第三十一話 迷宮回廊
エレベーターを降りると真っ白な空間が広がっていて、自分は一体どこから来たのかなどクライドはすぐに解らなくなった。そもそも、白い場所が壁なのか壁でないのか、壁に見える扉なのか、それすらも区別がつかないのだ。ここの研究員達は、何故ここで働いていられるのだろう。下手な迷路よりも、ここの研究室をひとつ探し当てて見せるほうが難しい気さえした。こんな最悪な労働条件は聞いたことがないとクライドは思う。
壁伝いに歩いていこうと、クライドは壁に手をやって歩き始めた。天井の蛍光灯の数を数え、もといた場所の見当をつける。多分、まだ先だ。
壁に触ると、ひんやりと冷気が手に伝わってくる。その感触が気持ちよくて、クライドは手のひらだけでなく肘の辺りまでつけて歩いた。……と。
「わ」
壁でないところに行き当たった。壁に見えるが壁ではない、紛らわしいあの白い扉だ。どうやら一つだけ開いていたらしい。
クライドはそのまま、左から床に転げ落ちた。肘や肩をぶつけ、痛みに顔をしかめる。
「クライド?」
女の子の声がした。顔を上げた。白いベッドが見えた。ベッドから投げ出された、ヒールの高いサンダルを履いた足が見えた。
驚いて目を丸くした、シェリーがそこにはいた。思わず飛び起きる。
「……シェリー!」
胸元にレースがついた黒のキャミソールの上から、透け感のある七分袖のシンプルなカシュクールを着たスタイル。穿いているのは、ゴシック調で飾り紐をたくさんあしらったスカート。そして、極めつけに黒のニーハイソックスだ。
雑誌のカバーガールのようだった。シェリーはこんな服を持っていなかったはずだし、アンシェントにこんなデザインの服を売る店があるはずもない。
「クライド! よかった…… 無事でよかった」
ベッドから飛び降り、シェリーはヒールの高い靴で器用にクライドに駆け寄ってくる。そして嬉しそうにクライドの胸に飛び込んで腰に腕を絡めると、それからすぐに放した。
こんな抱擁シーンをグレンに見られたら、何をされるか解ったものではないと思う。シェリーはちゃんと友人としてクライドをハグしたのだとしても、グレンの目にはどう映るのか想像に難くない。
「シェリーも…… 怪我とかしてないよな? よかった」
ざっと見たところ、シェリーの身体に外傷はないように見えた。絆創膏が貼ってある形跡もなければ、傷口もない。首筋を確認するが、注射痕のようなものも見られなかった。シェリーは嬉しそうな表情を崩さないまま、クライドの格好を上から下まで見下ろして怪訝そうな顔をした。
「ねえ気のせい? 頬とか腫れてるように見えるんだけど」
「気のせいじゃない。さっき屋上でマーティンと殴りあいの喧嘩してきたからな」
「そんな、大丈夫?」
とたんにシェリーは表情を変え、クライドの腕をとって外傷を調べ始めた。小さなかすり傷や打撲をみつけては、シェリーは悔しそうな顔になる。肘にまだ血が出ている擦り傷を見つけたとき、シェリーは小さく息を呑んでポケットに手を入れた。そして、ハンカチを出して結んでくれようとした。クライドは慌てて、想像で血を止めた。
「大丈夫だ、痛くないって想像すればその通りになるんだから」
「バカ。何やってんだよ、血は有限だって言っただろ」
そうやって怒られると、出会った頃の彼女を思い出した。未だに昔の癖は抜けないらしく、シェリーは怒ったりするときに時々こうして昔の口調に戻った。
クライドは微笑して、大丈夫だともう一度彼女に告げた。シェリーはきゅっと唇を噛み、不満げにクライドを見上げる。
「もうあたしがいないところで傷つかないで。どんな思いをしたか読み取ってあげることも、呪文を唱えることもできないんだから」
心配性な友達だ。クライドは苦笑しながら、はいはいと頷いておいた。
絶対、また怪我することになる。マーティンとの決着もそうだが、実験もきっと無傷では終わることができないという気がしている。何せ、この研究所で伯父と伯母と従兄が死んだとマーティンは言ったのだ。あのマーティンを信じる気は一切ないのだが、それがもしも本当ならばクライドだって十分殺される可能性はある。
