第四十一話 世界を失くした少年
胸が締め付けられるような、そんな息苦しい時間が永遠のように長く感じられた。ミンイェンは大声で泣き叫び、声を嗄らして否定の言葉を吐き続けていた。彼をよく知るレンティーノもマーティンも哀しげに立ち尽くしたままだった。
何も言えないのが当然だと思う。九年も追い求めていた唯一の肉親が、やっと蘇ったと思いきやすぐに動かなくなってしまうなんて。一瞬の光を見せ付けられ、それを目の前で踏みにじって消されるような、そんな絶望がミンイェンを満たしているのだろう。ミンイェンと長く付き合っているからこそレンティーノたちはそれを解っていて、何も言うことができないに違いない。
いや、もしかしたら、そこに至るまでずっと支え続けた自分たちの存在をなかったことにして『リィしかいない』と言ったミンイェンにショックを受けているのかもしれないが。
誰も動かない状況に耐えかねて、クライドはそっとミンイェンに歩み寄って彼の肩を揺する。
「ミンイェン、リィの処置いいのか?」
「っ、一緒にいるって言った! まだ一緒に月だって見てない! リィは僕に嘘つかない! いつだって一緒だって、言ったんだっ」
クライドの手を振り払い、ミンイェンは華奢な肩を大きく震わせて泣いていた。手の施しようがなかった。そのうち目の前から色が消えていくような錯覚に陥り、貧血がひどくなってきたことを悟る。
研究所で暮らし始めてから、ミンイェンたちはずっとディアダ語でクライドに接してきていた。だから言葉の面では問題はないが、傷口に滲んだ血の暴走を止めるのが辛くなってきた。
「ミンイェン、いい加減に認めろ」
「ねえ、どうしてクライドは何もしてくれないの? 想像できるんでしょ? リィが生き返るところ想像してよ。想像して、早く想像してよ! 想像してっ!」
不意に立て膝になってクライドの服を掴み、ミンイェンは叫ぶ。枯れた擦れ声で、声が裏返るほどに力を込めて叫ぶ。あやうくクライドはガラス片だらけの床に倒れこみそうになるが、なんとか踏みとどまった。
「無理だよ」
どう頑張っても、答えはそれしかない。クライドはミンイェンの腕を掴んで服を離させる。ミンイェンは震える喉から搾り出すように声にならない声を上げて、その場に突っ伏した。彼が鼻をすする音だけが、静かな部屋に響く。
残酷なことをしてしまったような気がした。彼の最後の望みを絶ったのは確かにクライドだが、それは仕方のないことでクライドにはどうしようもないことだったのに。それでも、目の前で崩れるように突っ伏して泣いている彼に、罪悪感のようなものを覚えてしまう。
「ミンイェン、行こう。リィのとこ」
今まで黙っていたアンソニーは、ミンイェンの細い腕をぎゅっと掴んで引き上げる。彼は立ち上がろうとはしないで、アンソニーに腕だけ持ち上げられた形でまだ泣いている。黒髪の間に見えた顎を伝って、涙が床にぽたりと落ちた。
「僕…… 九年間何やってたんだろう」
喉を壊すほど慟哭した彼の、かすれた呟きは空気を凍らせた。
「リィはまた死んだ。僕はリィを二度殺した」
「ミンイェン、それは間違っています」
ふらつきながらもミンイェンに歩み寄り、レンティーノは首を横に振る。所々血の付いた、ハニーブラウンの柔らかな長髪がさらさらと揺れた。
「僕の希望は消えちゃった。僕は一生、ひとりきりだ」
吐息交じりの声に、クライドは胸を押しつぶされたように感じた。レンティーノは一瞬だけ傷ついたように表情をゆがめたが、それでも説得を諦めたりはしないようだ。
「貴方には、私たちがついています。ひとりきりではありません」
「それでもリィは戻ってこないんだっ、僕のせいで」
また声を荒げるミンイェンの背中を、レンティーノはそっとさすって微笑んだ。思いつめたような微笑みだった。
「蘇生は何度でも可能ですよ、貴方が頑張ろうと思う限り」
