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第四十九話 チェンジ・ザ・ワールド

 しばらくして、クライドは目を覚ました。白い天井が見えるが、辺りに人はいなかった。もしかしたら、あのまま誰にも拾われずにミンイェンの部屋にいるのかと思ったが、違うようだ。何も無い真っ白な部屋に、クライドは一人でいた。

「……おーい」

 声を上げてみても、自分の声が四方の壁に反響するばかりで、誰か別の人の声など返ってこない。

 クライドは起き上がり、ポケットの携帯を見た。時刻表示が壊れているようで、時計だけ読み取れなかった。

 それを確認した途端、焦りが湧いた。一体自分は何をしたのか。魔力で携帯が壊れるなんて、説明書には書いていなかったはずだ。強力な電磁波に注意しろとか、そういう類のことはあったかもしれないが。それにそもそも、携帯はあの実験の時に散々魔力に晒されていたのに無事だったのだ。

 開いたり閉じたり電源を入れ直したりしてみたが、時計は表示されないままだ。まさか、こんなところで壊れるなんて。

 そうだ、電話をかけてみよう。時計は壊れても電話なら使えるかもしれない。

 メモリーを開き、とりあえず目に付いたミンイェンの携帯に電話してみる。しかし、呼び出し音が鳴りっぱなしになるばかりで、ミンイェンが出る気配が無い。他の知り合いや実家にも片っ端から電話をしたが、同じ結果に終わった。ためしに救急車を呼んでみるが、それも未遂に終わる。

 クライドは途方にくれた。この真っ白な部屋は、たぶん研究所のどこかの部屋だと思うが、壁を触っても開閉操作用のパネルが見つからない。さらに困ったことに、初めてここに来た時と同じように壁の厚さを調べてみると、均一らしいということが解ってしまった。これでは体当たり方式も通用しないではないか。

「ここどこだよ? おい、誰か」

「誰もいないよ」

 ふと後ろで声がした。弾かれるように振り返るが、誰もいない。

「お前、何?」

 もしかすると、幽霊か何かだろうか。最初はリィに怒られるのかと思ったが、この声はリィと声質が全く違った。リィよりもっと大人で、発音の仕方もどちらかといえば西洋的なのだ。

「初めまして、かな。でも、実はそうじゃない。俺はお前のよく知ってる、でも一番知らない奴だよ」

 声は後ろから聞こえる。クライドが上を向いたり、前後左右を見回したりしても、声は必ず後ろからした。

「意味わかんねえよ。ここから出してくれ、皆に迷惑かける」

 とはいったものの、クライドが閉じ込められているとしたら真っ先に助けに来るはずのグレンが壁の向こうから体当たりを繰り返している様子はない。耳が痛くなるほどの静寂に、どことなく恐怖すら感じ始めた。

 後ろの声は楽しそうに含み笑いして、わざとゆったり喋る。

「それはできない。君には、なぞかけをしなくちゃならないからね」

「だから、意味わかんねえ」

「ミンイェンのクロスワードが解けるなら、きっと問題ないよ。君は、ここから出る方法を考えなくちゃならない。仲間達には頼らずに、自分の力でね」

 声はからかうように、後方で大きくなったり小さくなったりを繰り返している。聞いていて不快だった。

 聞いた限りでは、十代後半くらいの歯切れの良い発声をする男の声だった。実体は見えないから、男なのか女なのかは解らない。思念を持ったゴーストなのか、はたまたマーティンのように外側はどうにでも変えられる魔道士なのか。クライドはあらゆる可能性を考えながら、もう背後を向かずに正面を向いて喋ることにした。どうせどこを向いても、声はいつだって後ろから聞こえるのだ。