「ねえ、グレンは? グレンは大丈夫なの? ノエルやトニーやサラたちは?」
その言葉に、クライドはグレンのところに戻ろうとしていたことを思い出す。
「サラ以外、みんなここにおびき出されたよ。無事だけどはぐれた。屋上からグレンのところに戻ろうとして、ここに迷い込んだんだ。偶然だけど会えてよかった。無事だってことは分かってたけど、やっぱり姿を見たかったから」
「ってことは、グレンもこの階にいるの?」
「そう」
シェリーの表情が、見る見るうちに嬉しそうなものへ変わっていく。彼女は本当に嬉しそうに笑い、クライドの手を引っ張った。
「早く会いたい! 一緒に探そう、クライド」
「そうだな。けどな、まずその手を離さないと俺がグレンに殺される」
そういうと、シェリーはくすくす笑いながら手を解いた。そして、軽やかな足取りでクライドが入ってきたドアの方へ向かう。
「ノーチェが、自由に歩き回っていいって言っていたの。グレンやクライドたちのこと、探してもいいよって。でも、どんな研究員に出くわすかわかったものじゃないでしょ。護身用の武器があるわけでもないし、一度麻酔薬を打たれて眠らされているわけだから…… 無暗に動くよりも案内を待った方が賢明だと思ったんだ」
確かに、ノエルやアンソニーの担当になった研究員たちは下衆を極めていた。あんな男たちにシェリーが遭遇したら、ミンイェンの意図を無視して酷い扱いをされたかもしれない。シェリーは慎重で聡く、クライドよりも数段大人っぽく思えた。エルフの集落でたった一人で身を守って生きてきた、自立心の強さがそうさせるのだろうか。
そういえば、彼女の言う『ノーチェ』はクライドもどこかで聞いたことがある名前だ。
ここに来る前に…… そうだ、それこそ雑誌のカバーガールだったとクライドは思い出す。冬にリヴェリナでシェリーの髪を染めた時、参考にしたのがノーチェ・スルバランというエナークの女優だった。彼女は当時クランクアップしたばかりの映画の役作りで、黒髪を自然なベリーレッドに染めていたのだ。まさか女優が研究所にいるわけもないのだから、ノーチェというのはエナークでは一般的な名前なのだろう。
「なあシェリー、リィを見た?」
「ううん。話に聞いたし、実験データは見たけどね」
「……俺、ご遺体と対面しちゃってさ。なんか、……色々考え込んでる」
「分かるよ。どう考えてもあっちが何もかも上手だから逆らう選択肢はないとして、……『おてつだいして』なんて言われて簡単に『いいよ』って言えるようなことじゃあないよね」
シェリーと一緒に部屋を出る。部屋を出て、右へ歩き始めてみることにした。歩きながら、蘇生とその意義、立ちはだかる倫理観の心理的な障壁についてぽつぽつ言葉にしていく。
「ミンイェンの兄貴ってさ。痛い思いして苦しい思いをして、一旦は死んだんだろ。生き返って、平気なのかな」
クライドが投げかけた疑問に、シェリーは少し悩んだ様子を見せた。そして、クライドを見上げて口角を上げる。
「あたしはほら、一旦死んだみたいなものでしょ? みたいっていうか、脈も呼吸も止まって、あとは消えるだけだったっていうか…… だからあたしの意見は蘇生された側寄りだと思う」
エルフの血は魔力でできているから、死んだら消えてなくなってしまうのだと過去にシェリーに聞いたことがあった気がする。あの時はシェリーが消える前に、クライドが思わず人間との混血である血を分けてしまった。それで複雑な魔法を用いてグレンの血も代償にして、蘇生に踏み込むことになったのだ。
「そっか。俺たちは死ぬ寸前で助けたみたいな気持ちだったけど…… そうだよな。身体を作り変えて蘇生した、ってことなんだから。ミンイェンに言わせるとそれは『再生』なのかもしれないけどさ」
