第四十四話 月光と夜想曲
白い壁を抜けて、広々とした何もない部屋にミンイェンを運んだ。ここを病室とするらしい。確かにミンイェンの自室に運ぶと『芸術品』が多くて色々大変そうだ。
入り口から見て左の奥にベッドを止めて、ハビは部屋の中を何の迷いもない足取りで歩き回る。そして白い何もない(ように見える)壁の中から、折りたたみ式のテーブルやキャスター付きのラックなどを引き出してくる。クライドがそれらをハビの指示に従って並べていると、アンソニーが運んできた医療機器やマーティンのベッド、もう一台空のベッドが到着したのでそれらを固定する。
ハビは手術着を脱いでノエルやグレンの傷を消毒し、レンティーノには気分の切り替えも兼ねてシャワーに向かうよう指示した。マーティンは不機嫌そうにハビやレンティーノと会話していたが、その内容からミンイェンと血液型が同じだったので輸血を後回しにしていることを知った。基準値をギリギリ下回る状況のマーティンと命の危機に瀕するミンイェンならば当然ミンイェンを優先すべきだろうが、マーティンにも一時間後に到着する血液で追加の輸血を行うらしいので彼の容態も思ったより悪いようだ。
深刻な疲労で泥のように寝入ったノエルを見て、グレンがクライドや自分たちの分もベッドを用意した。けが人や病人はまとめてこの部屋にいた方がいいだろうと思い、クライドも手伝ってベッドを固定すると身を横たえた。
全員一旦、とにかく休養した方がいい。緊迫した状況から解き放たれ、一応は無事に手術も終わったという安堵感からか、クライドの寝つきは早かった。
次に目を覚ました時には、真っ白い部屋は薄暗いグレーの部屋に見えた。窓があるわけではないのに、どこか一方から青白い月光のような光が差しているのに気づく。身体を起こしてみると、部屋の隅に書き物が出来そうな机が新たに運び込まれており、そこに青みがかった白の蛍光灯が灯してあるのを見つける。机に突っ伏しているのは、あの体の大きさからしてハビだろう。
携帯を取り出して時刻を確認する。三時との表示を見て、暗い理由に納得した。このフロアに窓は無いから外の明かりは関係ないが、夜中には自動的に消灯されるシステムらしいと生活しているうちに気づいていたのだ。
部屋は少し肌寒い。冷房が効きすぎている気がする。タオルケットを胸元まで引き寄せ、クライドは小さく欠伸をした。
「誰もおきてないのかな」
「起きてる」
そうか、お前も眠れないんだな、と言いかけてクライドは言葉を失った。
「……ミンイェン?」
思わず飛び起きてベッドから降りる。あまり大きな音は立てないように気をつけた。ミンイェンのベッドがもぞりと動くのが、淡く青白い光が差し込む闇の中で辛うじて解る。
「クライ、ド。お、はよ」
「お前、怪我大丈夫なのかよ」
ベッドに歩み寄ってみると、ミンイェンは少ない明かりの中で辛うじて解る程度の笑みを浮かべる。
「すっ、ごく、痛い。眠れ、ない。声、出すのも痛いっ」
それは確かにそうだろう、よく開腹手術をすると腹筋を切ってしまうから暫く喋ることが困難になるときく。ミンイェンの場合は開腹どころか腹にガラスを刺したのだから、余計にそうだろう。
「じゃあ喋るなよ……」
「僕、ど、して、生きてるの」
強がりにも似た笑みは崩れ、ミンイェンは眉根を寄せて唇を引き結ぶ。必死に涙を堪えるその表情に、クライドはどうして良いか解らなくなった。何を言えばいいのか、どうしてやればいいのか、解らない。
「痛いし、苦し、し。皆に、迷惑かけて、こんな、はずじゃなかった」
「死んでなくてよかったって、みんなそう思ってるから」
「僕に、何、が残っ、てるって、いうのっ?」
彼が途切れ途切れにつむぐ言葉に、クライドは俯きたくなる。
「仲間がいるって、お前自分でそういっただろ。信じてやらないのか? ハビさんもレンティーノもマーティンも、皆お前のこと全力で助けるつもりだ」
「でも、こ、なこと、した、らっ…… 皆っ、僕、嫌い、にっ」
ミンイェンは両目からとめどなく涙を流し、鼻をすすり上げるたびに痛そうに顔をゆがめた。見ていて痛々しくて、クライドは思わず声をかける。
「そんな泣くなよ、痛むから」
「だめ、とま、ないっ」
