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最終話 平和ということ

 白い壁にひびが入った。あっけないくらい簡単に壁は崩れ、クライドは壁の向こう側の世界へ勢いよく飛び出した。が、そこは何も無い空間だった。漆黒の闇が口をあけているばかりである。徐々に緩やかに、クライドの身体は落下の感覚を捉えだす。

 白い壁の残骸が降り注ぐ中、身体を思いきり捻って後ろを見れば、闇の中にぼんやり浮かぶ崩れた白い立方体の中から、イディルクがひらひらと手を振っているのが見えた。おどけたように手を振り返せば、立方体は崩壊の速度を速めていく。同時にクライドにかかる重力も増した。

 クライドの身体は闇の中を加速していく。一緒に落ちてきているはずの壁の欠片は、いつのまにか一つも見当たらなくなっていた。

「……何処まで落ちるんだよ」

 だんだん息が詰まってくる。目を開けているのもつらい。どうせ目を閉じていても開いていても、漆黒であることに変わりはない。クライドは目を閉じた。

 その瞬間、視界が真っ白に塗りつぶされる。驚いて声を上げる。反射的に腰を起こした。……腰を起こした?

「あ、れ?」

 恐る恐る目を開けてみると、ぎょっとした顔でこちらを見ている四人の友人が視界に飛び込んでくる。あの部屋の『ヒント』で見た病室そのものの景色だった。

 安堵で肩の力が抜けた。そのままずるずるとベッドに身体を横たえ、クライドは大きくため息をついた。よかった、ちゃんと戻ってこられたではないか。

「ク、ライド? どこか痛むのかい?」

 最初に口を開いたのはノエルだった。グレンはぽかんと口をあけて固まっていたし、シェリーとアンソニーはそれぞれ微妙な位置から肩越しに振り返っていたり、中途半端に上げたままの手を下ろさずに固まっていたりした。

「あれじゃねえだろ! な、何だよお前、いきなりっ!」

「心配させないでよ馬鹿クライド! 一時間で戻ってくるって言ったくせに!」

 グレンとアンソニーの二人に腕やら肩やらに掴みかかられ、クライドは二人の手の暖かさに安心する。謝り、笑い、クライドは泣きそうな気分でグレンとアンソニーにもみくちゃにされていた。

「そうだよっ、帰ってきたらクライド、倒れて動かないっていうし。あたし、嫌だからね? あんたはあたしの生まれて初めてできた友達なんだから!」

「そうだったな…… 第一号だ。ごめんな心配ばっかりさせて」

 泣きそうなシェリーに微笑みかけてやる。シェリーは大粒の涙をぼろぼろ流しながらクライドの腕に縋る。クライドの髪をぐしゃぐしゃにしながら、グレンは『馬鹿野郎』と繰り返し言った。心からほっとしたような声だった。アンソニーも同じようなことを喚きながら、彼の場合はクライドの髪でなく自分の顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。

「あー、もう…… 君って人は全く」

 ノエルは抜けかけていた点滴を直してくれながら、クライドの髪を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でた。ノエルらしからぬ行動に拍子抜けする。

