第三十九話 手にしたもの
モーターの駆動音がごく静かに空気を震わせていた。クライドは手首に目を落とすが、視界は白い包帯にさえぎられているので自分の手がどうなっているのかはわからなかった。
スイッチを入れられた途端、右手は急にしめつけられた。肌にコードが食い込むのがはっきりと解り、コードの巻きついたところから末端への血流は一気に滞った。暫くすると収まってきたが、まだ手首をコードにしめつけられている感覚は消えない。
ミンイェンに言われたとおり、魔力は少しずつ流している。水槽の中からこぽりと小さく泡の音がした。知らず、肩がぴくりと跳ねる。
「安定したみたいだね」
ハビの低い声が、先ほどとは違う場所で聞こえた。方向的にミンイェンの傍にいるらしいが、レンティーノの機材の近くにいるのかもしれない。ハビはなおも続ける。
「冷気系変形分子の存在を確認。これより第二段階へ突入。ミンイェン、入力端子を統一して」
キーボードを打つ音が聞こえる。誰かが歩く足音がして、衣擦れの音がすぐ後ろで聞こえた。聴覚だけで部屋の様子を想像するのは思いのほかつらく、すぐにクライドはこの部屋の広さを忘れた。
足音の主はクライドの背後で止まる。誰だろう、ミンイェンやハビではない。だとするとマーティンかレンティーノだろうか。
「失礼します」
レンティーノだ。そういえば、マーティンが近寄ってきた時に漂ってくるタバコの臭いがしなかったことを思い出す。視覚がない分、嗅覚も敏感になっているのだとひとり納得する。
結局何のためにつけられたのか解らないまま、背後にいたレンティーノに首の黒い紐を外された。レンティーノはちゃんと一人一人に声をかけ、黒い紐を回収して回っているようだった。
「クライド、ぶっ倒れてねえだろうな」
「大丈夫、その心配はなさそう」
隣からグレンの声が聞こえて、それだけで少し安心した。視界の無い世界の中で、音だけでグレンたちのことを認識するのは無理だ。彼らは誰も動かないし、呼吸の音だって機材のモーター音に消されてしまう。
レンティーノが背後を通るのが解った。ノエルの方まで行って、戻ってくるところだろう。寄り道をしてハビやマーティンと何か接触したかもしれないが、そこまでは解らない。
「出力を二倍に拡大します」
「右端を最上に設定して。上ブレが発生したら排出を上げよう、上げ幅は…… 3、いや5」
「冷却装置をフル稼働させな、オーバーヒートしそうだ」
「マーティン、そこにいるなら念のため保護剤を用意しておいて」
「解ってる。てめえも近くにいるならそこのバルブ閉めときな、前回はそれが失敗の原因だった」
慌しくなる背後に意識を集中させていた。しかし、正面の水槽の近くでミンイェンが小さく笑い声を漏らしたことで、クライドは再び水槽に意識を向ける。ミンイェンは時々クライドの背後にいる三人へ向けて指示を飛ばし、時々リィに話しかけていた。
「実験は中期にさしかかったよ。クライド、グレン、トニー、ノエル、本当にありがとう! もうちょっと頑張って」
嬉しそうに彼が跳ね回る足音が聞こえた。苦笑してしまう。こんな状況でも、いや、こんな状況だからこそミンイェンは子供のようにはしゃいでいる。背後ではレンティーノとハビが専門用語を飛び交わせていて、マーティンが一人離れた場所で何か金属製のものを落として舌打ちをしていた。
「本番はここからです。気を引き締めて下さいね」
誰に言ったのか解らないが、レンティーノは恐らくクライドたちに向けてそう言ったのだろう。クライドは黙ったまま手元に目を落とし、包帯の下でまばたきした。
何だ、意外と実験なんて簡単だ。そんなに多量に魔力を使っている感じもしないし、薬をもらってからは貧血の症状だってない。そう思っていた矢先のことだった。
椅子が転げる音がした。確かにした。同時に、誰かが床に倒れる音も。びくりと肩が跳ね上がる。
「なあ、今の誰だ」
「俺じゃない」
「ノエルだよ!」
グレンからは否定が、アンソニーからは答えが返ってきた。目隠しの包帯を鷲掴みにして引き降ろし、左側を見る。ノエルはその細い身体を床に横たえ、ぴくりともしなかった。鳶色の髪に隠れて表情はわからないが、それが余計に不安を煽った。
アンソニーがアイマスクを額へずり上げ、グレンが椅子を蹴って立ち上がった。
