第三話 明日に向けて
日が登る前に目が覚めてしまった。カーテンを開けてみると、蒼くくすんだ半端な闇の中に疎らな明かりがついた家が並ぶ町並みが見える。買出しに行くのは昼前だから、まだ時間はたっぷりあった。もう一度寝ようと目を閉じてみても、眠気はなかなか訪れない。
「まいったな」
小さく呟いて、ベッドの上に仰向けになる。しばらく天井に張ったエフリッシュ圏のロックシンガーのポスターとにらめっこしていたが、どうせやることもないので音楽を聴くことにする。
「負けたよカルツァ、CDかける」
机の脇に置いてある古いCDコンポに、アンソニーから誕生日プレゼントでもらった限定盤のCDを丁寧にセットする。アップテンポのロックを控えめなボリュームでききながら、そっとその歌を口ずさんでいれば気分も少し上向きになった。グレンやノエルはMP3プレイヤーを手に入れてパソコンを駆使して音楽を聴いているが、クライドは機械にあまり強くない。携帯すらあまり使いこなせていないので、この電話で音楽を聞けるといわれてもあまりピンとこなかった。グレンのオリジナル曲を何曲か入れてもらったのだが、聴き方が思い出せない。
何せ狭い街で、携帯ショップも一件しかない。子供たちは卒業して家を出るまで携帯をもたないのが普通だった。あのノエルですら、町を出るときに時々レンタルするぐらいで済ませているのだ。使う機能なんて電話とメールと調べものだけなのだし、音楽プレイヤーの使い方がわからないぐらいで店に聞きに行くのはさすがに恥ずかしい。
と、携帯が鳴った。これを手にしてから町から出たのは一回だけだが、冬に港町に行った時は二時間に一回のペースで電話がかかってきたことを覚えている。ちなみに、着信音は天井に貼ってあるポスターのロックシンガー・カルツァ=フランチェスカの曲だ。
「もしもし、クライドかい?」
「こんな時間にどうしたんだ?」
カルツァの着信音を止めて通話ボタンを押せば、聞こえてきたのはノエルの声だった。ノエルは携帯を持っていないから、いつも自宅の電話を使ってクライドに電話をしてくる。何かあったのだろうか。しかし、それにしては声が平常で落ち着いている。
「早く起きすぎたんだ。こんな早朝に電話したら君の家族に迷惑がかかるかと思ったけど、そういえば君は携帯を持っていると思って」
それをきいて、まずは安堵した。何だ、何か嫌な事件が起きたわけではないのか。だが、問題はノエルがこんな時間に電話をしてきたことだ。彼らしくないといえば彼らしくない行動だったが、意外に思ったり拍子抜けしたりする前に思ったことがある。
「俺だけを、確実に起こすつもりだったんだな?」
家族に迷惑がかかるかどうかは心配しておいたくせに、ノエルは肝心なクライドのことについて何も触れなかった。別に起こされても良いが、ノエルが寝ている人を起こしてまで話をしたいという態度にでるのは初めてなので何となく訊ねてみたかった。
「違うよ。二回鳴らして出なかったら切ろうと思ってたんだ。少し話さないかい?」
「ああ、俺も暇してたところ」
時々こうしてノエルから電話がかかってくるが、去年の旅から帰ってきてその頻度が増えたのは確実だ。必要以上に関わらないようにあえて自分にリミットをつけていたノエルが、親しさを前面に出してくれるようになったからだ。クライドにとってはそれは嬉しいことだし、ノエルのような思慮深い友人がいつでも声を掛けられる状態で近くに住んでくれているのは幸運というほかなかった。
ノエルは、いつもどおりの穏やかな優しい声で外の様子について話し始めた。まだ日も昇らない街の、少し涼しい空気や散歩している早起きな老人の話。近所にできた雑貨屋で、ハーブティーを買って寝る前に飲んだ話。ノエルはなおも話を続ける。
「妹がちょっとしょげていたよ。思ったより慕われていたみたい」
「そりゃそうだろ。セシリア、昔お兄ちゃんと結婚するって言ってたろ」
まだ幼いノエルの妹がそう言ったのを、グレンがからかってクライドが嗜めたことがあった。ノエルはそのとき、珍しく少し照れているようだったのを思い出す。もう何年も前の話だ。ノエルは少し笑うと、声のトーンを落とした。
「それ、セシィの前ではあまり言わないであげてね。どうやら黒歴史みたいだから」
「そっか、可愛かったのにな。ノエルはどうだ、妹ってやっぱり可愛いか?」
「勿論、たった一人のきょうだいだからね。だけどあの子は完全に、僕よりも彼氏に夢中。早いよね。十三歳で彼氏がいるなんて」
「へえ、お前はオクテなのになあ」
