第三十四話 触れる明日
ディナーを終えたクライドたちは、ミンイェンの案内で荷物を回収してから部屋に戻った。彼らとは既に別れ、グレンはシェリーを部屋まで送りに行き、クライドはノエルとアンソニーと一緒に真っ白な廊下を歩いている。この先をあと少し歩けば、部屋に戻ることが出来るはずだ。
肉料理が嫌いなミンイェンのために、料理は前菜からメインまで全品野菜を中心にしたメニューになっていた。一つ言うとするなら量があまり多くなく、それはおそらくミンイェンが小食だからだろうとクライドは察していた。
文句なしに美味しい料理を食べてきた訳だが、クライドの気持ちは晴れやかでなかった。それは当然、その料理を作るシェフがあのマスターだったからだということに他ならない。
「クライド、あんまり喋らなかったね」
「そうか?」
アンソニーに不思議そうに言われ、クライドは首を捻る。マーティン以外の人とは、それなりに喋っていたと思うのだが。
クライドの反応を見たアンソニーは何か言おうとしてためらい、少し迷ったあとにやはり言うことにしたのか、顔を上げた。
「ハビさんと」
クライドは足を止めた。アンソニーは不安そうな顔をして俯いて、恐々とクライドの顔色を窺っている。
「ごめん…… でも、クライドはハビさんのために今回の旅に出たんでしょ」
「ああ、……そうなんだけど」
ぎこちない言い方になってしまったが、怒ったように言ってしまうよりましだ。クライドはアンソニーを見下ろして、なるべく表情を和らげるように努力しながら続けた。
「解ってるんだ。けど、まさかこんな状況で、こんな風な再会をするって思ってなくて」
完全に怖気づいた。こんなチャンスが巡ってきたというのに、クライドはハビと話すのが怖くなって問題を先送りにしてしまっていた。穏やかなハビに裏人格の話をして狂暴な方が目覚めてしまっても困るし、レイチェルのことを話して彼に嫌がられたらクライドが旅に出てきた意味はそこで消えてなくなるのだ。それが怖かった。
白い廊下は無言の静寂に包まれ、クライドとノエルが立てる足音だけが響いた。アンソニーは立ち止まったまま、何か考え込んでいるようだった。
「早くしろよ、トニー」
振り返って言うと、白い廊下に取り残されたアンソニーは一瞬だけ何か決意したような顔をした。
「ねえクライド、あのね」
何を言われるかと身構えると、アンソニーの表情に不安がよぎった。
「……やっぱいい。何でもない」
「言えよ。気になるだろ」
クライドも足を止める。ノエルはクライドとアンソニーの様子を見ると、先に部屋に戻ると言ってこの場を離れて行った。白い廊下に、二人きり。アンソニーはクライドを見てもう少しだけ考えると、まとまらない思考を言葉にした。
「うまく言葉にならない。クライドの意見は尊重したいけど、……たぶん、このままじゃよくない」
「ああ、そうだな。その通りだと思う」
「どうしたいのか覚えてる? 途中で目的が何度も何度も変わったけど、クライドは街を出て外国に行ってまであの人に会いたかったんだよね?」
「……ああ」
「気まずいなって、避けて、避け続けて…… 実験が終わって帰ることになっちゃうよ」
さすがにそこまで逃げることはしないと反論したかったが、言葉が喉で止まった。確かにこのままだと何やかんや理由をつけ、結局向き合わずに終わってしまいそうだ。忙しいとか探し出せないとか、期限付きの滞在時間内に話をまとめる自信がないとか、言い訳はたくさんある。というか今、言い訳しか出てこないことに気づいた。
「ありがとうトニー。心配してくれたんだな」
「うん。それに少し、怒ってもいたかも」
「……そうだろうな。俺がそうやって街を出たせいで、皆まとめて危険な目に遭ったんだから」
「そうじゃないんだ、捕まったことじゃなくて…… 簡単にどうでもよくなっちゃうような理由で、クライドはまた危険を冒そうとしたのかなって。自分のこと、もうちょっと大事にしてくれないのかなって」
「ごめん」
「うん、僕もごめん…… 僕ならこうするのに、っていう押し付けだから」
歩き出せば、アンソニーも歩き出した。まだ何か言いたいことがわだかまっているらしく、言葉を探している様子だったが、部屋に戻っても思いつかなかったらしく彼はややすっきりしない顔でシャワールームに向かって行った。部屋にシャワーは二つついていて、ノエルが先にもう片方を使っていたのでクライドは黙って雨音のようなシャワーの音を聞きながら二人が出てくるのを待つ。
