第三十五話 忘れぬ今日
真っ白な廊下をハビの後について歩く。ハビの立てる革靴の足音は、聞いていて耳に心地よかった。暫くの間は無言だったが、ハビは口を開く。
「酷い招き方をしちゃったね。ごめんね、クライド」
「早く終わらせて帰りたいです」
「はは、そう言うんじゃないかって思った」
ハビはクライドがどんなに慇懃な対応をしても、優しい笑みを崩さなかった。前にも感じたが、彼のその深い色をした瞳には、全てを見透かされているような気がする。クライドは無言になって、交互に踏み出している自分の足を見つめた。履き古した黒いスニーカーは、真っ白で清潔な廊下との対比で薄汚れて見えた。
「ミンイェンが心配していたよ。クライドに嫌われていないかどうか」
声に顔を上げると、ハビはネクタイを少し緩めながら微笑した。一瞬迷って、クライドは彼から目をそらしながら答える。
「嫌おうが嫌わまいがもう従うしかないので…… 最初の殺意に近い嫌い具合は、大分和らぎました」
彼はそれを聞いて、小さく笑った。
「話してみると憎めない子でしょう、あの子。リィを亡くした頃から妙に無感情というか俯瞰したところがあったけれど、最近やっと年齢相応になってきて実は安心しているんだ」
「へえ……」
「リィのそばにしか居場所がなかったのを、奪われちゃったのだからね。僕らがやっと、本当の意味であの子の居場所になれたってことなんだろう。リィの代わりは誰にもできないけれど」
ミンイェンがどれほど兄に依存していたか、改めて理解した。だからと言って暴力を伴う誘拐沙汰を起こしたことを正当化できるわけではないが、傷ついた心を動機にしてそこに生きる意味を見出すこと自体は彼の心の回復方法として妥当だったのだろう。それにしても、クライドの性格をデータ上熟知しているのであれば、仲間を人質にとるほどの酷いことをしなくても直談判で了承した可能性が高いとミンイェンは思いつかなかったのだろうか。
クライドとハビはエレベーターに乗り込み、クライドはふと疑問に思ったことを聞いてみた。
「ハビさんは、ミンイェンとどれくらい一緒にいるんですか」
一緒にエレベーターに乗ってはいるものの、ハビとクライドの距離は、壁から壁までの距離とほぼ同等である。特に意識したわけではなかったが、気づいたらこうだった。ハビはエレベーターの操作パネルの正面にいたが、クライドはその反対側の壁にぴったりくっついているのである。
「そうだね…… ミンイェンがこの研究所に来て数日後に出会ったのかな。もう九年間一緒だよ」
「長い付き合いなんですね」
どこか遠くを見るような目を正面に向け、ハビは頷く。そして、エレベーターの階数表示を見上げながら言った。
「ミンイェンは頭が切れるだけで、中身は子供のままなんだよ。純粋に効率を求めているだけで、行動の基準に悪意は無い」
低く響く声は穏やかだったが、少し悲しげな色を含んでいた。クライドは少し黙り、それから何か言おうと口を開いたが、結局言葉を見つけられずに再び黙り込む。
やがてエレベーターが止まる。ハビはクライドの方を向いて、柔らかく微笑を浮かべた。
「さあ降りて。乗り物酔いはする?」
「いえ」
エレベーターを抜け、エントランスに出る。受付の男女がお疲れ様でしたと会釈し、ハビとクライドを見送る。
ビルの外に出てみると、むっと熱気に包まれた。天気は雲ひとつない晴れで、暑いことこの上ない。街は賑やかで、車も人も洪水のように溢れていた。特に、大きな交差点を渡る人の群れなどは、見ているだけで暑さが増す。
ふと視線を向かいの歩道に向けると、上品なネイビーのスーツに身を包んだレンティーノが携帯を開いているところを目撃した。彼は颯爽と歩きながら携帯で誰かと会話し、いつもの微笑を浮かべて電話を一度切り、再び誰かに電話をかける仕草をしている。製薬会社の仕事だろう。
そう思った直後にカルツァ=フランチェスカの着信音が響く。驚いて自分の携帯の所在を確かめると、ハビはくすくすと笑った。
「同じ曲を使っているのかな」
彼は胸ポケットを指差した。鳴っているのは、どうやら自分のものでなくハビの携帯だったらしい。彼の言うとおりクライドも彼と同じ曲を使っていたので、てっきり自分の携帯が鳴っているのかと錯覚してしまったのだ。使っている曲も、着信音に設定している部分も同じ。まさかこんな偶然が起きるとは、クライドは思っていなかった。
