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『脱出』

「あ、今日は白いのは控えさせておくれ」


クー食堂に顔を出したネフェルにマロワが言った。

漁の翌日でもないのに、今日はカウンターの隅に女が1人座っている。

血のように赤い髪の若い女。


「……ガルーダ」


ネフェルの一声でガルーダはもと来た方向へと走り去った。

ネフェルはカウンターの、赤毛の女とは逆の隅に席をとった。


「長の邸宅で何かあったのかい?」


ネフェルのわずかな表情の色を見、心配げにマロワが問い掛ける。


「……ちょっとね」


それ以上、ネフェルは何も語らなかった。


「……スープでもどうだい?」


「ありがとう」


マロワの言葉に、ネフェルが答えた。

いつものように、マロワはネフェルに1枚のスープ皿を差し出した。

いつもより少し大きい采の目の具。

ネフェルは匙でスープをすくい、一口含んだ。

マロワが止めようと手をさしのべるより早く、冷たい床の上にネフェルの体が崩れ落ちる。


「――ご苦労様」


ネフェルを抱き起こそうとしたマロワの肩に、赤毛の女が右手を置いた。


「ネフェル、ネフェルは……」


「安心しな。この獣士にはやってもらいたい事があるからね。ここでは殺さない」


ネフェルを背に負い、赤毛の女はこう続ける。


「我々の事も、ここであった事も、この獣士の事もさっさと忘れな。あんたの本当の娘を無事に返して欲しくばな」




長の邸宅の最下層――通称『井戸部屋』。

巨大な井戸があり、邸宅で用いる水は全てそこでまかなわれている。

洗濯用のたらいや水を運ぶ容器、水を汲み置く大小の樽などが天井近くまで所狭しと重ねられた、水の匂いの満ちる部屋。


夕暮れ、その井戸部屋にユダが現れた。

背には大きな麻袋を担いでいる。


「……遅かったな」


井戸の側には赤毛の男。


「こっちにも都合ってもんがあるんだぜ」


対するユダはそう言って、赤毛の男――ナイツの目前に持ってきた袋を静かに下ろした。


「中身を確認させてくれ」


「勝手にしろ」


ユダの了承を得、ナイツは袋の口を大きく開いた。

両手を拘束され、目隠しされた上で猿ぐつわをかまされた少女がいた。


「確かにアマルナのラニーだ」


筋肉の衰えた少女の足。

ただそれだけを確認し、ナイツは大きく頷いて言った。


「後は手筈どおりに……。せいぜい頑張ってアマルナ一の獣士を目指すがいい」




カウンターで俯くマロワ。

その目前に、気を失ったままのマージと彼女をここまで運んできたとおぼしき純白の虎が突如として現れた。


「マージ!」


瞬間移動という不可思議な現象に怯む事なく、マロワは一路娘へと走った。


「マージ、マージ!」


「薬で眠らされているだけだ。手荒なマネはされていない。安心しろ」


取り乱すマロワにそう言ったのは虎。


「とっ、虎がっ……虎が喋った!」


驚くマロワの目前で、更に驚きの事態が展開される。

ホワイトタイガーが長身の美丈夫へと姿を変えた。


「怪しい者ではない」


と言われても、この状況ではあまりにも説得力を伴わない。

現にマロワは娘を抱え、そろそろ裏口へと退き始めた。


「私の名はガルーダ」


美丈夫が名乗る。


「ガルーダ?」


聞き覚えのある名前。

数秒後、マロワはポンと手を打った。


「ネフェルのビーストだ!」


「当たりだ」


そう言って美丈夫――ガルーダが右手を上げる。

次の瞬間、マロワは娘と共に見知らぬ通りに立っていた。

強い潮の香りが立ち込める場所。


「ここは大陸最南端、海洋の漁と樹海の果実で生きる名もなきポリスだ。他の大陸から流れ着いた者たちや、ポリスを戦で失った者たちが暮らしている。女が2人居ついた所で、うるさく咎める人間はいない」


