていた。ぼやけた視界は彼に昔教会で見た天国の絵を思い出させた。天使が飛び回り、皆に幸せを分け与えている。やっと、救いがくる。

「あっ、ああ……」

 プラスチックを燃やした時の様な不快な臭いが鼻から入る。どす黒い煙があがっている。しかし爆発から生まれガソリンによって育てられるはずだった炎はもう収まりかけていた。

 炎の元へ天使が素早く飛び込んでいく。天使、赤子より幼い胎児のような天使たち。青年がベイビーと名づけた数十もの群れが激流の川を思わせるほどに勢いよく業火の元へ押し寄せる。脇目も振らず一直線に炎に体当たりをしている。

 彼らの体は燃えて黒くなり、しばらくすると水風船のように破裂した。ゼリー状の肉片は火を弱めた。いくつものベイビーが炎の内に消えていく。死への恐怖も、燃焼への痛感も感じさせず平然と。

 青年が目をつむり目にしなかった爆発もベイビーの体によって防がれた。付近にいた数十体の彼らがスクラムを組み爆風を押さえ込んだ。炎も彼らが身をはって消火した。だが爆発を全て防ぎ切ったわけではないようだ。壁には縦横に三メートルほどの大きなくぼみができている。

 望遠鏡からのぞこうと爆発の成果は分からない。彼はじれったさのあまり屋上の柵をなぐりつける。壁は打ち破れているのだろうか? 慎重になれと自分に言い聞かせる。数十分は様子をみる予定だった。

 一分もせずにその予定は崩れた。青年は口を開けて驚きをあらわにした。さらなる異様な光景が視界に入る。ベイビーが黒く焦げた壁に体をよりかけていた。半透明の肉体は淡く光を発し、ゆるやかに溶けてジェル状に変わり、壁に浸透し傷をいやした。残った十数体ベイビーも身を捧げ修復してゆく。

 それに加え三、四十体ものベイビーが水中を泳ぐアシカのように空を飛び、爆発でできたくぼみに向かって行くのが目に入る。ベイビーは自分の体を材料に壁を治すことができる。青年はそれを察し、大急ぎで階段へ向かう。

 慎重? そんなのくそくらえ! 彼は階段を下りながらそう毒づいた。途中段を踏み外しかけた。昔は従順だった身体がいうことを聞かないことに苛立ち、自分のももを拳で殴りつける。

 やっと階段を降りた。三百メートルほど先にトンネルのように穴ができている。焦げて黒くなった壁と暗闇とが混ざり合い、先は見えない。ベイビーの集団が吸い込まれるように壁の内部に取り込まれていく。

 ちくしょう! 俺の邪魔をしやがって! 車で走り出す時間も無駄に思えて、青年は後部座席からバットだけとりだして駆け出す。ベイビーたちを追い払おうと考えたのだろう。青年の後ろからもいくつかの個体が浮遊しくぼみへ向かっている。泳ぐようなその飛行は鳥のように早く、瞬く間に青年を追い越していく。

 息が切れる。タバコのせいで、酒のせいで、怠慢な生活のせいだ。視界がぼやけ、足取りがおぼつかなくなる。それでも走り続ける。目の前で壁の修理が進みつづける。彼の努力が全て無に帰ってしまうかもしれない。

 やっと片足が洞窟に踏み込むいう瞬間、一匹のベイビーに追い抜かれた。彼の左側を通った個体の瞳の下には、大きな黒い腫瘍があった。

 その個体と並んでいる一瞬が途方もなく長く感じた。ベイビーは何の表情も見せず、いつものように透明の身体に赤い種を浮かべている。小さな四本指の手も、他の個体より少しでかい頭もいつも通りだ。右目のしたにはふきでもの、いやほくろがある。ゆっくり流れる時間は否応なくにも彼にその個体をダニエルとして認識させた。そうしてダニエルは彼を追い越した。

 ダニエルは壁に寄りかかる。やめろ! やめろ! そんな壁を直してどうなる!? やめろ!! 彼の叫びは届かない。もとより喉から出てもいないのかもしれない。

 ダニエルと呼ばれた個体は淡く光り、身体をとかし、壁と一体化した。青年の中で支えになっていたものも同時に壊れる。

「うぉおおおおおおおおおっ!」

 青年は吠え、壁にできた暗闇へと駈けた。緑の世界での安らぎは今失われた。もうこの生活に妥協することもできなくなるだろう。一度は親友と夢見た相手、ドームの中での希望ある生活を自分で消滅させた。夢は崩れた。

 彼はここから出なければならない。その義務が彼を動かす。

 彼の頬に影がさす。奥にはかない光が見えた。それは黄金色をしていた。闇は距離感を失わさせ、灯りまでの距離をごまかす。青年は異臭する煙に包まれ、黒い泥を踏みつけ、光に手を延ばしながら走った。胸も横腹も槍が刺さったように痛む。それでも足取りは止められない。右手はきつくバットを握りしめていた。

 彼の身体は急に倒れた。ロープのようなものが足にからみついている。ふり返るとベイビーが背後で迫っていた。その口から出た巨大なみみずのような触手が彼の足にまきついていた。

 必死に足を動かそうとふりほどけず、つかむ力は強く前に進めなかった。そうこうしているうちに他のベイビーが前進し壁を修復していく。

「ちくしょうが!」

 青年は迷わずバットで触手をひきちぎる。体液が飛び散り、ちぎれた先の触手は弾けて液状に変わる。青年の頭にはただ一つのことしかなかった。もっと光を! 緑に染まっていない黄色い光を浴びたい! すぐに立ち上がり、灯りの元へと足を踏み出した。