からかいも含めてそういってみる。暗に『早くサラに告白しろ』といったつもりでもあったが、ノエルがそこまでクライドの言葉を深く理解してくれたかどうかはわからない。
「そうでもないよ。僕だってその頃は」
心なしか哀愁漂う声で言われて、クライドは必死に記憶を手繰って十三歳だった頃を思い出そうとした。丁度ノエルに出会った頃だ。
「……お前、大学時代に彼女なんかいたか?」
「何でもない、忘れて」
いたんだな、彼女。そう思ったが、深くは追求しないことにした。確かにあの頃は、ノエルも何と言うか角が取れていて丸かったように思う。それから一年くらいしてから少し鋭角的になったということは、その頃彼女と別れたのかもしれない。単純に、最年少の大学生というレッテルの重みが苦しかったせいかもしれないが。
「そうだ、聞いておきたいことがあって」
ノエルの声と一緒に、電話の向こうで紙をめくる音がした。本を開いたのだろうか? それとも、ポスターのようなものを開いたのだろうか。
「僕らは、どういう経路で旅をするんだい?」
「決めてないな」
「そうじゃないかと思っていたよ。これは僕の案だから話半分に聞いてほしいけれど、このルートはどうだい? とりあえずリヴェリナに出る。それから、そこでイノセントからもう一度ハビさんの情報を聞いてみよう。ハビさんがいる、人工魔力をつくっている本部に辿りつけるかもしれない」
クライドが答えると、ノエルは電話の向こうでそういった。先ほどめくった紙はおそらく地図だろうと、ここでようやく合点が行く。きっと地図の上にその骨ばった指を沿わせながら、クライドに話しかけているのだろう。ベッドに腰掛けて、右肩で電話の子機をはさんで、右手で地図を持って。そして、利き手の左手で海の上をなぞっているのかもしれない。航路を考えながら、リヴェリナ沖をぐるぐると指でなぞるノエルの姿が妙にリアルに想像できた。
冬に、イノセントから一度人工魔力の結社について訊ねてみた。けれど、彼はそちら方面については全く知らないようだった。次に会うときまでに情報を仕入れておくと言っていた彼だから、もしかすると何か有力な情報を掴んでいてくれるのかもしれない。だが。
「もしも、イノセントがまだ情報を手に入れてなかったら?」
「船旅だね。またあの島まで行こう、アルカンザル・シエロ島…… 君には、つらい思い出の島だけど」
「だからこそ行かなきゃいけない。直接ハビさんに会えば、色々捗るだろ」
思慮深いノエルは、クライドの深い傷となったレイチェルについていまだに触れるのをためらう。彼にとっては直接の面識があるわけではない女の子だが、救えなかった彼女のことを話すたびにノエルもまた傷ついたように目を伏せるのだ。だから、逆にクライドのほうが気を遣ってレイチェルの話題を出さないようにしてしまう。
ひょっとすると、ノエルも過去に誰かを救えなかったことを悔いているのかもしれない。そう思う程度には、彼の共感が平常に比べて過度であるとクライドは感じるのだった。彼が自ら話してくれるまでは、深い心の底については触れないようにしているのだが。
「そういえばクライド、今音楽でも聞いているのかい?」
「ああ。カルツァの曲。知らないか? 結構有名なんだけど」
空気を変えようとしてくれたのか、ノエルが話の方向を音楽に向ける。しばらくとりとめのない話をしているうちに、ノエルの部屋で少女の声が聞こえだした。
――おはよう、ねえ誰と話してるの? こんな時間にもしかしてサラ? イチャつくのはいいけどちゃんと寝た?
声の主は間違いなくセシリアだ。サラとの仲は妹にも公認らしく、思わず少し笑ってしまった。
「妹が起きたよ。そっちはどうだい?」
そういわれて、クライドも耳を澄ませてみた。すると、下の階で誰かが歩き回る足音がした。足の悪い祖母ではない規則的な足音だから、父か母のどちらかだろう。父は寝起きがよくないほうで二度寝も三度寝もするから、多分この足音は母だ。
「母さんが起きたみたいだ」
「それじゃあ、そろそろ切ろうか。また後でね、クライド」
短く返事を返すと、それきり受話器は無言になった。クライドは携帯を枕元に置き、深く息を吸う。
何だかやることがない。暇つぶしに、放置した携帯をもう一度手にとって画面ロックを開く。待ち受け画面には、微笑む五人組の写真。セルフタイマーで三回失敗してようやく撮った、グレンたちとの集合写真だ。やはりクライドの銀色の目は写真映えしない。
「クライド、起きてるの? 降りてきて手伝って」
階段の方から母の声がして、クライドの思考はそこで途切れた。