とガルーダが言った。


「……アマルナは、どうなるんだい?」


ガルーダの言葉から何かを悟ったらしい。

恐る恐るマロワがたずねた。

それに対する答えを、ガルーダが口にする事はなかった。


「ネフェルは――」


うわ言の様にマロワが呟く。


「ネフェルは一体どうなったんだい? 私、あの子に酷い事を……」


「ネフェルも私も気づいていた。不自然な点がいくつかあったからな」


とガルーダは言った。


「それじゃあ、あの子は知っててあのスープを?」


「ああ。おまえたちを助ける為、ネフェルに取れた最良の行動だった」


「なんて馬鹿な子だよ!」


マロワは叫んだ。


「所詮他人だと、切り捨てちまう事もできただろうに……!」


マロワの頬を涙が伝った。






最初にそれを見つけたのは邸宅の門番だった。


「ラジャ様!」


急いで駆け込む兵士が1人。


「何事だ」


公務の最中、ラジャはわずかに視線を送った。


「大変です。ネフェル殿がラニー様を――」


邸宅を囲む人工堀。

その水面に浮かぶ2つの人影。

気を失っているとおぼしき桃色の服を着た黒髪の人物。

それを横抱きにして泳ぐ白いハイネックの後ろ姿。


「ラニー様がどこにもいらっしゃらない!」


侍女たちが騒ぎ始めた。


「ネフェル殿もだ。ティティ家にも戻ってないらしいぞ」


そんな声も聞こえてくる。

そうなると誰もが強くこう信じた。

堀の2人はネフェルとラニーであると。


邸宅中の人間が人影の泳ぐ水面を思い思いの場所から見物していた。


「ネフェル、何をしている! ラニーをどうするつもりだ!」


一番近い窓から、ラジャが人影に向かって声を荒げる。

次の瞬間、2つの頭が水中に消えた。


「ラニー!」


半狂乱のラジャ。


「妹が、ラニーが溺れた! 誰か潜ってラニーを助けよ!」


泳ぎに自信のある兵士たちが行動を起こそうとした、まさにその時――


「地下水脈だ」


そう言って現れたのはユダだった。


「地下水脈だと?」


何の事だと言わんばかりのラジャ。


「そうか!」


ユダの目論見通り、頭の回転の速い兵士がそれに気づいた。


「ラジャ様、ラニー様は溺れたのではなく、地下水脈を使って連れ去られたのです!」




「う……」


わずかに声を上げ、ネフェルは目覚めた。

どうやら樹海にいるらしい。周りの風景でその事実を把握した。


「……気がついたみたいだね」


目前に女の顔が現れる。

長い銀髪の女。


「……誰?」


目を細め、問い掛けるネフェル。


「こうしたら分かるかい?」


そう言って女は銀色の髪に手をかけた。

銀の毛髪が落ち、本人の髪が現れる。血の色の赤――。


「おまえは――!」


完全に思い出した。

クー食堂にいた女だ。

女を捕らえようとして、ネフェルは気づく。

手と足に麻紐の束縛。

体の自由が奪われていた。そして――


「これはラニー様の衣装」


「そう、それで私がおまえの服」


楽しげに笑う女。

そして続ける。


「今頃おまえはお尋ね者だよ。なんたって長の妹をかどわかしたんだから」


「その通りだ」


聞き覚えのある声が辺りに響いた。


「ユダ!」


女の肩越し、自分を見下ろす男の名を、ネフェルは思わず口にした。


「デイズ」


どこからともなく赤毛の男が現れる。


「我々の役目は終わった。引き上げよう」


「そうだな」


と赤毛の女も素直に頷く。


「アマルナの獣士、あなた方の御協力に感謝する」


赤毛の男――ナイツが丁寧に頭を下げた。


「もうその女獣士は用なしだ。後はあんたの好きにしな」


赤毛の女――デイズがユダを唆す。


「ああ、好きにさせてもらうさ」


そう言ってユダはにやりと笑った。





その日の夜更け――。

アマルナの周囲、樹海が一斉に朱色に染まった。


「敵襲だ!」


見張りの兵士が大声で叫んだ。

次の瞬間、彼の頭部が地面に転がる。

樹海から飛び込んできた黒豹の牙と、豹を操る獣士の剣によって――。




「女とは本来こうあるもんだぜ」


ネフェルを見下ろし、ユダは言った。


「ラニー様のように美しく着飾り、強い男に抱かれるのが似合いだ。こんな風にな」


「やめろっ!」


そう言ってネフェルは首筋にかかるユダの吐息を拒絶した。


「あ……っ!」


ネフェルの表情が苦痛に歪む。


「この胸も、獣士には邪魔なだけだ」


ユダの右手がネフェルの胸元を弄んだ。

左手は内股に滑る。


「どう足掻いたって、おまえは女でしかないんだぜ。今からその事実をいやという程思い知らせてやる」


ユダの両手がネフェルの両足を左右に開いた。


「……愚かな奴だ」


「何!?」


ネフェルの言葉を、ユダは即座に聞き咎めた。


「そんな事をされなくても、自分が女である事はずっと昔から自覚している」


ネフェルは言った。


「おまえが自覚したいのだろう? おまえを脅かした私が女である事を」


ユダはネフェルを突き飛ばす。

手にした短剣を振り上げた。


ザクッ!


麻紐が切れた。

ネフェルの両手が解放される。

次の瞬間、ネフェルの目前に一振りのウィップと、短剣とが寄越された。


「決闘だ!」


ユダが叫んだ。







「ラジャ様、どうか貴方様だけでもお逃げ下さい」


物陰に潜み、辺りの様子を静かにうかがっていたルインはそう言ってラジャの背を強く押した。


井戸部屋から侵入して来た敵が、邸宅中を徘徊していた。

敵の姿が途絶えた今が恐らくは最後の機会かもしれない。


「いたぞ、アマルナの長だ!」


目敏い敵が押し寄せてくる。


「この場は僕と『プレアデス』に任せて、さぁ早く!」


気迫に押され、ラジャはコクリと頷いて走った。


コケーッ!


ラジャの後を追おうとする敵の前に、コカトリスの群れとルインとが立ちふさがる。


「……獣士を狙え」


位のある軍人だろうか、黒い鬚をたくわえた大男が冷静な判断を部下に下した。


ドズッ!