 光は先ほどより小さく見えた。彼の想いは空回りし、足はそれ以上進まなかった。

「くそっ、くそっ、邪魔するな!」

 彼の手も足も身体も数十の触手が束縛していた。四、五体のベイビーが口から触手をだして彼を捉えている。青年は前後左右を取り囲まれて動ける状態ではなくなっていた。希望の光もベイビーの頭を透かしてでないと見えさえしない。

 光りがすべてだった。彼は目を深くつむり、喉をならした。

 再びあの試合が彼の思考に侵食し始める。なぜいま? 関係ないだろう! なぜそんな場面をみせる! 彼は勢いよく目を見開き、全てを断ち切ることを決意する。

 その眼は獣の様だった。彼は巨大なみみずに巻きつかれた右手に全ての力を集中させて振り上げる。手にはバットが、彼が野球に使い続けてきた相棒が握りしめられている。それは下ろされた。ベイビーの脳天に。

《ウィフィィフィフィィィィィー》

 あたまがひしゃげたベイビーはテープを早送りした時を思わせる奇声を上げる。凹んだピンポン球のような頭はすぐに元どおりになった。青年を縛る触手の力はまるで変わらない。青年は冷たい瞳でそれを確認し、第二撃を放つ。彼らの胸の内にある赤い種を目指して。

『ヒット!』

 あたまの中で審判の声が響いた。ああ、そうだ! 簡単なことだ。やつらをぶちのめすことなんて。やつらなんて、たいしたことない。やろうと思えばできるんだ! 彼の頭の中ではこの視界とあの試合とが混ざり合っている。

 ベイビーは破裂した。飛び跳ねた体液が彼のほおにこびりつく。青年はそのまま二体、三体と蹴散らした。彼は早く光をあびたかった。もう少し進めればそれも可能に思えた。だが、また彼らの邪魔が入る。今度は先ほどの数倍もの触手が……。

『ファール! ファール!』

 右手に迫ったそれへバットを振り回す。触手を力の限り引きちぎる。七本の触手を処理するとベイビーたちもとうとう後退しはじめた。やった! ざまあみろ! 彼は胸の内でそう叫び前に向きなおった。その瞬間、ベイビーそのものが彼に体当たりをした。タールの様な粘着質の黒い水たまりに顔がつかる。

 ベイビーにのしかかられ立ち上がれない。倒れた姿勢のままバットを振るう。ベイビーの肉がえぐれる。それでも彼らは無表情のまま青年を地面に押しつける。赤い種にはどうしても当たらなかった。バットに目標の一部が当たろうと、それはただ疲れるだけで、目的になんの貢献もしなかった。

 大量の触手にまきつかれバットを持つ手は外気とふれてさえいなかった。十数ものベイビーがのしかかる。灯火を視界にいれようと彼は必死に顔をあげた。

 上から押しつぶされ、手足は血液が巡らないほどに締め付けられても、歯を食い縛り、眼を血走らせ、光を捉えようとやっきになった。それは彼の希望と努力の象徴だったから。

 息をすることもままならず視界はぼやけていった。セミがわめきはじめた。地面は泥ではなく乾いた土にかわっていた。彼は両手でバットを握り、白線で囲われた中に立ち、球を投げようとしているピッチャーを睨みつけている。

 蜃気楼のようにうつろな投手、互いの距離がよくわからない。無表情で感情が読めず、仮面のような顔をしている。

 ボールが投げられた。彼はその速度についていけず、ただ呆然として見送った。早い。圧倒的に早い。手も出せないほどの早さ。

『ストライク!』

 審判の声が聞こえる。球場は静かで歓声は聞こえない。

 ボールが放たれた。甘い球に見える。必死にふった。捉えた! そう思った瞬間球は視界から消え、気づくとキャッチャーのミットに収まっていた。

『ストライク!』

 審判の声は先ほどと一緒。変わらずに響いている。

 どういう回転をかけたのだろう? どういう軌道を描いたのだろう? 青年には予想すらできない。バッティングの練習は死ぬほどしてきた。小学生低学年からチームに入り、時には四番打者だって任された。ずっと続けてきた。それなのに、まったく相手の動きを予期すらできないなんてどういうことだ。

 彼の頭は真っ白になった。

『ファール! ファール!』

 先ほど聞こえた審判の声が頭に響く。本当はそんな風に粘れる実力なんて俺にはなかった。

『ヒット!』

 もしそうなれば歓声が湧き上がり皆が俺に注目しただろう。そして俺は自分の努力に対して充実感を得て、自信を持つことができただろう。だが、実際は……

『ストライク!』

 俺のバットは球にふれることもできずに試合が終わった。そのせいで負けたわけじゃない。だが俺個人がこれからどれだけ上達していようとしあのチームには勝てないし、ああいうチームでレギュラーにはなれない。まだ、俺が試合の鍵になっていたなら後悔も努力もしようがある。でも、知ってしまった。圧倒的な力の前には、俺個人の努力なんて意味がない。それが現実だ。

 青年は黒い瞳で今を捉えた。トンネルには暗闇のみが広がっている。最後の希望は絶望に変わる。彼は抵抗することをやめた。ベイビーたちに押しつぶされるままを受け入れる。

『アウト!』

 頭の中でそう響いた気がした。

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