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第四十八話 大事なものはすぐ傍に

 誰もいない静かな廊下を、貧血から解放されて軽くなった気がする身体で歩く。ミンイェンの部屋に近づくと、向かいからレンティーノが小走りでやってくるのが見えた。

「どうしたんだ?」

 声をかけると、レンティーノは止まって笑顔を作る。すぐにでもどこかに行きたそうにしているから、あまり引き止めてはいけないだろう。

「ミンイェンにリンゴを頼まれたのですよ。術後の食事は初めてですから、擦り下ろしたいと思いまして。時間がかかるでしょうから、早く食堂へ行かなければなりません」

「そっか。あ、じゃあさ、一時間くらい戻ってこないでくれるか」

 こんな軽い言葉でレンティーノがすぐに頷くはずがないことは百も承知だった。案の定、レンティーノは早く離れたそうだった雰囲気すら崩してクライドをじっと見下ろしてくる。

「……どういう、意味ですか?」

「ミンイェンには俺から時間かかるって言っておくよ。一時間ジャストで戻ってきて。それ以上ならいいけど、以下はだめだから」

 時間がない。グレンに言われた時間から、ぴったり一時間でミンイェンに幻を見せられるかどうかは微妙なところなのだ。

 まだ障害物はたくさんある。動けないマーティンや、まだミンイェンを説得中かもしれないアンソニーがどう出るかによって、幻像にかけることができる時間が変わってくる。それでも、ミンイェンの傍から離れようとしないレンティーノが一番の懸念だった。だからこうして廊下に出ているのは好都合だ。

 十分やそこらで終わらせるようなことはきっとできない。最悪の場合、ミンイェンを余計混乱させて終わることにだってなる場合がある。そこは、クライドも承知していた。だから早く障害物を抜け、ミンイェンのいる空間にたどりつきたかった。

「何をするつもりですか。はっきり教えてください」

「未来のための魔法。今はそれしか言えない」

「そこに私がいてはいけないのですか」

 頷く。レンティーノは少し俯いた。けれど、ポケットに手を突っ込んで彼は小さくため息をつく。顔を上げた彼の眼鏡のふちに、廊下の抑えた照明が反射した。

「一時間、ですね。解りました。貴方との約束は果たします。ですが、貴方も私と約束をして下さい」

「何だよ」

「後ほどお茶に付き合って下さい。誰もいないところで、詳細を一対一でお聞きします」

「わかった。必ず話すから」

 レンティーノは目を伏せてくるりと背を向けると、それきりクライドの方など一度も見ずに去っていった。クライドも早足でミンイェンの部屋に向かう。クライドの足音以外の物音は相変わらずしないが、少なくともマーティンとアンソニーはそこにいるだろう。

 確認もせずに白い壁に突っ込む。運良くドアは開いたままだった。ミンイェンが顔を上げ、嬉しそうに笑った。マーティンはミンイェンに背を向け、眠ったように動かない。

 ミンイェンの荒れた様子が目に入らなくてとりあえずほっとしていると、部屋の奥にあるデスクから薄いラップトップ(ミンイェンの仕事用だ)を抱え、アンソニーが小走りでやってきた。

「クライド! ミンイェンがね、りんご食べたいって」

 食欲がでるほどに回復したミンイェンのことが、よほど嬉しいのだろう。アンソニーはラップトップを抱えたまま飛び跳ねる勢いで笑顔になる。

「ああ、レンティーノにそこで会って聞いた。遅くなるって言ってたぞ」

「ええっ、嘘。お腹減ったよ」

 ベッドの上からかなり残念そうに反応してくるミンイェンに思わず苦笑する。まだ本調子ではないのが声で解った。

「腹減ったらりんごなのかよ」

 純粋に疑問を感じて笑いながら言えば、ミンイェンは大真面目に頷く。アンソニーはミンイェンのベッドに小さなテーブルを置き、その上にラップトップを置いて電源を繋ぎ始めた。まだ安静にしているべきだと思うが、ミンイェンはここで仕事をしたくてアンソニーに道具を取ってくるよう依頼したらしい。

「前にもレンティーノにりんご剥いてもらったんだ。レンティーノ、りんご剥くの上手いんだよ。皮一本につながるんだ」

「ふうん。飯は食わないのか」

「ちゃんと食べるけど、りんごが先」

 そんな会話をしながら、何気なくアンソニーを手招く。

「飲み物貰ってきてやるよ。何がいい?」

 言いながら、アンソニーにちらりと目配せする。話したいことがあるとき、こうして視線をやるだけでアンソニーは大体察してくれる。軽く頷いて、アンソニーは先に部屋を出て行った。

