第四十七話 未来を創る魔法
部屋に戻り、白いベッドに飛び込んで意味も無い声を上げるとノエルに覗き込まれた。
「どうしたんだい?」
「聞いてくれよ…… ミンイェンがさ。あいつ、自殺の次は自分を洗脳するとか言い出して」
全部言い終わる前に、ノエルは悲しげに目を伏せた。彼が何か言う前にグレンが小さく笑い、クライドの傍まで歩いてきて顔を覗き込んでくる。
「そりゃあ目が離せないな、レンティーノもマーティンも」
「トニーも心配みたいであっちにいる」
納得したようにノエルは頷いて、小さくため息をついた。そしてノエルは軽くクライドのベッドに腰かける。彼もまだ本調子ではないらしい。
「何とかできないものかな、この状況」
全く同じことをクライドも考えていた。というか、この空間でこれを考えない人間はいないだろう。グレンだってそれを考えているだろうし、たぶんこの研究所ではミンイェン以外の誰もがこう思っているに違いない。
「あいつの兄貴が全部赦すって言えば済むことだろ?」
「そんな簡単なことじゃないよ、グレン。リィシュイは死んでいるんだから」
「でも実際、あの兄貴は最期にそんなこと言ったんじゃないか?」
それはクライドも同感だった。別に、リィと深い関わりがあるわけではないし会話も交わしたことがない。しかし彼は雰囲気は優しそうなお兄さんという感じがしたし、ミンイェンのことは誰よりも深く思っているだろうという印象をクライドは受けていた。
アンソニーは本当に、リィシュイとミンイェンをよく見ていたと思う。ミンイェンの説得に際してアンソニーが言っていた、死期を悟ってからの行動は思い返せば愛情以外の何物でもないとクライドも思った。あの場ではクライドは、リィシュイがいつ反応を返さなくなるのか気が気でなくてそこまで頭が回っていなかった。
「でも、想像じゃリィを生き返らせることなんかできないしな」
だからクライドにできることはないのだ、多分。そう思ったが、ノエルがクライドを見下ろしてふと呟く。
「幻覚ならどうだい?」
「ああ! そういう手があった」
ぱっと思い浮かんだのは、全ての始まりだったあの日にジャスパーが出した幻像だった。目を焼いた犯人は誰だと言うジェイコブの問いに、ジャスパーが出した幻のクライドだ。写し取ったように同じで、鏡に写すより妙にリアルな感じがして怖かったことを覚えている。左右が反転された自分に見慣れていたせいで、髪の流れる向きが妙に変に見えたものだ。
「でも長時間やるとなるときつい。それに」
「それに、なんだよ」
「音声つきは厳しい」
リィの声をまねしながら想像をするわけにもいかないし、クライドがミンイェンとリィ(幻像)のいる場所に出現したらまずいだろう。ジャスパーが出したのと同じくらいリアルな幻像は問題なく出せるだろうが、声までつけて想像するのは大変だ。
「どっちにしろ、お前は今貧血なんだろ。やめとけよ」
「そうだな」
しかし、あっさり引き下がることなんてできるわけがなかった。一度思いついた名案を易々と捨てようとは思えない。後でアンソニーを迎えにいくとかいいつつ、ミンイェンの部屋の入り口辺りで想像をすればいい。その前に、貧血の薬を作っておく必要があるだろう。丁度良かった、今から煎じれば良いのだから。レンティーノに頼んでおいた薬草が、そろそろ来る頃だろう。
「お、きたきた」
グレンの声に身を起こすと、小柄な白衣の男が二人で銀色のワゴンを運んできた。手術器具を運ぶワゴンに見えたが、気のせいということにしておく。
昼食も用意してくれているらしい。空腹なんて忘れていたが、料理を見た途端に思い出した。
ワゴン上段には三人分の料理が、下段には鍋が置いてあり、中には薬草がこれでもかというほど入っていた。テレビで見た動物園の飼育係が頭をよぎった。スケールは違うけれど、ゾウの餌を運ぶ台車とワゴン下段のあふれ方がそっくりにみえた。さすがに多すぎだと思ったけれど、多ければ多いほど沢山の薬ができるのだから良いとする。
研究員に礼を言うと、二人とも生真面目にお辞儀をして帰っていった。グレンは早速食事に手をつけ始めていて、ノエルはクライドが手をつけるまで待っている。クライドは自分の分の皿を取り、陶製の蓋をはずしてみる。中身はシチューだった。
食事を終えてすぐにワゴンの薬草を手順どおり鍋に入れた。薬草に埋もれるようにアルコールランプが二つあったので、想像で両方に火をつけてみると予想外に火力が少なくてがっかりする。
