第八話 懐かしき街
ヘリコプターの窓からは、緑の草原と森がよく見えた。去年途方もない時間と労力を費やして越えた草原と森は、空から見れば愕然とするほど小さかった。こんなに小さな草原や森を抜けるために、皆で何度も死にかけたのだ。
クライドは内心ため息でもつきたい気分で外を見つめていた。よくあんな無謀な旅をして生きて帰ってくることができたものだ。
「酔っちまったか」
「いえ。ヘリは初めてなので」
「ほう、そうかそうか」
操縦士はこうして、時々クライドに声をかけてくれる。クライドもあまり無口でいてはいけないと思い、操縦士に時々話しかけた。操縦士はアンシェントタウンで生まれてアンシェントタウンで育ち、首都の航空学校に通ってからまたアンシェントタウンに戻ってきたらしい。クライドもエルフ云々のことは伏せて生い立ちを話すと、操縦士は笑った。
「んなこと、知ってらあ。お前はハーヴェイの息子だもんな」
「父さんを知ってるんですね」
「アンシェントタウンでハーヴェイが一番最初に打ち解けたのはこの俺だ、あいつは俺の初めての『積荷』だった」
こうして約二時間ものあいだ、クライドは助手席で操縦士と会話していた。時折操縦士が無線でどこかの誰かと会話したが、それ以外はずっとクライドと喋っていてくれた。その間、おそらく後ろの荷物入れの中でグレンたち四人も話したり笑ったりしていたと思う。もしかすると、眠っていたりしたかもしれない。
やがてヘリコプターは懐かしい漁師町に着き、郵便局のヘリポートにゆっくりと着陸した。操縦士は計器をいじり、無線で何か言ってから降りる。クライドも、恐る恐るドアを開けて郵便局の屋上に降り立った。
熱されたコンクリートの上を爽やかに吹き抜ける風からは、海の香りがした。この屋上からはリヴェリナの町がよく見渡せる。前方に大きく広がる海の煌く波間には、白い漁船が一隻見えた。あれにスタンリーたちが乗っているのかもしれない。
「うー、ひっでえ旅だったな」
後ろで声がしたので振り返ると、グレンがもつれた髪とよれた服を直しながらこちらに向かって歩いてきていた。彼のすぐ後ろを歩くノエルの髪も乱れていて、よく見ると眼鏡のフレームが微妙に曲がっている。シェリーは少しよろけた足取りで、二人の後を追っていた。その隣に、大きなバックパックを背負ったアンソニーがいる。
「同感だよ。君、かなり重いしね」
そういって、痛そうに脇腹をさするノエル。どうやら彼らは、クライドとは違ってかなり苦労していたらしい。眠っていたのかもしれないという仮定はすぐに吹き飛んだ。
「そういうノエルだって、骨っぽいから乗られるとピンポイントで痛いんだよ? 前に理科でやった。同じ圧力をかけるのでも、当たる面積が小さい方が痛いんだって」
アンソニーは自分の体のあちこちを見ながら、不服そうに言う。怪我をしていないかどうか確かめ終えたのか、彼は荷物を抱えてこちらに向かってくる。
「なあ、何があった?」
思わずクライドが声をかけると、四人は恨めしげにクライドを見た。ぎくりとして一歩退いてしまう。
ノエルによれば、道中はなかなか酷かったらしい。荷物入れの中には少ない量だが小包や手紙の束が積んであり、四人は手紙の束に周りを囲まれながら初めのうちは談笑していた。しかし、離陸と同時に荷物を固定していた道具が外れて手紙の束が降ってきたため、彼らは狭い空間を逃げ回ったという。助手席と違ってシートベルトがあるわけでもないので、互いにもつれ合うようにして転げまわったとノエルは言った。
「今回は成り行きでクライドが助手席だったけど、次回は絶対に話し合って決めよう! 僕も助手席乗りたいし」
ノエルの説明が終わった後、黙りこくったクライドに向かってアンソニーが言った。クライドは頷き、四人に謝った。
「クライドが謝ることじゃないから、別に気にしないで」
柔らかな微笑を浮かべながらシェリーは言ったが、ノースリーブのワンピースから覗く華奢な白い腕には赤い打撲のあとがあった。クライドは少し項垂れたが、グレンに背中を叩かれて顔を上げる。
