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第三十六話 丘の上には

 料理を作りながら、ハビはたくさんの話をしてくれた。カフェに来た珍しい客のこと、長身で体型が特殊なので服を手作りすること、停電の日にミンイェンが怖がって泣き始めたこと、その恐怖の原因は雷や暗闇ではなくデータの消失への怯えだったこと…… すべてが楽しい話題だった。

 何でもないようなことでも、ハビが話すと面白くなるような気がする。クライドは何気ない話で笑いながら、レイチェルのことを考えていた。

 やがてハビが出してくれた食事はとても美味しく、流石の腕前だった。異国情緒漂う不思議な風味がしたが、三口食べる頃には慣れた。時差が半日あるような国で、味覚に合う食事が出てくるのはかなりレアなことなのだと今だったら分かる。ハビは恐らく、ラジェルナの味に慣れたクライドのためにそのあたりも調整してくれているに違いなかった。何せ、彼だって恐らくクライドのデータを文字通りすべて知っている。

 パスタを食べながら店内を見回す。あの惨劇が起こった日から、全く変わった様子の無い店内だ。調度品や内装に傷がついているわけでもなければ、血痕が赤黒く残っているわけでもない。何事も無かったかのように、カフェにはジャズが響いていた。それでもここでレイチェルはハビに殴られ、命を落とした。まさかここでそんなことがあったなんて、誰も思わないだろう。

 手が止まりそうになるのを、意識して動かした。ハビは厨房に簡素な椅子を置き、自分の分の軽食をとっていた。

「お味はどう?」

「おいしいです」

「よかった。人気メニューなんだ」

「リピーターが出るのもわかります」

 意識して、和やかに。折角の機会が失われては元も子もない。

 クライドはそう考えていたが、ハビはどうだろう。ぎこちなくなったクライドの様子にめざとく気づき、何かを考えているかもしれない。彼の黒い瞳からは、余計な感情は読み取れない。

 食事を終えて食器を下げると、ハビは微笑んだ。

「これ終わったら行こうか」

 彼はそう言って、食器を片付けはじめる。クライドは黙って頷いて、グラスに残っていた水を飲み干した。彼は食器を洗って布巾で拭いて、戸棚に仕舞いこむ。気まずい沈黙が少しだけ流れた。クライドは黙ったまま、ハビの挙動を眺めていた。

「ちょっと歩くよ。彼女の故郷のソイラでは今紛争が起こっていて、だからここにお墓を作ったんだ」

 ハビはカウンターの裏からクライドを手招いて言う。今日は正面の店の玄関を使わずに、裏口のハビの自宅から出入りすることを徹底するようだ。玄関でハビはクライドを先に外に出し、それから自分が出て鍵をかけた。

「ソイラのひまわり畑が世界遺産に指定されたの、知ってる?」

「いいえ、知りませんでした。綺麗ですよね、教科書に載ってました」

 ソイラはエナークの隣にある国で、綺麗な国だが宗派争いが絶えないというのが一般的な知識だ。敬虔なレベン教徒が国民の大半を占めていて、だからこそ、そのレベン教徒の間で宗派争いが起こっているのである。

 クライドとハビは、カフェの横にある路地を進んだ。

「レイチェルとは君がくるずっと前からの付き合いだったよ。彼女が帝王側の人間であることも、最初から知っていたけど気づかないふりをして接してきた」

 路地を出て常緑樹の並木道を歩きながら、ハビは小さく笑う。涼しい木陰にいるのだが、ふとしたときにぬるい風が頬をなでるのが少し不快だった。クライドは黙ってハビの話に耳を傾け、小さく相槌を打つ。

「もともと、ミンイェンと帝王の間でちょっとトラブルがあったからね。それでミンイェンと親しい僕が監視されてるのかと、最初は思っていたんだ。でも違った。レイチェルは僕なんて優先順位の下の方にしていて、最初から君単体に意識を向けていた」