「っわ、何だよ?」

「さっきまで青白い顔してたのに。どうしてそんなに幸せそうな顔で笑えるんだい」

 ノエルはまったくいつもどおりだった。いつもどおり、穏やかな微笑を絶やさずにクライドを見ている。

 だが、そう思ったのも数秒のうちだけで、ノエルはクライドから視線を外して小さく鼻をすする。彼はまばたきが多くなった目を、眼鏡を外して乱暴に服の袖で拭い始めた。

「え、おい」

「戻ってきてくれてありがとう、クライド」

 ノエルは照れたように笑い、外した眼鏡をもう一度かけた。シェリーが泣きながら笑い、ノエルの背中をとんと叩いた。

「クライド、僕のこと解るよね?」

「当たり前だろトニー。つーか苦しいよ、胸の上に肘乗っけないでくれ」

 アンソニーは無自覚でクライドの胸の上に体重をかけていたらしい。慌ててどいて謝る姿に思わず笑う。

「だから無茶するなって言っただろ? 心配かけやがってこの馬鹿」

「そうだよクライドっ、ほんとに死んじゃったらどうするつもりだったのさ?」

 グレンとアンソニーから責められるが、苦笑で流す。二人の声は責めるようでもあったが、やはり心から安心しているように聞こえた。

 横で見ていたノエルは、椅子を引き寄せてクライドのベッドサイドに座り直しながら口を開く。

「君はね、一週間もここで寝たきりだったんだよ」

「い、一週間?」

「そう。色々あったよ、この一週間」

 ノエルたちは代わる代わる、クライドがいなかった間に起こったことを教えてくれた。

 クライドの幻像のおかげで、ミンイェンが取り乱すことなくリィの火葬を行ったこと。あの実験の時に使えなくなったハビやレンティーノの白衣の隅の方を使って作った小さな白い巾着袋に、その白骨のかけらを入れて大切に持ち歩いていること。

 そして、ハビがカフェの営業を再開し、レンティーノがひとまず製薬会社の仕事に戻ったこと。セルジとノーチェがこの有様にひどくショックを受け、三日ほど部屋にこもりっきりになったあとミンイェンやレンティーノの手伝いをするようになったこと。無茶しようとしたマーティンはミンイェンに叱られ、大人しく実験の後処理などのデスクワークに徹しているらしい。

 研究所は、またいつものように回り始めた。今度はもう、蘇生実験プロジェクトを解散し、人工魔力の制御法を研究し始めることになったという。マーティンの持つ人工魔力には副作用があるため、それを改善するために実験を繰り返すのだ。

「サラは毎晩君の容体を尋ねてくるよ。ううん、時差があるから晩じゃないね。彼女にしてみれば、朝起きてすぐ。相変わらず研究員を通してビデオ通話をしているけれど…… 研究員に連絡して、その研究員がサラを訪ねるラグがある。電話してあげて」

 そうか、ではすぐに電話をかけなければ。ポケットの携帯を取り出してみて、クライドは戦慄した。

「……嘘」

 あのとき、白い空間で見たままの状態だった。時計が表示されていないのだ。

「あ。表示がおかしいね。ちょっと貸してよ、直してみる」

 アンソニーはクライドの手から携帯をするりと抜き、電源を入れなおしてメニュー画面を開いた。日付と時刻の設定をやりなおしたら、ちゃんと時計は復活した。

 クライドは安堵した。良かった、まだあのおかしな空間に囚われているのかと思って、驚いてしまった。

「ありがと、トニー」

 メモリーを開いてサラの番号を発信すれば、ちゃんと電話はかかった。電話に出たのはサラの兄だった。

「もしもし、こちらドレーアー」

「クライド=カルヴァートです、こんにちは」

 声を発したとたんに、サラの兄の雰囲気ががらりと変わった。明らかにクライドを敵対しているムードだ。

 それもそうだ、彼女の兄は重度のシスコンだ。サラに男が近づこうものなら、容赦なくはがしにかかる。

「何だまたサラ目当てか。こんにちはじゃないだろ、今夜中だぞ貴様」

「すみません、何せ時差があるものですから。サラは起き」

「ちょっとお兄ちゃんっ、どいて!」

 言い終わる前に電話の向こうで何やら激しい物音がして、サラが急いで電話に出た。

「もしもし、ノエルっ?」

 どうやらサラは、ノエルが『クライドの容体が急変した』と告げに電話してきたと勘違いしたらしい。彼女はかなり焦っていた。

「残念、俺」

 笑いながら言ってやれば、電話の向こうが沈黙した。サラの兄が色々と説教を垂れているのが聞こえるが、サラはそれにも反応しなかった。

「おーいサラ、聞こえてるか」

「……クライド? クライドっ、起きたの?」

「うん、ついさっき」

 答えると、電話の向こうの声が一気に高くなった。

「よかった! 大丈夫なの? どこも痛くない? 頭はふらふらしない?」

「全然平気。ただ、まだ腕に点滴が刺さってるけど」

「早く帰ってきてね、無事な姿みたいから」

「勿論」

「それまではまた、ビデオ通話しようね」

「そうだな。顔を見て安心したい」

 そんな会話をし、クライドはサラからどれだけ心配していたかを延々と聞かされた。やはりここでも、シェリーが『最初の友達』と言ったように、サラも『ウィフト語の通じる唯一の男友達』だと言った。サラにとっても、ちゃんとクライドが大切な人だと認識されているらしい。嬉しいことだ。