「気を落とさないで。僕の魔法はこういうときに便利だから」
ノエルがそういいながら、火に手をかざす。凄い勢いで燃え始めたので一瞬驚いたが、ノエルは安心しろと言う。アルコールはたっぷり入っていたし、継ぎ足すための瓶がワゴンの隅の方にちゃんと乗っていたので、燃料の心配もなさそうだ。
三脚の上に鍋を載せ、グレンに頼んで水を汲んできてもらった。水は歯磨き用のコップで二杯分ほどあればよかった。けれど、同じ手順であと三回は薬を煮出すことができるだろうと思うほどワゴンの下段には薬草がたくさん載っている。
「ちょっと潰すものほしいかなこれ」
「そうだな、ちょっと近くの研究室当たってくる」
「悪いなグレン」
「気にすんな、飯食ったし身体動かしとかないと鈍るから」
相変わらず快活な笑みを浮かべて、楽しそうにグレンは去っていった。食事の前とはかなり元気の度合いが違う。
彼の背中を見送って、クライドは床にあぐらをかいた。流石に布団の上で監視を続けるわけにはいかない。研究所の床は掃除が行き届いていて綺麗だから座るのにあまり抵抗はなかった。
薬を煎じながら鍋の中をじっと見ていると、ノエルにぽんぽんと肩を叩かれる。
「その薬、できたら僕にも少しくれるかい」
「お前貧血か?」
「少しね」
苦いぞ、と言おうとしてやめておいた。そうだ、ノエルはかなりの苦い物好きなのだ。アンソニーやグレンならすぐ吹き出して洗面所に直行するような苦い飲み物でも、彼なら美味しいと味わって飲む。凝縮されたコーヒーが日常の飲み物なのだから、たぶんエルフの薬だって彼なら美味しいといって飲むだろうとクライドは思った。
「このまま潰しながら煎じて、水が濁ってなべ底が見えなくなるくらいになったら次のステップ」
「まだかかるんじゃないのかい?」
「ああ、結構かかる」
ぐつぐつ音をたてながら目に悪い蒸気を上げ、鍋の中の黄緑色の液体を見つめ続ける。液体はノエルの瞳の色に近い若草色になってきた。ノエルはクライドの隣でアルコールランプに魔法をかけながら、薬草が煮立っている様子を楽しげに眺めていた。グレンはまだ戻ってこない。
「う…… 沁みる」
先ほどから瞬きの回数が増えている自分に気づいていた。肩口で目をこすり、目をしばたきながらそれでもまだ薬を見つめる。
「僕が代わりに見ていようか?」
「ああ、平気。早くできないかな」
早く薬ができればいい。そうしたら、こんなもの早く飲み干してミンイェンに幻影を見せてやれる。それで彼が思い悩んで記憶を消すなんて愚行に走らなくなるのなら、これ以上のことはないと思った。
やがて、グレンが部屋に戻ってきた。手には調理器具らしい木製のへらを持っている。
「これ、コックに頼んで借りてきた。いいか? こんなので」
「十分。ありがとな、グレン」
受け取ったへらで鍋の中身をかき混ぜれば、目に悪い蒸気がさらにたくさん出てきた。少しむせながら鍋の中身をかき混ぜ続けた。そのうちノエルが疲れてきたのに気づいたのか、グレンが彼に魔力を分け与えた。
三十分も煮込めば、ようやく薬草の成分がよく染み出たペースト状の液体ができた。緑がかった黒のような気持ちが悪くなる色合いだが、沁みる蒸気はもう吹き上げなくなっていた。
薬草の中から、後入れ用の物を探してきてむしりながら鍋に放り込む。この薬草を入れるときから、鍋の中で劇的な変化が始まるのだ。
「お? 何これ、また黄緑に戻ったな」
グレンがクライドの肩に手をかけ、鍋を覗き込む。鍋の中では、あの気持ちの悪い色をした液体が黄緑色に変色していた。芽吹いたばかりの若葉のような、清々しいほどの黄緑である。薬草の中に埋もれていた花を取り出して、花弁を一枚ずつちぎって入れていく。花粉も重要なので、指先につけたりして減らしてしまうことのないように気をつけておしべをむしっていった。葯の中に詰まった花粉が液体に触れると、またそこから変化が始まる。
「今度は透き通ってきたよ、一体どんな変化が起きているんだろうね。これも君の魔法かい?」
ノエルは本当に楽しそうだった。彼の楽しそうな横顔を見ていると、小学校の理科の授業で、初めて実験をしたときのことを思い出した。
「お前、貧血だから薬作ってるんじゃねえのか……」