「馬鹿にしてんの?」

「別に。馬鹿げてると思うなら考えなくて良いけど」

「そういうことじゃなくて、こういうところに閉じ込められたら出る方法を考えるのは当たり前だっていうのを俺は言いたいんだ」

 相手の声はしばらく黙る。クライドがだんだん苛立ちを感じてきた頃に、『それ』は思い出したようにまた話しかけてきた。

「あ。ちなみに今の君は、魔法を使えないんだ。やってごらん? 死ぬから」

「……十分解ってる。さっきあれほど使ったんだから、もうこれ以上は無理」

 クライドはもうこの状況が嫌になってきて、部屋の真ん中にどっかりと腰を下ろして天井を見上げた。天井は高い。上の方から満遍なく光が降り注いでくるように、天井全体が照明になる工夫がしてある。

「あれ、もう諦めちゃった?」

「うるさい」

 からかうようなその声に、神経を逆撫でされるように感じる。相手は尚もクライドを煽る気なのか、わざとらしいため息をついた。

「なあんだ、結構骨のある奴だと思って連れてきたのに。これだったら、最初からなぞかけなんてする意味なかったな」

「うるさいって言ってんだよ、今考えてんだから邪魔すんな」

 脱出の方法より先にこの耳障りな声を黙らせる方法を考えたいと本気で思い始めた頃、声は背後で陰鬱に笑う。

「俺ね、仲間に頼りっきりで自分じゃ何も出来ない奴が一番嫌いなんだ」

 耳を貸すつもりはなかったのに、胸の奥が締め上げられるように苦しくなった。

 今のは完璧に不意をつかれた。何もできない奴、その一言は今一番言われたくない言葉だった。

「君って、仲間に頼らずに何かできる?」

「想像」

 即答できるのはそれくらいだった。仲間の手を借りずにできることは何かなんて、そんなことはじっくり考えたことがなかった。

「……え。そんなこと、当たり前にできることじゃないか。君にしかできないことって、何があるの?」

「想像…… それから」

 運動神経のよさ? それは『できること』とは少し違う気がする。洗濯や掃除はあたりまえにできるし、料理本を見れば大体の料理を作れるが、それを言ったところで全て『あたりまえ』だ。

「え、何それ。想像するだけ? つまんない人」

 あからさまに馬鹿にされ、苛立ちを抑えられなくなる。

「人じゃないから」

 この際相手にどう思われてもいいと思い、半ば自棄でそう言っていた。

「知ってるよそんなこと。知ってる上で、俺は別に血統なんて論点にしてない」

 さらりとそう言われ、クライドは黙り込んだ。当たり前のように答えられたが、クライドがエルフの混血だと知っているのはごく限られた友人たちと、この研究所の研究者たちだけだ。何故、『これ』はクライドのことを知っているのだろう。やはりここは、研究所なのか。

 けれど、半分そんな気がするし、半分はそうでない気がしている。研究所にいるのなら、仲間がいる。それに、全ての部屋にミンイェンの声が届く仕組みになっている。壁のどこかに、ちゃんとカードリーダーもあるはずだ。その全てがないということは、ここはまた別の閉鎖された空間なのだろう。

