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第四十三話 祈り待つだけ

 緊急事態が発生しているようだった。ようだったという言い方は何となく無責任な感じがするが、医療用語が解らないので仕方が無い。

「もうずっと血が止まらない。どうすればいいんだ」

 低い呟きに、ノエルが手を動かしながらちらりとハビを見上げる。

「落ち着いてハビ。……こういうとき、クライドの想像は便利なのに」

「悪いな、ノエル」

 呟いても、こんな距離では相手に声が聞こえないことは解っていた。それでも呟かずにいられなかったのは、ノエルの声に悔しさというか苛立ちというか、そんなものが混ざっていたからだった。なかなか手術が終わらないこの状況にノエルだって焦っているのだろう。

「こちらは手術が終了しました」

 その声に顔を上げると、マーティンの傍から手術着の男がどいた。ノエルはミンイェンの処置を続けながら彼に返答する。

「ご苦労様。じゃあこっちを手伝って」

 マーティンは、ちゃんと治ったのだろうか。今までどおりに歩けるようになっているのだろうか。もしも仮にちゃんと歩けるとしても、あんな怪我だ。凄かったあの脚力は衰えてしまっているだろう。そうなれば、決着をつけるのはずっと先になってしまう。

「……う」

 こみ上げてきた吐き気に小さく呻く。目の前が霞んだ。吐き気を堪えると頭痛がしてきて涙目になる。こういう時に、この研究所で作っている貧血の薬が欲しかった。

「クライド、お前やっぱ寝ろって」

「いい、俺こうしてるから」

「駄目だ。レンティーノ、ベッド用意しろ」

「解りました」

「いいってば」

 グレンもレンティーノも聞く耳を持たなかった。クライドの真横にベッドを引き出して、レンティーノはクライドの腕をぐいっと引っ張った。世界が歪んで吐き気がこみ上げてきた。

 思わず振り払おうとするが、レンティーノは腕を離してくれなかった。嫌々ながら立ち上がり、よろけて壁にもたれかかる。

「俺だけ貧血とかそういうので寝てたくないんだよ」

「でもお前、今貧血でぶっ倒れたらどうなる? ガラスだらけの床に転がることになるんだからな。そうなる前に寝とけ」

 渋々ベッドのふちに腰掛けてみると、ベッドの柔らかい触感をとらえたとたんにまた眩暈がした。グレンはほらみろという顔をして、レンティーノは心配そうにクライドの顔を覗き込む。

「寝てろよ、ほら」

「手が空いている方に頼んで、薬のストックを確認してもらいましょう」

 言いながら右手で左胸の辺りを探ろうとして、自分がTシャツ姿でいることを今思い出したかのようにレンティーノは固まる。スーツを着ているときの癖なのだろう。

「そういえば、携帯電話は壊れてしまったのでした」

「忘れんなよそれ。マーティンのは?」

「あの辺りに残骸が散らばっていますよ。ミンイェンの物は無事ですが、手術中ですからね……」

 二人の会話をききながらベッドに倒れこむ。清潔感のあるエタノールが漂ってきて、今更ながら血の臭いが鼻についた。よけいに気持ちが悪くなる。

「……手術早く終わらないかな」

「明日が来るのが怖いです。私達もミンイェンも、昨日までとは全く違った生活を強いられますから」

 あるいは、誰かが欠けることにもなりうるだろう。クライドとしては、レンティーノの不安の要因はむしろこちらの方だと思う。吐き気と戦いながら、クライドは目を閉じる。

 自分を取り巻く状況を何も知らなくてすむのなら、いっそこの目を閉じたままにしておきたかった。けれど見なくても聞こえるし、感じるし嗅げる。目を閉じたとて、ここがガラス片だらけで血の臭いがする研究室だと否応にも解ってしまう。既に脳内に記憶されたこの状況は、恐らく死ぬまで忘れないと思う。

「……さっきミンイェンに想像しろって言われたとき、俺なにもできなかった」

 ぽつりと呟くと、壁に背を預けて座っていたグレンが立ち上がってこちらを覗き込む。

「そりゃそうだろ。あの状態でお前が魔法なんか使ってたら、貧血だってこんなんじゃ済まなかった」

 グレンはベッドサイドに腰かけながら、クライドに横目を向ける。そうは言われても、クライドは考えずにいられないのだ。

「何で救ってやれないんだろうって思ったんだ。だってあれじゃ、ミンイェンはあまりに救われない」

 砂漠をさ迷い歩き、やっと辿りついたオアシスの水は猛毒だった。疲れた体を休めようと、ようやく水を口にしたその時、捜し求めていた水はミンイェンをぼろぼろにした。ずっと捜し求めていた水。欲しくてたまらなかった水。命をつなぐための水。