「おいっ、ノエル!」
勢いよく倒れた椅子の脚が金属音を響かせる。
「落ち着いて下さいクライド。心配することなど何もありません」
「どうやったら心配ないって言えるんだよ!」
制止するレンティーノを振り切り、ノエルの傍まで走る。手首のコードは巻きついたまま固まったようにほどけなかったので、外さないまま走った。コードは長かったから、ノエルの傍に到達してもまだ余りがあった。
「ノエル、大丈夫か」
声をかけてもノエルは起き上がらなかった。長い間睡眠不足を続けて、今日だってそんなに物を食べずにここまできて、ずっと魔力を流し続けていることについに限界がきてしまったのだろう。
魔法を使って起き上がらせようか。そう思ったとき、不意にミンイェンに手首をつかまれた。
「何すんだよ」
「駄目だよクライド、ノエルは平気だからリィの方に集中して。グレンもトニーも席に戻ってじっとしててよ」
「だから、何の根拠があって平気だなんて言えるんだよ」
にらみ合いになりかけたとき、そっとコードがついているほうの手をつかまれた。見下ろせば、ノエルが弱弱しい微笑を浮かべながらクライドに向かって首を横に振っている。それ以上言い争うなという意味だろう。クライドは黙り込んだ。
ノエルはゆっくり身体を起こし、その場に座る。ずれた眼鏡を直しながらノエルは大きく息を吸って、ため息として吐き出した。
「大丈夫だよクライド、僕はまだ生きてる。……辛うじてね。ミンイェン、僕にはこれ以上魔力は残っていないよ。外れてもいいかい?」
すぐには答えがこなかった。クライドはノエルではなくミンイェンを見て、頷けと心の中で念じる。勿論魔法は使わないように気をつけた。
「本当は最後の一滴まで欲しいんだ。でもそうすると君が死んじゃうよね」
そこでミンイェンは少し考えるしぐさを見せてから、ノエルに微笑みかけた。そして彼に向かって手を出す。
ノエルはその手を借りて立ち上がり、少しふらついた。クライドは咄嗟に立ち上がってノエルの肩を支え、ミンイェンをちらりと見る。
「じゃあ、クライドが大変そうになってきたら助けてあげて」
「わかった」
ノエルは手首に巻きついたコードを外し、椅子を立てなおして壁際に座った。最後に大丈夫かと声をかけて、ノエルが頷くのを見取ってからクライドも席に戻った。クライドの近くでマーティンが冷たい目で睨んでいるのが解ったが、無反応を心がける。
外していた目隠しをどうするか迷った挙句、やはり再びつけることにしてぞんざいに目の上から巻きつけた。
挟まった前髪を包帯から引っ張り出しながら、常に隣から意識をそらさなかった。今度はグレンやアンソニーが倒れるかもしれない。そうなったらすぐに実験から外させて、彼らを休ませてやらなければ。
そう思った矢先、隣でグレンが小さく咽た。
「グレン」
呼びかけても返事が無い。ぞんざいに巻いた包帯をもう一度首まで下ろすと、グレンは自分の掌を見つめて固まっていた。
「おい、グレン」
「やべえ……」
かすれた声で呟いたグレンは、見つめていた手をぽとんと膝に置いた。その掌には、真っ赤な血がこびりついている。全身の血の気が引いていくのを感じた。クライドも微動だにできなかった。放心したグレンは、自分が血を吐いたことを理解できていないようだった。
「その血、なんだよ」
「わかんない。どこも痛くない…… でも、喉から血の味が消えない」
思考が徐々に白くなっていくような錯覚に囚われた。リィの水槽の中で激しく気泡が発生しているのを見ても、今はそれよりもグレンのことを考えたかった。何か出来ることはないかとポケットを探る。何も出てこない。携帯は止血の役になんて立たない。大体、どこからの出血なのかも解らない。
このままグレンが倒れたりしたら、今のクライドには何ができるだろう? きっと、何もできないに違いない。それだけは避けたい、いや、避けなければならない事態だった。
「グレン、口あけて」
声に顔を上げると、ノエルがグレンの正面に立っていた。彼はポケットに手をいれ、ペンライトを取り出してグレンの口の中を覗き込む。歯科医師のように慣れた手つきだ。呆気に取られて見ていると、ノエルはペンライトの明かりを消してミンイェンを手招いた。
「今まで、魔力の使いすぎで粘膜が痛む例はあったかい?」