「ここどこだろ」

 思わず呟くと、背後の声がくすくす笑いながら近づいてくる。

「質問タイム早いよ。自分で何かの答えを見つける力、ないんだね。いつも仲間頼りだから」

「一般的な生活くらい仲間がいなくてもできる。答えだってそのうち見つかる。そりゃあ、仲間の手を借りれば早いけど」

 むっとしながら言うと、後ろの声はけらけらと耳障りな笑い声を立てた。

「ふうん。じゃあ仲間って、一般的な生活をしていく上では要らないんだね」

「そういうわけじゃない」

「矛盾してるよー」

 いちいち癪にさわる声で後ろからからかわれ、クライドは触れないことを解っていながら背後の空間を勢いよく殴り付けて八つ当たりする。

「……仲間がいなくても一応は生きていけるけど、そのうち孤独とストレスに負ける」

 答えてみれば、相手は感心したようにへえと呟いた。

「じゃあ、仲間は孤独を埋めてストレスを消すための道具なんだ! よくわかった、そういうことね」

「違う、道具なんかじゃない」

「だってそうでしょ? 孤独やストレスは仲間を使えば消えるって言ってるんだから」

 それは突飛な、クライドにしてみればかなり突飛な言葉だった。相手にとってはこれが当たり前の考えなのだろうが、クライドには理解できない。

 自分は使っているつもりもないし、使われているつもりもない。そんな、モノのような扱いなんてお互いにしていないはずだ。この声の主は、根本的にどこかおかしい。

「確かにそうだけど、使うって言い方は間違ってる。お前友達いないだろ」

「いないよ。必要も無い」

「そういう奴にはいくら話したって無駄だ」

 ここへきてようやく、彼(と呼ぶべきかどうかは不明だが)の人を苛立たせる態度の原因を突き止めた気がした。

 きっと彼には、人間の内側を構成する何か大切なもののいくつかが欠けてしまっているに違いない。これでは人付き合いなんてできないだろうし、する気がないのもうなずける。だから彼は、ここで一人で人をからかうのを楽しんでいるのだろうか。

「ざんねん、連れないなあ」

「いいから黙ってろ」

 彼と話していたら出られるものも出られない気がしてきた。とりあえず立ち上がって、四方の壁に一度ずつ体当たりしてみるが、壁はどう足掻いても壁だった。それもそうだ、壁が扉になっているなんて、ミンイェンの研究所くらいなものであろう。

 勢いが良すぎて壁にぶつかった反動ではね飛ばされた。床にしたたかに腰を打ちつけ、肺の空気が一気に全て外に出た。咽ていると、背後の声が凄い勢いで笑い出した。どうしようもなく苛々する。

「黙れよ」

 人(かどうかは解らないが)に見られていると思うと、あまり大胆な行動に移れない。もっと激しく体当たりしてみたかったが、この調子だときっと背後の彼はまた笑う。そうなれば自分の苛立ちが最高潮に達することは目に見えていたし、もうこれ以上ストレスを与えて欲しくないとクライドは感じていた。

「ねえねえ、ヒントだけ教えてあげようか。このままじゃ君、一生ここからでられないからね。まあ俺はそれでいいけど」

「ふざけんな」

 こいつの手なんか絶対に借りないと、クライドは強く思う。見えもしない相手を肩越しに睨みつけ、立ち上がって床を軽く蹴りつける。床も厚さが均一らしい。天井は高すぎて手が届かない上に、投げられそうな大きさのものは携帯しか持っていないので断念した。

「……早く戻らないと」

「何のために?」

「一時間で戻るって約束したんだ。誰のしわざか解らないけど、閉じ込められてる場合じゃないんだ」

「急がなくたっていいのに。ねえ、君はどれくらいここにいたか知らないでしょ」

 そういえば、言われてみるまで気づかなかった。起きてからはまだ一時間もたっていないだろうが、起きる前までは何分寝ていたのだろう。何にしても、最後に時計を見たのは約束の時間の二分前だった。たとえ意識がなかった時間がたった一瞬だったと考えても、グレンたちがもうミンイェンの研究室に到着しているということは明らかだった。

 そう考えると、恐ろしくなってくる。自分はタイムリミットまでのたった二分の間にどこへ連れ去られたのだろう。二分以上が経過したあとなら、グレンたちが傍にいてくれるはずだから誰かに誘拐されるなんてことはまず考えられない。しかし、状況を考えればクライドは明らかにどこかに閉じ込められていた。空白の二分間に何かがあったとしか、言いようがないではないか。

