鉛色の空の下
かろうじて意識を保っている俺だが、このままではすぐに限界が来るであろう。
この少女、見かけとは裏腹にかなりの力だな……
この状況でここまで頭が回るのは我ながら凄いなと、自分でも思うんだがどうだろう。
いや、その前に状況説明をしなければならないか。
俺は嫌々ながらも自転車に乗り目的地を目指していた。 何より面倒くさいことは、その途中にある坂を上らねばならんことなのだが……まあ、それはいいだろう。
そして家を出てまだ二、三分しか経っていないだろうって時にそいつは現れた。
もう少し時間をくれれば、とは考えない。 いくら時間を貰っても心の準備などできるはずがなかったからな。
背が低い、中学生くらいだろうか。 黒く長い髪、少し青っぽい眼の色だ。 真っ白い肌に真っ白な服、その服はやたらと薄く、あれは死神のコスプレかなんかか?などと思案にくれていたから気付かなかったのだろうな。
目の前の少女が俺に向かって飛んできていることに。
そして気付いたときには、俺の首はその華奢な腕によって絞められていた。 はい、回想終了。
冗談じゃないね、と思った。 こんなところで死にたくなんか無い。
そう思い俺は必死で彼女を引き剥がし始めた。
しかし俺の腕力ではこの少女に勝つことは出来ないようだ。 普段なら軽くショックを受けているだろうが、今はそれすらも気にしている余裕はない。 腕力が強いどころか全力で殴っても痛がるそぶりすら見せない、こいつはいったい何なんだよ。 誰か原稿用紙一枚分くらいで説明してくれ。
そうこうしてるうちに俺の意識はもうすでにとびかけていた。
俺は親不孝なやつだな、まだろくに恩返しもしてないぜ……そういえば、結局一度も女の子と深い付き合いになることはなかったな。 女を知らずして生涯を終えるのか、俺は。
あぁ、もう俺の人生も終わりだ。 最後にこの少女の発展途上のかわいらしい球体を堪能しても、天が俺に裁きを下すことは無いであろう。
この子は俺の命をとっていく、ならばそのくらいの福利はあってしかるべきだよな?
そう考え、ほぼ無意識のうちに俺の手は、少女のさくらんぼへと伸びていった。
うん、やわらかい。
「ごほっ……!」
すると少女はビックリしたのかその手を首から離した。 結果オーライってやつだ。 このときばかりは、何も知らずにほぼ女の子のいない学校に入り、いろいろと持て余していた俺を手放しで褒めてやりたい。
「っ……!」
少女は信じられないといった顔で俺のことを見つめている。 しかし俺の行動は、健全な高校男児としては至極真っ当なものだと思うし、そうでないにしても、いきなり道端で知らない男を殺そうとするお前よりは常識的だと思うね。
しかしまた殺されそうになっても困るので、俺は矢継ぎ早に質問した。
「お前はなんだ。 どうして俺を殺そうとする。 名前はなんだ」
本来聞きたかったのは二つ目の問いだけである。
俺もかなり切羽詰っていたのであろう。
お前はなんだ、そんなの人間に決まっているし。 名前なんぞ教えてもらわなくたって構わない。
「私は幽霊」
はて、この子は何を言っておられるのか。 俺には理解できないが。
「そこにあなたがいたから」
ん、この子は律儀に質問に答えてくれているようだ。 となると今のはどうして俺を殺そうとするかへの解になるのだが、ちっとそれは理不尽過ぎないだろうか。
俺はお前にあったこともないんだぞ。 訳が分からない、訳わかめだ。
「名前は……忘れちゃった」
決まりだこの子は電波だ。 困ったもんだな。
……そう思うことだってできた。 この子はたまたま格闘技でもやっていて、道端で遭遇した男子高校生を殺しにかかってしまう困った子なんだろ。 そう思えればどれだけ心が楽だったか。
この子は自分のことを幽霊だと語る痛い子ってことで話がつく。 だがそうすることは出来ない。 なぜなら俺は見てしまっていたからだ、
……この子が空を飛んでいたところを。
これでは一概に嘘だと決め付けることも出来ない。 困ったこれは困った。 どうして俺は幽霊なんぞに絡まれているんだ。
この子は悪魔に魂狩りでも命令されているのか? いや、こいつが悪魔か。
「お前は、本当に幽霊ってことでいいんだな?」
「そうだよ」
そうらしい、随分と素直なこった。
「俺に恨みでもあるのか」
「別に私はあなた個人に負の感情を抱いたりしてないよ?」
でも、と少女は続ける。
「あなたみたいに幸せそうな人を見てると、少し嫉妬しちゃうんだ」
おいおい、俺はかなり残念な顔をして登校していたと思うぞ。 なんたって向かう先は地獄なんだからな。
「私はね、そういう普通の日常を過ごしてるだけで幸せだと感じるんだよ」
ならお前はすれ違ったやつ全員を殺害していくんだな。 だれもが普通の日常を過ごしているだろうよ。
「そう、それがたまたまあなただっただけ」
「生きている間に嫌なことでもあったのか」
「嫌なこともあったし、いいこともあったよ」
それが普通だろう、そう突っ込みを入れたくなった。
しかしさっきまでは俺を殺そうとしていたのに今では随分と普通だな。 衝動的な犯行でしたってか。
「お前、風を感じたことがあるか?」
少女は頭にハテナマークを浮かべている。 当然だ、俺も何が言いたかったか分からん。
「って、やばいッ! 学校のこと忘れてたッ」
そう叫ぶと俺は少女を抱きかかえる。 もしかしたら誘拐かもしれんな。
なーに通報されない自信があったのさ。 なんたってコイツは幽霊だ。
ポリスにすがる幽霊なんて、拍子抜けだろう?
俺はそのまま少女を自転車の荷台に乗せた。
「どうせ行くとこないんだろ。 風を感じさせてやるから、頭冷やして落ち着けよ」
冗談めかして俺はそう言った。 さっきのフォローだ。
少女は少し困惑していたがすぐに微笑んだ。 その微笑みはいたずらが成功した子供のような笑みだった。
俺は脚を回しだした。 普通だからと皆は気にしていないだろうが、ひたすらに脚だけ回しているこの姿、かなり滑稽なんじゃないだろうかと俺は思っている。
「38…目……」
少女は何かを囁いたようだったが、全力で風を切ってペダルをこぐ俺の耳には届かなかった。
この時、吹き抜ける風が異様に冷たく感じた。