シェリーは小さく微笑む。やはり何となく雰囲気が洗練されている、と思ったところでやっとシェリーがごくナチュラルに化粧をしていることに気が付いた。当たり前のように、シェリーは十代の女の子としての人生を楽しんでいる。
シェリーをもしあの戦いで呼ばなければ、人間の世界はきっと滅んだ。エルフはどうしただろう。自分たちの身だけを守って戦っただろうか。そうなっていたら、シェリーはこんな風にお洒落をして化粧をして過ごすことはなかったに違いない。
「ウォルにも言われたんだ。成功率は低いから、生き返らせたとしても痛みでショック死するかもって。このまま眠らせてやったほうが、無駄に苦しめずに済むって」
「そうだったんだ…… うん、そうだね。あれはもう、間違いなく人生で一番痛かった。クライドがすぐに痛みを抑えてくれなかったら、本当にダメだったかも」
「役に立ててよかったよ」
笑い合って、少し無言になる。やがて言葉を探し当てたシェリーは、隣を歩くクライドを見上げた。
「……生き返った身としては、感謝してもしきれないかな。終わったはずの命を繋いでもらったことで、辛かった人生がやっと楽しくなった。消えてなくなっても本望だったって言えるぐらいには全力を出し切って、そのこと自体に悔いはないけど、それでも…… 今こうして、みんなといられるのが幸せなんだ」
「じゃあ、衝動で助けようとしたのは無駄じゃなかったな」
「リィの場合はどう思うかはわからないけど…… あたしは一生感謝して過ごすよ。一度目の人生が満足で終わってもこうなんだから、無念の内に終わっていたなら猶更そうじゃないかな」
晴れやかに笑うシェリーを見て、リィの心理を慮っての抵抗感は薄らいだ。そうだ、実験という形式ではないが結果的にクライドも蘇生自体はしたことがあるということになる。そしてその対象からは、全力で感謝されている。
少し気が楽になったところで、渡されたカードキーをシェリーに見せる。
「ミンイェンが部屋を出るとき渡してくれたんだけど。正直全然部屋の位置が覚えられなくて」
「これ、確かどこかに部屋番号が書いてあるはずだよ。うっすら銀色で」
「そうなのか?」
真っ白にしか見えなかったカードキーは、斜めに傾けてみると小さな銀色の文字でクライドと記されているようだった。その隣には四桁の番号が書いてあった。2082。
すぐ傍の壁に目を留めると、ちょうどここが2082号室だった。
「すげえ。丁度ここみたいだ」
「本当? 開けてみて」
彼女の声に頷いて、クライドはカードキーを解りづらいカードリーダーに通した。プシュッと軽い音がして、白い壁からふわりとデミグラスソースの匂いが漂ってくる。誰かが食事をしたようだ。しかも、クライドが食べた昼食と同じメニューを。
「グレン」
声をかけながら入ってみると、食べ終えた煮込みハンバーグの食器を適当に脇にどかしていたグレンが顔を上げた。
「おう、おかえりクライド…… シェリー?」
グレンは即座にシェリーの存在に気がついたようだった。彼は立ち上がり、こちらに向かってくる。
「シェリー!」
わき目もふらずにシェリーに駆け寄ったグレンは、彼女の小さな身体をぎゅっと抱きしめた。シェリーはそんなグレンの胸に顔を埋め、細い肩を震わせていた。気丈に振舞っていたが、彼女だってグレンの安否が心の底から心配だったに決まっている。
グレンはもう離さないとばかりにしっかりとシェリーを抱きしめて、大きな手で背中をさすりながら耳元に何か囁く。二人の世界を邪魔してはいけないと思って辺りを見回せば、ベッドにうつぶせになったアンソニーがいるのが見えた。起きているようだが、イヤホンでもつけているのかこちらの様子に全く気付いていない。
「トニー、何やってんの?」
声をかけたものの、返事はない。
「トニー?」
言いながら彼の手元を覗き込むと、誰かが手書きで作ったクロスワードがあった。もう半分ほど解いてあるが、そこで手詰まりらしい。
「おーい、トニー」
「ん? あ、クライドおかえり。さっき何だかシェリーの声が聞こえた気がしたよ」