「一週間も目が覚めないなんて、そんなこと聞いたら心配になるに決まってるよ……」

「ごめんな。詳しい話はそっち帰ったらいっぱいする」

「楽しみにしてるよ」

 サラは電話の向こうで少し泣いているようだった。どうしたのか訊ねると、サラは鼻をすすりながら嬉し泣きだと答えた。思わず笑顔になる。

「それじゃ、そろそろ切るよ」

「うん、解った、じゃあね。おやすみ、クライド」

 携帯を耳から離して折りたたんだ。切った後でノエルがいつもの微笑でこちらを見ていることに気づき、クライドは携帯とノエルを何度か見比べた。

「……ごめん、代わりたかっただろ」

「いいんだよ。すぐに直接話せるようになるんだから」

 ノエルは楽しそうに、この一週間で変わったことをまだ色々と教えてくれた。クライドの点滴の主成分が、エルフの薬で最も貧血に効果がある成分を抽出して改良したものであるということも知った。

 長い間会っていなかった仲間達は、一週間分の話を長い間し続けていてくれた。時刻は昼過ぎだ。

 会話を続けていたら空腹になってきた。けれど、アンソニーに水を汲んできてもらって飲むと、一気に吐き気が押し寄せてきた。

「っ、う」

「だめだよ、いきなりそんなに飲んだら。君の胃には一週間も何も入っていなかったんだから、少しずつ慣らしていかないと」

 ノエルに叱られ、クライドは肩をすくめる。すっかりクライドの主治医だ。

 暫くコップを握り締めたまま固まっていたが、吐き気は治まらない。額に滲む脂汗を気にしながらコップをノエルに手渡すと、空気入れを上下させるような軽い音がした。ドアが開く音だ。

「クライドー!」

 入ってきたのは、なんとミンイェンだった。新品らしい電動車椅子を、かなりのスピードで走らせて突っ込んでくる。ベッドの上で思わず身を硬くすると、ミンイェンは車椅子をそのままベッドにぶつけて止めた。勿論、ひどい音がした。

 かなり乱暴な扱いだ、いいのだろうか?

「よかったあ、目を覚ましてくれて! 迷惑かけっぱなしのままクライドまでいなくなったらどうしようかと思ったよ! 大丈夫? 元気?」

 かなりの至近距離から覗き込まれて、クライドは心持ち身を引きながらミンイェンの変わりように驚く。変わったというか、実験前に戻ったようで少し安心した。よかった、クライドの幻像はちゃんと効果を成している。

「ありがとうね、リィの実験を手伝ってくれて」

「ああ」

「聞いてよクライド! リィが会いに来てくれたんだ。幽霊なんて信じてなかったけど、ちゃんとリィはいてくれた。魔法がある世界で幽霊いなかったらおかしいもんね」

「……そうだな。俺も幽霊の恩人がいるから」

 笑い合い、ミンイェンの中であの幻像がしっかりと息づいていることにほっとした。

「リィの最後のお願いを、一生かけて叶えることにしたんだ。きっとまた後悔して泣いて叫んで死にたくもなるんだろうけど…… クライドに言われて目が覚めた。僕の傍でずっと助けてくれていたレンティーノやマーティンやハビたちを、僕はもっと信じるべきだ。僕は僕自身の価値を一番信用していなかったみたい」

「良かった。それが分かったなら、俺の言いたいことは全部伝わった」

「リィはどこにでもいるんだよ。僕の出会う全ての未来にね。生まれてからずっと一緒だったんだ。これからもずっと、一緒なんだ」

 ミンイェンはすっきりとした顔で笑う。アンソニーもほっとした顔をしていたし、グレンもノエルもシェリーも穏やかな表情でミンイェンを見ていた。ミンイェンは電動車椅子を操作し、じわじわとベッドから離して方向転換を始める。登場の時は勢いで止めていたが、ちゃんと操作もできるらしい。

「あと二日寝ていって。まだ食べ物にも慣れてないでしょ? 実は僕もだけど」

「二日ね、了解」

 クライドは頷き、他愛も無い世間話をしながらミンイェンと笑い合った。元はといえばこの少年に巻き込まれたのが発端だったのに、今では悪意は感じない。実験も終わり、命の危機も去ったので結果オーライのような気持ちになっているのは否めないが、実際にミンイェンの方にも悪意や敵意はないのだ。