てっきり、これを聞いたらミンイェンは落ち着くのだろうとクライドは思っていた。けれどミンイェンはわっと泣き出し、レンティーノの白衣の裾をぎゅっと掴んでまた崩れ落ちた。
「解ってるんだよ僕っ、全部、なにもかも! 冷凍保存だって通用しないよ、九年も前の身体をそのまま常温で保存するなんて、やっぱり無理があったんだっ。僕はそれを知ってた、ハビが言ったとおり全部解ってた! 抱き起こした時の背中とか腰の細胞が崩れてるの、僕はずっと感じてた。リィがどんどん壊れてくのを、僕は見て見ないふりをしたっ。本当は蘇生なんかできる方が可笑しいぐらい、リィは最初から壊れていたのに!」
もうだめなんだ。僕のせいなんだ。二度と戻ってこないんだ。ミンイェンは繰り返し叫び、レンティーノは哀しげに俯きながら膝をつき、力なくミンイェンの腕を掴む。ミンイェンの小さな身体は、そうして震えて丸くなっていると余計に小さく思えた。
クライドは動くに動けず、その場に根が生えたように立ち尽くしていた。ミンイェンは泣き止む気配を見せなかったし、レンティーノも微動だにしなかった。この部屋には酸素がないのかと思うぐらいに、呼吸が苦しい。
けれどそんな中、不意に背後で誰かが倒れた。
どさ、と重たい音がした後、ガラス片が散らばる甲高い音がした。反射的に振り返ると、マーティンがその場に横倒しになって呻いているのが目に入る。
「おいっ」
「っ、来るな。てめえらにだけは助けられたくねえ」
とは言われたものの、白い床は彼の両脚から出た血で汚れていた。鮮やかなまでの白と赤のコントラストに、眩暈を覚えた。
血まみれのガラス片がそこらじゅうに散らばっている様子を見て、敵だとか味方だとか好きだとか嫌いだとか言う前に助けなければとクライドは思った。このままマーティンが死んだらミンイェンはもっと壊れていくだろう。
もともと死んでいたとはいえ、リィを見殺しにしてしまったという負い目が心のどこかにあったのかもしれない。だからもう、クライドは自分の前で誰かが死ぬのは絶対に避けたかった。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ」
「触んなっ」
弱弱しく抵抗するマーティンにため息をつき、クライドはシーツのあった棚からミンイェンにまいてやったのと同じ布を持ってきてやった。
「圧迫止血くらいは出来るだろ? それ以上にどう処置していいか解んないから」
不機嫌そうに布を奪い取り、マーティンは寝たままの姿勢で脚にそれを巻きつける。白い布はすぐに深紅に染まった。目を背けて眉根を寄せると、マーティンは静かに訊ねてくる。
「ミンイェンは」
「レンティーノのところでまだ泣いてる」
即答すると、マーティンは腕で身体を起こそうとした。力の入らない腕で身体を支えることにはやはり無理があって、マーティンは失敗して床に倒れこんだ。
「チッ」
いつもどおりの舌打ち。自分の身体が上手く動かないもどかしさは、クライドもよく解っていた。貧血で動きの鈍くなった自分の身体には、苛立ちすら覚える。まして今のマーティンは、失血死しかねないぐらいの量の血を失っているのだ。嫌いな相手とはいえ、共感を覚えてしまう。
「……この脚じゃ、行ってやれねえな」
いつもの嫌味な態度は、そこにはなかった。純粋にミンイェンを思う気持ちだけが、今のマーティンを動かしているのかもしれない。
クライドとこれ以上顔を合わせていたくないのか、マーティンはごろりと身体の向きを変えてガラス片だらけの床に仰向けになる。青い長い髪の毛先辺りに、赤黒い血痕が付着しているのが見えた。
「おい、レンティーノ」
呼んではいるものの、マーティンはレンティーノの方を見ずに天井を見上げたままだ。
「何ですか、マーティン」
答えたレンティーノも、無表情にミンイェンを見下ろしたままだった。ミンイェンは大きく肩を震わせながらまだ泣いていたが、泣き声はもう上げていなかった。代わりに時々、かすれた呻きのような声が漏れる。