 それを、飲んだ。

 猛毒だと解っていても、ミンイェンは飲んだ。結果、苦しみに耐えかねてミンイェンは自ら命を絶とうとするような行為に出た。

「俺がもし想像できてたら、ミンイェンが自殺することもなかっただろうな……」

 想像で水から毒を抜いてやれれば、それでよかった。つまり、リィを生き返らせるという、たったひとつの行動でミンイェンは救われたはずだった。

 けれどそれが現実的に無理だということもわかっていた。どのみちクライドに残った魔力は僅かなものだったし、死んだものを想像で生き返らせるなんて無理なのだ。

 想像で目を開かせることはできても、想像で命を創造することはクライドにはできない。やる前から解っている。やったとしても、鐘を取り戻すために最初に想像した時のように、頭痛と貧血がひどくなるだけだ。

「そもそも、死んだ人間を生き返らせようなんて考えが可笑しいんだよ」

 投げやりに言うグレン。そうなのだろうかと問いかけたくなるが、吐き気が襲ってきたので出来なかった。代わりに、レンティーノが口を開く。

「そうでしょうか。貴方、過去に恋人を生き返らせたではありませんか。シェリーを生き返らせたのは、貴方がたの真心からの行動ではなかったのですか」

「……そうだった」

 一瞬、沈黙が訪れた。言い過ぎたと、レンティーノも思ったに違いない。二人の間には尚も沈黙が流れる。レンティーノはちらりと手術中のミンイェンのほうを見やり、ゆっくり目を伏せる。

「蘇生に至る感情の動きを否定するということは、死の淵から生き返ったシェリーやそれを行った貴方がた自身、それに蘇生した男から生まれた私のような人間の全員を否定することになりますよ」

「悪かった」

「いえ、謝って頂こうと思ったわけではありません。……ただ、貴方にも分かってほしかったのです。ミンイェンの渇望は決してよこしまなものでも特別なものでもありません。ありふれた、誰にでもある、大切な人間を想う真心なのです」

 息をのむグレンに、レンティーノは哀しそうな目を向けた。クライドは目を閉じて枕に顔を預けた。視界は暗転したが、聴覚は今までと変わりなく上からレンティーノの声を拾う。

 敵味方も損得も可も不可も関係なく、クライドはミンイェンが無事であることを祈った。あんな軽率な行動で、死んで欲しくは無いのだ。ミンイェンには、残された人の気持ちを考えて欲しい。自分も大切な人に先立たれたことがあるのなら、彼にだってその気持ちがよく解っているはずだ。

 永久に壊れないものなんて何も無い。けれどその上で、壊れずに続いていて欲しいものは確かにいくつも存在する。それらが壊れてしまえば、きっとその絶望は計り知れない。しかし、壊れたものを何度でも掻き集めて積み上げなおすことができれば、不器用にでも乗り越えていけるはずだ。どう生きようが、死ぬまで日々は続く。

 大切なものを二度と手に入らない場所へやってしまったら、一度は奈落の底に落ちたような気になるかもしれない。それが何年も追い続けていた、自分の一部のような人間だったらなおさらだ。けれど、大切に思う人は何も一人だけではないはずだ。ずっと傍にいてくれた仲間の存在を、ミンイェンが早く思い出すことを願う。

 レンティーノがこんなにも、ミンイェンを想って胸を痛めている。マーティンが自分を責め、ハビはミンイェンの命を繋ぎとめることに懸命だ。『リィしかいない』なんて、そんな冷たい言葉が最後になってしまったらミンイェンを慕う人々はどう思うだろう。