 この研究所で、クライドは哀しいほど強い兄弟愛や、狂おしいくらいの友情を見た。ハビにも会えたし、自分の意思を伝えられた。拒絶されたしハビを助けたいと思うに至って大切な役割を果たしていた手紙が別の人格によるものだったと分かったが、クライドはそれでも一歩進展できたことに純粋な喜びを感じていた。

 ミンイェンに新開発の栄養剤の味見をさせられたり、レンティーノにリンゴをむいてもらったりして、二日間はあっという間に過ぎた。二日目にはもうベッドから起き上がっても差し支えないほどに回復していたし、食事も普通に取ることができるようになっていた。驚異的だとすらいえる回復力は、エルフの薬を基にした点滴による効果らしい。

 ミンイェンに幻像を見せるときにレンティーノが交換条件として出してきた『一対一のお茶』というのは、クライドが起き上がれるようになってすぐに発生した。しかし、レンティーノは微笑むだけで深いことは何も聞かなかった。

 不思議に思って自分から切り出そうとしたら、『面白い小説があるのですよ』と有無を言わさず一冊の本を差し出された。そこに挟まれたメモに、その理由が書かれていた。

『何があったかは監視カメラのログで確認しました。貴方の痕跡はマーティンの魔法で『完璧』に工作しましたのでご安心を。この先一生、あのことについて何もかもを胸にしまっておいてください』

 メモから顔を上げると、レンティーノは晴れやかに笑った。クライドは頷いて、目を閉じて想像する。ノエルの魔法のように、メモがほろほろと崩れて粉になるところを。

 目を開ければその通りになっていて、レンティーノは『お見事です』と言いながら席を立った。クライドも席を立ち、その足で、ハビの部屋に向かった。

 店休日で部屋にいたハビは、クライドの来訪に涼やかに笑んだ。

「よかった。元気そうだ」

「これを返そうと思って」

 クライドは、今朝レンティーノに会う前に部屋から持ってきた自動巻きの腕時計をポケットから取り出してハビに渡した。ハビは一瞬驚いたような顔をして、それから少し陰のある視線をクライドに投げる。

「失くしたと思ったら、君が持っていたのか」

「……そう、ですよね。じゃあイヴァンに返してください」

「受け取るよ。直ったんだね」

 発音が変わったことに気づいて、クライドはハビではなくイヴァンを見上げる。イヴァンは機嫌がいいのか、穏やかな顔をしていた。

「イヴァン。久しぶり」

「驚いた。売り払って給料の足しにしてよかったのに」

「直したのはアンソニーだよ。今度お礼言っといて」

「それは君の返答次第かな。考えてくれた? 僕を助けることについて」

「勿論」

 イヴァンはどうも『悔い改めモード』なのか、今日は敵意を出してこない。クライドが自分を助けると信じて疑っていないという雰囲気だ。

「俺、精神科医を目指す。苦しまなくていい方法を一緒に探そう」

「そう。ハビを消して僕を残す方法をね」

 にっと笑って、イヴァンは勝ちを確信したように頬を緩めた。身体はずっとハビのものなのに、ハビらしからぬその表情。クライドは、イヴァンという人格が本当にハビとは別人なのだと改めて感じた。

「望むのであれば、そのことについてもとことんカウンセリングしよう。ただ、イヴァンの表面的でない本当の望みを知るには一緒にいた時間が短すぎる」

「連絡するね。出来れば番号変えないで」

「ずっとこの番号を使うよ」

「君がお医者さんになるまでずっと、僕が親交を深めることにしよう。ハビはきっと、君を頼らない。僕は時間をかけて、君に僕こそが主人格に相応しいってアピールをすることにする」

 ぜひそうして、と笑うとイヴァンが眉間にしわを寄せて頭に手をやった。ああ、これはイヴァンではなくハビだ。帰ってきたのだろう。

「ハビさん?」

「……イヴァンが出ていた?」

「ええ。受け取ってくれました」

 心底嫌そうな顔をするハビは、これまでもずっと自分の制御範囲外で別人格に好き勝手されてきたのだ。その内容に関わらず、クライドと会話させたくないのは尤もだった。すみません、と思わず謝るとハビは疲れたように首を横に振った。