「本当に? じゃあね、はちみつレモンドリンク。自販にあると思うから」

「わかった」

 笑みを浮かべて手を振りながら、クライドは部屋の出口に向かった。肩越しにちらりと振り返れば、マーティンはまだ起きる気配を見せなかった。眠っているのだろう。痛みで気を失っているということなら、ミンイェンがもっとおろおろしているはずだ。

 白い壁を抜け、待っていたアンソニーにごめんと声をかける。彼はぱっと顔をあげ、クライドについてくる。

「どうしたの? クライド」

「ミンイェンに魔法をかけるから、先帰ってて」

「……クライド」

 ぴたりと足をとめ、アンソニーは非難がましい目でクライドを見上げた。

「グレンとノエルには許可とってあるから」

 数歩先で立ち止まってそう言ってやれば、アンソニーは『じゃあ安心だね』と笑ってくれるのだと思った。けれど、その表情は一層険しくなる。

「じゃあ尚更悪いことだ。何するつもりなの?」

「詳しいことは秘密。グレンとノエルに聞いて」

 まだ納得した様子のないアンソニーに、ほんの少し焦りが芽生える。このままアンソニーが納得してくれなかったらどうしよう。このままでは、折角グレンやレンティーノたちから了承を得た時間が無駄になる。

「一時間以内に終わるから」

「でも」

「お願いだトニー、ミンイェンのためなんだ」

 空色の瞳を真っ白な廊下へ向け、アンソニーはしばらく困ったように考え込んでいた。しかし、少しして彼は顔を上げる。クライドはその顔をじっと見つめた。

「無事に戻ってくるよね? 絶対一時間以内に終わるんだよね?」

「絶対とは言い切れないかも。でも、ちゃんと皆で帰るよ」

「うそついたら怒るよ」

「大丈夫、なんとかなる」

 アンソニーは渋々頷いた。そして、一人でクライドを追い抜いてすたすた歩き始めた。大またで歩き、それからふと思い出したように足を止めてアンソニーは数十メートル先で振り返る。

「はちみつレモンドリンク探してくるから。一時間したらすぐ行く」

「ごめん」

 不機嫌そうな顔だったアンソニーは、クライドのしょげた様子を見てようやく軽く笑みを浮かべた。クライドはほっとして、微笑みかえす。

「頼んだよ、ミンイェンのこと。クライドならきっとうまくやってくれるって僕は信じてる」

 何を言ったらいいのかわからない。色々な感情がクライドの中で渦巻き、ひしめきあって胸を締め付けていた。ただ無言で頷くと、アンソニーは手を振って駆けていった。あとは、マーティンが寝ているのを確認してから本番に移ればいい。

 廊下を歩き、足音を忍ばせてミンイェンの部屋に入る。ラップトップを覗き込み、ミンイェンは必死に何か作業をしているようだった。マーティンは横になったまま動かない。

「ミンイェン」

「あ、クライドか」

 声をかけると、ミンイェンはびくりとはねてクライドを即座に見た。かなり集中していたらしい。

 クライドはミンイェンのベッドにゆっくり近寄る。スニーカーの底がキュッと床をこすり、耳障りな音を立てた。ミンイェンは仕事を再開しながら、クライドをちらちら覗く。

「ジュースはトニーが代わりに行ってくれた。心配だからやっぱり戻れって言われて戻ってきたところ。何だよ、お前パソコンなんかできるほど回復したのか?」

「実はまだ色んなとこが痛い」

「馬鹿。寝てろ」

 やはりというか、ミンイェンはパソコンをやめようとしなかった。キーボードを打つ手を止めたものの、止めただけでその手をどかそうとしない。

「レンティーノが帰ってきたら起こしてやるから」

「……っ」

 そっと肩に触れてみれば、ミンイェンはびくりと肩をすくめた。驚いて手を引っ込めると、ミンイェンは口許をゆがめてまた小さくうめき声を漏らす。

「寝ろ、問答無用」

 強い口調で言ってみると、ミンイェンはしぶしぶパソコンを閉じた。画面に開いたウィンドウを閉じた様子はなかったが、ミンイェンは身体を気遣いながらゆっくりと枕に頬を沈めていった。

「寝てたって起きてたって痛いことに変わりは無いんだ」

「起きて傷口を動かすほうが馬鹿げてると思うぞ」

「……でも」

「言ったろ、問答無用」

 不服そうなミンイェンの肩まで薄いタオルケットを引っ張ってきてやり、マーティンが寝ていることをさりげなく確認して、クライドは部屋の出入り口のそばにある大きな芸術品の水槽の後ろに隠れた。