 通りすがりの陽気なおばあさんが、ハビに手を振る。カフェの常連客らしい。ハビは笑顔で手を振り返し、彼女とすれ違ったところで小さく息をつく。

「よく考えれば解ったことだよ、ミンイェンも帝王も同じものを欲しがっていたんだって。帝王は僕らの行動を阻止するためにレイチェルたちを送り込んで、戦うように仕向けたんだんだろう。レイチェルは、僕をクライドから遠ざけるためにここに来た」

「そんな。全部、仕組まれていたんですか」

「環境に関してはそう言えるね。ただ、動機は誤解しないであげて…… レイチェルは帝王の命令に背いて君を支援する気になった。そして僕らの思惑にも気づいて、先に僕らを始末する気になったんだ。言われてやったんじゃなくて、あの子は自分の意志で君の盾になることを選んだ」

「レイチェル……」

 帝王が心の底から憎らしく思えた。レイチェルを殺した本人であるハビよりも、そう仕向けた帝王の方が憎い。しかし、憎むべき相手も、愛すべき相手も、すでにこの世には存在しない。歯がゆい思いに眉を寄せ、クライドは両の拳を強く握り込んだ。

 少し無言で歩き続けた。お互い、何も言わなかった。けれどハビは不意に立ち止まり、俯いていたクライドの肩をぽんと叩く。

「ついたよ、クライド」

 顔を上げる。息を呑んだ。

 そこは、一面のひまわり畑だった。

 クライドは足を止め、しばしその黄色い光景に見入る。空の青と雲の白、それからどこまでも続いていると思えるような鮮やかな黄色。ここはなだらかな丘になっていて、だからこそ空と地面の境界線が黄色いひまわりだった。頂上には大きな樹が一本生えていたが、それもまた絵になっている。とにかく声も出せないぐらいに、美しい景色だった。

「この奥なんだ」

 クライドの首の辺りまであるような背丈の大きいひまわりを、かき分けるようにしてハビは進んでいった。クライドもハビの後を追って、ひまわり畑に分け入る。時々、かきわけたひまわりの花が顔に当たって視界がさえぎられ、すぐ目の前を歩いているはずのハビをも見失いそうになる。

「せめてもの罪滅ぼしにと思ってね」

「え?」

 ひまわりの花を手で避けながら、クライドはハビの背中を追う。

「ここにきたばかりの頃、レイチェルは毎日のように夏のソイラの話をしてくれた。家の近くにある小高い丘に、夏になるとひまわりが満開になって綺麗なんだって、その話ばかりして。そこが一番好きな場所なんだって、楽しそうに言ってね……」

 前を歩くハビの声が穏やかに降ってくる。黄色い波をかき分けながら、クライドはその言葉を聞き漏らさないよう、背中を見失わないよう歩き続ける。

「空爆で両親を亡くして、バレリーナになる夢も諦めて、生きるために汚いこともして、最後には帝王の下で働くことになって。なんであの子は、そんな環境でも人の心を失わなかったんだろう。ひまわりの美しさを忘れなかったんだろう。強い女の子だった」

 そうか。だからハビはこの丘にレイチェルの墓を立て、ひまわりの種をまいたのだろう。レイチェルが一番好きな場所を、彼は再現した。それが何だか嬉しくて、健気に思えて、クライドは俯く。

 ハビは何事も無かったかのように暮らしているのだと、クライドは思っていた。レイチェルを殺したことも、レイチェルがいたことも忘れて、彼は普通の人として暮らしているのだとてっきり思っていた。けれど違っていた。彼は自分の犯した罪をきちんと解って、その上で贖罪しようという気にまでなっている。彼はやはり生真面目で心の優しい人だと思う。