「いいんだ。あいつが勝手に出ただけで、君が悪いわけじゃない」

「俺に個人的に連絡をくれるそうです」

「そう。……実験前に言ってたの、本気?」

「将来の夢ですか? 本気です」

 ハビは少し考えるそぶりを見せた後、仕方なさそうに口角を上げた。

「残念だけどノー勉で医学部は厳しいと思うよ。周りにノエルやミンイェンやシェリーみたいな天才ばっかりいると自分の実力が分からなくなりがちだと思うけど」

 そうなのだ。全くハビの言う通りだった。身近に規格外の頭脳派が多すぎるので麻痺しているが、精神科医になるということは医学部を目指すということだ。楽なことではない。だからクライドは、帰ったらまずノエルに個別学習指導を打診しようと思っていた。

「ですね。帰ったら頑張ります」

「試験勉強を見てあげることぐらいは片手間に出来ると思うから。僕でもレンティーノでも、メールで問い合わせてよ」

「……ありがとうございます」

 まさかハビがそんなことを言うと思わなかったので拍子抜けした。ハビはクライドを見下ろすと、大きな重たい手で頭を軽くぽんと撫でる。

「落ちたらすっぱり諦めてね。勉強していくうちに僕らの事情関係なく精神科医を生業にしたいと思うようになったら、その時は浪人でもすればいいけど」

「はい。頑張ります」

 部屋を出る。足取りは軽かった。

 飛行機の都合で、研究所には今夜までいられる。荷物をまとめたら、最後の夕食を皆揃って食べよう。


 食事の後、マーティンは律儀にもクライドとした約束を覚えていて、ミンイェンのいないところでクライドに貧血の薬と帰りの渡航費を渡してくれた。ミンイェンがこんな風景を見ていたら、仲直りをしていると勘違いされるだろうからだ。

 かくして、ようやくクライドはアンシェントへ向けて帰路につくことになった。

「それじゃあ、世話になった」

 クライドは荷物を抱えてベッドを整え、エレベーターを使ってエントランスまで降りていた。これから乗り継ぎを行うタイプのナイトフライトに赴くので、気分は高揚している。

「航空券はもった? タクシー代もそっちの通貨で用意したから大丈夫だよね。研究所から空港までは部下の子に頼むよ」

「ありがとな」

 帰りの分の費用はミンイェンからも貰ってしまったから、返そうとしたがマーティンは『借りはきっちり返す』と頑として言い張った。なので、クライドの財布の中にはアンシェントタウンを出てきた頃よりも少し多い所持金が入っている。

 エントランスには仕事を抜けて見送りにきてくれたレンティーノと、喫茶店を休みにして研究所の仕事をしているハビがいた。マーティンは一週間で足が治るはずもなく、それにどうせ見送りになど来るつもりもないだろうからいなかった。セルジとノーチェはそれぞれ仕事が入っているので、昨日のうちに別れを済ませておいた。

「気をつけて帰るのですよ」

「仕事頑張って、レンティーノ」

 ノエルとレンティーノが軽く言葉を交わしていた。その直後に、レンティーノはクライドに深く礼をした。いきなりそんなことをされ、クライドは当然驚いた。

「何だよ?」

「本当に、貴方のおかげです」

 ミンイェンのこと、と小さく囁かれる。クライドは微笑んで頷いた。グレンはレンティーノと二言、三言簡単に会話をし、シェリーは柔らかい笑顔で感謝を告げていた。

「今度は正式なルートで旅行においで。また会えるのを楽しみにしているよ」

 肩に重たい手を乗せられ、振り返るとハビが微笑んでいた。何だか、去年ウェイターをやったときのことを思い出すしぐさだ。

「ありがとうございました。次に会うときには、もう少しハビさんと話したいです」

「そうだね。イヴァンには引っ込んでいてもらおう」

 一階のエントランスは他の階と違ってちゃんと窓があるから、外を見ればもうミンイェンの部下が車を用意してくれていることがわかった。レンティーノは時計を確認し、窓の外をちらりとみてからクライドに目を向ける。