 クライドの身長を越すような大きさの円筒形の水槽には、小型のイトマキエイのような魚(正確には何なのか不明だ)が入っていた。おそらくこれが目隠しになって、水槽のむこうからクライドが透けて見えることはないはずだ。グロテスクな赤黒い豹柄の魚を見つめながら、クライドはこれが解体途中のマグロだから赤黒いのだと、豹柄に見えるのはきっと目の錯覚だと、そう思うことにした。

「マーティン寝てるよね」

 ミンイェンが小さくため息をつく声が聞こえた。キーボードを打つ音が再開しないのは、たぶん彼が本当にだるくて起き上がれないからだろう。

 クライドは目を閉じた。芸術品の円筒形をした水槽に額をくっつけ、肩の力を抜きながら想像した。細い身体にシンプルな白いシャツと黒のズボンを纏い、優しく微笑んだリィの姿を。

 ミンイェンの傍へ、リィが歩いていくところを想像する。足音をたててみよう。クライドが想像したリィは裸足だから、静かにひたひた鳴る足音を想像してみる。

「……リィ?」

 ミンイェンが振り返ったのは声で解った。クライドは微笑んでみる。リィの幻像も、同じ動きをすることを想像する。

「あ…… 嘘、どうして? 今まで、君」

「ミンイェン」

 リィの声を想像した。ミンイェンはびくりとする。

「僕の妄想? ずっとリィに会いたかったから、だからこんな」

「ちがう。ミンイェンに会いにきたかったんだ」

 崩壊した家庭で唯一心を許しあっていた、大切な弟。リィは九年前の非業の死をどう感じているのだろう。少なくとも、ミンイェンがしたことを余計なことだったなんて言う兄ではないだろう。そう思いながら、優しい微笑を絶やさずにミンイェンを見下ろす。

「や、そんな、何で? 僕、リィのこと殺しちゃったんだよ? 世界でいちばん大事な君のことっ…… 二度も」

 ミンイェンはリィの幻像の手をぎゅっと握り締めた。実体を持たせるほど強い魔法は使えなかったので、ミンイェンの手は幻像をすりぬけて宙を掴んだだけだった。そのことにミンイェンは数秒驚いたように目を見開いていたが、やがてその不健康そうな目を伏せる。

「どうして殺されてまで僕に会いに来るの? そんな顔で笑わないでよ、僕はどうしていいか解らない」

「最後の言葉、聞いてなかったの?」

 くらりと眩暈がした。しかし、冷たい水槽にこめかみや頬骨をつけて、その冷たさで意識を保った。

「……え」

 呆けた声を上げるミンイェンを見下ろして笑う。現像のリィは貧血で脂汗をかいていては困るから、優しく微笑んでいる顔だけを想像する。

「僕が最後に君に残した言葉。『君を恨んでる』なんて、言うわけ無いでしょ。『来世で絞め殺す』なんて僕は言った?」

「……わかんない。よく聞こえなかった」

「言わないよそんなこと、ミンイェンのことが大好きだから」

「嘘言わないでよ。九年も待たせて、ぼろぼろにして、ずっと冷たい水の中につけといて、生き返らせたら辛い思いさせて、それで、結局…… 僕はリィのこと、焼こうとしてる」

 意外にもミンイェンは、すでに結論を出していたらしい。一度はレンティーノの父の隣に眠らせてやると言っておきながら、すぐに意見を翻して自身を洗脳して実験を続行しようとしていたのだ。まだ揺れているのだと思っていた。そしてあの洗脳未遂のあたりの様子を見るに、実験を終了させてリィを火葬するという選択はクライドにとって少々予想外のことだった。

 それでも、リィの顔に出してはいけない。リィは弟の意志を全て受け止め、大切に受け入れるに違いないのだから。というか、たとえそうでなかったとしても今だけはそうあってほしいと思う。

「君のせいだなんて思ってない。もとはといえば、僕を殺したのは父さんだよ?」

「だとしても、二度目は」

「君は本当に、僕の自慢の弟なんだ。あんなやつに命を奪われて、ミンイェンとも二度と会えなくなったのに…… ミンイェンは僕を連れもどしてくれた。ほんの少しでも、また声が聞けて嬉しかったよ」