「これからレンティーノの暴走運転にまた付き合ってもらうことになるから、聞いておきたかったんだ。乗り物酔いのこと」
彼は言いながら携帯を取り出した。レンティーノは道路を渡ってこようとしてクライドとハビに気づいて、自分から電話を切ってこちらに手を振っている。ハビの着信音が止んだ。
「あの人の運転する車に乗ると、酔うどころじゃないんで」
「あはは、それもそうか」
ハビは笑いながら携帯を開き、少し操作してからまた閉じてポケットに戻す。道行く人たちは、クライドとハビをちらちらと振り返りながら歩く。多分、ハビの身長に目を奪われているのだろう。
「クライドもカルツァを聞くんだね」
ハビはもう慣れているのか、人の目は全く気にしていないようだった。クライドは一瞬答えるべきか迷ってしまったが、すぐに頷いた。何故迷ったのか解らないが、クライドはどうやらまだハビと自分の間に境界線を引いてしまっているらしい。
「CDは全部あります」
「そう、僕もだよ。今のところは『破壊的衝動』が一番好き。ギターとドラム、それからサビの辺りが特に」
「ああ、カルツァはシャウトが上手ですよね」
「僕もそう思う」
クライドとハビがカルツァの話題で盛り上がっても、レンティーノはなかなかこちらにこなかった。交通量の多い道路なので、信号が長いこと変わらないのだ。しかしレンティーノは焦れた様子もなく、見るからに暑そうな格好で静かに信号の傍に佇んでいた。ざっくり見たところ、信号の対岸でジャケットを着ているのはレンティーノだけだった。
「レンティーノ、暑くないのかな」
「彼はジャケットを脱ぐのを嫌うんだ。自分の体型が嫌いだって言ってたよ」
そうなのか。それは知らなかった新事実だ。レンティーノがスーツばかり着る理由は、ここにあるのかもしれない。
やがて、注視していた信号が赤から青に変わる瞬間を目にした。レンティーノはポケットに携帯を戻しながらこちらに向かって既に歩き始めている。
彼はかなり姿勢良く歩くため、それだけで何だか雰囲気が他人と違った。くわえてスーツで身を固めている訳だから異質さは際立ち、レンティーノとすれ違う人は何人も彼を振り返っていた。レンティーノもハビと同様、他人の視線には慣れているようだ。彼は誰かと目が合ったら、微笑んだりする余裕を持っていた。この二人の間に挟まれるのは居心地悪そうだとクライドは感じる。
「お待たせしました、ハビ、クライド。では、参りましょう」
にこやかに言って、レンティーノは胸ポケットに手を入れた。彼が取り出したのは車のキーで、キーホルダーの類が一切つけられていなかった。ハビはクライドの左隣に、レンティーノはクライドの右隣にいる。長身の二人に挟まれ、クライドはそんなに極端に身長が低いわけでもないのに、自分の小ささを痛感した。
「僕が運転してもいいんだけどね。この座高で運転するのって辛いから」
「そのために私がいるのですよ、ハビ」
「君ひとりで乗るなら安全運転なのに、不思議だよ」
二人は談笑しながら研究所と隣のビルの間を通り、研究所の裏に回っていく。クライドはその後についていった。路地はアンシェントタウンやリヴェリナタウンにあるような狭いものでなく、広くて人通りもある。
研究所の一階部分は、数台分だが車が停められるようになっていた。停めてある車はどれも違う種類で、クライドが乗ったことのある高級車もそのなかにあった。
「乗って下さい、二人とも」
レンティーノは高級車の後部座席のドアを開けた。黒塗りの高級車は、洗車したばかりのようにつやを放っている。クライドはおずおずと車に乗り込んだ。ハビも反対側のドアを自分で開けて、さっさと乗り込んでいる。
レンティーノはクライドに微笑みかけ、ドアをぱたんと閉めた。あまり力を入れていないが、ドアはしっかり閉まったようだった。彼は運転席にひらりと乗り込むと、シートベルトを装着してエンジンをかける。
「では、参りましょう」
穏やかな声と同時に、街に急ブレーキの音が鳴り響く。
「っおい、レンティーノ! アクセル踏みすぎ!」
ひやりとした。今ブレーキを踏んだのはレンティーノではなく、交差点を曲がって来ようとした車のほうだった。一歩間違えれば大惨事になっていたことは間違いない。
当人はといえば微笑を浮かべ、のんびりとした目をしながら信号で急停車する。急ブレーキのせいで前に飛び出したが、ハビに押さえてもらったおかげでフロントガラスに突っ込まずにすんだ。
「相変わらず豪快だなあ」
