第三十七話 決心
それから四日間、クライドはクロスワードを解いたり本を読んだりして白いだけの空間の退屈さに耐えていた。アンソニーは退屈などあまり感じていない様子で、近頃はミンイェンの所に入り浸りになっている。どうやら、彼と波長が合うらしい。
全員がそれなりに、この研究所に飼いならされてきた感じがする。グレンが主導して何度か脱走を企てたこともあったが、ビルの外に出てもそのたび連れ戻された。それを毎回ゲームのように楽しんでいるミンイェンを見て、グレンは脱走を諦めた。すべての主導権がミンイェンにあるのは明白で、彼に従っている限りは不利益がない。
ノエルは恋人となったサラと毎日ビデオ通話で愛を囁きあっているらしいが、二人の邪魔をしたくないし時差のせいでその逢瀬が早朝四時に行われているのでクライドはその時間にそもそも起きられなかった。ノエルがやたらサラに接触する研究員のことを気にするので、レンティーノがくすくす笑いながら研究員を男性から女性にチェンジしたのは昨日の話だ。
「つまんねー」
最近、グレンの口癖がこの一つに統一されてきている気がする。彼は一昨日からコピー用紙を沢山貰ってきて、楽譜や歌詞を書きなぐっている。もう新曲が五曲も完成してしまったようだ。
彼はセルジに頼み、腰まであった長髪を肩甲骨に届くくらいの長さに切っていた。それは確か、三日前のことだった気がするが記憶が曖昧だ。兎に角、グレンにはこの髪型が一番似合うとクライドは思う。
「なあ、今日ってここにきて何日目?」
「もう時間の感覚ないよ俺。多分六日目だと思う」
「八日目だよ、クライド」
そんな会話をし、一日を過ごす。セルジの計らいで広い会議室に簡易的なバスケットゴールを設置して走り回ったりもしたが、やはり身体が鈍る。するとミンイェンはその部屋にエアロバイクやランニングマシーンも取り寄せて、簡易的なジムにした。行動力がすごい。
そうしてついに実験当日の三日前まで来てしまった頃には、もうすっかりクライドたちは研究所の仕組みを解っていた。部屋を間違ってしまうこともなくなっていたし、小さな目立たないカードリーダーもすぐ見つけられるようになった。慣れればこの研究所はそれなりに便利で、プライバシーも確立された環境だということに気づく。
クロスワードか中庭でのバスケットボール、サラとのビデオ通話、あとは難解な学術書を読むぐらいしかできない環境の中で、クライドは暇になって研究員の仕事を手伝ってみようとした。だが、難しすぎて挫折した。
この日はアンソニーが疲れからか熱を出し、一日ベッドから起き上がらなかった。夜になってノエルが資料室から出てきて、この状態に気づいて早速診察を始めた。最近の彼は資料室に閉じこもって出てこないことが多い。研究資料やレポートなどを読んで、彼は日々豊富な知識を身につけているのだ。クライドはこのところ、考え事をすることが多かった。静かな真っ白い部屋の中にいると、何かを考えるより他にすることがない。
「どうだ? トニーの容体」
訊ねてみると、ノエルは緑色の知的な瞳を細めて笑った。
「心配ないよ、ただの風邪だから。ここは製薬会社だし、薬がほしいって言えば誰でもすぐ用意してくれると思うし。アンソニー、枕の位置を少し変えるよ」
アンソニーはぐったりしたまま頷いて、小さく咽た。そんなアンソニーをシェリーが不安そうに見つめている。ノーチェが研究所とは別の仕事でここをあけることが多くなるようになり、シェリーは最近では朝からずっとグレンやクライドと行動を共にしている。
「安静にしていれば治るよ。今は辛いけど、頑張って」
「ねえ、暑いよノエル。布団いらない」
「駄目。身体を冷やすとよくないよ」
布団をはがそうとするアンソニーを優しく宥め、ノエルはグレンを手招いて何か耳打ちする。グレンは頷いて、黙って部屋を出て行った。冷房の効いた部屋の中でもタンクトップを着た彼の背中を見送りながら、クライドは小さくため息をついた。
「お前、無理しすぎなんだよ」
「だって」
反論してこようとするアンソニーの目の上に、クライドはそっと右手を被せた。驚いたのか、アンソニーは黙り込む。
「寝ろ。寝ないと直らないから」
「無理だよクライド、もう五時間も昼寝してるんだよ? ……お腹空いたし」
「何だよ、食欲無いんじゃなかったのか?」