「なあクライド、ここどこだと思う? 町の外だぞ。お前、もう魔法が使えるじゃないか」
「あ、そっか…… シェリー、ちょっと腕見せて」
「こう?」
彼女の腕を記憶してから目を閉じる。彼女の白い腕には傷も打撲もなかったはずだと念じれば、目を開けたときにはシェリーの腕は想像通り白くきれいなままだった。
「ありがとう、クライド。もう全然痛くない」
「ほんと便利だよなあそれ。ほら、俺ももう使えるぞ」
そう言いながらグレンはにやりと笑い、見えない手を使ってシェリーを地上から三十センチほど抱き上げた。急に持ち上げられたシェリーは驚き、持っていた荷物を派手に落とす。だが、落ちた荷物は地面にぶつからずに緩やかに着地した。グレンは見えない手を二組以上同時に扱えるようになっているから、シェリーを持ち上げる一組の手の他にまだ見えない手を出すことができるのだ。クライドとしてはそれも便利だと思う。
「ちょっとグレン! おろして!」
持ち上げられたシェリーが暴れ始めたので、グレンは楽しそうにシェリーを抱き下ろした。その様子を炎天下の中で見続けているとだんだん微笑ましいと思えなくなりそうだったので、クライドはノエルとアンソニーを引き連れて先に進み始めた。
「夏のリヴェリナには初めて来たけど、ここは夏が似合う町だね」
ノエルは笑顔でそういって、キャリーカートを引き始める。嬉しいのだろう、サラに会えるのが。クライドはバッグから携帯を取り出し、待ち受けにしてからノエルに渡した。ストラップホールになんとか通した刺繍入りの黒いリボンは、レイチェルからもらったあのリボンだ。ノエルは不思議そうな顔をしてこちらを見上げる。
「サラに『今ついた』って電話しないのか?」
「ああ、そうか。ありがとう。借りる」
ノエルは慣れた動作で電話をかけ始める。ノエルの一挙一動に、クライドを含む四人で注目した。電話の向こうで呼び出し音が鳴り、やがて女の子の声がした。
「もしもし、僕だよ。うん、クライドの携帯を借りてるんだ」
ウィフト語で喋っているはずのノエルの声が、意味のある言葉に聞こえた。エルフの血があるおかげで、クライドの頭の中で全ての言語がディアダ語に変換されているのだ。何だかそれが奇妙に感じた。今ならサラの手紙も読めるし、それどころか一度も聞いたことのない言語だって理解できる。
「今、郵便局の屋上に到着したところだよ。わかった、一旦切る」
ノエルは携帯の画面を相変わらずの長袖で拭って、クライドに返してくれる。クライドはそれをポケットに入れると荷物を持ち上げて、郵便局の中へ向かった。そこからエレベーターを使って、漁師町に出ようと思うのだ。
「サラ、何ていってたの?」
アンソニーが言った。ノエルはキャリーカートを引きながら、肩越しに振り返って微笑みながら答えた。
「今から家を出るって言ってたよ」
それを聞いたアンソニーは隣にいたシェリーと笑顔で頷きあって、嬉しそうにノエルの両隣を歩いた。シェリーはもうエルフではなくなったが、殆どの言語を未だに忘れていないという。それは昔たくさんの言語でかかれた本を読み漁ったからなのだろうとシェリーは語る。
冬にこの町に来たときに、シェリーとサラはかなり仲良くなっていた。そのことでグレンが密かにサラに嫉妬していたのをよく覚えているが、クライドとしては孤独だったシェリーに仲のいい友達が出来たのは素直に嬉しかった。サラにしたって、言葉が通じる友達は貴重だろう。
グレンと昼食の話をしながら、クライドはエレベーター横の壁についている下向きの矢印を押した。すぐにドアが開いたので、五人で乗り込む。重たい荷物のせいで重量オーバーにならないか不安だったが、ドアは造作もなく閉じてエレベーターは下降した。
やがてエレベーターから降りて郵便局を出ると、潮風の匂いを再び感じた。クライドが辺りを見回していると、こちらに向かってかかとの高い靴で走ってくる少女の姿をみつけた。亜麻色の細い髪が、風に煽られてめちゃくちゃになっている。