「ハビさんは優しいですね」

 つい何も考えずに呟いてしまう。そう言ってしまった後で、彼が悲しそうにしていることに気付く。

「違うよ、ただどうしようもなかっただけなんだ」

 それは謙遜ではなく否定だった。クライドは謝りかけたが、ハビの静かな声に黙らざるを得なくなる。

「この丘を埋め尽くすひまわりの数ぐらい、僕は罪を犯しているだろうね。したことは消えない。たとえ僕のせいじゃなくても」

 クライドが言葉を探して黙り込むと、ハビは急に足をとめた。その背中にクライドはまともにぶつかり、よろけてその場にへたりこむ。

「あ……」

 ひまわり畑の真ん中、丘の頂上にいつのまにか到着していた。身体を起こして後ろを振り返ると、延々と続くひまわり畑の向こうに小さく街と海が見えた。綺麗な場所だ。爽やかな風に、心が洗われるような気がする。

「大丈夫?」

「平気です。凄い、この世にこんな場所があるなんて」

 レイチェルが生きているときに、ここに来られれば良かった。

 自分で思い浮かべた言葉が、自分の胸を刺す。彼女はもういなくて、そのいない彼女のために作られたのがこの景色なのだ。 

 そっと後ろを振り返る。大きな木の下に、白い大理石の墓標があった。その墓標にはレイチェルの名前とルクルス・レベン両暦の生年月日、享年が丁寧に彫られている。

「久しぶり、レイチェル」

 小さく呟いて、クライドは彼女の墓標の隣に腰を下ろした。涼しい木陰に腰を落ち着けていると、どこからか風に乗って蝉の声が聞こえ始める。

「この島で蝉が鳴いているなんて、珍しいことだよ」

 ハビもそう言いながら、墓石を挟んで隣に座る。クライドに向けた言葉に聞こえたが、これは多分レイチェルにも向けられた言葉だ。

 シャツに黒のベストというフォーマルな格好をした長身と、ラフな格好のクライドと、白い墓石。ちぐはぐな三人が揃って、あの日の清算をするための準備が整った。

 座ってみると、景色はまた少しだけ変わって見える。ひまわり畑に風が吹けば、大輪の花が風に揺られて黄色い波ができた。遠い目でその黄色い波を見つめて、ハビは少し曲げていた脚を完全に伸ばして長座する。

「……ハビさん」

 声をかけると、視線だけが返ってくる。

「手紙。……あの手紙のおかげで俺は、ハビさんに会いに来る決断が出来ました」

 二人の間を風が吹き抜ける。風は黄色のひまわり畑を揺らし、葉音を立て、二人の沈黙をうっすらと色づけた。

 ハビはしばらく黙っていたが、やがて絞り出すように一言呟く。

「手紙って、何の?」

「え、あの、君を逃がしておくべきだったって。弟みたいだって言ったのは、本当の気持ちだよって」

 慌ててポケットを探るが、そんなに毎日持ち歩いているものでもない。部屋に置いてきた荷物の中だ。

 蝉の声と葉音が遠くに聞こえる。これは懸念していた通りの拒絶だろうか。それとも。

「僕じゃない。僕がそんなこと書くわけないよ」

 さっと血の気が引いた気がした。

 気づかわしげに、けれどきっぱりと言われた言葉は思いのほか鋭利にクライドの胸を刺した。

 じわじわと状況を理解する。

 あの日、あの時のハビの本心に触れたと思っていた。苦悩したような文字が躍るあの手紙の存在を、ハビは完全に否定した。だとしたらあれは一体、誰が何のために書いたのだろう。

「……そう、ですか」

 止まった会話を無理矢理動かせば、気づかわしげにクライドを見ていたハビが突然にやりと笑みを浮かべる。

 ぞわりと鳥肌が立った。まさかここに至るまでマーティンが化けていたのかと思いかけてはっとする。

 ――あの時だってそうだった。

 この感覚を、クライドは知っている。瞬発的な怒りに鼓動が跳ね、身体が熱くなった。レイチェルを失ったあの晩に、クライドと対峙したのは『彼』だ。

「そう、ハビじゃない。僕だよ」

 にっと口角を吊り上げて、ハビは言う。注意して聞き取ってみれば、発音のクセや声色が微妙にハビと違う。

「……お前」

「久しぶりだねぇ、クライド=カルヴァート? ……あー。今のは微妙に似てなかった」

 どうだっけ、マーティンの話し方。そうぼやきながら、『彼』は何度かマーティンの声真似をしようとしていたがクライドが冷ややかな目で見ていることに気づいてやめた。

「やめろ。お前はハビさんじゃないし、マーティンでもない」

「やっと認識したか」

 崩していた足を適当にあぐらにし、『彼』はクライドを見ている。その気になれば簡単にクライドをやりこめられる恵まれた体躯、残忍で悪意に満ちた雰囲気。嫌というほど知っている。あの夜の悪夢が、こんなタイミングで再来するなんて。