「信じていただきたいのですが、切符を切られたことはありません」
「なんか権力使ってないかそれ?!」
「ふふ。嫌ですねえ。研究所を出れば、私とてただの一般市民です」
青信号。覚悟はしていたが、やはり急発進で猛スピードだ。制限速度を大幅に超えた時速八十キロで、レンティーノは道路を縫うようにして走る。これだけ危なっかしい運転をしてもまだ事故を起こしていないので、それはある意味でかなり凄い。しかしこれは、類稀なるドライビングセンスだと讃えるにはあまりに乱暴すぎるのではないか。彼の中にある、最も封印して欲しい特技がこれだろう。
通行人の視線がこの車に集中しているのがすぐに解った。いずれ警察もでてくるだろうとクライドは思う。何故こんなにも呑気でいられるのだろう、この男は。
「レンティーノ、そろそろ空港だよ。徐行して」
ハビの声に窓の外を見る。ちらりと滑走路が見えた。クライドはほっと胸をなでおろしたが、また急停止されて前に吹っ飛びかける。例によってハビに助けてもらい、クライドはがっくりと項垂れた。
街の中心部に研究所があるらしく、空港までは短時間でいけるようだった。尤も、レンティーノの高速すぎる暴走運転のおかげでこんなに所要時間が短かったのかもしれないが。
「降りてください、二人とも」
「ありがとうレンティーノ。帰りもお願いね」
ハビとレンティーノの和やかな会話を聞き流しながら、クライドは早々に車を降りた。ハビが車を降りてドアを閉めると、レンティーノはこちらに手を振ってから元きた道を引き返していった。黒塗りの外車は、周囲の車と同じスピードで道路を真っ直ぐに走っていった。呆気に取られる。
「いつでもあんな風に運転してくれればいいのにね」
「俺に恨みでもあるんですかあの人は」
「恨みがある人が隣に乗ってれば、レンティーノは安全運転をするよ。怪我させちゃいけないと思う人が一緒に乗ってると、あんな風になっちゃう」
そういえば最初に車に乗せられたとき、レンティーノは確かに言っていた。人が乗っていると、緊張して上手く運転が出来なくなると。あれだけ穏やかというより呑気な表情でいるのに、内心で緊張しているのかもしれない。
「次の飛行機までまだ三十分あるよ。空港のお土産売り場でも見ていく?」
そう声をかけられて、クライドは少し考えてから首を横に振った。
「よし、じゃあ搭乗しておこうか」
ハビに連れられ、クライドは空港の内部に向かった。ここの空港はヴァル・セイナの空港と広さはほぼ同等だと言えたが、若干こちらの方が小さかった。空港の入り口には『エルシータ国際空港』と書かれていて、ここがエルシータシティであるとクライドは初めて知った。エルシータはエナークの首都で、世界でも有数の大きな都市である。社会科の授業で習うのも勿論だが、テレビでもエルシータの情報は頻繁に出てくる。
空港の内装は大都市らしい近代的なものだった。白と透明と水色がモチーフになっている、すっきりとしたデザインの空港だ。
中央は吹き抜けになっていて、大画面の液晶テレビが二階の高さに設置されていた。テレビにはエナークで放映している番組が映るようになっているのか、黒髪の俳優がスーツ姿でバドミントンをしている様子が映し出されている。
周りを見れば、色々な看板が置かれたり立てられたりしていた。殆どがレストランかファストフード店で、看板の指す先を目で追ってみればどこの店も繁盛しているようだった。
「クライド、航空券は買ってきたよ」
「いいんですか?」
「僕が強引に連れ出したんだしね。それに、交通費は経費から落ちるからいいんだよ」
何だか、この会社の人々は金を無尽蔵に使っている気がする。まずあの会社の大きさからして金がかかっていると思うし、壁に見える通路や白い内装にも大分金がかかっていると思う。加えて社員も多く、ミンイェンのホルマリン漬けの巨大な水槽も沢山あった。貧乏な会社では出来ないことだと思う。そう考えると、ミンイェンの会社は本当に一流企業なのだろう。
「ミンイェンって意外と凄腕なんですね」
「あの子は会社経営が上手だよ。レンティーノとタッグを組めば商談もスムーズだし」
「ああ……」
妙に納得する。レンティーノがいてこそのミンイェンなのだ、きっと。クライド同様、ミンイェンもまた仲間がいることで何倍も力を発揮するタイプなのかもしれない。
「二十分前だよ。搭乗ゲートに向かおうか」
「はい」