震える泣き声を聞いて、ほぼ無意識にクライドはミンイェンの腹部に布団越しに触れていた。さすってやってどうにかなるわけではない、そう思ったが、自分には他の人には出来ない方法で彼の痛みを楽にしてやる方法があることを瞬時に思い出す。
目を閉じて神経を統一して、想像してみる。この手の下のミンイェンの腹が、傷一つない状態に戻っていることを想像する。
「……っ!」
激しく目の前が揺れた。ミンイェンが何か言ったのを聴覚の隅で聞いた。硬い床に倒れこむ。痛みが遅れて肩に来た。自分は肩から床に落ちたらしい。
「クライドっ」
「ああ、喋れるように、なったか」
とりあえず腹筋の部分を繋ぐくらいのことはできたのだと思う。しかし、そこより浅いところか深いところかはわからないが、おそらくまだ傷は残っているはずだ。あれだけの傷を治してやるほどの魔力はクライドにはまだ戻ってきていない。完治はしていないだろう。
「マシになったけど、やっぱ、痛くて眠れないよっ…… でも、泣いたらハビにばれるから、泣かない」
「ん、頑張れ」
うん、とミンイェンは頷く。良かったと返せば、細い傷だらけの腕が差し伸べられた。床に寝たままのクライドは、その手を借りて起き上がる。
「ごめんね、クライド」
「何が」
「色々。こんなことなら君を探し出せずに終わっていればなって、リィが死んじゃったことを、君のせいにしてる僕がいる」
クライドは小さく笑って目を閉じた。貧血でふらつく頭で、また新たに想像をする。少しくらいなら無茶をして、倒れてもいいと思った。
「見えてるか、星」
言いながら目を開けて上を見れば、くらりと歪む天井に夏の夜空が広がっている。最上階のこの部屋だから、屋上を透けさせる想像をして空が見えるようにしたのだ。座り込んでミンイェンのベッドの脚に背中を預け、上を見る。
「すごい…… クライド、ありがと」
ミンイェンは少しだけ嬉しそうな顔で、星を眺めた。月が明るい夜だから、グレートーンだった影たちが月光で紺に近くなる。眺めていれば流れ星のひとつやふたつ、当たり前のように流れてきそうな空だ。
「あんまり気に病むなよ。って言っても、無理かもしれないけど」
アンシェントタウンで見るほど明瞭な星空ではないし、見える星座も知らないものだ。ここが異国であることを再認識しながら、クライドは深く息を吐く。ミンイェンはしばらく黙っていたが、やがて乾いた声で小さく笑う。
「……まだ実感が湧かないんだ。リィが僕に話してくれたのも、目を開けてくれたのも、全部幻覚だったんじゃないかって気がする」
「魔法で蘇生したんだ、幻かもしれない。お前言ってただろ、蘇生できる方がおかしいぐらいぼろぼろだったって」
そうならいいと思った。幻だったんだよ、不可能なんだよ、だからもういいだろうと、そう説得できるから。
「そんな風には思いたくない…… でも、幻じゃなかったら、リィはまた死んじゃったんだ。僕のせいで。僕が要らないことしたから」
小さく息をつく。きっと今までのことは、ミンイェンにはどうしようもなかったのだ。リィを蘇生させると意気込み、巨大な製薬会社を背負って日々研究に明け暮れたミンイェンは、自分の半身とでもいうべき存在を取り戻すためだけに必死だった。
けれど、これからはどうするのだろう。とりもどすべき半身は永久に失われた。ミンイェンは、抜け殻のように暮らしていくのだろうか。それも空しいことだと思う。ふらつく頭に手を添えながら、クライドは小さく息を吐き出す。
「なあ、ミンイェン。まだ兄貴を蘇生させる気か?」
ミンイェンはしばらく何も答えず、上だけを見ていた。建物の中だから風は全く感じられないが、それなのに星空が見えているのは奇妙で幻想的だった。
「そろそろ眠らせてやったらどうだ? たった一回でも、また会えただけでよかったと思えよ」
これ以上また空しい実験を繰り返して、ひとときの夢をみて、また絶望に沈むようなことは絶対にしてほしくなかった。そんなことがもう一度起きたら、今度はもう無事に生き延びることなどないだろうから。
「……諦めるの? リィが笑顔で暮らせる環境、僕は一度だって作れたことなんてなかったんだ。いつもわがままで、迷惑ばっかりかけて。だから今度こそ、リィに毎日笑っててほしくて」