「……グレン。そこにいるか?」

「何だよ、どこも行かねえよ。どっか痛いのか?」

 少し焦ったようなグレンの声に、思わず笑いが零れる。自分にとってグレンがそうであるように、グレンにとってもまたクライドは頼れる存在でありたいとぼんやり思った。

「ミンイェン、まだかかりそう?」

「ああ。大分長引きそうだぞ」

「寝たくないな、こんな大事なときに」

 目を開けたら視界がぐるぐる回っていて気持ちが悪くなったので、すぐに目を閉じる。予想外に貧血は酷くなっているようで、喉元まで吐き気がこみ上げてくる。意図せず、グレンに背を向けるように丸まって身体に力を込めてしまう。そんなクライドの背中をグレンが軽くさすってくれて、何だかそれで少し吐き気がおさまった気がした。

「寝とけ。手術終わったら起こすから」

「……ごめん」

 何か喋ると吐きそうだった。Tシャツの肩の辺りをぎゅっと掴み、こみあげる吐き気を堪える。頭痛もめまいも治まらない。けれど背中をさするグレンの手に、だんだん眠くなってきた。

「ちょっとは治まってきたか?」

 優しげなグレンの声に、ついに答えることができなかった。

 そうしてどれだけ眠っていたかはわからないが、クライドが次に目を開けたのは甲高い金属音を聞いたせいだった。

「ごめんなさい!」

「謝らないでアンソニー、換えはたくさんあるんだから。それより落ち着いて」

「ごめん、本当。次からもっと気をつける」

 何か金属製の医療器具を、アンソニーが床に落としてしまったらしい。ゆっくりと身体を起こしてみると、まだ眩暈と吐き気が残るものの、頭痛はだいぶ軽減されていた。血の臭いと消毒液の臭いと、まだ他に嗅覚に引っかかるものがあったが、突然の吐き気で思考が遮断される。

「起きて平気なのか」

 声のした方を振り返ると、白い壁に背をあずけたグレンが手術中のミンイェンの方をじっと見ているのが目に入る。その氷河の色をした瞳は少しもぶれずに、ただ一点だけを見つめていた。レンティーノもクライドが寝付く前と同じ場所から動かず、ただミンイェンを見つめている。

「ああ、今のところは大丈夫っぽい」

「気分が悪くなりましたら、すぐに横になって下さいね」

「解ってる」

 レンティーノにそう返して虚ろに天井を見上げ、細く息をつく。いつ手術が終わるのだろう。ノエルもハビも、真剣に何かしている。そういえばマーティンはどうなのだろう。

「マーティン?」

 声をかけると、ベッドの上で白いシーツがもぞりと動いた。何も声が返ってこないということは、寝ているのだろうか。相当な失血量だったから、動けなくなってしまうのも当然かもしれない。

 所々が血で固まった金髪に指を通し、こびりついた血の塊をとった。頬や首筋についた細かいガラスの欠片を、いつの間にか誰かがかけておいてくれていた白い無地のタオルケットで軽くはたいて落とす。

「なあ、俺どれくらい寝てた?」

「三時間半ってとこ?」

「ええ、それくらいですよ」

 二人が頷き合うのをみて、がっかりした。そんなに長い間、眠ってしまっていたのか。途方もなく時間を無駄にしてしまった気がする。寝ていた時間はせいぜい十分ぐらいだろうだなんて、高をくくっていた自分に呆れた。

 とはいえ、起きていたとしても出来ることなど何もなかった。結局のところ、クライドも平静なんて保つことが出来ずに焦っているのだ。ようやく今、それを自覚した気がする。

「まだ終わんないのか……」

 思わず呟くと、レンティーノが静かに俯いた。

「さっき大量出血したとか何とかで慌しかったけど、今はちゃんと持ち直してる。そろそろ終わると思うぞ」

 状況を一通り教えてくれたのは俯いたレンティーノではなくグレンで、グレンの話に頷いているとレンティーノは搾り出すような声で言った。

「ですが、まだ一度も意識が戻らないのです」

 心配なのはわかる。けれど、焦ってうろたえたところで何もならない。冷静に考えればそうだが、クライドだって焦っていることは自分で解っていた。

「大丈夫だって。焦るなよ、手術中に意識が戻ったら問題だ」

 それでもあえて、クライドはレンティーノを見上げて言った。頷いた彼のハニーブラウンの髪が、ふわりというよりばさりと揺れた。クライドはレンティーノを見ながら、実はレンティーノの割れた眼鏡にかすかに映っている自分に向かってこんなことを言ったのかもしれなかった。

 グレンは長い骨ばった指を髪に差し入れて揺らし、髪についた細かいガラスを落としたりしていた。その端整な顔は、いつもの楽観的な表情を浮かべては居なかった。彼も心配なのは同じなのだろう。