確かに、とグレンに同調して笑いながら、へらで薬草をかき混ぜる。透き通った黄緑色の液体は一気に無色透明に近くなり、その直後にまた透明度を保ったまま緑色に戻っていく。今度は若草色というよりは深緑色で、どんどん色が濃くなっていってもう黒に近くなった。ここでまた、あの花を加える。そうすれば色は再び透明に近くなり、今度はだんだん赤みを帯びる。オレンジ色になったら一旦火を弱めて、表面に薬草の残骸が浮いてこなくなるまでじっくり煎じる。それがエルフの薬を煎じる手順で、このタイミングがとても重要だった。
「ノエル、火を弱めて」
「わかったよ。これでいいかい?」
ノエルはただ酸素を送るのをやめるだけでなく、微妙な加減で火の大きさを調整してくれていた。細かいところにまで気が回るノエルの観察眼は、時として負担になることもあるだろう。責任感が強くて繊細なノエルだから、何でも背負い込んでしまうのだ。
「これ、煮てるとあの青い色になるのか?」
考え込んでいるのを察したようなタイミングでグレンが話しかけてきた。クライドは考えるのをやめて笑顔を返し、まだ少し沁みていた余韻が残っている目を肩口でこする。
「いや、ドライフラワーを入れて十分で色が変わる。そしたら、火から外して飲む。作りたてのものか、一週間たったあとのものが一番効果が強いんだって」
「微妙な周期だな」
三人で雑談しながら鍋をかき混ぜていると、オレンジ色だった薬草がどんどん赤くなっていった。このタイミングでドライフラワーを入れる。見ている二人から感心したような声があがった。
「すげ、青くなった」
「あと十分かい?」
「そう。もう少し色が薄くなるまで加熱して完成」
十分なんて目安でしかないので、正確に測る必要はなかった。携帯の時計をちらちら見ながら、ある程度の時間がたったところで火を止めてもらう。
「コップある?」
「これでいいか?」
グレンが洗面台の戸棚から紙コップを持ってくる。それを受け取り、鍋の中身をコップに注ぐ。二杯半ほどありそうだった。ノエルはカップを手に持ち、中の水色をじっと眺めていた。
「熱いから気をつけろよ、ノエル」
「ありがとう。じゃあ、頂くよ」
頷いたクライドは息を止め、良く吹いて冷ました液体を口に含んだ。一気に嚥下してもう一口飲む。カップの半分を飲みきった所で息が持たなくなった。
「っ、げほっ」
止めていた息を吸ったとたん、独特の風味に襲われた。隣でノエルは少しずつ薬を飲んでいたのだが、むせはじめたクライドを見てぎょっとしている。慌てて背後に回ったグレンが背中を叩いてくれて、楽になったようななっていないような微妙な感覚を味わいながらまた咳き込む。
「大丈夫か?」
「へ、きっ」
やはり、何度飲んでも慣れない。咳き込みながら残りを一気に喉へと流し込むと、今度は熱さに涙が出る。咳のし過ぎで頭が痛くなってくる。
「あーあ。本当、劇薬だなこれ」
呆れたようにグレンは笑った。彼は貧血になどなりそうにないとクライドは思う。思いながらまた咳き込む。見かねたのか、ノエルもクライドの背中を叩いてくれた。
「でもっ、も、効いてきた……」
「クライド、あと半分あるよ。どうするんだい」
「飲ま、ないとっ」
激しく咳き込んでもう何も喋れなくなった。効き目は確かだが、味も風味もきつい。咳き込みながら立てた膝に頬骨を押し付ける。
やがて咳は止まったが、鍋の中にはまだ薬が残っている。肩口で涙を拭い、クライドはノエルを見た。彼はどうして咳き込まないのか。
「大丈夫かい?」
「お前、よく平気だな」
彼は味覚が変になるかと思うくらいの薬だって、普通に飲めてしまうのだ。そうでなければ、薬を口に含んだ瞬間から成分を分解する魔法でも使っていたに違いない。真相はわからないが。
相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、ノエルは紙コップをちらりと見やる。中身はすっかり空になっていた。
「僕はこの味、好きだよ。苦味が強くて、ほのかに花の香りがする」
「するのか花の香りなんて? 苦いとしか言いようがないんだけど」
鍋の中に残ったコップ半分ほどの綺麗な水色を見て、クライドはげんなりした。どう考えても花の香りなんてしないし、吸い込んだ蒸気の臭いで味が蘇ってきて吐き気がする。苦い臭いなんて今まであまり数を知らなかったが、この薬は臭いからして苦い。
「グレンも飲んでみるかい? 身体のだるさが消えるよ」