「うん、それよくあるよ! 毛細血管の破裂とか、ひどいときには胃や口腔内の出血なんかも」
「ありがとう、原因はそれしかないだろうね」
ノエルは小さく呟き、グレンの手に巻かれたコードを引っ張ってミンイェンに見せる。
「グレンも今すぐ魔力を止めるべきだよ。ミンイェン、彼も外して」
クライドも是非そうしてほしかった。けれどミンイェンは首を横に振る。どうやらまだグレンの魔力を搾り取りたいらしい。
目の前で彼が血を吐いても、ミンイェンときたらまるで他人事である。原因は間違いなくミンイェンのこの実験にあるのに、彼はグレンを休ませようとは思わないようだ。
「グレンはまだ魔力を」
「君はグレンを殺したいのかい?」
静かに、冷たくさえぎったノエルの声にミンイェンは黙り、唇を噛み締めて項垂れた。重苦しい沈黙が降りた。レンティーノたちは計器をいじったり機材を調整したりするかたわら、こちらの様子を窺っている。
誰かが何か言わなければ、グレンが腕のコードを外せない。こうしている間にもグレンの魔力は吸い取られているのだ。
「俺がちゃんとやれば問題ないだろ? 頼むからこれ以上こいつらに無理させないでくれ」
「クライド」
責めるような声色でグレンに呼ばれるが、クライドは首を横に振った。
「いいんだグレン、お前はノエルと休んでろ」
こんなことを言ったぐらいで引き下がるような男ではないと知っているが、今は黙って自分の言うことに従ってほしい。グレンはため息をついて反論をしかけたが、先にミンイェンから口を開いたのでグレンは黙る。
「わかった。君も僕と同じなんだもんね、クライド」
長い前髪に隠れた目元が、現在もし見えていたのなら。きっと優しく微笑しているに違いないとクライドは思った。ミンイェンにはまるで似つかわしくない、大人びたその微笑。何だか急に彼を年上に感じて、クライドは訳が解らなかった。
「どういう意味?」
何故そんな顔で笑うのか。大口をあけて無邪気に笑っているのがいつものミンイェンなのに。いつもの、なんて言えるほど長い間一緒にいたわけではないけれど、それでもこの二週間で解りすぎるくらいにミンイェンのことは解った。態度も表情もわかりやすい彼が、切なさにも似たこんな笑みを浮かべたところなんてクライドは見たことがない。
「自分で考えて! グレン、ノエル、君達はなるべくクライドの近くにいてね」
ミンイェンは白衣の裾をはためかせ、水槽の傍に歩いていった。何の気なしに水槽の中身を見てしまい、クライドはすぐに目を伏せた。
やはり死体を生き返らせるなんて、あまりにも自然の理を無視しすぎているのだ。もうこうして死んでしまった姿を見たからには、彼が生き返った姿もクライドはきっと見ることができない。けれどこの蘇生実験はかねてからミンイェンが切望していたものであり、クライドはもう後へは引けないところまで来てしまっている。終わらせるしかないのだ。
クライドは、この実験が終わることが少しだけ怖かった。薄い氷の上に立っているような不安が押し寄せる。
「さあ、反応が進んできた…… もうちょっと、もうちょっとでリィは生き返る! クライド、トニー、頑張って!」
水槽の中からこぽこぽと気泡がはじける音がする。その音の感覚が狭まれば狭まるほど、背後の三人も慌しくなっていった。ミンイェンはただ恍惚として、円筒形の水槽に抱きつくようにしてべったり両手と頬をつけている。
見れば、水槽の上の方はだんだん水がなくなってきていた。とりあえず一定の間隔で魔力を流す。そうしながら、まるで理科の授業で見た電気分解装置のように、内部に気体を発生させながら水分をなくしていく水槽の下のほうをみつめた。リィの足首が見える。即座に目を背けた。
このまま水槽の内部の水が干からびる時が、実験が終わる時なのだろうか。そう思った刹那のことだった。
「っ! 皆離れて!」
ミンイェンの声がした。顔をあげて言われるがまま椅子から離れた。今のはほとんど条件反射だった。動いてから、何故動けといわれたのか考えたがすぐに放棄した。
水槽が一瞬膨張したように見えた。とっさに危険だと判断した。目を閉じて壁際まで後退する。リィの胸辺りまで水がなくなった水槽は、小刻みに揺れているようだった。ミンイェンは離れろといったくせに、自分はまだ水槽のそばにいた。
