『再会』
ネフェルは3年ぶりに見慣れた扉を押し開けた。
その向こうには長の部屋がある。
かつては顎鬚をたくわえた大柄な男がその部屋の玉座に座していた。
今はいない男だ。
2年前に逝去したと旅先で聞いていた。
「ネフェル」
嬉しそうな声が響く。
玉座の側からネフェルの元へと1台の車椅子がゆっくりと走る。
それを操るのは1人の少女。
桃色の薄い練り絹を幾重にも重ねたドレープの長衣――その可憐で贅沢な色合いの衣装がよく似合う少女だ。
ゆるやかな波を描く艶やかな黒髪と、髪と同色の大きな瞳が印象的である。
「ネフェルだわ、お兄様」
ネフェルの手を取り、車椅子の少女――ラニーはそう言って背後の玉座を振り返った。
そこにいるのは1人の青年。
ラニーの兄である黒髪の美丈夫。
今は一族の長を名乗るラジャ、その人である。
「……お帰り、ネフェル」
3年前より少し低くなった声で、ラジャはそう言って微笑んだ。
不覚にもこぼれそうになる涙を、ネフェルはごまかして一礼した。
「長らく勝手を致しました」
深く下がる頭に、ラジャは優しい言葉をかける。
「戻ってきてくれたのだから、それだけで充分だ」
「お兄様の言う通りよ。さ、堅苦しいのはもうやめにしましょう」
ラニーがにこやかに提案した。
「ちょうどおいしいお茶があるの。いれてくるから待っててね」
ネフェルたちを残し、ラニーの車椅子が走り去る。
広い空間に、ラジャとネフェルとガルーダが残った。
「……新しいビーストか?」
ネフェルに寄り添う白い虎をラジャの瞳は見据えていた。
「ガルーダです」
「強そうな名だ」
それで1つの話題が終わった。
ネフェルの心に痛みが走った。
ラジャは3年前のあの日の経緯を、多少なりとも知っているのだ。
掘り下げて聞かない事が、ルビードの名を出さない事がその証拠。
今あの口癖を聞いたら――
ネフェルは思った。
今あの口癖を聞いたら、きっと私は泣いてしまうだろう……。
あの日から、ネフェルは決して無にはならないラジャとの距離をずっと感じ続けて生きてきた。
帰郷して、こんなに近くに、目の前にいるのに、今もずっと遠い存在のように感じられる。
何も知らずにいた昔にはもう戻れないのだという事をネフェルは痛感した。
「ネフェル」
ラジャがネフェルの名を呼んだ。
「君に頼みがある」
「まぁ、ネフェルじゃないか」
ポリスの外れ、表にナイフとフォークが描かれた看板を出している1軒の家。
その茶色の扉を開けると、中からそんな声が聞こえてきた。
丸いテーブルが幾つも並ぶその奥のカウンターに、恰幅のいい中年の女が立っていた。
「……御無沙汰してます」
入口で控えめに頭を下げるネフェル。
すると豪快な笑い声が響いた。
「やだよ、この子は」
カウンター越しに女が身を捩じらせる。
「何他人行儀な事言ってんのさ。あんたと私の間じゃないか」
ついには笑い泣きを始める中年女。
彼女の名はマロワ=クー。
ここクー食堂の女将である。
幼少期、男の子だけを望む実の母を目の当たりにしたネフェルはこのマロワに『母』を求め、彼女もまたネフェルを実の娘マージと同様に可愛がった。
言わば『育ての母』である。
「ほら、そんな所に立ってないでこっちにおいで。今スープでもいれてあげるから」
「ありがとう。でも……」
そう言って振り返るネフェル。
その背後にはガルーダがいた。
「その白いのも入れてやりな」
マロワが言った。
「どうせここに来る客は淡水魚目当て、漁の次の日にしか来ないんだ。ほら、閑古鳥が鳴いてるだろ。誰の迷惑にもならないよ」
「ありがとう」
心からそう言って、ネフェルはガルーダを室内に招いた。
カウンターの席に腰掛けるネフェル。
その足元にガルーダも座った。
スープ皿をネフェルに差し出し、マロワはまじまじとガルーダを見つめる。
「随分とまぁ、高く売れそうな毛皮だね」
ガルル……。
わずかにガルーダが低く唸った。
「怒った? ごめんよ。『口が悪いはマロワの特許』ってね」
笑いながら、マロワはガルーダの前にも煮た肉を盛った1枚の皿を運んでくる。
「クー食堂特製だよ。腐らせるのも勿体無いからね」
「……ガルーダ」
警戒するガルーダに、ネフェルが優しく声をかけた。
ネフェルとマロワを見比べ、ガルーダは勧められた皿を一瞥する。
いい匂いが立ち込めていた。
期待の目で見守るマロワ。
根負けして、ガルーダは一口、皿の肉を口に含んだ。
そしてピタリと動きを止める。
「この白いの、もしかして味付けの肉は受け付けないのかい?」
オロオロとネフェルに問い掛けるマロワ。
マロワの視線が逸れた瞬間、ガルーダは皿の残りを一気にペロリと平らげた。
そして再び素知らぬフリを決め込むも、口の周りには多量の肉汁が付着していた。
「……へそ曲がりだから」
空になった皿を見、ガルーダの口元に注目したマロワに、ネフェルはそうとだけ言ってスープをすくった。
「味、ちっとも変わってない」
一口すすってホッとした。全ての具が小さな采の目に切られた味の深い温かいスープ。
幼い頃から何度も飲んだ、ネフェルの大好きなマロワのスープだ。
「おいしいかい? そりゃ良かった」
ガルーダの皿を片付けながら、マロワはにっこりと微笑んだ。
「今日はゆっくりしてお行き。朝市に行ったマージももうすぐ戻る頃だ。親子3人で、3年分のつのる話でもしようじゃないか」
トモスレバ 運命――。