以前に見たときよりもまた少し彼女の髪は伸びて、肩までだった髪の長さはもう胸に届くほどになっていた。髪を伸ばしているのがどうしてか、クライドは去年の冬に聞いた。もちろん、ノエルが何気なく似合うといったせいだった。
「サラー!」
大声で彼女を呼びながら手を振ると、彼女は伝統的なジュノアの柄をあしらった涼しげなスカートの裾をはためかせながら駆け寄ってくる。サラはクライドの姿を見つけて、嬉しそうに笑った。
「久しぶり、クライド! 会いたかった!」
嬉しそうに彼女は言う。普段はあまり同級生と喋ることができないという悩みをもつ彼女だから、クライドがウィフト語で話しかけると本当に喜んでくれる。
ふと斜め後ろを振り返ると、ノエルが笑顔で立っていた。しかしサラの『会いたかった』という言葉を彼も聞いてしまったのか、少しその笑顔が曇っているように感じる。嫉妬深いノエルのことだから、何気ないこんな一言でもクライドに嫉妬するのは間違いなかった。明らかにノエルを意識したコーディネートでお洒落して会いに来てくれたというのにだ。
「サラ、久しぶり。元気そうだね」
「ノエル! 久しぶりだね、お手紙ありがとう」
折角彼が話しかけたのに、サラはかなりぎこちなくそう応えた。緊張を隠せない様子で口角を上げ、左手に手をやっている。見れば今ノエルがつけているのと同じバングルを恥ずかしそうに触っていたので、お揃いのアクセサリーをつけていることに照れているのだとわかったが、サラはそのまま黙ってしまってノエルには会いたかったと言わなかった。
ノエルは少しがっかりしたようだった。先ほどと同じように見える表情が、微妙に変わった。きっとサラは照れているだけだと思うのだが、すぐにノエルから目をそらして今度はグレンのほうに駆けていく。
「グレン、髪の毛伸びたね」
サラはグレンの髪をしげしげと眺めながら言う。シェリーがグレンを見上げて笑うと、グレンは首を傾げてシェリーを見下ろす。そうだ、彼は今魔法がかかっていないのでウィフト語がわかっていない。
「えーっと、今の何ていった?」
グレンはシェリーに問う。するとシェリーがにっこりと笑いながら、ディアダ語の訳をグレンに伝えている。その間、ノエルは微かに寂しそうにしていた。
「久しぶりだねサラ、メールの返事遅れてごめん」
「ううん、こっちこそ。お母さんのパソコンを借りてるだけだから、三日に一回ぐらいしかチェックできないの。早く携帯欲しいなあ」
冬にリヴェリナ旅行でシェリーとサラが対面してからというもの、彼女たちは傍目に見てもわかるほどに仲良しになった。メールのやりとりをしているなんて初耳だ、あとでアドレスを聞こう。
「あ、トニー。また背が伸びたね、すっかり抜かされちゃった」
サラはにっこりと笑いながら言う。例によってアンソニーも言葉がわかっていない様子だったので、シェリーが訳を伝えて笑う。楽しそうなサラやシェリー、アンソニーを見ながらノエルは明らかに寂しそうにしていた。
「ほら、置いてかれるぞ。考え事は後にしろよ」
声をかけてみると、ノエルはいつもどおり微笑を浮かべていた。いや、いつもどおりというには少し違和感のある笑みだ。ノエルが何を思ったかはわからないが、折角サラと会えたのだからもう少し嬉しそうにしたほうが良いとクライドは思った。ノエルはキャリーカートを引いて、クライドの隣に並ぶ。
「後で二人だけで話す時間をくれないかい」
小声で囁かれた言葉はエフリッシュ語で、ディアダ語でもなければウィフト語でもなかった。そのためこの言葉は、クライドとノエル以外にはシェリーにしか通じていないだろう。しかしシェリーはサラとはしゃいでいたから、ノエルのこんな小さな声は聞いていなかったに違いない。
「君には何も隠せないだろうから、素直に話すことにする」
その言葉に頷いて、クライドは歩く。とりあえず、仲間達は今夜泊まる漁船を目指しているようだ。確か、キーはアンソニーが持っていたと思う。失くしてしまったのなら、仕方ないので想像でスペアキーを作ろう。
歩き続けること十数分。クライドは、懐かしい港にきていた。去年ここで街中の人に見送られて旅立ったことを思い出し、感傷と新たな旅への期待がふわりと胸を包んだ。