マーティンは白衣の腹部をぎゅっと掴み、痛みを堪えるように小さく呻き、搾り出すような声でようやく言った。
「ミンイェン、頼んだからな」
「っ!」
弾かれたようにレンティーノがこちらを向いた。古風な丸眼鏡の奥の瞳に、絶望が広がっていく。白衣の裾に縋るミンイェンを振り払うこともできずに、かといって床に倒れて血塗れになったマーティンを助けに来ることもできずに、レンティーノは全ての動きを放棄してマーティンを見つめていた。
「や、」
掠れた吐息のような声が、レンティーノの骨ばった喉を振るわせた。
「冗談はよして下さい、マーティン」
「大丈夫、脈はあるから」
震えるように息をして、レンティーノは倒れて目を閉じたマーティンをじっと見ている。近くで見れば、ちゃんと呼吸をしている証拠に痩せ型ではあるがそれなりに筋肉のついた胸や腹部が上下しているのがわかる。それに、顔を見れば閉じた瞼の下の目が少し動いているのだって解った。レンティーノが心配するのも無理もないことだと思うが、彼は死んでなどいない。
「マーティン、嫌がらせですかそれは。声が聞こえているならすぐに返事をして下さい」
大丈夫だといったはずなのに、レンティーノは必死だった。穏やかな普段の彼はどこかへ消えて、彼は焦ったような早口でマーティンを必死に呼び起こそうとしていた。マーティンは彼の声が聞こえてはいるだろうが、返事をするような気力はないようだった。
「レンティーノ? 大丈夫だから」
彼はクライドのほうを見ようとなどしなかった。じっとマーティンから目をそらさずに、ミンイェンの手を掴んだまま彼は必死に呼びかけ続ける。
「マーティン、目を開けなさい、今すぐに」
ちゃんと声に反応しようとしているのだろうが、マーティンは目も開けなかったし声も出さなかった。代わりに、眉根がほんの少しだけ寄る。
「マーティン!」
思わずびくりと身を竦めてしまうほどに、レンティーノは大声で叫んでその場に座り込んだ。乱れた髪の間から、丸眼鏡のレンズが反射して冷たく光る。ミンイェンがそんなレンティーノにぎゅっと抱きついて、レンティーノは彼の髪をひどく優しい手つきで撫でながら肩を震わせる。
「これ以上、私から何を奪おうと言うのですか……」
悲痛な、限りなく悲痛な呟きだった。
独りになったのはミンイェンだけではないのだ。リィの遺体を持ったままどこかへ行ってしまったハビや、壊れたミンイェンや、倒れて動かなくなったマーティンを前にして、レンティーノも身を裂かれるような孤独にのたうっているに違いない。
「グレン。手伝ってくれないかい」
静寂を、今まで黙って壁にもたれていたノエルが裂いた。グレンは無言で頷き、ノエルを見て次の指示を待つ。ノエルは左のレンズが割れた眼鏡を、手で軽くずり上げてからグレンの方を向く。
「マーティンをこのベッドへ運んで」
リィの寝ていたベッドを整えながら、ノエルは簡潔にそう指示を飛ばす。
「何をするのですか?」
焦ったようなレンティーノの声に、ノエルは穏やかに答える。
「処置はできないかもしれないけど、一応状態を確認するんだよ。ガラスだらけの床にずっと寝かせておくわけにもいかないし」
グレンがクライドの隣にしゃがみこみ、力なく目を閉じたマーティンの背中に手を差し入れた。クライドも手伝うことにして、グレンがマーティンを抱き上げた時に、背中や髪についたガラス片を手で払ったりした。
「クライドは、さっきの布。あれをもう少しもってきて」
「解った」
「アンソニー、君はハビを呼んでくれるかい?」
「わかった!」
脇腹を押さえて床にしゃがみこんでいたアンソニーは、ノエルの一言でぱっと起き上がって外に出て行った。出て行ったのはいいが、アンソニーはハビがどこに行ったか解っているのだろうか?