「本当に?」

「本当だよ。一緒に月を見ようねって、約束したでしょう。叶えてあげられないなって、心残りだったから」

「うんっ…… うん! ねえ、今から行こうよ」

「ふふ。その身体で動いちゃ駄目だよ」

 ミンイェンは悔しそうにシーツを握り締めた。そんな彼の手に幻像の手を添えながら、クライドも幻像と同調して微笑む。

「大丈夫。ちゃんと君の望み、叶えてあげるからね。一緒に月を見よう。そうしたら、もう、僕に思い残すことはないんだ」

 自分でも怖いくらいにすらすらと言葉が出てくる。ひょっとしたら隣にリィの亡霊がいて、そっと耳打ちしているのかもしれないと思ったほどだった。

 不思議なほどに記憶力が冴え渡り、ミンイェンがした昔の話をクライドは一字一句忘れずに思い出すことができた。ただ、代わりに眩暈はひどくなるし、吐き気も大変なものだった。

「君の一生懸命な姿も、泣いてる顔も、嬉しそうに笑ってる声も、全部忘れないからね。僕のたった一人の、明るい希望なんだ。闇を終わらせる焔なんだ」

 そっと目を開ける。幻像のリィが一瞬ぶれたが、周りの様子を脳内で勝手に書き換えないようにするには仕方なかった。ミンイェンは着ていたボーダーシャツのぶかぶかの袖で涙を拭っているから、不安定な幻像には気づいていないようだ。

 よしよしと言いながら、幻像の手で頭をなでる想像をする。ミンイェンは声を上げて泣き出した。そうしながら、また目を閉じる。

「泣いちゃ駄目、ほら」

 きっと空疎な感覚で、ミンイェンは触れられていることに気づいていないだろうと思う。それでも、その肩をとんとんと叩き、上を指差した。ミンイェンは幻像のリィの手に合わせ、ゆっくり顔を上げる。


 ――満月だった。


 外の景色は、ありえるとしても曇天か雨天くらいなもので、最近の天気を見る限りでは快晴のはずがない。第一、時間帯からして月が見えることなどありえない。それでも、天井を透けさせる想像をして、満月が見えたのだ。

 神々しいばかりの青白い光が、ミンイェンの瞳に潤むような光を映す。しばらく、何も言えなかった。

 今のこの夜空は、想像の魔法を使って創りだしてしまったのだろう。限界突破はそろそろだと思う。閉じたままの目で辺りの様子を考えるのがだんだん苦しくなってきた。それでも、もう少し、頑張らなければ。

「リィ…… リィっ、リィ」

 空疎な幻像に抱きつこうとして空気を抱きしめ、ミンイェンは大声を上げて泣き叫ぶ。何度も何度も亡くした兄の名を叫んで、クライドが創った偽物の兄に縋り、ミンイェンはただ泣き続けた。

「ごめんね。僕のせいだね」

 なんて、他人のクライドが言ったところでどうにもならない。けれど、ミンイェンの目に映っているのは、きっと幻像などではなく本物のリィなのだ。そうでなくてはいけない。

「そんなことないっ…… 僕いま幸せだよ。ずっとずっと、僕、リィに会いたくて、会いたくて、一緒に笑いたくて、またいつもみたいに」

 その後はもう言葉になっていなかった。しゃくりあげながら、ミンイェンは前髪をくしゃりと掴む。

「もうこれきりなの?」

「こうやって会えるのはね。僕はもう死んじゃったから。それは当たり前に、誰にでも訪れる別れだから。死なない人間なんかいないんだよ、ミンイェン」

 別れは早すぎたかもしれない。受け入れることができないくらいに衝撃が大きかったことは間違いない。それでも、死という終焉があるからこそ、人間は何かを生み出し何かを削る。そうやって続いていくのが人間だ。誰もその道理を変えることは出来ないし、変えてしまったら人間は人間ではなくなる。

「じゃあ、リィはいなくなっちゃうの?」

「そんなことないよ、ミンイェンが望めばいつだって傍にいられる」

 大好きな人の死は、『どう免れるか』ではない。『どう乗り越えるのか』が重要なのだ。それに実際に訪れるのは、免れる方法を考えられる死よりも、免れようも無い突然の死であることのほうが多い気さえする。

 そこまで考えるとまた吐き気がこみあげてきて、クライドは水槽に両腕をべったりつけてぎゅっと目を閉じた。冷たい感触で吐き気を紛らそうとしたが、無駄に終わる。吐きたいが寸でのところで吐き気は止まったままで、最大級に膨れ上がったままやまない。

「本当に? 僕のとなりにいてくれるの?」

「そうだよ。見えなくなったって、僕はいる。君の生きる未来の、そこかしこに」

「わあ…… 嬉しい。リィはいなくなったり、しないんだ」

 何度目かに目を開ければ、ミンイェンが涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑うのが見えた。健気な兄弟愛に胸の奥がじんとする。