「あるけど頭が痛くて起きられなかった」
柔らかな金髪をくしゃりと掴み、アンソニーはまた少しむせた。彼が体の向きを変えてクライドに背を向けたので、クライドは微笑してその背中を軽く叩いてやった。叩いてやりながら、肩越しに振り返ってノエルの方をちらりと見る。
ノエルは分厚い医学書を膝に乗せて読んでいたが、クライドの視線に気づいて顔を上げた。
「心配いらないよ。彼は足も行動も速いからね」
その言葉から察するに、ノエルはグレンに何か調達するように頼んだのだろう。一応は安心するが、出て行ったグレンには早く帰ってきてほしい。
「アンソニー、大丈夫?」
「平気だよ。シェリーもそろそろ寝たら? ここにいたら僕の風邪うつるかも」
心配そうなシェリーに向かってアンソニーはいつもの口調で言う。しかし、声に元気さは半分ほどしか残っていない。あまり病気をしないアンソニーだから、久しぶりに風邪を引いてやっぱり辛いのだろう。
「ううん、まだここにいる。そうだ、風邪が治ったら一緒に屋上に行こう? レンティーノがハーブティーを淹れてくれるんだ」
「そうだね! 前に出してもらったクッキー、本当に美味しかった」
言いながら咽るアンソニーの背中を叩いてやる。アンソニーは小さくありがとうと呟いた。
「あれ、ハビの手作りなんだよ。カフェにおいでって誘われたから、今度皆でいこっか」
「楽しみだなあ」
もぞりと彼の足が動く。このまま布団を蹴り上げそうな気配だ。即座におさえれば、アンソニーは小さく苦笑した。
「ばれた?」
「ちゃんと布団かけてろって医者に言われたろ」
「だって暑いんだもん」
「あ、じゃあ治らなくていいんだな?」
「それはやだ!」
何だか子供みたいなアンソニーに笑える。くすくす笑いながらシェリーと顔を見合わせると、アンソニーは『笑わないで』と怒った。
やがて二人分の笑い声とアンソニーの反論しか聞こえない部屋に、不意に足音が響いた。
振り返ると、グレンが手に盆を持ってこちらに歩いてきている。盆の上には缶詰らしきものと、ガラスの器が乗っているようだ。グレンがそれをサイドテーブルに置くと、缶と器のほかにフォークと缶切りがあるのも解った。どちらも銀一色で、何だか手術用具のように見える。
「ほらトニー、食堂で桃缶貰ってきてやったぞ」
「やったあ! ありがとうグレン!」
今までクライドに背中を向けていたくせに、グレンが声をかけたらアンソニーは飛び起きた。苦笑しながらアンソニーを見ていると、彼は缶切りを手に缶詰と格闘し始める。別に缶切りが使えないわけではないだろう。しかし、力が入らないのか手汗で滑るのか、とにかくアンソニーは缶を開けられずにいた。
「……クライド助けて」
「しょうがないな。貸してみろ」
アンソニーから缶詰を受け取って、缶切りを缶の縁に引っ掛ける。割と軽い力で缶が開いたのは、缶切りが手にフィットして力が込めやすかったからだろうか。
「はい」
「ありがと!」
缶切りを盆に置いて缶の中身を器にあける。アンソニーはフォークを持って、嬉々とした顔で桃を見ていた。
「何だ、トニー桃好きだったか?」
「好きだよ。それに、ご飯食べてないから」
グレンの問いには桃をほおばりながら答えて、アンソニーは幸せそうに笑う。そんな彼を見ているとちょっと和む。
桃を食べ終わったアンソニーは、五時間昼寝したと言った割にはすぐに眠った。そんなアンソニーを見て、シェリーはほっとした様子で少ない手荷物を持って帰り支度をした。
「じゃあ、あたしも寝るね。おやすみ」
「おやすみ」
当然のようにグレンはシェリーを送りに行ったので、クライドとノエルは手を振って見送った。こうしてシェリーも部屋を出て行ったので、クライドももう寝ることにした。ノエルはまだ読書を続けるようだ。彼は目で字を追いながら、細く骨張った長い指でページの端を擦っていた。
ノエルがページを捲る音が耳に心地よく、気付いたら意識が遠く霞んでいた。
次の朝、クライドはアンソニーの容体を確かめてから一人で部屋を出た。少し前から考えていた、将来の話をハビにしたいと思ったのだった。
アンソニーは熟睡中で、額をそっと触ってみた時にはもう熱が下がっていた。これなら安心だろうと思って、グレンとアンソニーを残してきた。ノエルは既に資料室だろうか。それともサラとのビデオ通話だろうか。姿が見当たらない。