「準備ができたようですよ。では、私はそろそろ仕事に戻ります。クライド、ラジェルナに着いたら念のため私の新しい番号に電話を下さい。もう盗聴や監視であなた方の情報を得る必要がないのですから」

 頷くと、彼は白衣の裾を翻して歩いていった。アンソニーはレンティーノが見えなくなるまで手を振っていた。レンティーノも、エレベーターのドアが閉まるまで笑顔でこちらに手を振っている。

「じゃあ、僕も行こうかな。気を付けて帰って」

「ハビさん、またいつか」

「これも一つの大きな夏の思い出としてとっておいて。色々つらいこともたくさんあっただろうけど、とことん美化してくれて構わないから」

 冗談交じりに言われ、思わず笑ってしまう。ハビはクライドの背中をぽんとたたき、クライドたち全員に向けてあの爽やかな笑顔を向けて手を振った。手を振り返し、クライドはほっとするような寂しいような微妙な気分になっていた。ハビはエレベーターを使わず、階段で上っていった。その背中を、クライドは消えるまで見送っていた。

 ハビがいなくなり、見送りはとうとうミンイェンだけになった。

「みんな携帯買ったら、まず最初にクライドから僕の番号聞いて電話してね?」

 あまりに真面目にミンイェンがそういうので、グレンがぷっと吹き出した。ミンイェンは笑うなと怒りながらも、何だか楽しそうだった。

「だって僕、君達のこと気に入っちゃったんだ。また色々試作品試してもらいたいし、クロスワードも解いてもらいたいし。あ、ノエルの家には月一くらいの割合で送りつけるから。メールがいい? それとも手紙の方がいいかな」

「のぞむところだよ。メールで来ても手紙で来ても、毎月完璧に解いて送り返すから」

 不敵に笑いながら、ノエルは電動車椅子のミンイェンを見下ろす。二人の天才は、これからも定期的にバトルを繰り広げるらしい。

 アンソニーがミンイェンの肩をぽんぽん叩いて注意を引いている。

「ねえねえ、街に帰ってからも電話していい?」

「勿論! 次の誕生日プレゼントにパソコンを贈ってもいい? 折角ならビデオ通話しようよ!」

「すっごーい! 嬉しい!」

 相変わらずの二人だと思う。雰囲気がやわらかくなったところで、グレンが口火を切った。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

 軽く頷くと、ミンイェンは少し寂しそうにした。シェリーはミンイェンの方を向いて、優しく笑う。

「今度は誘拐しないで、ちゃんと招待してね」

「ばいばいミンイェン、休暇とったら僕んち来てね」

「楽しみにしているよ、君のクロスワード」

 ミンイェンはそれぞれに大きく頷いて、両手で手を振った。そんな子供じみた仕草がミンイェンらしくて良い。

「じゃあ、また会えたら」

「会えたらじゃなくて会うの! 突然押しかけても追い返さないでね」

「どうかな」

「クライド酷い!」

 本気にして膨れっ面になるミンイェンが面白くて、クライドは思わず笑った。声を上げて笑った。笑いながら、自動ドアをくぐった。背後を振り返れば、ミンイェンはもう膨れっ面を消して満面の笑みになって手を振っていた。彼に背を向けたまま手を振り返し、研究員の車に乗った。

 空港にはすぐについたような気がした。研究員に礼を言って車を降りると、彼はひ弱そうな顔に人好きのする笑みを浮かべて帰っていった。時刻は深夜に差し掛かろうとしている。ラジェルナにつくのが昼になるように、ミンイェンがこの時間帯の便を手配してくれた。

 搭乗手続きを済ませれば、スムーズに搭乗できた。アンソニーは乗り物が好きだから、飛行機に乗れることで楽しそうにはしゃいでいた。フライトが始まる。開始数分で、ノエルが眼鏡を外してポケットに入れた。

「どうした?」

「クライド、眠っていいかい」

「え? ああ」

 隣のノエルは疲れたらしく、客室乗務員が持ってきたブランケットを膝にかけてぐっすり寝入ってしまった。隣で寝ている人がいると、何だか自分も暇で眠くなってくる。目をつぶっていると自然に意識が遠のき、次に目を覚ましたのは機内アナウンスの声のせいだった。シートベルトを締めろという指示だ。そろそろ降りる時間らしい。