多分ミンイェンはこちらをみていないだろうが、頷く。ミンイェンは小さく鼻をすすり上げる。
「解ってるよ。僕、わがままだ。リィが死んでからも、僕はリィのこと振り回してる。解ってるけど、でも、じゃあ僕はどうすればいいの? 死んだら、向こうでリィに会えるかなって。そう思ったんだ。そうしたらそれでいいかもしれないって、僕」
おい、と声を発してミンイェンの言葉をさえぎる。彼にこれ以上、そんな哀しいことを言わせたくなかった。自分がちゃんと生きていただけでいいと思ってほしい。もともと兄は死んでいたのだ、たった一時でも目を覚ましただけで、それは奇跡なのに。
「どうすんだよ。レンティーノとかハビさんはさ」
「皆は僕がいなくなっても、きっと上手くやっていけるはずだと思っていたんだ。でも、もうそんなことも思えないよ…… 覚えてるんだ、レンティーノがずっと僕の手を握ってたこと。行っちゃ駄目だって言われてる気がずっとしてた」
必死にミンイェンを呼び、色が変わるくらい強く手を握っていたレンティーノの姿が頭に浮かぶ。彼の頑張りは、ちゃんとミンイェンに届いていたのだ。それは良いことだと思う。しかし。
「どうしたらいいのか解んない」
あんなに一生懸命だったレンティーノのことも、ミンイェンの考えを変える決定的な何かに結びつくことはなかったようだった。クライドは俯く。これで明日、ミンイェンがまた自殺未遂なんてしだしたら困る。
「あのとき死んじゃえば、こんなこと思わずにすんだのに」
「死にたかったのかよ。本当に? 死んだ後レンティーノが狂っても、お前は知らん顔できたのか?」
立ち上がってミンイェンを見下ろし、答えを求める。思わずふらついて彼の肩口辺りに手をついてしまった。
それが余計に問い詰める仕草に結びついてしまったらしい。ミンイェンは顔をゆがめて首を横に振り、右手で髪をぎゅっと掴んだ。
「できないよ。だからどうしたらいいか解らないんだっ! 死んじゃえば何も考えなくて良い。楽になる方法がもうそれしかない」
「それは違う。また痛い思いしたいのか?」
死んだら楽になるなんてことはない。去年の帝王との戦いで死んだジャスパーは、全く楽そうには見えなかった。死んだという表現は少し間違っているかもしれないが、帝王の断末魔だってどう考えても楽になった歓喜の叫びにはきこえなかった。
痛い思いをして、苦しい思いをして、血をたくさん流して、楽になるということは絶対にない。そうしてかなりの苦痛を伴った後には、もう自分が存在していないのだから楽になるも何もないではないか。
「もう絶対やだ。だから今度は薬にする。死亡までの所要時間が最も短いものを製薬部から流してもらう」
何を言っているんだこいつは。これでは全く学習していない。少しの呆れと苛立ちを覚え、クライドは少しきつい口調でミンイェンを諭す。
「馬鹿。そういう問題じゃないだろ。じゃあ、例えばお前が死んだあとレンティーノが後を追ったらどうするんだ」
身体を起こして部屋の中を見渡すと、レンティーノのベッドがミンイェンのすぐ近くにあった。ミンイェンの隣に寝ているのはマーティンだが、レンティーノは心配で同室を願い出たのだろう。
レンティーノはマーティン越しにミンイェンの方を見ていたのか、眼鏡をかけたまま寝入っていた。よくみると服装もスーツのままである。
「っ、それは…… そんなの、嫌だ。だからクライドが説得してよ。死んじゃだめだよって」
「ふざけたこと言うな」
マーティン越しにレンティーノを見て、ミンイェンは弱弱しい声で言う。クライドはそれを一喝し、ミンイェンを軽く睨んだ。
「何で? どうして僕は楽になっちゃいけないの?」
「楽になるとか、本気で思ってるのか? レンティーノだって父親が死んだんだろ? それであの人は、楽になりたいって言って後を追ったか?」
「……生きてる。生きててくれてる」
前髪の下に指を差し入れ、ミンイェンは涙を拭う仕草をした。静かな部屋に、彼が鼻をすする音だけが響く。
まだ誰も起きてくる気配はない。魘されている様子もない。話がややこしくなるからこのまま誰も起きてこなければいいなと思いながら、クライドはミンイェンに微笑みかける。