 感動したが、これは思ったほど楽ではない作業だった。音も、幻像も、すべてを同時にコントロールしなければいけないのだ。そろそろ限界が近づいている。このままでは、リィが消えてしまう。

「ミンイェン、ありがとうね。これからは、君のための人生を歩んで。それが僕の願い。聞いてくれるよね。ミンイェンは、賢いから」

 ミンイェンの髪をなでる幻像が、時々透き通る。クライドはもう、目を開けたまま想像していた。あの幻像をまだ留める想像をしていなければ。あと少し、少しだけでいい。

 言葉は考えなくても無意識に出ていた。たぶん、こうしたらいいという強い願いがそのまま幻像が発する言葉になっているのだろう。

 ミンイェンは枕に顔をうずめて涙を拭い、リィの手を握る。握った手は空気を掴むが、ミンイェンはそんなことなど気にしていないようだった。

「うん。うんっ。絶対、僕ら、いつも一緒だよ。絶対、リィがいたこと無駄にしない」

「その言葉が聞けてよかった。でもミンイェン、僕はもう行かなきゃ」

 行かなくてはクライドがもたない。それもあったが、これ以上長く幻像を留まらせたら、ミンイェンがまた喪失感に泣きじゃくることもありそうだと思ったのだ。

 幻像に背を向けさせる。すると、ミンイェンが布団から手を伸ばして幻像の服を掴んだ。やはり例によって、ミンイェンの手は何も掴まなかった。

「待って、リィ、ちょっとだけ…… 最後にお願い聞いてくれる?」

「どうしたの?」

「僕が寝るまで、ここで見ていて。そしたら、安心できるから」

「うん」

 それくらいなら容易いことだとクライドは思った。頭痛が激しいし、目の前が眩む。それでも、クライドは背後の壁にもたれながら想像を続けた。足を止めた幻像をミンイェンの方へ振り向かせ、その前髪をかきわけてやる。

 失敗すると思った想像が成功した。

 幻像の手は、本当にミンイェンの前髪をかきわけた。急激な吐き気で思わず咳き込みそうになるが、堪えて水槽に額を押し付ける。

「もう、これでお別れなんだよね。……おやすみ、リィ」

 ミンイェンは涙でぬれた頬に柔らかな微笑を浮かべた。現在のクライドは果てしなく壊滅的な状態だが、創りだす幻像はあくまで優しい兄でなければならなかった。優しく笑む少年を想像したまま、クライドは目を閉じる。

「おやすみ、ミンイェン」

 最後まで優しい兄だった、リィのことを思い出しながら幻像に言わせた。これでもう、次の言葉はつむげないとクライドは思う。かなり血を使った。

 息が上がる。けれど、この激しい呼吸で存在を悟られてはいけない。クライドは両手で口を押さえて呼吸を殺した。

 頭が痛い。吐き気が酷い。涙が出てくる。苦しくて仕方なかった。口を押さえていた手を滑らせて髪をかきむしり、歯を食いしばるようにして全てを堪えた。ズボンの膝に涙が滲んだ。

 もう少し、そう思った。もう少しだけ堪えたい。

 ミンイェンは静かに目を閉じていたけれど、幻像の手をしっかり握っているのだ。クライドは激しく肩で息をしながら、呼吸の音を殺す想像をしてみる。上手くいった。この想像だけなら簡単だが、幻像を出したままやるのはかなりの労力を要した。一瞬、本気で死ぬかもしれないと思った。

 携帯を覗く。あと二分で一時間経つ。どうしよう。ミンイェンはもう寝たのだろうか。調べたいが声を出すわけにもいかない。

 と、そこに

「おい、ミンイェン。起きてるか」

 嫌味っぽい声が静かに響いた。驚いてミンイェンのベッドの隣を見る。マーティンがミンイェンに背を向けたまま、頭を掻いているのが目に入った。表情は見えないが、きっと、クライドがここにいるのをどの時点からか気づいていたのだろう。だからわざと、クライドの意を汲んだに違いない。

 ミンイェンの返答はなかった。これでようやく、クライドは幻像を消せる。

 目を閉じて想像すると、幻像は消えた。呼吸の音を殺す魔法も同時に解けた。クライドはその場に倒れこむ。

 頭の中が真っ白になった。何を考えているのか、何を考えたいのかが自分の考えなのに解らない。唇が細かく震えている感じがしたが、それ以上はもう解らなくなる。

 遠のいていく意識の中で、クライドは何も考えることができず、ただ呼吸が速く浅くなっていくのを感じていた。

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