孤島から魔法の力でアンシェントに『転送』されてきたクライドたちがどうしてまたこの船に巡り合えたのかといえば、何と鐘泥棒のジェイコブのおかげらしい。どうもあの男がこの船を使ってリヴェリナに戻り、イノセントに別れを告げにきたのだと冬にリヴェリナに来たときに聞いた。……かなりマイルドに言うとそういうことだ。帝王を裏切ったイノセントと帝王の臣下として忠誠を誓っていたジャスパーが旧友のように振舞うわけもないのだから、言葉数の少ないイノセントが端折った部分はかなり殺伐としていたはずだ。
ジャスパーは今どうしているのだろうかと思いつつ、タラップを上がって船室に入る。船室の隅に荷物を置いて、クライドはそこに腰を下ろした。何だか、懐かしい気分だ。
「うわあ、全然変わっていないや」
アンソニーは船室に入ってくるなり、嬉しそうにそういう。後から続いて登ってきたグレンは、笑いながらアンソニーの背中をぽんと叩く。叩きつつ、彼は荷物をそこらに適当に放り投げた。
「変わっていたら困るだろ、これは俺達の船なんだ」
クライドは船室の天井を見上げながら、笑みを浮かべる。潮の匂いが染み付いたこの船室が、とても懐かしい。ここで感じた様々なことを思い出す。
「正確に言うと、ノエルの物だけどな」
「嫌だなあクライド、これは皆の船だよ」
クライドの言葉に対して、ノエルが当然のように言った。ノエルはキャリーカートを重そうに持ち上げて、クライドの荷物の隣にそれを置いた。
「ねえ、エディのところに行きたい!」
「エディ、もう十三だっけ? セシリアと同い年か。あいつ、冬に来たとき骨折してたよな」
「そうだねえ」
アンソニーとグレンがそんな会話をし、クライドを見る。そして、グレンが口を開く。
「エディんとこ行かねえか? それとも、先にブリジットのところ行くか?」
「そうだなあ。とりあえず、船おりようか」
サラとシェリーを待たせているため、財布と携帯がポケットに入っていることを確認してからクライドは船を降りた。
二人は待ちくたびれた様子もなく、ウィフト語で雑談していた。会話は盛り上がっていてとても楽しそうだ。ちらりと聞こえた単語からおそらく好きな異性のしぐさについて話していたと思われるので口角が上がった。
サラは続きを話そうとして、クライドとその後ろに居るノエルに気づいて話をやめた。シェリーは少しだけ残念そうにしたが、グレンを見つけて優しく微笑む。
「なあ、どこに行きたい? エディのところと、ブリジットのところっていう二つがでてるんだけど」
クライドが言うと、シェリーは申し訳なさそうにクライドを見た。
「サラのうちに行って、荷物置かせてもらっていいかな」
クライドが頷くと、グレンがにっこりと笑ってシェリーに手を振った。グレンは、サラの家に一緒についていくことはしないらしい。久々に会えた女の子二人を気遣ってのことだろう。いや、サラの兄二人が番犬のように見張っているせいかもしれない。
「じゃあ俺、ブリジットのところ行ってくるな」
「俺とトニーはエディのところに寄ってくる、じゃあな」
グレンを見ると、こっそり片目をつぶってくれた。別行動を選んだ彼は、クライドがノエルと話しやすいように仕向けてくれたようだ。心の中で、彼に感謝する。
「じゃあ、あとでね」
サラとシェリーは、にこりと笑いながら手を振ってくる。クライドも手を振り返し、町のほうへ足を向けた。
「解散! また後でなー!」
グレンは元気よくそういって、エディの家がある方角へ走っていった。
「グレンにも気づかれていたんだね」
ノエルはそう呟いて、苦笑する。それが何だか自嘲の笑みに見えて、クライドは少し悲しくなる。またそうやって自己嫌悪して、自分が無価値な人間なのだと思い込むのだろうか。ノエルは繊細な人だから、笑顔の分だけ無理していることが多い。
「で、ノエル。どうしたんだよ」
訊いてみると、ノエルは前方を見つめたまま言った。