「そろそろ名前を覚えてもらっても良いな。僕はイヴァン、この軟弱な男をなんとか動かしてやるために生まれてきた…… らしいよ。馬鹿げてるね」

「レイチェルを何故殺した」

「目的の邪魔だったからね。ヒロイック通り越してヒステリックでウザかったし」

「……」

 沸き上がった怒りを拳を握り込んで押さえる。ここで飛びかかったりしたら思うつぼだ。イヴァンはクライドが怒りに震える様子を楽しそうににやにや観察しており、クライドは今すぐにでも殴り掛かりたい衝動を必死にこらえながら彼を睨みつけた。

「他に何が聞きたい? 僕のラブレターでわざわざ時差が半日あるような海外まで来てくれたんでしょう」

「俺を煽って楽しい?」

「暇つぶしにはなるかな。本当はミンイェンをいじめたいんだけど、それをやると周りが煩いから」

 にっと笑って、イヴァンはちらりと大理石の墓標に視線を落とす。まさか墓に何かする気なのだろうか。

 彼が動くより先にクライドがその身体を押さえこむと、耳元でイヴァンは楽しそうに笑った。

「何、むきになっちゃって」

「レイチェルにはもう手を出すな」

「もう本人どこにもいないのにね」

「誰のせいで……っ」

「なんか…… 若いね。あの猫も君も、お互いのことなんにも知らないのに」

 くつくつ笑うイヴァンはクライドを払いのける。クライドは彼を睨み上げながら墓標を守るように位置取り、それを見てイヴァンはいよいよ楽しそうにした。

「君が女の子と最長一年ぐらいしかもたないお子ちゃまだってことも、あの猫がソイラで娼婦をしていたことも、お互い何も知らずにハッピーエンドを夢見てる」

「うるさい。何も知らないのはそっちだ」

「どうせ上手くいくはずもなかったでしょ。どうして執着するの? 僕は君を帝王に献上するつもりだった泥棒猫を消してあげただけなんだけど」

「黙れよ。何でそんな捻じ曲がった人格がハビさんの中にいるんだよ」

「ハビがいい子ちゃんでいようとするからだろうね。本当はそうしたくないのに、手を汚さなきゃいけない時に僕らがでてくるんだ。僕はハビのゴミ箱。そのために作られた、捌け口だ」

 イヴァンはゆらりと立ち上がる。そして、クライドの背中に庇われた墓標をちらりと見やった。

「レベンの敬虔な信者は、墓標に触れて故人への言葉を手向ける。君には信仰がないってデータにあったね」

「……それが?」

「僕はこう見えて敬虔なので。お祈りの時間を頂きたいのだけど? 墓参りに来たんだから」

「……」

「悪かったよ。そんな睨まないで…… 君とは協力できそうだから、出てきてやったんだ」

 クライドの肩を押しのけたイヴァンは、白い墓石にそっと触れる。レベン教の祈りの言葉を呟いて、イヴァンは大理石に語り掛けた。

「人を騙し人を殺し、大罪人に仕え、裁かれるべき罪にまみれた女よ。君は僕と同じだ。僕が散々罪を重ねたあとに贖罪するように、君は捕らえるはずの少年を逃がすことで罪を薄めようとした…… 浅はかで可哀想な猫。せめて次の生が善くあるよう、僕からも神に祈ろう。女の子には二度と生まれ変わらないといいね」