「私は」
「レンティーノはミンイェンの傍にいてやれよ」
マーティンをベッドに寝かせてやりながら、グレンはそう言って気さくな笑みを浮かべてみせる。レンティーノはミンイェンの髪をなでながら、軽く頷いた。
「お願いします」
誠実なその声に、ノエルは頷いてマーティンの外傷をチェックしはじめる。ノエルの指示で、クライドは部屋の隅の水道を使って布を濡らしてきた。ノエルはそれを使い、マーティンの頬や首筋にあった小さな傷を拭いていく。
「レンティーノも十分治療する必要があるよ」
マーティンのむき出しの腕についた傷を濡れた布でなぞりながら、ノエルはちらりとレンティーノを見る。レンティーノは首を横に振った。今はミンイェンと一緒にいたいらしい。
「後でミンイェンと一緒に処置を受けて。ふたりとも、放っておいたら大変なことになるよ」
「ええ、解りました」
つとめて冷静を装っていようと頑張っているのが良く解るような、中身のない声だった。ノエルは小さくため息をつくと、マーティンの深い傷に刺さったままのガラスを抜いた。
「っ、おいノエル=ハルフォード」
刹那、マーティンが苦しげに声を上げたので驚いた。痛みで目を覚ましてしまったのだろうか。呼ばれたノエルは細く裂いた布を怪我より少し上の辺りから巻きつけながら返事をする。
「ベッドの右斜め上、見な」
「俺がやるよ、ノエル」
手が離せないノエルのかわりに、クライドはマーティンの言ったアバウトな場所を探す。言われた場所に手を這わせていると、いきなり引き出しのようなものが飛び出してきて思わず飛びのいてしまった。
「開いたか」
「ああ」
「箱ごとノエル=ハルフォードに渡せ」
言われるがまま、真っ白な引き出しから両手で白い箱を取り出してノエルに渡した。プラスチック製の白い箱には、ガーゼやピンセットなど、応急処置に使えそうなものが沢山入っていた。消毒液や、用途不明の瓶なども入っている。
「ありがとう、マーティン」
ノエルは優しくそういって、早速ガーゼをピンセットに挟んで消毒を開始している。染みるのか、マーティンはぎゅっと眉根を寄せて歯を食いしばっている。
「脚、痛むのかい?」
「まあな」
最大の傷口である腿のガラスを見て、ノエルは手を止めた。白い肌が見えるはずのズボンの破れ目からは、ガラスに貫かれ真っ赤に染まった傷口しか見えなかった。思わず目をそらす。
「完治するまで、長い時間がかかることを覚悟して」
てきぱきとズボンの破れ目を切り開き、傷口の周りを消毒して範囲を見るノエル。
「このガラスを抜くのは縫合の準備が整ってからにして」
「分かってる。てめえらお坊ちゃんどもとちがって、大怪我には慣れてる」
「そう。魔力が残っていたら大動脈を繋げておくぐらいのことはしてあげる気だったけど…… 今の状況だと厳しいかな。君にもどういうわけか、ほとんど魔力が残っていない」
「……」
マーティンは黙ってノエルから目を逸らした。ノエルはそれ以上深く追求することもなく、扉のある方向を見やる。ハビは何をしているのだろう。アンソニーも帰ってこない。
「チッ。クライド=カルヴァート、脚が治るまで決着は延期だ」
「解ってる。とっとと治せよ」
髪にこびりついて固まった血を指でそぎ落としながら、マーティンは不機嫌そうに言って目を閉じた。それきり彼はまた殆ど動かない状態に戻る。寝ているのだろうか?
いけ好かない相手ではあるが、マーティンの元気そうな様子にやや安堵したところで、視界の端にミンイェンが動くのを捕らえた。
「おい、ミンイェン?」
呼びかけてみる。けれどミンイェンはゆらりと立ち上がって壁にもたれ、クライドの方を向こうとはしなかった。
ミンイェンも相当な失血量だっただろう。なにせ一番近い距離、しかも正面から飛散してくるガラスを受けたのだ。もともと動いてはいけなかったと思う。彼はたぶん、マーティン以上に重傷だ。
立ち上がったミンイェンは、怪訝そうに見るレンティーノから目をそらして、ふらふらと部屋の中央へ向かった。クライドが巻いてやった止血用の布がはらりと床に落ちたが、彼は構わず歩き続けた。
何をするつもりなのだろう。とりあえず止めよう。クライドがそう思い、ベッドサイドからミンイェンのいる方に足を向けたそのときだった。
ミンイェンがその場に屈みこんだ。そこは放射の中央、つまりあの円筒形をした水槽の残骸がある場所だった。ミンイェンを中心に、ガラスがこちらに向かって飛散している。その様子が、ミンイェンがクライドたちを拒絶しているように見えてぞっとした。もっとぞっとすることは直後に起こった。
こちらに背を向けて屈んだミンイェンの、左手にきらりと光るものを見つけてしまった。
咄嗟に思考が働かなかった。うまく整理できない。ミンイェンが何をするつもりなのか全く解らない。彼が拾ったのは、ガラスの破片?