敵の引いた矢が、ルインの両足に深々と刺さった。

バランスを崩し、倒れるルイン。

途端に『プレアデス』全ての動きが止まった。


「何をしている!? 戦え!」


ルインは命じた。


「おまえたち、僕の命令が聞けないのか!?」


次の瞬間、『プレアデス』は一斉に振り返り――。







ネフェルは走った。燃え盛る樹海を、民が逃げ惑う通りを、敵で溢れる長の邸宅を。


「どけっ!」


次々に現れる敵に漆黒のウィップをくれてやる。


「ラジャ様! ラジャ様ーっ!」


ネフェルは探し、彷徨った。

そして見覚えのあるビーストたちと行き違う。


「……『プレアデス』?」


石化ガスを吐きながら、その鶏たちは思い思いの方向へと走り去っていった。

一切の統制がなされていない。


「ルイン!」


回廊の末に、変わり果てた姿でその男は発見された。

両足に矢、全身に切り傷――


「……だから言ったんだ」


そうとだけ呟き、ネフェルはそのまま先を急いだ。

石と化した獣士の遺体だけが寂しくその場に残っていた。






「そっちに逃げたぞ!」


無数の足音が追いかけてくる。


無我夢中で逃げるラジャ。

その手を誰かが強く引いた。

30代後半の、身なりの良い美しい女。


「そなたはネフェルの――」


「グランの妻、パートラでございます。さ、こちらへ」


パートラはラジャを戸口の中へと引き入れた。

敵の足音が過ぎるのを待って、ラジャはパートラの手を払った。


「ネフェルがラニーを連れ去った。敵を手引きしたのも恐らくネフェルだ」


憮然として言い放つ。


「だからそなたも信用できない」


ほほ、とパートラは静かに笑う。


「またそれは面妖な」


ラジャはパートラに向き直る。


「……何がおかしい」


「あれがラニー様を? 敵をこの国に? あり得ませんわ」


きっぱりと言い切るパートラ。


「なぜ言い切れる」


「ティティ家には男の子が産まれなかった。だからあれは女の身で獣士になった――貴方様もそうお思いでしょう? でも実は違う理由があったとしたら?」


「違う理由? 何だ、それは」


答えを求めるラジャ。

パートラは優雅な笑みを浮かべ、それを与えた。


「獣士になれば、貴方様をお守りできる、側にいる事が許される――」


一瞬の沈黙。


「……あれがネフェルだったか、思えば確認した者は誰もいない……」


その事実を思い出し、今まで冷静さを欠いていた事にラジャは気づいた。


「あーあ」


とパートラは大きなため息をついた。


「どうして女しか産めなかったんだろう――言っても仕方ないと分かっていたのに、どうしてあれにあたり続けたのかしらね」


「……お互い、心に余裕がなかったのだ」


「ええ、今更ながらそう思うわ」


ラジャとパートラは微笑みを交わした。


「確かにこの辺りに逃げたはずだ! 家の中まで隈なく捜せ!」


通りからそんな声が聞こえてきた。

この家に向かってくるいくつかの気配。


「……これまでか」


呟き、ラジャは天を仰いだ。その時――


「ぎゃーっ!」


「うわぁーっ!」


いくつもの悲鳴が表で上がった。


「ラジャ様ーっ!」