 結びにまた祈りの言葉を呟いて、イヴァンは祈りを終える。祈りの内容が不穏だったことを除けば、映画やドラマなどでも見たことがある、普通のレベン式の墓参りだった。

 黙って様子を見ていたクライドに、イヴァンはふっと気の抜けたような笑みを浮かべる。ハビに戻ったのかと思ったがそうではないようで、イヴァンはまた胡坐をかいて適当に座った。

「お祈りは終わった。君に八つ当たりもしっかりした。そろそろ真面目に話そうか」

「ハビさんの声で言われるとすごく嫌だな」

「僕のことはイヴァンって呼んで。好きでこの見た目なんじゃない」

「……そう。で?」

 やたら晴れやかな様子の彼は、クライドを煽ってレベン教の祈りを済ませてどうもすっきりしてしまったらしい。なんとも勝手だが、ここにいるのはハビではなくイヴァンだ。クライドは黙って彼のすることを見守った。

 イヴァンはひまわり畑を眺めていた視線をこちらに向けて、気さくな様子で話しかけてくる。

「始まりはもう十五年ぐらいは前になるかな。ハビは絶対に話さないだろうから僕が教えてあげる。あの子の母親は誰とでも寝る女だった。父親はその苛立ちをあの子にぶつけていたし、三つ離れた兄さんもそうだった。限界を感じたあの子は全てを僕に押し付けた…… 痛いことも苦しいことも、気持ち悪いことも、全部ね」

 思考が止まる。

 ぶちまけられたヘビーな過去を飲み込めずに黙っていると、イヴァンは疲れたようにクライドから視線を外す。

「ねえ、ハビを助けたいんでしょう? 簡単に言ってくれるよね」

「……えっと」

「冬にイノセントのところに行ったでしょう。マーティンがイノセントに仕掛けた盗聴器で、ミンイェンたちは君の会話を聞いている。君が研究所に来たがっていたことなんてみんな知っているよ」

 血の気が引く思いだった。

 どうやってクライドの情報を収集していたのだろうと思っていたが、ミンイェンはそんな姑息なことをしていたなんて。

 ハビは全て分かっていて、クライドをここに連れてきた。はっきりと迷惑だと告げるためだろうか。もっといえば、あのロジェッタでの優しさはすべてが虚構で、クライドへの関心はゼロだと拒絶するためなのだろうか。

「正直なところ、反吐が出るなって思ったよ。君の言う『ハビを助ける』って、僕を殺すってことでしょう?」

「殺す、だなんて」

「子供のころから汚いことをなんでも引き受けて、ハビをいい子で居続けさせてあげたのは僕なのに。ひどいなあ。ハビが残ったら僕が消えるんでしょう。死ぬってことだよ」

 何も言えなくなって、クライドはイヴァンを見やる。

「僕がいなくなったら、ハビは耐えられなくなるよ。壊れちゃうよ。いいの? 正気でミンイェンの野望に加担できるわけないでしょ」

 畳みかけるイヴァンに返す言葉がない。クライドはハビが苦しんでいるのだと思っていた。多重人格で、自分の意志に反して酷いことをしているのだと思っていた。けれど自分が把握していた状況は、随分間違っていたのかもしれない。

「ねえ。僕ならハビを上手く取り込めるよ。助けるなら僕にしない? 僕を助けて、クライド。ハビに嫌なことだけ押し付けられて、その嫌なことの中から楽しいところを見つけ出すしかないんだよ僕は。だから女の子を嬲ってストレス発散するような真似をしたんだ」

 イヴァンの本音は読めない。ハビの本音以上に分からない。

 クライドは父親がいなくとも、母と祖母によって温かい愛情を与えられてきた。恵まれてきた。貧乏である辛さはある程度想像が出来るが、機能不全の家庭や虐待による苦しみは正直なところ充分に想像できないのだ。ミンイェンの壮絶な過去も、イヴァンに明かされたハビの幼少期のことも、正確に辛さを理解し寄り添うことは現状では出来ていないと思う。