 しかし、まだこれから乗り継ぎがある。首都のヴァル・セイナから、スウェントまで飛ばなければいけないのだ。ミンイェンはその分の搭乗券も用意しておいてくれていた。

 寝ているノエルを起こし、乗り継ぎ待ちの間に土産物を吟味し、煩雑な搭乗手続きをなんとか済ませ、クライドは乗り継ぎ便で再び寝入った。今度はノエルのほうが起きていて、降りる頃に起こされた。ここからタクシーでリヴェリナタウンの港まで走れば、サラやブリジットたちに再会できる。乗り場に行けば空いているタクシーは何台もあったから、二対三で別々のタクシーに乗り込んだ。五人でひとつのタクシーに乗るのは少し狭かったのだ。

 クライドは、ノエルとシェリーと一緒だった。誰が誰と一緒に乗るかは、コイントスで決まった。グレンとシェリーを二人で乗せればいいと思ったが、最初にコイントスを提案したのはグレンだったのだ。

 港までの道のりはかなり長く感じた。早く着いて欲しくて、クライドはタクシーの窓からリヴェリナに続く道をじっと見ていた。車酔いをしかけたので少し休憩して前を見ていると、海が近づいているのが解った。

 ふわりと気分が高揚する。同じように高揚した声が横から聞こえた。

「運転手さん、あと何分くらいですか」

「もう少しだよ。急いでいるのかね?」

「楽しみなんです、港につくのが」

 シェリーが楽しそうに運転手に話しかけていた。運転手もつられて楽しそうに笑っている。クライドは再び窓の外を眺めた。エアコンの効いた車内を出れば、もう潮の香りが待っているのだろう。どきどきする。

 車内の時計を見れば、午後の三時を少し回ったところだ。陽気なラジオは、夏休みの宿題に追われる学生からのメッセージを読み上げている。宿題が終わらないなら飛行機にして飛ばして、その飛距離についての自由研究をやったと言えばいいというパーソナリティに、思わず笑ってしまう。

「ついたよ」

「ありがとうございます」

 あらかじめ計算してつり銭がないようにしておいた代金を、ノエルが運転手に渡した。クライドはドアが開くなり外に飛び出す。潮風の香りと地面から立ち上る熱気が嬉しい。

「クライド! シェリー、ノエルっ」

 この暑い港でずっと待っていてくれたようで、遠くからサラが駆け寄ってきた。黒のレースをあしらったスカートから覗く白い足がまぶしい。

「おかえりっ」

 ぎゅっと抱きつかれ、思わず後ろに転びそうになる。かと思えばサラはすぐにクライドを離し、笑顔を残して今度はシェリーに抱きつく。シェリーと少し会話をしたあと、サラはためらいがちにノエルの方を向いた。中途半端に上げかけた手を、どうすべきか迷っているらしい。いつもの笑顔を浮かべたノエルはサラに真っすぐ歩み寄り、何の躊躇もない自然な動作で彼女を抱きしめた。クライドはシェリーと顔を見合わせ、肩をすくめて笑い合う。

「の、ノエル、そろそろ離して?」

「嫌だよ」

「もう……」

 サラは小さくため息をつき、恥ずかしそうに、それでも嬉しそうにノエルの背中に手を回す。やっと心から安心した顔をするサラに、クライドも安堵した。

 もう一台のタクシーは数分後に到着し、中からグレンとアンソニーが駆け出してくる。そのときようやくノエルはサラを離し、サラはグレンとアンソニーに駆け寄って数秒ずつくらい彼らをハグし、再会を喜んだ。

「僕たち、帰ってきたんだね」

 アンソニーがしみじみと呟いた。クライドもしみじみとうなずいた。入道雲の広がる空とどこまでも続く真っ青な海に、大漁旗をかかげた漁船がちらほら浮いている。時々、漁師達の威勢の良い声がした。遠洋漁業に出向いていった漁師たちを送り出して、自分達は街に残った漁師たちの声だ。

 見渡せば、民家の庭にひまわりが咲いていた。レイチェルの墓を思い出す。あの大きなひまわりとは品種が違う、小ぶりなひまわりだ。

「そうだな…… ラジェルナだな、この国は」

「もう夏休みも終わっちゃうね」

「ああ」

 クライドが一週間寝ていたせいで、今日はもう八月の二十四日だった。三十一日に夏休みは終り、九月一日から新学年の新学期だ。そうすればクライドは、あと一年で卒業になる。卒業後はノエルの母校である国立アンシェント大学に進学し、そこで精神科医を目指すつもりだ。だんだん未来が見えてきた気がする。