やがて先に出てきたノエルと交代してクライドもシャワーを浴びて、出てきたらもうアンソニーは布団で丸まっていた。ドライヤーも使わずに魔法で髪を乾かしたノエルは入眠前に分厚い専門書を読んでおり、クライドが出てきたのに気づくと顔を上げる。
「グレンはまだだよ」
「そうか。トニーは? 何か言ってた?」
「自分の心を最適に言語化する能力が足りないことをひとしきり嘆いてから、頭をリセットするって寝入ってしまったよ」
「あー…… そっか」
「ハビさんのことじゃないかい。アンソニーが気にしていたのは」
「うん、その通り」
「君は適切なタイミングを自分で測ってね。僕はほら、思ってもみないタイミングで対話を持たざるを得なかったから」
くすっと笑みを漏らすノエルは、元気づけようとしてくれているのだと思う。クライドは笑みを返し、ノエルの隣に座って自分も想像で髪を乾かした。
「驚いたな、それにしても」
「君にだけは話しておくけれど、冬に会った時に告白されそうな空気になって…… 先回りして、友達だって言ってしまったんだ。上手くいかなかった未来を考えて、怖気づいてしまって。思っていることを、好きだという気持ち以外は全て言葉にしたよ。大切で、絶対に失いたくなくて、終わりのある関係になるのが怖いんだって」
「ああ…… だからあの反応」
あらかた予想はしていたが、ノエルは自分の言葉でその時のことを話してくれた。彼は自身の考えを言語化するのが上手だから、アンソニーのような悩み方はしたことがないかもしれない。
「けど、ね。失わないように手だてを講じたはずが、自分で手を離しそうになってしまっていた。だから港で君に言われたことを思い出して、壊す覚悟で踏み込んだ結果があれだよ」
「ファインプレーだった。あそこでまた意地張って見栄張って格好つけてたらたぶん終わってたな」
「だろうね。どんなに完璧を演じても、僕は僕でしかないんだ。持っているもので勝負するしかない。一秒でも長くこの関係を保てるように、素の人間性を高めていかないとね」
「ノエルが思っている以上に、サラはベタぼれだと思うけどな」
「だといいけど。僕は嫉妬深いのを自覚しているから、そのうち息苦しいって言われるかもしれないよ」
それはないと言って笑っていれば、空気入れのような音がしてドアが開いたのが分かる。グレンが帰ってきたらしい。白い壁にしか見えない特殊ライトを潜り、グレンはこちらを見てにやっと笑う。右頬がうっすら赤い。
「どうしたんだよグレン?」
「一緒に寝るか? って言ったらビンタ食らった」
「だろうな。懲りろよ」
研究所内にあった資料にも書かれていたが、グレンは少し前にシェリーと大喧嘩をしている。喧嘩といっても、ほぼグレンが悪い。
初めての恋人との距離の詰め方をわかっておらず、スキンシップが激しくなった結果グレンはシェリーに叱られたのだ。好きな女の子に触れたい気持ちは同じ男として分かるが、シェリーは平均よりも小柄だしまだ十五歳になったばかりだ。自重しろとクライドも叱った。
備わっていた特殊な魔法のせいで他人の過去が読めてしまうシェリーは、誰に教わらずとも恋人との進展について並みの同年代たちよりよほど知識があった。だからこそ、彼女は頑としてグレンとの進展を自分の意志で止めている。それが間違ったことなのかと、どうしてグレンは懲りずに触れたがるのかとシェリーはクライドに真剣に相談してくれたのだ。あの仲裁はかなりデリケートな問題だったから、なかなか気を遣った。
「キスも一日一回なんだぞ。もうちょっと俺に同情してくれてもいいんじゃないのかクライド」
「だいぶ譲歩されてるだろ」
「このままじゃお前みたいに想像力だけ逞しくなっちまう」
「おい、悪口やめろ」
けらけら笑いながら、グレンはシャワールームへ向かった。そんな後ろ姿を見てノエルが肩を竦める。
「ああ言いながらも、ちゃんとシェリーの意思は尊重しているからね。だから上手くいくんだろうね、あの二人」
「だな。シェリーは色々考えすぎるところのある子だし、本気で嫌がることはしないけどちょっと強引な感じのグレンが丁度いいのかも」
グレンが鼻歌交じりにシャワーを浴びているのを聞いていたら段々眠くなってきて、クライドは彼が出てくる前に布団にもぐりこんでいた。何やかんや今日も色々あったし、身体というよりはメンタルがどっと疲れていたので寝つきはよかった。
翌朝、目を覚ますとノエルがすでに部屋にいなかった。彼はいつも早起きだ。