「僕はハビが嫌がることだけやって、そのたびに神に許しを乞う。罪深い僕を罪深くさせているのはハビだ」

「イヴァン。手紙で俺を騙しただろ。どこまで信じていいか、正直わからない」

「あれは僕の本心だ。お祈りを終えた悔い改めモードだったからね」

「……」

 くしゃっとした笑みを浮かべて、イヴァンは大きな手でクライドの頭をぽんと撫でた。屈託のないその顔はハビのものだが、中身はまるっきり違う男だ。クライドはそれをまだ、上手く呑み込めていない。

「実験が終わるまでに考えて。ハビの個人的な連絡先を渡してあげる。イヴァンを出してって言えば、すぐに僕が出るよ」

 イヴァンはそう言うと、ポケットに入れていたメモ帳にさらさらと文字を書きつけた。見覚えのある字だった。何度も読み返したあの手紙の筆跡に違いなかった。

 メモを握らせると、イヴァンは白い歯を見せて小さく笑った。

「ハビは僕を消したがってる。殺してしまおうとしている。僕はそれを、受け入れるつもりはない」

 どう返したらいいのか分からず、黙り込む。

 風が穏やかに髪を揺らし、ひまわりを揺らした。少し置いてイヴァンの方を振り返ると、彼は目元を手で覆って深くため息をついた。

「イヴァン?」

「……ああ。あー、出てきちゃったか」

 深く穏やかな声。明瞭な子音のイントネーション。先ほどまでのイヴァンとは違う、と瞬時にわかる。どうやら彼は引っ込んでしまったようだ。

「いつもいつも、嫌がらせだけして後始末を僕に押し付けるんだから」

「ハビ、さん……?」

「正真正銘のね」

 疲れた顔に苦笑を浮かべ、ハビはクライドから目を逸らした。クライドも何を言うべきか分からなくなって、二人の間にまた沈黙が流れた。

 蝉の声とひまわり畑のさざめきだけがここにあった。二人を隔てる墓石はただ、ひんやりとそこに鎮座していた。こんなときレイチェルならなんと言うだろう。情けないのね、と背中を叩かれたような気がした。

 顔を上げてハビを見る。ハビはその視線に気づいて、クライドの言葉を待つ。

「イヴァンはあなたにとって、必要ですか?」

「彼のおかげで立ち回れたこともたくさんあるようだけど、彼のせいで容疑がかかったこともある。潔白に生きていくには不要だろうね」

「ミンイェンをいじめたいって言ってました」

「ああ…… 言いかねないな、彼なら。表で好き放題出来るようになったら、僕に打ち勝った証拠として見せしめのようにミンイェンに危害を加えるんだろう」

 苦々しくそう言うと、ハビは口元を手で覆う。

「特にイヴァンが出ている間は、僕には記憶がない。たぶらかされないでね、あいつ口が上手いんだ」

「……特に」

「もう一人いるから」

 短くそう言うと、ハビはそれきりまたひまわり畑の方へと視線を投げた。クライドは自分の想像力の未熟さを嘆きたくなるばかりだった。あまりに独善的に正義感を振りかざして街を飛び出してしまったが、配慮の至らなさを痛感する。

 クライドの武器は想像力なのに、人の心の内を想像するには知識も情報も足らなすぎた。恥ずかしくなって、いてもたってもいられなくなって、いっそここから駆け出して逃げてしまおうかという衝動で腰を浮かしかけるが思いとどまる。

 アンソニーの言葉が脳裏をよぎった。レイチェルが背後で笑っている気がした。シェリーは、サラは、ノエルは、グレンは、クライドがこんな浅はかな思いつきをしなければ巻き込まれることはなかった。それでも、あのときハビを助けたいと思ったのはクライドの本心だ。

「俺に、何かできることはありますか」

 真っすぐにそう言葉をかける。

 一拍置いて、ハビはこちらを向かないまま口許だけで微笑んだ。

「何もないかな」

 それは明確な拒絶だった。

 クライドの助けなんて要らないと、彼はそう言った。恐れていたことが現実になった。可能性は決して低いものではなかった、それを解っていたのに楽観視していたことに気づく。