ピシ、と音が聞こえた。ひびが入ったのだろうか。外見からでは解らないが、どこかわかりにくい場所に亀裂が生じたに違いない。それでもミンイェンは動かない。
クライドは手首のコードをむしりとった。コードの中で、何かがぱきりと割れる音がした。
「ミンイェン、逃げなさい!」
レンティーノの鋭い声と同時に、強烈な破裂音が響いた。
実験は失敗に終わったのだと、クライドは思った。思った瞬間頬や腕をガラス片がかすめ、心臓が凍りつく思いがした。顔を庇いながら走って部屋のすみへと急ぐ。身体の様々な場所に、小さな痛みを感じた。
辺りは急に静かになった。誰も何も言わなかった。顔を庇っていた腕を下ろすと、部屋の惨状が一目でわかった。真っ白い部屋は所々が誰かの血痕で汚れ、壁にはガラス片が突き刺さり、ガラス片の散乱した床には水槽の中身の液体が放射状に飛び散っていた。
放射の原点に視線をうつす。粉々になったガラス片の上には、リィの遺骸とミンイェンが横たわっていた。もとから死んでいるリィはともかくとして、ミンイェンもぴくりともしていなかった。そんな、まさか。
部屋の隅にいたレンティーノが、息を乱しながら左腕を押さえて一歩踏み出した。よろけた彼は倒れそうになるが、それでもガラス片を踏みつけて一歩一歩確実にミンイェンに近づく。
「ミンイェ…… 起きて、下さいっ」
「おい、レンティーノっ」
よろけるレンティーノに手を貸そうとしたのか、マーティンは踏み出したが顔をしかめてその場に蹲った。見れば、彼の右の腿には大きなガラス片が突き刺さっている。ハビは愕然として、倒れたミンイェンを凝視していた。その身体にケガはないように見えたが、少し動けば白衣の背中にはびっしりとガラス片が刺さっているのが見えた。
まるで地獄だった。
グレンはその場に座り込んでいたし、アンソニーは頬から流れる血を半分泣きそうになりながらごしごしと肩口で拭っていた。ノエルは黙ってその場に立っていたが、眼鏡のレンズが割れていたし、白いシャツには様々なところに血が滲んでいた。
「大丈夫か」
ようやく声を出すことに思い至った。三人は振り返り、唖然とした顔でこちらにかけよってくる。よかった、ちゃんと歩けるのならまだ大丈夫だ。
「それ僕らのセリフだよ! クライド、血が、やだ、死なないでクライド!」
「落ち着けよトニー。クライド、平気か? 目が」
半狂乱になるアンソニーの肩に手をおいてぽんぽんと叩きながら、グレンはクライドの右目を指差した。
「目? 別に」
「見せて」
有無を言わさずにノエルがクライドの髪をかきあげ、じっと目を見てきたので数回瞬きした。すると彼は安心したように微笑して、クライドから手を外した。
「まぶたの少し上、だね。びっくりしたよ、これで君が失明でもしていたらどうしようかと思った。傷口は浅いからすぐ血は止まる。でも魔力が暴走しないように……」
「ミンイェンっ!!」
穏やかな声で話すノエルの言葉を、レンティーノの悲痛な叫びが切り裂いた。仲間達がちゃんと生きて、ケガをしているが大事には至っていないことを喜んでいる場合ではなかった。クライドは瀕死のミンイェンのもとに駆け寄る。
ミンイェンは血塗れでその場に倒れ、けれどちゃんと息はしていた。あんな至近距離で、マシンガンのように放たれたガラスの雨を浴びたのだ。重傷で当然だと思う。レンティーノは荒い息をしずめようともせず、震える手でミンイェンの肩を掴んで揺すっていた。
「ミンイェン、ミンイェン、何をしているんですか、起きて下さいっ! ミンイェン、私の声が聞こえていますか、ミンイェン!」
必死で痛々しいレンティーノの姿を見て、ハビはやっと我に返ったのか凄い速さで駆け寄ってきてミンイェンの首筋に手を当てた。脈があることを確認したのか、その焦った顔つきにほんの少しの安堵が浮かぶ。
「とりあえず起こすから」
レンティーノの手を外させて、うつぶせの彼を仰向ける。乱れた前髪の間から左目だけ見えた。彼は小さく呻き、薄く目を開けて、ハビとレンティーノの姿を捉える。
「リィは?」
クライドはさっと横目でリィの姿を捉えた。
そして、その姿勢のまま凍りついた。思考は停止した。ついでに呼吸も停止した。瞬きすら止まった。
ミンイェンの隣に横たわっていたリィは、目を開けていた。