「……どれくらいだよ、俺がここにきてから今まで」

「一ヶ月」

 忘れていた。

 ここにいるのは自分と、常識知らずの苛立たしい『物体』なのだ。彼に何か尋ねたところで、まともな返答が返ってこないことは必至だった。

「お前に答えを求めた俺が悪かった。更に質問するのももう馬鹿らしいからやめとく」

「いいじゃん、してみなよ。本当のこと答えてあげるかもよ?」

「お前と遊んでる暇はないの」

「言ってみてよクライド」

 だんだん暇になってきたのか、彼はしきりに絡んでくるようになった。彼と話している暇があったらここから出る方法を考えたい。

「ねえクライドー」

 そうは思ったものの、この声が邪魔で考えが何度もぶつ切りになって消えていく。もう隣で喋らせておくのが嫌になり、クライドは渋々切り出した。

「俺が聞きたいのは、ここに俺を連れてきたのは誰で、ここはどこで、何の目的があって俺がここにいるのかってこと。一番根本的なことだ」

「ふうん。じゃあ一個だけ真面目に答えてあげるよ。信じるかどうかは君次第」

 クライドは黙り、彼が続けるのを待った。彼はもったいぶるようになかなか話を始めなかった。しかし、どうせ彼が喋り出すのはまたとんでもない大嘘だろう。クライドはもう待つことなどやめて、脱出の計画を練り始める。

「君がここに連れてこられたのは試練を受けるためなんだ」

 唐突なタイミングでそういわれ、思考が飛ぶ。

「は?」

「無事に出られたら、試練は乗り越えたことになる」

「じゃあ出られなかったら」

「そのままここで死ぬ」

 それは、今までの楽しそうな声色ではなかった。束の間、空気がぴんとはりつめたように感じる。彼の言葉を無意識に信用している自分がいた。

 しかし、次の瞬間に再び彼は先ほどまでのペースを取り戻した。

「でもそうしたら俺も消えちゃうんだよねー。だからちゃんと出てよ?」

「ふざけんな、出せ」

 たぶん、本当にここから出られなかったら死ぬだろうと思う。それは確信できる。いつまで待っても助けがくる気配はないし、四方は分厚い壁に覆われている。この部屋はどういう構造か知らないが、安易な人の出入りを絶対に許さないということだけは間違いない。設計者はミンイェン並みか、それ以上のひねくれ者らしい。

「俺、別にふざけてなんてないよ。ちょこちょこっとクライドを手助けすることはできても、入り口をひらくことはできないし。だって実体がないからね」

 残念そうなのか楽しそうなのか解らない微妙な声で言われた。顔を見ることができたら、きっと彼は今にやけているに違いない。などと考えながら、クライドは四方の壁をにらむように見つめた。変わったところは何も無いが、ひらめいたことは一つだけあった。

「お前が『実体が無い』ってことを理由に俺をここから出せないとなると…… この部屋の出入り口は物理的な攻撃で開くってことか」

「そうとってくれるなら、俺のいいたかったことは全部伝わったかも」

 背後の声を聞き流しながら、クライドは再び壁を蹴りつける。どこの壁も均一の厚さで、しかも蹴破れるほど脆くは無かった。けれど、物理的なダメージを与えてこの部屋から出られるということは、出口があるのは壁か床か天井のどれかだということになる。この立方体をした部屋の、全部で六面ある等面積の壁や床や天井のどこかに出口があるのだ。

「あー、天井とどかねえや」

「残念だね。諦めてこの部屋で暮らせば?」

「お前、少しでいいから黙ってろ」

 後ろの気楽過ぎる声を黙らせながら、クライドは壁をけりつける。何度蹴りつけても崩れる気配はなかった。少しでも崩れれば、そこに足をかけて天井を調べたりできるはずだとクライドは踏んでいたのだが、壁がどうにもならないのではなす術も無い。