 次の言葉をどうすべきか考えあぐねるクライドのほうをようやくちらりと見て、ハビは改めて小さく口角を上げる。

「強いて言うなら、ひとつだけ。この先もしもあいつが出てきたら、交渉には乗らないで。ミンイェンやレンティーノたちに危害を加えるのも、マーティンと殺し合いになるのも真っ平だ」

 クライドが頷くのを見届けると、ハビはまた正面を向いて遠い目をした。クライドもひまわり畑の広がる美しい景色を前に、しばらく黙ってこの先のことを考える。

 イヴァンは実験が終わればまた接触してくる気でいるようだし、そのことも話しておくべきだろうか。そう考えたところで、ハビが教えそうにない個人情報をイヴァンが勝手に漏らしたことを思い出す。

「あの…… 電話番号をもらいました。勝手に教えてくれたから、一応ご報告しておきます」

「いつでも電話しておいで、とは言ってあげられないけど…… 用事があればかけてきて。できれば起きていそうな時間にね」

 時差すごいからね、と笑ってハビは立ち上がり、木の幹にもたれかかって空を見上げた。クライドもつられて空を見る。入道雲の浮かぶ空は日常的なくせにどこか幻想的で、息の詰まりそうだったクライドに少しだけ安息をもたらした。ハビは空気を和らげようとしている。クライドも緊迫した顔はやめて、なるべくなんでもないように見える態度で一緒に立ち上がる。

「またきてもいいですか」

 辛うじてそれだけ言えた。ほかにいくつもかけるべき言葉はあったはずなのに。

「勿論。場所、覚えて帰ってね」

「はい」

 振り返ると、ひまわり畑の黄色が眩しくて目が霞む。その黄色い幻想の中に、メイド服の黒髪の少女が見えたような錯覚を起こし、慌ててその一点を凝視したが、彼女を視覚で捕らえることはなかった。

 カフェに戻って、また少し話すことになった。休業日だが店を開けてあの時のようにまたバイトをするかと冗談っぽく訊かれたが、それはハビの心労を増やしそうなのでやめておいた。

「大事なカフェで、実験対象の俺が働いてよかったんですか」

「ああ…… 確実に期間雇用だからね。試用期間でクビを切ったってことにしないといけなかったからちょっと申し訳なく思っていたよ」

「そうなんですか?」

「君が去ってから、お客さんからも従業員からもクレームの嵐でね。なんで辞めさせたんだってお声はたくさん頂戴していたよ」

 くすくす笑って、ハビはコーヒーミルを出してくる。豆から挽いたコーヒーを淹れてくれるらしい。こうしていると、店の奥のほうでレイチェルがクライドのほうを見て微笑んでいる光景や、食器を下げる従業員たちが脳裏に蘇ってくる。

「今日はお休みなんでしたっけ」

「そう、定休は水曜。水曜は朝から夜までずっと研究所にいて、朝になったら飛行機でまたここまでくるんだ」

「それじゃあ、休みがないじゃないですか」

「確かにないね。でも、毎日とても充実してる」

「趣味とかに没頭したくなる時ってないんですか?」

「一応、カフェでは連休をとっているんだ。年に四回、シーズンごとに一週間ずつ」

「研究所は?」

「カフェを休んでるときは、ずっと研究所にいる。ミンイェンが待っているからね」

 徹底した仕事人間だ。クライドはそう思って驚く。睡眠時間以外はずっと仕事をしている状態ではないか。こんな状態でよく頭を使う研究や人を相手にする接客ができる。そう考えたところで、ふとイヴァンの嫌味な笑みが脳裏をよぎった。……そうか。こんなだから、『押し付ける先』が必要になってしまったのか。

 たわいのない話を続け、日が傾いてきたので後片付けをして研究所に帰ることになった。また例によって裏口であるハビの自宅から出て、一緒に空港まで歩く。日の沈んだ直後の明るく色づき始めたこの街では車を使う人が少ないために、道路がまるで歩行者天国状態だ。同じく車があまり走っていないアンシェントに近い雰囲気だ。