クライドとハビはエスカレーターで二階へ向かった。五番ゲートから飛行機に乗り込み、離陸を待つ。こうして飛行機に乗ってみると、やはり新鮮な感じがした。隣にいるハビは軽く脚を開き、その両膝に肘をついて手を組んでいる。少し前のめりの姿勢だが、身長に比例して座高も高いハビの場合、この方が天井の圧迫感がなくて楽なのだろうとクライドは解釈する。白い内装は暖色の灯りのおかげで柔らかく見える。同じような色味の狭い空間でも、研究所とは大違いだ。
そこまで考えて、ふと思い出す。
「そういえば、ハビさん。さっき俺のこと見えたって言いましたよね。部屋の前通ったとき。あの時、どうやって俺を見たんですか」
あの時のクライドは、白い壁から生えた手によって部屋に引きずり込まれたはずだ。ということは、壁の向こうにいるハビにもクライドは見えていないはずだろう。どうして彼は、クライドを部屋に引き込むことができたのだろう。
「ああ、僕はあの白い壁が見えないようになっているんだよ。光の屈折率を変える眼鏡をしていたから」
彼はそういって、持っていた黒革の鞄の中から眼鏡ケースを取り出して見せた。
「光?」
「そう。あの白い壁は、特殊ライトによって作り出された光。っていうより映像? とにかく、屈折率を変えて見てしまえばぶつかることも無くなるんだ。僕はほら、こんな身長でしょ? 白い壁を通ろうとすると、よく頭をぶつけるんだよね」
ハビはケースから眼鏡を取り出すと、かけて見せた。彼には眼鏡が似合うとクライドは思う。眼鏡を外したハビは、にっこりと笑ってクライドに眼鏡を渡した。何のつもりかと彼を見上げてみると、ハビは微笑を崩さずに「かけてごらん」と言った。
眼鏡をかけて外を見る。明るさや色、ものの形など、全てが違って見えた。ためしに自分の手を見てみると、ピントがなかなか合わずに苦労する。
「最初はコンタクトにしていたんだけど、光の屈折率を変えると日常生活が大変になるからね。眼鏡に替えたんだ。眼鏡ならすぐに外せるから楽でしょ?」
「これもこの研究所の技術ですか」
「そうそう。コンタクトを発案した人は、もう亡くなったけどね」
ハビは眼鏡をケースにしまった。その亡くなった人というのは、おそらくミンイェンの先代だったという自殺した前所長だったのだろうとクライドは思った。
離陸のアナウンスが機内に響き、ゆっくりと飛行機が動き始める。離陸後少しして客室乗務員が飲み物のワゴンを持ってきて、ハビに話しかけた。
「今日はお休みじゃなかったんですか?」
「本当はね。でも、休みだからこそ遊びに行く感覚かな」
どうやら知り合いらしい。
「まあ。カフェに住んでらっしゃるのに?」
「会社は第二の自宅だからね」
「お体を大切にして下さいね。働きすぎはいけませんよ」
仲良さそうに話し、ハビにはもう定番なのか、何が欲しいかも聞かずにコーヒーを手渡した。クライドには何が飲みたいのか聞いてくれたので、コーラを貰う。客室乗務員はにっこりと笑んでから、次の乗客のところへ行く。
「毎朝あの子と会うんだ。飛行機に乗るたび会うから、いつの間にかちょっと仲良くなっちゃってね」
「へえ……」
丁度いい話題だったので、クライドはハビと客室乗務員の話を続けた。フライトの時間は約一時間程あったが、雑談が楽しかったので本当にすぐに飛行機の旅は終わってしまった。
雑談しながら飛行機を降り、ここからは徒歩で店に向かった。ハビは当然といえば当然だが長袖では暑いらしく、肘の辺りまでシャツを捲り上げている。レンティーノとノエルという長袖族が周りにいるおかげで、クライドは真夏なのに袖を捲り上げていない人に違和感がなくなってしまっていた。これはちょっとまずいかもしれない。
入道雲の浮かぶ空を見上げ、クライドは首筋を流れる汗を拭った。今日はこの夏一番の暑さになるだろうと、飛行機の中でハビと雑談したことを思い出す。
ハビの話は面白く、思わず笑ってしまうようなことからそうだったのかと納得してしまうようなものまで、バラエティ豊富だった。おかげでクライドは店に着くまでの間、退屈など一秒も感じることがなかった。
「さあ、入って」
ハビはポケットに入っていた鍵でカフェの裏口を開け、クライドを先にあげてくれた。裏口からは、ハビの自宅に上がれるようになっている。入ってすぐにリビングとダイニングがあった。奥には個室があるらしく、ドアもあった。見れば螺旋階段もあり、その上が寝室やバスルームに続いているのだろうとクライドは推測する。