どこにでも売っている黒のゲルインクのボールペンを右手で器用に回しながら、アンソニーはのんびりとそういった。アンソニーは集中しすぎると、時々反応が遅かったり返ってこなくなったりすることがある。今のは、その極端なパターンだ。
「気がしたんじゃなくて、そこにいるよ」
「本当に? シェリー、本当にちゃんと無事だったんだ! よかったあ」
アンソニーは部屋を見回し、抱き合うグレンとシェリーを一瞥して心からほっとしたようにそういった。しかし次の瞬間には渋面を作り、クロスワードに向かう。
「解らないんだ、この問題。どうしても解らない」
「クロスワードか?」
「うん。ミンイェンが作ったクロスワードで、グレンでさえ解けなかったんだよ。ノエルはまだ帰ってないから助けてもらえないし」
そうなのか、とクライドは納得する。グレンはこういう問題はむきになって解くほうだが、そんな彼でも解くのを放棄するなんてよほどレベルが高い問題なのだろう。
「ミンイェンって確かにここのリーダーっていうぐらいだからちゃんと頭いいんだろうけど、なんか見た目とか態度のせいかそう思えないんだよな」
「えー、すっごく頭いいよ。だってね、三桁同士の掛け算の暗算が三秒でできるんだ」
聞き違いかと思った。三桁同士の掛け算なんていったら、答えが億までいく場合だってあるではないか。そんな計算を、たった三秒でできるなんて。クライドには無理だ。
「やるな」
「あの、なんだっけ。『特進』? って誰でもなれるわけじゃないんだって。早く怖いパパから離れたい一心で、ミンイェンは一生懸命勉強したんだ。十歳であれに選ばれるのって、本当に国を代表するレベルなんだよ!」
楽しげに話しながらも、アンソニーはやはりクロスワードに頭を悩ませているようだ。クライドも腰を据えることにして、その辺に置いてあった椅子を持ってきてアンソニーと一緒に紙を覗き込む。
「クロスワードはミンイェンの趣味なんだって。解くのも作るのも」
「あいつそんな趣味あったのか」
「凄いよね」
時々雑談をしながら、問題を考える。確かにアンソニーが言うとおり、これは結構難しかった。
「……というかさ。よくあいつと打ち解けたな。トニー」
「うーん、だってさ。大好きなお兄ちゃんにもう一回会いたいだけなんだよ。僕らを誘拐したことは謝ってくれたし」
「やりかたが姑息すぎないか? ごめんで済む内容にも思えないけど」
「そうだね、犯罪だもん。でも僕らだって去年の旅で犯罪三昧だったし、人の間違いを責められないよ」
けらけら笑うと、アンソニーはクライドを見上げる。
「僕をひどい目に遭わせた研究員も、すぐにクビにしてくれたって。ほら見てこれ!」
アンソニーはポケットをがさごそ探ると、小さなボタンのついた薄い名刺入れのような機械を見せてくれた。何に使うものか皆目見当もつかない。
「これは?」
「ボタンを押すとすぐにミンイェンに通告されるんだよ。通話機能もついてる! これさえあれば、この広い研究所のどこにいてもずっと安全でいられるんだ」
「こんな薄くて小さいのに?」
「そう! 所内専用にしたから小さくできたんだって。研究員たちってみんなミンイェンの子分でしょ? 何があっても逆らわないって約束しているっていうから、ミンイェンに止めてもらえばもう怖い思いをしなくて済むよ」
なんというか、アンソニーは単純でおおらかで、これまではたまに心配になる感じだった。けれど今は、良い条件を出させる代わりに相手の不手際を許すのだ。純粋で心根の優しいところはそのままに、ちゃんと自分だけ損をする形を避けられるようになったあたり彼も大人に近づいたように思う。
「お前らしいや」
「だってもう、ここまで来ちゃったら助けてあげるしかないと思わない?」
「それは俺もちょっと思う。協力しないと帰れないんだったら、協力するしかないよな」
笑い合って、紙に視線を落とす。折角だ、謎解きをしてノエルの帰りを待とう。