 何度も壁を蹴りつけ、体当たりをして、だんだん息が切れてくる。よろける身体で辛うじてたっていると、自分の呼吸と心音がいやに大きく聞こえた。

「ヒントあげようか? 今度こそ俺のこと信じてみてよ。そしたら、ヒントあげるよ?」

「どういうヒント?」

「こういうの」

 そう言われて思わず肩越しに振り返った。背後の声に実体はなく、振り返っても白い壁があるのだと解っていたのに。

 しかし、振り返った先にあったのは白い壁などではなかった。そこにあったのは、鳶色の髪。一瞬これはノエルではないかと思った。

「え、お前……」

 どう考えても、どう見てもこれはノエルだった。けれど、何か様子が変だ。まず、見える向きが可笑しい。

 クライドは正面を向きなおり、その理由に納得する。自分はベッドに寝ていて、ベッドサイドにノエルがいたのだ。これが、あの声だけの彼がいうヒントらしい。

「ノエル、おはよ」

 微笑みかけてみるが、ノエルはクライドの方を見ようとしない。衝撃を覚え、胸の奥が疼く。

「ノエル、どうし」

「お前何とかできないのかよ? 医者なんだろ」

 た、まで言えずにノエルをまくしたてたのはグレンだった。隣のベッドに腰掛けて、ノエルを睨みつけている彼の目元にはくっきりとくまが見える。どうして彼はこんなにやつれているのだろう。

 クライドが思わず口を挟もうとしたとき、ノエルが顔を上げる。

「これが現代医学で今できる精一杯なんだ。僕だってもっともっと力になりたいよ」

「言い訳ばっかしてんじゃねえよ、そんな落ち着いていられるんだったらもっと別の方法だって考え出せるだろ」

 ノエルが視線を下げて深いため息をつく。もう言い返す気力も無いらしい。ノエルもだいぶやつれていて、気のせいかいつもよりももっと痩せて見えた。

「ねえ、もうやめてグレン、さっきから…… ノエルは何も悪くない。十分頑張ってくれてるよ」

 後ろからグレンに抱きつくようにしてそう言ったのはシェリーだった。グレンは胸に回されたシェリーの手を軽く撫で、小さくため息をついている。グレンにも、これ以上議論を続ける気はないらしい。

 ここまで状況がわかったところで、あれ、とクライドは思う。どうしてシェリーがいるのだろう。彼女はまだセルジとノーチェと向かった旅行から帰ってきていないはずだ。確か、あと一日か二日くらいは旅行に行っていないとおかしいはずなのに。

 それに、ノエルの言葉も気になる。力になりたいとは、一体何について言っているのか。

「クライド、起きないね」

「いや、起きてるけど」

 クライドを見下ろすアンソニーは、泣き腫らした赤い目をしていた。クライドの声は仲間達に聞こえていないようで、この分では起きている姿もきっと見えていない。

 恐ろしくなった。では、自分がここから起きてベッドの足元辺りから今いる場所を眺めてみたらどうなるのだろう?

 実際にやってみた。恐る恐る起き上がり、ゆっくりベッドから起きて背後を振り返る。

 自分がいた。

「……え」

 ベッドに寝ているのは紛れも無く自分だった。血色は悪く、両腕に点滴を刺され、手術中のミンイェンと大差ないくらいの機材類が近くに寄せ集められている。心電図が規則正しく、一応は脈を刻んでいるのが確認できたが、ベッドに寝ているクライドの顔は蒼白でかなり死人に近いように見えた。

 言いようもない恐怖で足が震えた。膝に力が入らなくなって後ろに転ぶが、自分が床に転がった音がしなかった。今は自分にも、実体が無い。

「状況、理解できた?」

 床に崩れ落ちた姿勢のまま自分の両手を見下ろして固まっていると、背後から声がした。

「お前、これ」

「ヒントだよ。俺があげるヒントは、現実世界の状況のこと。君がこれを見て何かに気づくことがあれば、大丈夫。もう少しだけここにいられるけど、残り時間は僅かだから気をつけて」

「そんな」

 気づくって一体何に? 喉元まででかかった言葉を飲み込み、クライドは口をつぐむ。言いたいことが多すぎて何から言ったらいいのかわからなかった。これは本当に現実なのか、現実では今何が起きているのか。ここで寝ているクライドと、今ここにいる自分は同一人物であるのかそうではないのか。頭が混乱しすぎて状況が理解できない。