 レンティーノよりは幾分か冷静だが、いつものグレンならここで快活な笑みを浮かべているはずだ。そして『レンティーノ泣かすなよミンイェン、早く起きろっての』なんて、軽口を叩くところなのだ。

 彼がそこまで楽観的になりきれないのは、あれほどミンイェンたちを信用しない態度でいたグレンでさえ、今はミンイェンの生命に不安を感じているということなのだろう。命の脆さをよく解っているグレンだから、余計にそうなのかもしれないとクライドは思う。

「そういえばグレン、シェリーから連絡は?」

「どうなんだ? レンティーノ。俺は携帯持ってないからな」

 壁に背中をあずけ、宙の一点を睨んでグレンは呟くように訪ねた。黙って拳を強く握り締めるグレンに向かって、レンティーノがいつもの調子で穏やかに声をかけた。

「ノーチェから私の部下を通して連絡がありましたよ。プレミアは無事終わって、パーティーに出席しているようです」

 言いながら、レンティーノはクライドのベッドの縁に腰を下ろす。彼の重みでベッドがぎしりと音を立てたが、身長がグレンと変わらないレンティーノも、体重は自分と変わらないのではないかとクライドは思う。それくらい、彼が乗ってへこんだ部分は少なく感じた。

「そりゃ、セレブの仲間入りって感じだな」

「ノーチェのマネージャーということにして帯同してもらっていますからね。片時も離れることはないでしょう、ご安心ください。セルジには一足先に帰ってきて頂いて、会社のほうを任せました」

 恋人が海外でセレブと同行しているなんて聞いたらグレンは治安を警戒するだろうが、レンティーノはそれを分かっていて先回りして説明をした。グレンもその言葉に納得した様子だった。

 レンティーノは疲れたように微笑む。

「私たちはちゃんと、表向きだけでも平常を装う工夫をしておいたのです。こんな悪夢のようなこと、予測したくなんてありませんでしたが…… ミンイェンは賢いですから、不測の事態に備えていました」

 俯く彼の髪にきらきらしたガラスの欠片がまだついているのを見て、胸が痛くなる。傷だらけになって、ガラスの雨を浴びて、それでも明日からは普段どおり暮らしていかなければならないレンティーノはどれほどつらいだろう。自分を眼中に入れないまま目の前で親友が自殺を図り、大事にしていたものの全てがあっという間に砕けてしまったのだ。思わず細くため息をついたのは、クライドだけではなかった。

「あいつが無事ならそれでいい。遠ざけといてくれてありがとな、もしここにいたらと思うとぞっとする」

 グレンの言葉に小さく笑い、レンティーノはクライドを見た。一瞬その瞳に苦しげなものをみたが、すぐに彼は普段どおりの微笑に戻った。

「顔色、少し良くなりましたね。安心しました」

「そうか? 良かった」

 何となく中身のないやりとりになってしまったのは、お互いに言っていることと考えていることが全く違ったからだろう。

 クライドを気遣う発言をしつつ、レンティーノの心はいつだってミンイェンに向いている。そして今回の場合は、クライドだってレンティーノの発言よりミンイェンが気になっていた。

「縫合、宜しくお願いします」

「解りました」

 ノエルが近くにいた医師と場所を代わり、透明なカーテンから出て帽子を外した。どうやら、もう手術は終りに近いらしい。

「終わったか?」

「傷口を縫合したら終りだよ。もう手が震えて縫合どころじゃないから、代わってもらった。初めて執刀医としてオペなんかやったよ。現場は見学したことしかない、僕が」

 震えるように息をつき、ノエルは座り込んでベッドの縁に背中を預けた。

「まだまだ医者になんかなれっこないね」

「何言ってんだノエル。お前、本当によく頑張ったよ。経験がなくたって知識を信じて行動に出たわけだし。それだけで既に立派だと俺は思う」

 虚ろに視線を落として呟くノエルに、クライドはそう声をかけた。ノエルに落ち度はなかった。むしろ、あれほど絶望的だった空気の中でよくあんな風に動くことができたと感心しているぐらいだ。その点はグレンもレンティーノも感じていたらしく、二人はクライドの言葉にうんうんと頷いていた。