ネフェルの声。

ラジャとパートラは顔を見合わせ、扉を開けて外へと向かった。


「怯むな、相手は娘が1人だ!」


「動きが速くて手に負えん。こちらの獣士に……アレス様に応援を――」


朱色に燃える空気の中、数十人もの敵を相手にウィップを振るうネフェルの姿。


「ネフェル!」


ラジャがネフェルの名を叫ぶ。


「ラジャ様! 母様!」


2人の元へと駆けてくるネフェル。

その時、炎に包まれた家屋がネフェルたちの上へと燃え落ちてきた。


「……手間が省けたな」


「ああ、あれでは誰一人助からんさ」


敵たちは口々に言い合った。






「……閉じ込められたか」


「焼け死ぬのも時間の問題ね」


ラジャとパートラは口々に言った。


「……諦めるのはまだ早い」


そう言ったのはネフェルだった。


四方を炎で包まれた空間。

朱色の熱の中、ネフェルの瞳はある一点を捕らえていた。

その視線の先にはティティ家専用の井戸があった。


「ラジャ様」


すでに一番手のパートラが井戸に消え、二番手のラジャを見送る段になって、ネフェルは静かにこう言った。


「何があっても、必ず生きのびて下さい。ラジャ様は私にとって、ずっと『特別』な存在でした――」


「……過去形だな」


とラジャは笑った。


「私にとっておまえは2番目だったよ、ネフェル」


『2番目』という言葉は、『特別』よりもネフェルの心に優しく響いた。


「ラジャ様!」


ネフェルはラジャを井戸へと落とした。

間一髪で、焼けた梁がラジャがいた場所に直撃する。


「ネフェル!」


井戸から心配げなラジャの声。


「……大丈夫。さぁ、早く行って下さい。私も後に続きますから」


「……分かった」


直後に水しぶきの音を聞く。


ふぅ。


1つ大きなため息が漏れた。

落下した梁の一部が、井戸への空間を遮っていた。

火の粉が辺り一面に舞い踊る。

ネフェルはゆっくりと目を閉じた。




こうしてアマルナは滅びた。


長の妹であるラニーはテーベの若長ファラオの妻としてその後宮に入る。

ユダは樹海で気を失っている所をテーベの巡邏兵に捕縛された。

アマルナの長ラジャと、彼と行動を共にしたと思われるティティ家の未亡人パートラの行方は未だもって不明のまま――。





「本当だってば」


兵士の1人が口を開いた。


「あの時、炎の中にいきなり背の高い男が現れたんだ。そいつはアマルナの女獣士をこう抱き抱えてフッて消えたんだぜ、フッて」


別の兵士は違うものを見ていた。


「多分あの女獣士のビーストだろうけどよ、こーんな大きな真っ白い虎が自分の前足の血を女獣士に飲ませてたんだ。俺が弓を構えたらおまえ、女くわえて逃げちまったけどよ」





『壁』ハ 確カニ 存在スル――

――夜明ケヲ 迎エル直前ハ 


ソノ向コウ側ニ 出ナイ限リ――

――夜ノ中デモ 一番 暗イ 


自覚シタ者ニ――

――ダカラコソ 我々ハ 


安息ノ日々ガ 訪レル事ハ ナイ――

――夜明ケニ 大キナ 喜ビヲ 感ジル 


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