「っ、邪魔です!」
嫌な予感がしてミンイェンに軽く駆け寄ったクライドを、レンティーノが押しのけた。彼はふらつきながらも、即行でミンイェンのところに駆けつけた。
しかし、もう遅かったのだ。
血塗れの白衣の袖が翻り、吸い込まれるように真っ直ぐに腹部へと落ちる。一瞬、部屋から全ての音が消えた気がした。
「っう」
「ミンイェン!」
彼が握ったガラスの破片は、台所で使う包丁など比ではないぐらいに大きいものだった。血染めで赤黒かった腹部に、さらに濃いトーンの血が滲んでいく。透明なガラスに真っ赤な液体が絡みつき、ミンイェンの白い筋っぽい手にも、いく筋もの赤がしたたっていく。飛び込んでいったレンティーノの腕に、その華奢な身体は力なくもたれた。
目の前が真っ白になった。貧血なのか精神的な打撃によるものなのか解らないが、眩暈がした。身体の力が全て抜けていくような感覚に、目を閉じようとしても閉じられない。床に膝を着くのと同時に世界に色が戻ってきたが、その中でミンイェンの放つ赤はひときわ強烈だった。
硬直し、言葉をなくしたレンティーノは座り込む。ミンイェンは息を荒くしながら、腹に深々と刺さったガラスの破片を抜こうとする。レンティーノがその手を握って止めた。きつく、きつく、握る方も握られる方も血管が浮き出るぐらいにきつく握って止めた。
「なんてこと、するのですかっ!」
震えて裏返った声に、ミンイェンはくすりと笑う。レンティーノの目から大粒の涙がこぼれてミンイェンの頬に落ちた。涙は彼の頬にあった小さい傷をなぞり、薄桃色に変わってミンイェンの首筋を伝った。
「生きてる資格なんて、なかったんだ、九年前から」
「そんなことありませんっ、そんなこと」
「実験は、終了…… いままで、ありがとう」
レンティーノの腕の中で、ミンイェンがくたりと力を失うのを見た。皮膚があわだつような感覚に身震いして、クライドは立ち上がる。とりあえず彼を助けなければ。何とかしなければ。そればかりが頭の中を支配していく。一秒でも早く、ノエルのもとにミンイェンを運ばなければ。
「おいレンティーノ、ミンイェンを動かさないようにこっちに運べ」
殆ど彼らの方は見ずにそういってガラス片を踏みつけながら走り、マーティンの応急処置をする手を止めてミンイェンを凝視しているノエルの隣の壁を探った。
確かさっき、マーティンの指示で引き出しをみつけたとき、もう一つベッドを引き出すための取っ手を見た気がしたのだ。どこだろう、あった。
「ミンイェンの傷、深さは解るかい」
我に返ったノエルは、クライドにまずそう尋ねた。クライドは渾身の力を込めてベッドを引き出しながら、首を横に振る。視界の端にレンティーノが見えた。彼はミンイェンのぐったりした身体を抱き上げて、真っ青な顔で目を泳がせている。
「……解んない。でもガラス大きかったし、血が凄い」
「解ったよ、とりあえず彼を寝かせよう。レンティーノ、こっちへ」
引き出したベッドにシーツをかけるのを、グレンが手伝ってくれた。グレンもまさかミンイェンが自殺行為に走るとは思わなかったのか、クライドが駆け戻ってくるまで呆けた表情で信じられないとでも言いたげにミンイェンを見つめていた。
レンティーノはミンイェンを丁寧にベッドに寝かせ、ぎゅっと彼の手を握っていた。離そうとしなかった。無理に離す気にもなれないので、ノエルと目配せしあってレンティーノはそのままにしておいた。
「どうするノエル」
「動かしちゃだめ。ここにある道具じゃそんな傷は処置できないけど、どうにかしないと。借りるよミンイェン」
ノエルはミンイェンの白衣の内ポケットに手をいれ、彼の携帯を取り出した。血塗れの携帯にはガラスが刺さりかけていて、ノエルが携帯を開くと刺さりかけていたガラスは床に落ちた。あまり使ったことなどないだろうに、慣れた手つきでメモリーを呼び出してノエルはどこかへ電話をかける。