「今日サラが僕に話しかけてくれたのは、たった一回だったんだ。今までは僕が唯一のウィフト語話者の友人だったから、自惚れを自覚しているけど、一番の親友は僕だったはずだ。だけど今じゃ、君もシェリーもウィフト語を使う。別にそんなことで僕にとってのサラは揺らがないけれど、サラにとっては違うんじゃないかって…… 僕がいなくても支障がないのかもしれないと、思ってしまって。予想外にダメージを受けている自分に気づいて。いけないね、どうあろうと僕は彼女に信頼されるべき僕でいなきゃいけないのに」
そこまで一気に話すと、視線を落とすノエル。彼は今までどおりの微笑を浮かべているが、辛そうで苦しそうだった。今日サラに会ってから今に至るまでのたった数十分間に、ノエルはここまで思いつめてしまったのである。この事実だけで、もう既にノエルがサラを友達として見ることができないということを明確に指していると思う。
「何言ってんだよノエル、サラの腕を見ていないのか?」
クライドが言うと、ノエルはきょとんとした。
「え?」
「それ、お揃いのやつ。サラもしてたぞ? シェリーもにやにやしてただろ」
もしかして、気づいていなかったのだろうか。今まであれほど彼女を見て、ほんの少しの変化にだってすぐに気づいていた彼が、彼女の腕に気づいていないなんて。
恥ずかしそうにお揃いのバングルを撫でていたサラは、きっとノエルからそれについて言及されるのを待っていたのだろう。出航の直前にノエルがサラに渡したという、ペアのバングルだ。サラはノエルの瞳に良く似た色の石を使ったアクセサリーを、大事そうに身に着けているのだ。しかも、あえて重ねて言うならノエルが冬に誕生日プレゼントとして渡したネックレスだってしていた。雪の結晶をかたどった季節外れのアクセサリーを、サラがこんな真夏につけている理由なんて一つしかないではないか。
「本当かい? 気づかなかったよ。というか、今日の僕はサラをまともに見ていないんだ」
「勝手に希望を捨てるな。確かにサラの友達っていうポジションにはシェリーや俺も入ってきただろうし、いずれグレンやアンソニーだってもっとしっかり会話できるようになっていくだろうけど、まだ恋人の枠は空いているだろ? そこを占領すればなんの問題も無い」
クライドはできるかぎりエールを送ったつもりだった。それでも、ノエルの表情は晴れやかにならない。折角の声援も空しく、ノエルは斜め下を見下ろしながら暗い目をしていた。
「そういうのじゃない、そう思おうとしていたんだけどなあ。ねえクライド、怖いんだよ。認めたら戻れない。もしもサラに拒絶されたら、何年も育ててきた友達としての地位も失うじゃないか」
活気付いた午後の漁師町を歩きながら、クライドはノエルに共感していた。そうなのだ、恋愛関係に発展させれば彼女との今の関係は終わってしまう。失敗した場合は修復ができなくなってしまうのだ。クライドも、そんな辛い思いを何度かした。
それでも、言わないでいて彼女が誰かに奪われていくことの方がよほど辛かった。だからクライドは、どんなに逃げたくなっても想いはちゃんと伝えてから恋を終えた。
ノエルには、見知らぬ男にサラをとられるような悔しい思いなどして欲しくない。それにクライドは、サラも絶対にノエルのことを好いていると確信している。
「勇気出せノエル! 言わないで終わる方が絶対辛いって。それにお前ら、恋人って言うより夫婦って感じだし」
「僕は結婚を前提に恋をしているんだよ。だからこそ、別れを告げられるのが怖いんだ」
「えっ?」
驚いた。クライドは思わずノエルを凝視してしまう。まさか彼の口から、結婚なんて言葉がでてくるなんて。
確かにノエルは、人生の先の先まで見通して過ごしているような男だ。未来予想図もしっかり出来ていることだろう。しかしまだたった十七になるかどうかの男が、結婚を前提にして付き合う相手を決めているなんて話は周囲で聞いたことがない。
「お前ほんとに十代か? もう人生のパートナーが確定してるなんて」
思わず口にしたが、ノエルなら遊びで女性と付き合うことはないだろうとは思っていた。都合のいいときだけ恋人でいたり、付き合っている相手より条件がいい人を見つけたら安易に別れて乗り換えるような、そんな関係をノエルが好むとは思えない。