「そうだぞ。医学は全然わからない俺にだってわかる、こういうのスピード勝負だろ?」

「ミンイェンを助けてくださって、ありがとうございます。貴方の冷静な行動で、マーティンも無事に一命を取り留めたことですし」

 口々に賞賛と感謝を述べる二人に、ノエルは疲れたような目を向けた。

「まだ終わったわけじゃないんだよ。彼が目を覚ましてくれなきゃ、意味がないんだ」

 そういうノエルが何だか辛そうだったので、クライドはベッドから降りてノエルが手術服を脱ぐのを手伝った。クライドの貧血はだいぶ軽減されたので、今度はノエルが横になる番だと思う。

「寝とけ」

 言いながらノエルの腕を引っ張って起こし、よろける彼を支えてベッドに座らせる。

「クライドはいいのか?」

「平気。ノエルのほうが大変そうだし」

 枕の位置を少し変えて、ノエルを視線で寝るように促す。レンティーノがタオルケットを広げて軽くはたいて、それからちゃんと綺麗に広げてベッドに置いた。

「君はまだ寝ていたほうがいいよ。僕はまだミンイェンのところについていて、何か異常があったらすぐに対応しないといけないし」

「でもそれでお前がぶっ倒れたら意味ないだろ」

 半ば強引にノエルをベッドに寝かせ、クライドはベッドの縁に浅く腰掛けて手術を見ていた。アンソニーがいくつかの機材を外し、使用済みの点滴の袋を片付けたりしている。ハビは手袋を脱いで、銀色のトレーに投げ入れて肩を回していた。手術は終わったようだった。黙々と作業していた研究所の医師団は、何か小声でハビに色々告げていた。ハビはうんうんと頷き、天井を仰いでため息をつく。

「手術は終了。ミンイェンとマーティンをただちに隣の研究室に運ぶよ。誰か手が空いてる人、手伝って」

 クライドはすっと立ち上がり、ハビのもとへと歩いていった。焦る気持ちが、何かを手伝わなければという心理のもとになっていた。

 透明なカーテンが取り払われたおかげで、アンソニーが手術道具をまとめてせわしなく働いているのがよく見えた。真っ赤に染まったガーゼが山積みになり、空の輸血バッグがいくつもその隙間から見える。そばの白いベッドに横たわるミンイェンは、ぐったりと力をなくしたまま浅い呼吸を繰り返している。青ざめた頬にいつもの生き生きとした笑いが浮かぶことはなく、それが不安を煽った。

 手術をしたからといってすぐに良くなるわけではない。待つ事だって大切だ。焦っても仕方がない。自分に言い聞かせ、クライドはミンイェンから目をそらす。

「そっち押して。終わったらマーティンも運ぶから、手伝ってくれると嬉しい」

「解りました」

 可動式のベッドは、また壁に格納できるように一定の長さを引き出すとストッパーが作動するようになっていた。だがハビは、クライドからはよく見えない位置で何かを動かしてベッドを壁から外した。キャスターのついたベッドは、つるつるした摩擦の少ない床でよく滑った。

 部屋の出入り口までベッドを引っ張り、ハビはちらりと部屋の中を見渡して眉をしかめる。足を止めると、ハビはレンティーノの方を向いて首を横に振る。

「何て格好だ。レンティーノ、君はシャワーを浴びておいで。血まみれだし、髪も絡まってるし」

 慣れというのは恐ろしい。ここ数時間に渡って、クライドはレンティーノやグレンの怪我は愚か、自分の怪我でさえもほぼ見慣れていた。尤も、これは見慣れたせいもあっただろうが、周囲にもっと酷い怪我をした人物がいたせいでもあると思う。

「ノエルはどうしますか、ハビ」

 言われて初めて髪を気にし始めたのか、レンティーノは蜂蜜色の髪に指を通しながら歩こうとしたハビを呼び止める。ハビは少しの間だけ迷い、レンティーノを手招く。

「ここは部下に掃除させるから。一緒に運んできて」

「その必要はないよ。歩けるから」

 ノエルはきっぱりと言い、ベッドから降りて壁にもたれた。グレンが彼のベッドをしまいこみ、マーティンのベッドを壁から外そうとしているアンソニーを手伝いに行った。

「ではノエル、手を貸しますよ」

 レンティーノの声を背後で聞き、クライドはミンイェンのベッドを押して外へ出た。

 外に出ると、今まで居た部屋がどれだけ血の臭いに満たされていたかをよく思い知らされた。

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