「もしもし、僕だよ。今どこにいるんだい。アンソニーは」
電話の向こうから聞こえる低い声はハビのものだろうか。ノエルは険しい表情でベッドに寝るミンイェンを見て、手早く血染めの白衣を脱がしながら電話の声に相槌を打つ。
「ミンイェンが割腹自殺を図ったよ」
電話の向こうが沈黙した。
「すぐ戻ってきて。一刻を争う事態だから。手術道具はあるかい? 医者は」
少し長めの返答の後、ノエルはちらりとグレンを見て目線で助けを求めた。グレンは頷いて、ミンイェンの白衣を脱がせてばさばさと払う。ガラスの欠片が飛んだ。
「解った。すぐ向かう」
電話を切り、携帯をミンイェンの枕元においてノエルは出口に向かって走っていく。
「ノエル、何処行くんだ」
呼び止めると、彼は振り向いて早口に言った。
「ハビのところ。グレンとクライドはミンイェンの上を脱がしておいて。必要があれば破いても構わないけど、あまり動かさないようにね。大きい破片はそのままにして。戻ってきたらすぐ処置を始めるから」
それきり彼は振り向かず、行ってしまった。クライドとグレンは顔を見合わせ、血染めのボーダーシャツを着たミンイェンを見下ろす。
「レンティーノ、手を離せ」
服を脱がすのなら、手を握られていては困る。クライドはそう思って、ミンイェンの手に重ねられたレンティーノの手を外そうとした。凄い勢いで振り払われた。辟易するクライドに、レンティーノは目もくれずに呟いた。
「嫌です。離しません。ミンイェンの目が覚めるまで、私はずっとここにいます」
どうしたものかと黙考し、クライドは仕方なくノエルが使っていた白い箱の中からハサミを取り出した。一刻を争う事態だ、解っている。
とは言ったものの。
「俺こういうの無理だよ」
思わず口をついて呟きがもれる。無理だ。
人の血を見ているだけで、すでに気が遠くなっているのだ。グレンもその点は同じようで、なるべく傷口を見ないようにしながらもうひとつのハサミを手に取っている。
「無理とか言ってられねえよクライド、さすがに命に関わる」
「解ってる。俺らしかいないし。……やるぞ、グレン」
焦点の合わない目でじっとミンイェンの顔を見つめながら座り込んでいるレンティーノと、腹にガラス片を刺したまま意識をなくしてぐったりしているミンイェン。この場で動けるのはクライドとグレンだけだ。ノエルが戻ってくるまでに、何とか準備を整えておかなければ。
ミンイェンの肌に刃を当てないように気をつけながら、クライドは彼の服を切っていった。先ほど自分で刺したところ以外にも、服には既にたくさん穴が開いていた。ミンイェンはリィとの再会を喜びながら、ずっと胸や腹にガラスが刺さっている痛みに耐えていたのだろうか。
刺さっていたガラスは、数えてみるとごく小さいものを含めて五十以上あった。恐らく腕や脚も含めたら、この数も倍以上に膨れ上がることだろう。
「こんなとこか?」
ハサミを白い箱に戻して、クライドは自分の傷口に箱の中から出した絆創膏を貼りつけた。額や目の上、それから頬、首筋、腕。脚はズボンをめくって貼るわけにもいかず、放置することになった。絆創膏は白い箱の中にたくさん入っていたから、クライドはグレンにも貼ってやった。
虫の息ではあるが、ミンイェンはまだちゃんと生きていた。けれど浅く上下する傷だらけの胸は、ほんの些細なことですぐに止まってしまいそうに見えた。
「傷口わかりやすいように、濡らした布で拭いとこう。さっきノエルがマーティンにやってたみたいに」
頷きあい、処置を進める。肋骨の浮き出た厚みのない体にたくさんの傷がついているのを見ると、痛々しくてたまらない。
ミンイェンが自分で刺したあの大きなガラス片はまだ刺さったままだ。それが余計に痛々しかったが、抜いてしまったら出血がとまらなくなって命に関わるので、抜くこともできない。
「……なんとかなんないかな」
呟いたグレンの声にうなずいて、クライドは無言でノエルの帰りを待った。