部屋を出て、ハビの部屋に向かう。防音性が高いこの部屋で、ノックは無意味だ。実は部屋によっては呼び鈴がある。ハビやレンティーノの自室、ミンイェンの自室にはそれが備わっている。セルジやノーチェの部屋は空けていることが多いからついていないし、実験室や会議室のような部屋にもない。
「失礼します、ハビさん」
ボタンを押しながら話しかければ、外の声をマイクで拾って室内に届けてくれる。
カフェに行ってしまうから、早朝に訪ねないとハビがいないことは解っていた。携帯のアラームをセットしなくても目が覚めたのは、多分緊張していたからだと思う。
もしも一つだけイヴァンを含む裏人格たちを止める方法があるとするなら、何なのだろう。クライドの考え事は、このところこれ一つだった。命をかけた実験のことより、このことを考えてばかりいたのだ。
実験の危険性についてはもう覚悟ができた。それに、万が一死にそうになった時には、自分で魔力を使うのを止めてしまえばいいのだ。だからクライドは何とかなりそうな実験のことよりも、ここから出たらきっと二度と会う機会がなくなってしまうであろうハビのことを考えていたかった。
「どうぞ」
声と同時に、白い壁の向こうからエタノールの匂いがふわりと漂う。ドアが開いて風が通った証拠だ。クライドは白い壁を抜けて、ハビの部屋に入る。
質素であまりものがない部屋の中に、ハビが一人で座っていた。ベッドに腰掛けた彼は、靴下を履いている最中である。カフェの制服に着替えているところだったらしい。
「おはようクライド」
「おはようございます」
挨拶はした。しかしそこから何と切り出していいか解らなくなって、言葉が詰まる。ハビは怪訝に思ったのか、黒い靴下をつま先に引っ掛けながらクライドを見上げて小首を傾げる。
「どうしたの」
「あの…… 話があってきたんです」
「そうだろうね。で、何の話?」
革靴に足を入れ、座ったまま軽くつま先を床に当てるハビを見ながら、クライドはまた黙り込んでしまう。えっと、あの。それしか喉元に出てこない。もっと実のある言葉は出ないのか。自分を叱咤する。けれど穏やかな微笑をたたえて身支度を整えているハビを見ていると、何だか言葉は急に引っ込んでいってしまう。
「あれから、考えました」
「うん。何を?」
「ハビさんのこと」
ハビが革靴のつま先を床にトントンと当てる音が、ぴたりと止まる。
「考えたんです。どうやったらハビさんが、イヴァンたちに悩まされずにすむか」
「それは僕の問題だよクライド。君にどうしてもらおうとも思ってない。そういうつもりで、助けは要らないって言ったんだけど」
明確どころかやや攻撃性すら感じさせる拒絶。しかし一度勢いがついてしまえば、もうどんな事だって言えた。
これしかないと、クライドは思ったのだった。だからまた拒絶される覚悟でハビに会いに来た。今言わないでどうするのか。今しか時間はないのだ。
「……俺、精神科医になります」
悩んで悩んで、クライドが導き出した結果がこれだった。
普通の医者には治せない、内面的な疾患を治すことができる職業。そんなものがあることをクライドは忘れかけていた。アンシェントタウンの精神科は総合病院の一角にあるけれど、そこに行っている人をクライドは見たことがないのだ。それでも、精神科がどういうところかは大体わかる。二重人格を治すとしたら、それは精神科医になって現代医学の力で何とかするしかないのではない。
ここ数日で、下っ端研究員の使うラウンジに置いてあったカウンセリングの本をいくつか読んだ。押し込められて歪んだ心を軽くする手立てをとれば、イヴァンもハビも納得のいく道が見つけられるかもしれないとクライドは思ったのだった。
「……え」
「だから、精神科で先生やります。そしたら俺がハビさんの二重人格を治せるかもしれない」
「クライド、何を」
「はっきり拒んでくれたのは、ハビさんの優しさです。でも俺、イヴァンにも助けてって言われてるんです」
ハビは小さくため息をついた。馬鹿なことを、と呟きそうな雰囲気。それでもクライドはハビから視線をそらさなかった。もう決めたのだ、そう簡単にはこの進路を絶って他へ移ろうとは思わない。