「クライドに残された時間はあと一日。一日経ったら、もう戻れない」

「嘘、だろ?」

 いきなりそんなことを言われても、クライドは混乱するより他になかった。声はそれきりしなくなった。代わりに、また仲間の声が聞こえ始める。

「このままクライドが起きなかったら、どうなるんだ」

 グレンの低い呟きだった。暫く誰も何も答えなかった。

「日常の何もかもが空っぽになる。クライドがいない生活なんか、俺は知らない」

 狭い街の中で、幼い頃から一緒に育ったのだ。グレンにそう言ってもらえるのは嬉しかったが、ちょっと複雑だった。

 まだ自分は死なないのだから、そんな話は勘弁して欲しい。

「何が何でも死なせないよ! 僕がずっと近くにいれば、きっとクライドはしょうがないなって戻ってきてくれるから」

「ちゃんとここにいるよ。戻ってきたってば」

 言っても聞こえないことは解っていた。それでも、声に出して伝えたい言葉だった。

「そうだね、アンソニー。何が何でも死なせない。クライドはきっと僕を信じてくれてるから、僕はそれに応えなきゃ。意識を取り戻させるには、話しかけるのが一番効果的なんだよ。ねえクライド。僕の声、聞こえるかい」

「勿論」

 ノエルの骨ばった細い手が、白いシーツに横たわる現実世界のクライドの髪をなでる。目に入りそうだった前髪を分けながら、ノエルは穏やかに笑った。

 すると今度はシェリーが真摯な目でクライドを見て、それから覗き込んで微笑む。クライドはその様子を、ベッドに横たわる自分の足の方から見ていた。

「クライド、あたしだよ。戻ってきたらクライドが倒れてるんだもん、びっくりした。薬はあたしとノエルで煎じたの。効き目は抜群だから、そろそろおきてくれても良いんじゃない?」

「そうだな。もうちょっと待ってて」

 やはり聞こえている様子はなかったが、クライドはそれでも声を返し続けた。

「どうしようか迷ったけど、サラにもクライドの容体は伝えることにしたんだ。勝手に携帯使ってごめんね」

「別に、そんなの気にしてないから」

「それから、ミンイェンが心配してた」

「へえ、あいつはもう平気なのか? 色々と」

 シェリーは下唇を噛んで俯く。何を言っても反応しないクライドを見て、死ぬかもしれないと本気で思っているのだろう。そんなシェリーの肩にグレンが手を回し、言葉を失ったままのシェリーは静かに涙を流す。

「あ、大丈夫。秘密にしたかった件については何も言ってないからね。マーティンが実は起きてて、色々手を回してくれた。心配ないよ、何も心配ない。ほらシェリーも、何も心配ないから……」

 シェリーに代わり、焦ったようなアンソニーが言葉を引き継いだ。

「まあ、ミンイェンにネタバレしていたら俺、ここで寝てる意味ないからな」

 言葉を返しながら、両手で顔を覆って泣いているシェリーを何度も見る。声が届けば良い。それならきっとシェリーは驚いて泣き止む。けれど、願っても願ってもクライドの声は誰にも届かなかった。

「心配ないよクライド、僕らはずっとここにいる。君が起きるまで傍で待っているからね」

「ありがとノエル。でもそろそろ寝たらどうだ?」

「そうだよ、ミンイェンが派遣してきた医療チームの処置だから安心できるよ! ミンイェンもマーティンも無事に生きているんだから、クライドだってすぐ目を開けてくれるよね?」

「ああ、それなら安心だ。だから俺、こうして意識なくしてはいるけど、ちゃんと生きてるんだろ?」

 だんだん空しくなってきた。誰もクライドの存在に気づかない。四人で焦り、悲嘆に暮れ、無理に笑顔を繕ってここにいる姿なんて、見ている方が苦しかった。

「やだよ。何だこれ?」

 思わず呟いた声は乾いてかすれ、重い空気にむなしく響いた。アンソニーが泣き出す。ノエルが彼の頭をなでながら、クライドに何度も謝った。それを、グレンがまたきつい言葉で止めようとする。喧嘩しないでとアンソニーが叫ぶ。一気に誰もが黙り込み、まるで葬式のような雰囲気で俯く。