クライドの様子を見て、ノエルがグレンにそう言った。グレンは鍋の中身をのぞきこんで、それからダウンしているクライドを見て、感心したように唸る。
「んー、これ貧血以外にも効果はあるんだな」
「微妙に。疲れ目とかにも効果あるってばあちゃんが言ってた」
「でも俺は飲まない、絶対」
「だろうな」
全部飲むしかない。全部飲めばそれだけ体調不良から回復できるのだから、飲むに越したことはない。クライドはコップについだ最後の薬を、気合で飲み干した。身体は激しく拒否反応を示したが、堪えてコップを捨てに行く。
ミンイェンはどうしているだろうか。アンソニーがいい話し相手になっていればいい。アンソニーは落ち込んだ人を励ますのが上手いとクライドは思うから、元気になっていればそれに越したことはない。
「じゃ、ちょっとあいつらの様子みてくる」
「待って」
くるりと背中を向けた途端、ノエルの鋭い声に静止させられた。一瞬ぎくりとしてしまい、その瞬間しまったと思う。
駄目だ。こんな解りやすい反応をしてしまったら、やましいことがあると丸解りではないか。
「ん? 何だよ」
無駄だと解っていても平静を装って、そう言いながら振り返るとノエルはワゴンに残った薬草を鍋に放り込みながらクライドを横目で見ていた。完全にばれているとクライドは悟る。
「無茶しないでよ。君、今絶対何か企んでいるから」
「何言ってんだよ、別に何も」
嘘なんて通じない。解っていながらごまかしてみれば、今度はグレンに笑われた。
「バレバレ」
「……ただのハッタリだろ?」
二人は顔を見合わせ、くすくす笑い出す。もっと上手に嘘をついて、もっと上手にごまかしていたとしても、きっと二人には見破られていたに違いなかった。
ノエルは片手でずれた眼鏡を上げながら、アルコールランプに魔法で火を灯した。小さなふたつの揺らめきが、いたずらっぽく笑っているように見える。
「僕が君とどれほど長い間一緒にいたと思っているんだい。同じ町の中で、ほぼ毎日顔をあわせて、僕は少なくとも君の表情の変化くらいはすぐ解るようになったよ」
「そうそう。大体さ、出てこうとしたときだって声に出てたし」
もう隠そうにも隠せないところまできてしまった。何をしても無駄だし、この状況でまだ嘘をつこうというような気にはならない。それに、きっと二人なら理解してくれると、どこかでそう思っていた。
「はあー、何だお前ら目ざとすぎ」
「倒れたら薬飲ませてあげるよ。煎じ方は今君がやったのを再現するから問題はないと思う。途中でイレギュラーがあったらシェリーに連絡しよう」
当然のようにノエルが言った。一瞬拍子抜けしたが、止められなかったことにほっとした。
「止めないのか」
「止めたって無駄でしょ。解ってるよ、去年の春からもう」
ノエルは静かに言った。
そうだった。あのときから、終始仏頂面だったノエルが少しずつ変わり始めたのだ。旅に出るなら自分達を連れて行けと、半ば強引に話を進めたのはノエルだった。
懐かしい気持ちになる。ノエルはまだ、忘れていないのだ。いや、忘れようのない記憶だが。嬉しくもなったが、心配をかけているのはわかっていたから胸が痛んだ。
「俺はついていくけどな」
ベッドに腰掛けて長い脚を組んだ姿勢で、グレンはにやりと笑う。当然ついてくる気のようだったが、クライドは首を横に振った。
今回ばかりは、たとえグレンでも連れて行くわけにはいかない。途中でグレンに止められたりしたら折角の努力が水の泡だし、ミンイェンにも気づかれてしまいそうなのだ。それは避けたい。
「駄目だ。グレン、今回は残って」
「何でだよ」
「人がいたらいけないんだ、あの部屋に隠れるところなんか殆どないだろ?」
「でも」
まだ食い下がるグレンに、クライドは胸の痛みを感じていた。こんなに心配させているのに、自分は今からまた馬鹿なことをしようとしている。
馬鹿なことだと解っていた。けれど、それで少しでもミンイェンが前向きになるのなら、クライドは馬鹿でも構わなかった。
「ごめん、今回だけは本当にごめん」
しばらくグレンは何も言い返してこなかった。
「……一時間。一時間だけだからな。一秒でも過ぎたら、ノエル連れて迎えにいく」
「ありがと」
グレンは立ち上がり、クライドの背中をぽんぽんと叩いた。頷いて、深呼吸して部屋を出る。
部屋を出るその間際に、ノエルとグレンから絶対戻って来いと言われた。苦笑しながら廊下を歩く。あの声には、答えられなかった。何を答えても嘘になる気がした。