これまで将来の明確な夢は定まっていなかったクライドだから、これを機に進路を確定してしまいたいとも思っていた。もうすでに医者という進路を定めたノエルや歌手になりたいグレン、時計屋になると言い出したアンソニーだが、クライドはまだ夢も目標も進路も決まっていなかった。ただ漠然と、人の役に立つことができればいいとは思っていたが、具体的に何をすればいいのか解らなかったのだ。
きっとハビに出会ったことによって、クライドの中で何かが変わり始めていたのだと思う。何も燃え盛る家から人を助け出したり、悪人をとっつかまえたり、人の身体を切って縫って薬を与えたりしなくても、人を助ける方法はちゃんとある。自分自身と戦っている世界中の人々を助ける、その一端を担うのだって立派な人助けだ。
「だからね、クライド。繰り返すけれどこれは僕の問題だ。君には関係ないんだよ」
そう言われても、またレイチェルのようになってしまう人が出るのは嫌だった。意思と関係なく人を殺して、それで広大な敷地をひまわり畑の姿を借りた墓地に変えるような哀しいこともハビにはもうしてほしくなかった。仲間達に危害を加えるかもしれないと、悩む彼を見たくなかった。
たとえそれが実験に向けた計画の一環だったとしても、ハビあるいはイヴァンがクライドに向けてくれた優しさは嘘ではなかったと思う。イヴァンのSOSだって、きっと本音だった。たとえ二人が(あるいは三人、もっとかもしれないが)クライドの手をとってくれなかったとしても、クライドが知識をつけて想像力を伸ばせば直接手助けする以外にも道を見つけられるかもしれない。
クライドの武器は想像力だ。そのはずだ。ならば、悩むハビに寄り添えるように知識をアップデートしていかなければ。
「お節介だと思います、俺も。ハビさんにとってもイヴァンにとっても余計なお世話かもしれません。でも俺、もうあんなハビさん見たくないんです。……笑っているくせに苦しそうな」
目を伏せたかった。けれどこらえてハビを見つめる。すると冷たい笑いが、ハビの顔に浮かぶ。
「分かってるでしょ、それは君の自己満足だ。偽善はやめて。たかだか数日しか交流しなかった行きずりの他人にそこまで身を削ってみせる必要はないよ」
「そうかもしれません。俺ガキですから。でも、ハビさんがミンイェンたちを大事に思ってる気持ちはよく解るんで。付き合いなんて、長さが全てじゃないですよ。ハビさんだってそれをよく解ってるんじゃないですか?」
ハビはクライドを否定することをしなかった。けれど、頷いてありがとうなどと言い出すような雰囲気は微塵もなかった。無言で口を閉ざしたハビは、ごつごつした大きな手を腿の辺りで組んで小さくため息をつく。
「今までずっと、こうやって『彼ら』と向き合って生きてきたんだ…… 今更、何も変えられない。君が精神科医になるのは大いに結構だけど、それを僕のためだと言うのはやめて」
その完全なる拒絶にも、クライドはまだ食い下がる。
「やってみなきゃ解らないじゃないですか。それにまだ、イヴァンの意見を聞いてません」
また沈黙が降りた。けれど言うだけのことはもう言った。今後のハビの出方次第では、会うのを避けなければならなくなるかもしれない。それでも良かった。クライドはこの決意を、最初に彼に伝えたかった。
ハビはしばらく何か考えるように組んだ自分の手を見つめていたが、やがて立ち上がって革の鞄を掴んだ。そんな彼を視線で追うと、彼はいつもの笑顔で、けれど独り言のように呟いた。
「仕事、行くから」
カフェにおいでとは、今日は言われなかった。笑顔の彼はいつもどおりに見えるのにどこか白々しくて、だからこそクライドは心のどこかで、ああ、これで良かったんだと妙な納得をしていた。
淡い期待をしていないわけではなかった。けれどハビがクライドに好意的な返事を返さないことくらい話す前からわかっていた。それでもきちんと告げたかったことを伝えることができたのだし、これでよかったのだ。あとは、彼に構わず自分で勝手をやればいい。
仮に『じゃあ僕を治して』なんて言われたとしたら、クライドはその方法を躍起になって模索するあまりに逆に空回りしそうだ。一人でじっくり考えた方が、いい方法が見つかるとクライドは思う。
渡そうと思っていた時計は、渡すタイミングを見失ってまだクライドのポケットに眠っている。本当は今日渡しても良かったのだが、今日もタイミングがつかめなかった。仕方ないから実験当日に渡そう。
そっと踵をかえす。