 しかし、そうすると、来年の今頃は大学生になる準備で忙しい。グレンは本格的に歌手を目指して街を出て行くだろうし、ノエルだって年齢が十八に届くから街を出てリヴェリナあたりの病院で研修医になるかもしれない。そうしたら、全員一緒に海で過ごせるのなんて今年が最後なのだ。

「ブリジットにも無事を伝えなきゃ。そしたら皆、海行かないか」

 あの優しい従姉に会って無事を伝え、リヴェリナの夏を満喫してから街に帰ろう。海岸沿いに行けばビーチもある。夏休みの終りはそろそろだが、まだ夏は終わらない。

「よおし、いっぱい泳ぐ!」

「よしトニー競争だ、どっちが速いか」

「グレンに決まってるじゃん!」

 アンソニーとグレンの会話に笑いながら、クライドも参戦を告げると、ノエルがくすくす笑った。クライドの予想では、水泳バトルに勝つのはノエルだろう。もしかしたら彼は、身体が薄っぺらいから水の抵抗が少なくて早く泳げるのかもしれない。

「ねえシェリー、色んな事聞かせてよ。ずっとグレンと一つ屋根の下だったんでしょ?」

「あたしも聞きたいな、主にノエルとのテレビ電話のこと」

「もう!」

 女子の会話を聞きながら、クライドは口角が上がるのを隠せなかった。積もる話もあるだろう。やはり、三日どころでは足りないかもしれない。

 クライドは、懐かしい街に戻ってきたことでようやく開放感に満たされていた。

 どこまでも透明な空気と、目に映る鮮やかな色合い。全てがあの白すぎる空間にはなかったものだし、仲間達が全員揃って騒げる最後の夏休みに相応しいものだと思った。

 きっとクライドは何年経っても、この夏の出来事を忘れはしないだろう。色鮮やかにきらめく幻想のような日々を、クライドは愛しく感じていた。

 全てのものには必ず終りがくるのだから、それならば続いている今を思いっきり楽しもう。いずれくる終焉おわりのことなんて、今は考えなくて良い。今は仲間達の隣にいられることが最高で最上の幸せで、これ以上は何も要らないのだから。

 この関係がいつまでも続けば良い。いや、続かせてみせる。というか、終わる気なんてしない。きっと青年になっても老人になっても、皆で一緒にいられる。

 空は青くどこまでも高く広がり、街は鮮やかな色彩にあふれ、仲間達は笑顔に満ちていた。平和という概念に形をつけるとすれば、まさに今この状態になるのだとクライドは思っている。

 クライドは大きく潮風を吸い込み、口許に笑みを浮かべた。どんどん温度を増す炎天下だが、こんな中を友人達と走り回るのも悪くはない。ブリジットの店のある商店街まではあと少しだ。

 よし、行ってしまえ。思いっきりはしゃいで、羽目を外してしまえ。終わりかけの青春の、今がきっとクライマックスだ。

 漁師たちの声や煌く波を背に、クライドは走り出した。

 魔幻の鐘第二章、完結いたしました。

 そして、魔幻の鐘は、この章をもって完結です。全話合計で一三九話の、生涯で一番長い小説がようやく今日完結しました。

 本当は二年間で終わらせる予定だったのですが、なんと一年も延びてしまいました……。というか、書き始めた当初に友人へ送りつけたメールには『一年で完結させる』なんて恐ろしく無茶なことが書いてありました。途中にブランクがありすぎて、何だか作品が大変なことになっています。

 思えば連載当初はまだ執筆暦が二年ほどで、長編小説なんて一作しかかき上げたことがなかった時代です。読み返して見ると文章が古すぎて本当に恥ずかしくなりますので、これから修正作業にうつりたいと思います……(笑


 お読みくださって本当にありがとうございました。三年間、応援してくださった方の声が本当に励みになってきました。

 次の作品でまたお会いできることを願っています。


 二〇〇八年 四月二十四日

 水島佳頼

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