暗い空
そうして俺はぐんぐんと道を進みだした。
するととある公園に着く。 その公園には時計があり、そこから学校までは20分かかる。
つまり学校が始まる8時半に間に合うにはその時点で8時くらいであれば充分だ。 しかし現実はそう甘くなかった。 後ろには愉快な鼻歌を歌う少女がいる。
時刻はすでに20分を回っていた。
「おい、お前どうして名前なんか忘れちまってるんだ」
俺は少女に話しかけた。 諦めの境地だ、一日くらい遅刻でも卒業するに当たってさほど問題はあるまい。
一方、少女は自分の世界に横槍を入れられご立腹のようだ。 少しくらいは自責の念を感じてもらいたいものだな、まったく。
「急がなくてもいいの? さっきまでは鬼のような形相でこっちに見向きもしなかったのに」
もう間に合わなくなったんだよ、主にお前のせいでな。
「ふーんまあいいけど。 名前はね、自分で忘れたんじゃないかな」
お前は何を言ってるんだ、馬鹿なのか。 いや、馬鹿だな。 あんまりおかしなこと言ってるとお前を学会に売り飛ばして金に変えるぞ。
「別に変なことじゃないよ。 結構人気がある願い事なんだ」
願うだけで自分の名前が忘れられるとは興味深いな。 メリットがあるとは思えないが。
「お前はどうして自分の名前を忘れようとしたんだ」
「それはそのときの私に聞いてよ。 それにね忘れたのは名前だけじゃない、今の私が覚えているのはこの私を作り上げたひとつのお話だけなんだ」
「今日は向かい風がキツいな」
またそうやって無視する、と少女がごねている。 しかし許してくれ。 俺は朝からそんな与太話に付き合ってられるほど暇じゃないんだ。
……嘘ではないな。
なぜかそう感じた。 時間があるときに聞いてみるか。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「お前の姿って他の奴らには見えてないのか?」
「……だと思ったよ」
どうりでさっきから周りの視線が痛いわけだ。 いや、どっちかといえば俺のほうが痛いのか。 恥ずかしい。 さっき俺をじろじろ見てたやつは何を思っただろうか。 精神病患者かな、身障だとか言われてた気がする。
学校にも行かず遊んでる奴らには言われたくないがな。
目の前、聳え立つのは天国への道か。 ここを超えれば今日を乗り越えたも同然だな。
いや、遅刻だからまだまだ今日の山場は残っているか。 気が重くなった。
今俺の前に立ちはだかっているのは坂である。 辛く厳しい坂である。
少し前にこの坂を必死こいて上っていると、涼しい顔したじいさんに追い抜かれたことがある。 そんな馬鹿な、と思ったがなんてことはなかった。 電動自転車だったからな。 文明の機器はすばらしい。
しかし俺は一般の学生であるわけで、通学用の自転車が電動なんてことはもちろんなく、毎日毎朝汗水鼻水たらしてここを踏破しているのだ。
しかも今日は後ろに幽霊がいる。 幽霊なら問題あるまいと思ったそこのお前、なんとなこの幽霊には質量があるんだ。 迷惑な話だろ?
いやしかし、さっき俺の首を絞めれたのだから質量はあってしかるべきなのか。
「……遅い。 風を感じられないんだけど」
うるさいな、てかそのくだり引っ張ってんじゃねぇよ。 忘れてください、頼むから。
てっぺんが見えてきた。 ここら辺から俺の脚は自分でも驚くほど軽くなる。 心の安堵が俺に力を与えてくれるのだろう。
そして、上りきる。 いつもの数倍キツかったが今日もここを乗り越えることができた。
しかし、ここも辛い。 上りきってから少しの間、俺の脚はほとんど動かなくなる。 遅すぎて自分がイライラするほどにな。
空は少し、暗くなっていた。
「遅い、遅い、遅いよ」
ホントにうるさい。 ここでいつもの俺なら調子乗りやがってだとか、くたばれだとか言うんだがな。
珍しいこともあるもんだ。
このときは……不思議と何も、思わなかった。