 帰りの飛行機は行きより空いていて、明らかに赤字と思えるくらいに乗客が少なかった。クライドは窓の外を眺めながらフライトすることにするが、外が暗いと機内の明かりが反射してしまって窓の外が見えにくい。ハビはずっとハビで、イヴァンや『もう一人』が姿を現すことはなかった。

 やがて飛行機が着陸すると、ハビは少ない手荷物を受け取ってすぐに空港のロビーで誰かに電話をかけた。

「もしもし、レンティーノ。今どこにいるの?」

「空港です。貴方は背が高いですから、すぐ解りますよ。……もう見つけました」

 エルシータ国際空港について、まず交わされたやり取りがこれだ。ハビがレンティーノを電話で呼び出し、レンティーノがハビの長身を目印にやってくる。彼らだからこそできるそんな連携プレーで、クライドは無事に研究所に帰ることが出来た。帰りの車は、レンティーノではなくハビが運転してくれたのだ。

 レンティーノは後部座席で終始笑顔でいた。ハビは窮屈そうにしながらも、レンティーノとはうって変わった安全運転で研究所に向かう。やがて外見は普通のビル群に溶け込んでいるが、内装は恐ろしいことになっている研究所のビルに到着した。車を降りるとまずハビは大きく身体を反らし、伸びをした。

「遅くなっちゃったけど、夕飯にしようか。食堂行こう」

 研究所に入ると、ハビとレンティーノは受付の男女に白いカードを差し出した。受付係はそれを小型で持ち運び可能な箱型をしたカードリーダーに通し、にこりと笑む。

「出張、ご苦労様でした」

「休日出勤ですね。時間外手当が出ます」

 それぞれ、レンティーノとハビに向けられた言葉だ。この白いカードは、研究所内なら本当に何にでも使えるらしい。エレベーターを使って、クライドたちは食堂へ向かった。レンティーノにどんな一日だったか聞かれ、墓参りの話をすれば彼は痛ましい顔でクライドを気づかわしげに見た。

「大切な方を喪った悲しみは、はかり知れません…… 研究所にいる間は何度でもお付き合いいたします、またお墓参りに行きたければ遠慮なく私を使って下さい」

「気持ちは嬉しいけど…… レンティーノの暴走運転でレイチェルのところに行く羽目になったら困るからやめておくよ」

「おや…… これは手厳しい」

 くすくす笑うレンティーノに、ハビも肩の力が抜けたような笑顔を返している。正直なところ、ともすれば緊迫した空気に戻りそうなハビとの二人きりの空間にレンティーノが入ってきてくれたのは救いに思えた。

 食事を済ませたクライドは、二人と別れて部屋に戻った。部屋ではノエルが嬉しそうにクロスワードを解いていたが、良く見るとなんと三枚同時進行している。

「おかえり、クライド」

「ただいま…… 何それ」

「ミンイェンのクロスワード、最新バージョン。この一つ前のバージョン、最後に並び替えてでてきたメッセージが『ノエルのバカ! なんで解いちゃうの?』だったんだよ。もうおかしくて」

「すげえとしか言いようがないな、色々と」

「そうかい?」

 彼の言葉を聞きながら、クライドはベッドに放置しておいたクロスワードを手に取った。少しずつ進めていくが、終りはなかなかみえてこない。

 ノエルが眠ると言い出すまで、クライドはクロスワードを進めていた。アンソニーとグレンはその間部屋に戻ってきたりまた何処かへ行ったりして、彼らは彼らで楽しそうだった。

「おやすみ、クライド」

「おう。おやすみ」

 ノエルを見送って、クライドは汗ばんだ身体をどうにかしたくてシャワーを浴びに行った。パジャマ代わりのよれたタンクトップに着替えると、急に眠気が襲ってくる。体が温まったからだろうか。

 あくびをしながらクロスワードに取り組んでいたが、結局半分も解かないうちにクライドは眠ってしまっていた。

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