「やめろよ、こんなの俺が望んだ終りじゃない! 俺だけじゃない、誰も望んでない!」

 本当なら、この旅の終りは全員で明るく笑顔で迎えるはずだった。なのにどうして、自分は起き上がることが出来ないのだろう。どうして声は届かないのだろう。どうして皆、喧嘩ばかりしているのだろう。

「時間切れ」

「え?」

 振り返るとその瞬間、部屋は白一色の何も無い立方体に戻っていた。がくりと膝をつき、クライドは八つ当たり気味に壁へと勢い良く頭を打ち付ける。くらりと意識が一瞬遠のいたほど、壁は硬かった。ぶつかったとき、ちゃんと音もした。

 この身体が、どうして外に出た途端実体を失うのだろう。結局何もできずに戻ってきてしまった自分が情けない。

「ねえクライド、ちゃんと気づいて。いつだって君は自分で、あるいは仲間の力で、何かに気づいて歩いてきたはずだよ」

「黙ってて…… 頼む」

「気づいて。自分ができることに」

 名残惜しげに声は消えた。クライドは部屋の真ん中に寝転がり、四方の壁を軽く確認した後目を閉じた。どうしたらいいのか解らない。自分に出来ることなんて、何もない。

 この白い空間は天国なのだろうか。この根本的にずれた男は、天国の入り口を見張る門番か何かだろうか。そうである可能性が高いような気もするし、そんな馬鹿馬鹿しいことなどありえないという気もする。

「だいたい、俺が天国を造るなら、こんな殺風景な場所にはしないからな……」

 宗教観によって天国のイメージは異なるだろう。統一された場所があるわけではなく個々の深層心理で天国の風景が創られていくのなら、クライドはもっとましなものを創ると思う。どちらかといえば、クライドにとってこの空間は地獄に近い。

「壁を蹴破る想像。天井が崩れる想像。床に穴あける想像。全部だめだろうな、俺には魔法が使えない」

 ため息をひとつついて、小さく目を閉じる。

「……魔法は使えないけど、想像くらいならできるかな。ただ想像するだけなら、魔法を使わなくてもいいわけだ」

 だとしても、想像して何が変わるのだろう。クライドの特技の想像はあくまで『魔法としての』想像であって、単に考え事をするときの想像ではない。だいたい、そんなものは特技などといえないではないか。

 しかもその唯一の拠り所である想像力すら、時に無力だ。想像力が足りないせいでレンティーノの裏切りに気づかなかったし、セルジとの対面も怒りを伴った。ミンイェンの暗い過去にも寄り添いきれない部分があった。ハビとイヴァンを、傲慢にも救うなんて息巻いてしまった。

「……」

 だめかもしれない、と思う。

 けれど、諦めきれない自分がいる。目を開いて、クライドは両手を見下ろした。この身体は、時差が半日もある世界の反対側から付け狙われるほどの特別な魔力を帯びているはずなのだ。

 想像力は武器だ。武器は磨けば、より強くなる。

 アンシェントの鐘楼でジャスパーの目を焼いたこと。イノセントを燃やしたこと。ノエルの自宅を吹き飛ばしたこと。制御の出来ない想像の力を、クライドは初めて飛び出した街の外で少しずつ自分の力にしていった。

 魔法は無限だ。出来ない事なんて、本当はないはずなのだ。今は思慮が足らなくて想像力を上手く使えていないとしても、それでもクライドの本質は、想像し創造することにある。ここでそれを諦めるのは、早計ではないのか。

 クライドの想像力をもってすれば、きっと天国はもっと豊かだ。アンシェントタウンに似た雰囲気の街をきっと想像する。であればクライドは、天国になどいないのだ。

 では、どうだろう。天国でないなら、自分は確かに地上にいるはずだ。今のクライドには実体があるし、痛みを感じる。そうすると、この身体は研究所になくてはいけない。クライドはそう考えた。