「何も無い家だけど、のんびりしていってね。カフェの鍵開けてくるから、ちょっとそこで待ってて」
ハビはリビングのソファを指してクライドに座るよう指示すると、すぐに奥のドアを開けて出て行った。クライドは黙って彼が戻ってくるのを待った。
待っている間に周りを見渡してみると、内装が全て長身仕様であることに気づく。今座っているソファもそうだ。今まで気づかなかったが、下に平台のようなものを置いて高さを調整しているのである。コート掛けやテレビの台にも、同じ現象がみられた。あの身長だから、普通のサイズで生活していくのはきっと窮屈なのだろう。
アイスブレイクは終わった、と思う。本題を切り出したいが、どう言葉にしたらいいだろう。
彼はすぐに戻ってきたから、クライドもすぐにカフェに移動した。内装は去年と全く同じで、強いて言うなら電球が一つだけ妙に明るい感じがした。多分、そこの電球は切れたから新しいものと取り替えたのだろう。見ると、それでもその電球は明るさを抑えるためにランプシェードの部分に加工を施してあった。
「朝ごはんまだでしょ? メニューはそこにあるから、好きなのを選んで」
カウンターに立ったハビはにこやかにそういった。クライドはカウンター席に腰掛けて、小さなスケッチブックに書かれたメニューを見る。迷っていると、ハビはくすくすと笑い始める。
「真剣だね」
「決まらないです」
「そうだね…… 店長の今日のお薦めは、チェンザイ風スープスパゲティだよ。ひき肉とエビをごま油で炒めて、唐辛子入り海鮮スープをかけたメニュー」
「あー、じゃあそれで」
国際色豊かなカフェである。メニューには、色々な国の料理が羅列されているのだ。食べたことの無い料理もいくつかあって、ここは本当に喫茶店なのかとクライドは驚く。アンシェントの喫茶店ではそれほど多くのメニューがないので、喫茶店といえば定番の味を楽しむものというイメージなのだ。
「メニュー多いでしょ? この島って国際的なエナークの影響もあって、純血の人が少ないんだ。だからメニューもバリエーション豊富なんだよ。宗教も味の好みも全然違う人たちばっかりだから、この島には自由奔放っていう言葉がよく似合うと思う」
「確かに、そんな感じですね」
「レンティーノなんかは、アルカンザル・シエロの純粋な血筋なんだけどね。あの子、爵位あるんだよ」
「そうなんですか?」
「お父さんであるミンが一回亡くなっていることについては、研究所の元所長がうまく誤魔化したみたいだね」
「やりたい放題だな……」
くすくす笑い、ハビは料理を始めた。ごま油の良い香りが厨房を満たし、クライドの方にも漂ってくる。一気に空腹感が襲ってきた。
料理が出来上がったら本題に入ろう。いや、やはりもう少し様子を見るべきだろうか。
「後でちょっと、ついてきて欲しい場所があるんだ」
「え? あ、はい」
唐突に言われた言葉に返事をすると、ハビは微笑した。
「料理が出来るまで、退屈しのぎに君の話を聞かせてよ」
一瞬の沈黙。クライドは、捻じ込むなら今しかないと思って顔を上げる。厨房のハビの横顔に向かって、真っすぐに声を上げた。
「あの、レイチェルの墓ってどこにあるんですか」
ハビの手がぴたりと止まった。鍋の水が沸騰して湯に変わりはじめる、小さな泡の音が沈黙に色をつける。ゆっくりと、ハビの視線がこちらを捕らえる。
「ついてきて欲しい場所が、そこなんだ」
息が止まる思いだった。
ハビには全て見透かされている。ここに来てからずっとクライドが言いたかったことも、クライドが旅に出てきたその理由も、きっと彼ならレイチェルを殺してしまった直後から解っていただろう。きっとクライドはまた会いに来ると、ハビは悟っていたのかもしれない。だからクライドに、あのアンティークの時計を渡したのだろうか。
時計はクライドの荷物の中にある。今日、研究所に帰ったら渡そう。
「続き、レイチェルの傍で話してもいいですか」
「勿論」
ハビは相変わらず穏やかだったが、その柔らかな表情には少しだけ哀しい色が含まれていた。クライドは少し考えてから、口を開く。
「この辺りの学校って、変わった制服のところが多いですね」
何も関係ない話をして、彼の言うとおり、料理ができるまで退屈しのぎをしようと思う。いや、これは退屈しのぎなどではなく、沈んでしまった空気の緩和だ。ハビは何事もなかったかのように話に乗ってくれた。全てが順調に戻っていくような、そんな気がした。