「あの人は、お前がいたから生きてたんだろ。お前に心配かけるわけにいかないから。お前が悲しんで後を追ってきたら、苦しい思いをして死ぬことになるからって。きっとそうだと思うんだ」
「でもっ」
「でももだってもあるか? 誰かが死んだら自分も死ぬ、なんてことを全人類でやってみろ。明日には世界が滅亡してるぞ」
馬鹿馬鹿しい、こんな哀しい説得なんてしたくない。だからミンイェンには、早く心を入れ替えてほしい。大好きな仲間がいるのなら、彼らのために生きようとどうして思えないのか。
「お前は生きてるだけでいいんだよ。ただそれだけなんだ。わざわざ苦しい思いして、死ぬことなんかない。だからさ、もう死ぬとか絶対言わないでくれ。誰もお前が死ぬことなんか、望んでないんだ」
「っ、ぐす、クライドッ…… 僕、生きてて、っ、いいの?」
布団から顔を出し、ミンイェンは問う。前髪がぐしゃぐしゃになってめくれているおかげで、彼の澄んだ茶色い目がクライドをじっと見ているのが解る。クライドは苦笑して、彼の前髪を整えてやりながら答える。
「許可なんか貰う必要、ないだろ。お前は生きてていい。でも、死んだらだめだ」
「こんな僕、存在する意味ある?」
「あるよ。お前が会社で作った薬が、今もこの国の人を楽にしてるんだろ」
「うん。僕の会社はすごいから」
頷き、涙声で会社の自慢をするミンイェン。これで、もう大丈夫だと思う。彼の髪を撫で付けてやりながら、何だか歳の離れた弟を寝かしつけているような気になる。別に弟がいるわけではないが、いるとしたらこういう感じなのかと妙に納得してしまう。
「じゃあ大丈夫だ。お前は存在だけで既にレンティーノやマーティンを助けてると思うし、ハビさんだってきっとそう思ってる。お前がいなかったら、この会社の研究員だって困るだろ? トニーと遊ぶ約束だってしてるんだろ」
「うん。ありがと、クライド」
ミンイェンは、久しぶりに笑った。まだぎこちない笑みではあったけれど、彼は徐々に元に戻りつつあるのだと思う。彼はちゃんとリィの死を受け止めて、生活していくことができると思う。
「リィね、ミンの隣に寝かせてあげることにする。ミンに紹介してあげるんだ。僕のお兄ちゃんだよって。本当は、生きてるうちにあってほしかったけど」
「ミン?」
誰だっけ。思い出しかけたところで、ミンイェンはあっと思い出したように説明してくれる。
「レンティーノのお父さん」
「ああ……」
「リィが生き返るのを一緒に願ってくれていた。当時の最高権力者の目を盗んで、蘇生実験の進捗を確認してくれたこともあるんだよ」
「そうだったのか」
暫く、静かな声で笑い合う。話し声が消えると、部屋は妙に静かになる。誰かが布団の上をかすかに動く、小さな衣擦れの音がはっきり聞こえた。
「ねえ」
返事はせずに彼の顔を見下ろす。ミンイェンは前髪越しにこちらをじっと見ていた。微妙に分かれた前髪の間から、泣き腫らした目がクライドを捉えている。沈黙が少し苦しくて、声を上げようとした時にミンイェンの方から本題に入ってくれた。
「……クライドはさ、これからアンシェントタウンに帰るでしょ」
「ああ」
「また遊びに来てくれる?」
何だ、そんなことか。クライドは笑って頷いた。かなり言い出しにくそうに切り出すから、一体何を言われるのかと身構えてしまった。
「海外旅行なんかしょっちゅうできるほど裕福じゃないぞ」
「迎えに行くよ、アンシェントタウンには荷物としてヘリに潜入すれば行けるんでしょ」
「その通り。それまでに、ちゃんと全部の傷を治しておけよ?」
「もちろん!」
嬉しそうなミンイェンを見て、安堵の笑みがこぼれる。クライドは軽く目を閉じて、いつもどおりの天井を想像した。元の状態に戻すのであればそれほど魔力は使わないから、クライドは倒れずにすんだ。目を開けてみると、先ほどより暗い部屋に一瞬慣れずに戸惑った。
「じゃ、そろそろ寝ろよ」
ミンイェンに言い残して、クライドは彼のベッドから離れる。
「うん。おやすみ、クライド」
彼の声を背中で聞いて、クライドは再びベッドに身を横たえた。静かすぎる暗闇はあまり居心地が良くなく、そのせいで目を閉じてからもすぐには寝付けなかった。