 研究所の中にこんな場所はないと思い込んでいたが、ありえる。研究所の中にこんな不可思議な部屋を作る方法は、一つだけあるではないか。

 ……そうか。これが答えだ。

 ようやくそう思うに足る結論に辿り着いたクライドは、小さく深呼吸した。後ろの声は、くすりと笑った。

「なあ、聞いていい? ここって、俺が造った空間なのか?」

 上半身を起こしながら問う。背後の声は、嬉しそうに笑い声をあげた。

「さあ、どうだろう。じゃあ、俺は何なんだと思う?」

「俺の深層心理が作り出した幻影。無意識に手助けしてくれる仲間を作ってたんだ、俺はきっと。だからお前の力を借りて、どういう状況かわからないけど皆の様子を確認しに行けたりした」

「へえ、俺、クライドの仲間なんだ?」

 いたずらっぽく笑う声が後ろでする。相変わらず耳障りだと思う反面、クライドは少しこの捻くれた男に愛着を持ち始めていた。確証は無いが、恐らく彼はきっと、クライドにとって大切なものだ。

「仲間とはちょっと違う。だってお前は俺が作り出した、多分……」

 言いながら振り返る。今なら彼の実体のない体が、見える気がした。

「やっぱり、他の誰でもない俺なんだ」

 若干表情が余裕そうなところをのぞけば、背後の彼もクライドだった。近頃では自分自身に苛立つことも多く、思慮の足りない不完全な自分のことを憎たらしく思うことすらあった。だからクライドはこんな捻くれた分身を生み出してしまったのだろう。

 この事態に、現実世界を見に行ったときに気づかなくてよかったと思う。そんなことになったら、ベッドに寝ているクライドと、今ここにいるクライドと、背後のクライドの三人が、同じ空間に出現することになってしまうではないか。どうせ見えるのは自分だけだと考えても、薄気味悪いことである。

「やっと気づいた」

 彼は笑った。服装は今の自分と同じ、ジーンズにラフなTシャツ姿。頬や腕に負った傷もそっくりそのままだ。

「最終的にちゃんと気づくってことを、お前は解ってただろ。だってお前は俺が創ったんだ」

「まあね。とりあえずおめでとー、俺の名前教えてあげる。イディルクっていうんだ」

 ジーンズのポケットに指を引っ掛けて、イディルクと名乗るクライドの分身は楽しそうに笑った。名前がついていることに一瞬驚いたが、何だ、簡単すぎるアナグラムだ。EDYLC、逆さから読めばCLYDE、つまりクライドという言葉になる。

「なるほどね。正反対、ってことか? お前のその遠まわしなお節介、あながち正反対ともいえないと思うけど」

「なるほども何も、俺を作り出したのはクライドだろ」

「まあな」

 少しだけ笑い合う。自分と話をするなんて変な感じだ。けれど、完全に自分そのものというわけではない。よく似た相棒、というようなものとして落ち着いて受け止める。

「俺はこの状況をどうにでもできる、そうだろ」

「うん。気持ちひとつで俺を消す事だって、この部屋を吹っ飛ばすことだってできる。武器なんでしょ、クライドの想像」

「じゃあどうしてさっきまでは出られなかったんだ?」

「クライドが心の奥の方で、どうせ出られないって諦めきっていたから。俺があげたヒントの『実体が無いから助けられない』って言うのは、俺は『俺自身に考えを持てる思考回路はなくて、クライドのように自分から何か想像して実行する力がない』って意味で言ったんだ」

「ふうん……」

 いずれにしろ、出る方法がわかったのだから早く出て行くに越したことは無かった。クライドは壁際まで下がり、反対側の壁を睨みつける。呼吸を整え、背後の壁に片足をつけて踏み出せるようにして、最後にイディルクの方をちらりと見る。

「じゃ、行くよ。ありがと」

「感謝されてもな。たぶん俺もこの空間も、クライドがいなくなった途端に不要になって消滅するから」

「それでもだよ。じゃあな」

 きっと消滅したとしても、クライドの記憶に彼のことは残り続けると思う。そう思いながら、背後の壁を勢い良く蹴ってクライドは壁に突っ込んだ。

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