大の字で寝ているアンソニーの向こう側のベッドにぼんやり身体を起こしたグレンがいたので声をかけてみる。
「おはよ、グレン」
「あー。……おはよ。このベッド硬くないか? 夜中に三回ぐらい起きたんだけど」
「あんまり気にならなかったな。ミンイェンに相談したら開発中の睡眠薬とか投与してくれるかもしれないぞ」
「勘弁してくれ」
笑い合い、ノエルの行方を聞いてみる。彼はもう、昨日の本を読み終えてレンティーノに返却に行っているらしい。
顔を洗って歯を磨き、テーブルに用意されていた軽食に手をつける。外出したノエルが一度戻ってきて置いて行ってくれたものだというが、食堂で作られたものだろうか。グレンは寝起きでまだ起床スイッチが入らないようで、座ったまま何度も欠伸をしていた。クライドはここに籠っていても落ち着かないので、外に出て研究所内を見て回ることにした。白い窓のない空間に慣れ切ってしまいたくなくて、まずは屋上を目指した。
屋上に行くのに使うなら、エレベーターより階段の方が良いとクライドは思う。ドアが開いたらすぐに空が見えるよりも、だんだん空に近付いていく方が良い。
人がいない廊下を、クライドは無言で歩いた。真っ白で、音のない廊下。ここを歩いていると、自分が本当にこの世に存在しているのかどうかを疑いたくなってしまうから怖い。自然と早歩きになる。
早歩きで白い廊下を抜けようとしたとき、不意に腕を捕まれた。
「うわぁあ!」
思わず情けない声で叫んでから左後方を振り返ると、自分の左腕が壁から突き出した手に捕まれているのを見てしまった。一瞬固まって身動きがとれなくなる。その一瞬の隙をついて、その手はクライドの腕を思いっきり引っ張った。
思考停止状態のまま、クライドは壁にぶつかりそうになる。手を出して庇おうとすると、壁はまるで存在しないかのようにクライドを通した。きょとんとして正面を見ると、クライドの腕を掴んでいたのは生身の人間だったということを理解できた。とんでもなく高い位置に顔があるので、こうして近寄ると目を見て話すのが困難である。
けれど、あえてクライドは彼の顔を見た。というか、一度目を見たらそらせなくなってしまったのだ。
「そこを歩いているのが見えたからね」
悪びれた様子もなく、ハビは言った。彼が着ていたのはカフェ・ロジェッタの制服で、見渡してみるとこの部屋はシンプルではあるが生活感のある部屋だった。整えられたベッドと綺麗に片付けられた机も、真っ白いだけの部屋にあるものとは違って、ちゃんと誰かが使っているものだという感じがする。綺麗に片付けてはあるが、完璧に新品のように綺麗にされている訳ではないから、そんなことを思うのかもしれない。
「……えっと」
「紅茶、飲んでいかない? 今日は休みをもらっているんだけど、研究所にいても今のところ仕事はないから島のカフェに行こうかと思っていたところ」
細い黒のネクタイを締めながらハビは言い、クライドを笑顔で見下ろしていた。
レイチェルを嬲り殺したことも、クライドに手を挙げたことも、すべてなかったかのように。残忍な笑顔ともらった手紙の内容がフラッシュバックする。どう話を切り出すのが正解か分からないが、アンソニーの昨夜の言葉がクライドの退路を断った。このまま、逃げ続けるわけにはいかない。
「クライド、どうかした?」
「……いえ。俺も、あなたとゆっくり話す時間がほしかったんです」
クライドの返答を聞いて、ハビはベストのポケットから角ばった黒い携帯を取り出した。レンティーノのもの程ではなかったが、クライドの持つ携帯よりも大分薄型である。光沢を抑えたその携帯には、ストラップの類がひとつもついていなかった。ハビは片手で携帯を開き、軽く操作してすぐに耳に当てた。
「もしもし、ミンイェン。僕だけど」
電話の向こうからミンイェンの嬉しそうな声が漏れてきた。ハビの頬が緩む。
「これからカフェに行くんだ。クライド借りていっていい?」
勿論だよ! とミンイェンが楽しそうに語るのが聞こえた。どうやら話の内容からするとミンイェンはノエルとレンティーノのところに突撃し、謎解きをもちかけて良い勝負をしているらしい。時々声が小さくなって聞こえなくなるが、ミンイェンの声はかなりの大きさだったのでスピーカーから筒抜けだった。
「じゃあ、切るね」
ミンイェンの返事が聞こえ、ハビは携帯を耳から話してボタンを押した。そして、平たい長方形をした黒革の鞄を掴み、クライドを手招く。全くのノープランではあるものの、この機会を逃すわけにはいかない。クライドは彼についていった。