ノエルはにこりと笑って頷いた。
「僕はいつだって、誰とだって、期限付きの関係は望んでいないよ。君やグレンたちとだって一生傍にいたいし、好きになる女性に対してだってそう思う。一生傍にいたいからこそ、友達でいたほうがいいのかもしれないって思ってしまうときはあるんだ。恋愛関係の構築に失敗してゼロになってしまうよりも、望んでいたうちの五〇パーセントぐらいの距離感でもいいから、ずっと友達でいるほうがいいんじゃないかって。そうしたら、また失わずに済む」
――また失わずに済む。
大学時代の恋人のことだろうか。ノエルも過去を引きずって苦しんでいるのがわかって、クライドは胸を刺されたような思いだった。新しく得られそうなものを失ったものと重ねて見てしまう気持ちや、期限付きの関係を望まないという意見には、とても共感できる。この状態だと、彼女に振られた場合のショックも、彼女のことを本気で愛した分だけ大きくなるだろう。だからこそ、踏み込むのに慎重になってしまうのも痛いぐらいに分かった。
それでもクライドは、好きな人と短い時間であっても幸せな時間を過ごせたことを悔いてはいない。付き合わなければよかったとは、どの相手に対しても思ったことがないのだ。
「ノエルの恋愛観って凄いな。堅実で理性的だ」
「そうかい? ありがとう」
「だけどさ、恋愛って一人でするもんじゃないだろ。サラがどう思ってるかなんて、お前も本当は分かってるんじゃないのか」
「正直なところ、サラも僕のことを好いてくれているだろうね。冬に二人で別行動をしたときに、その確証は得ているよ。だけど、彼女が好きな僕は理性的で穏やかな、何でも知っているすごいノエルだ。こんな風に悩んで揺れ動いているところは彼女に絶対見せないから…… どこもすごくないただ普通の僕なんて、サラは求めていないんだ」
「自分で自分の首絞めちまった感じあるな。完璧に演じたせいで、舞台裏が見せづらくなってる」
「その通り」
「俺は人間的なノエルのほうが好きだけどな。何でもできる超人で、あんまりつるんでくれなかった頃はちょっと遠く感じていたし。悩むのはお前が何でも知ってるすごいノエルで、解決のための色んな方法を知っているからこそだろ。俺やグレンやアンソニーのために、シェリーのために、世界のために、一緒に怒って一緒に悩んで戦ってくれたお前は格好良かったよ」
「そんな風に思ってくれていたのかい。なんだか、はっきり言葉にされると照れるね」
ノエルは小さな声で、ありがとうと呟いた。等身大の同年代の、悩める少年らしい照れくさそうな声だった。波止場に吹いた風がふわりとノエルの前髪を吹き上げた。その翡翠色の瞳から、先ほどまでのどんよりした陰は消えていた。
「方針が固まった。助かったよ、クライド」
「告白してみろよな。サラだってきっと待ってるから」
「すぐには踏み切れないだろうけど、タイミングを計ってみる。最良のタイミングで挑むけど、もし振られたら記憶を改ざんする魔法でもかけてね」
「振られないからその心配はない」
二人で笑い合う。ひとしきり笑ってからクライドは青空を見上げて、それから小さくため息をついた。
ノエルとサラなら、上手くやっていけるだろう。ただ、もしも二人が付き合うことになったとき、ノエルがサラのために街を出る結果になったら寂しい。クライドはアンシェントを出るつもりが今のところないので、きっと首都に行くために出て行くであろうグレンのことや、それについて街を出ていくであろうシェリー、そしてクライドがきっかけで時計職人の道に進みかけているアンソニーのことも気がかりだった。それぞれが夢や願いを叶えて欲しい気持ちは勿論だが、近くにいたい気持ちは強い。
「悩み事かい?」
「ああ。凄く幸福な悩みだよ。幸福で、贅沢で、我侭な悩みだ」
ノエルの言葉をはぐらかして、クライドは歩き続ける。彼には悩みを相談させたのに、自分は彼に悩みを相談しないなんて少しずるいかもしれないと、街の喧騒をぼんやり眺めながらクライドは思った。