第二十九話 大都会の真ん中で
真っ白な廊下を無言で歩き、無意識にポケットの携帯に手をやってクライドは嘆息する。なんだって、ここはこんなに静かなのだろう。エレベーターまで向かう廊下で、クライドは研究員をひとりも見かけなかった。
そう考えて、研究員たちを静かにさせたのは自分たちだったということを思い出す。彼らには、ちょっと悪いことをしてしまったかもしれない。
「……あれ、階段?」
よくみると、エレベーターの近くに銀色の取っ手が見えた。ドアには「階段はこちら」と丁寧に書いてある。
最上階であるこのフロアは、他の階よりも殺風景さの度合いが低かった。廊下の突き当りの方に目を凝らしてみれば絵画らしきものが見えたし、エレベーター付近にもこうしてちゃんと文字が添えてある。この階だけ、扱いが特別だ。ミンイェンが主に生活しているフロアは、ここなのだろう。そうすると、ミンイェンはあまり部屋からでないのかもしれない。
「あれ、クライド?」
急に後ろから声をかけられ、勢い良く振り返る。その声はノエルやグレン、アンソニーの声ではなく、知らない青年の声だったのだ。
「なっ」
知らない青年、というのは少し語弊があったようだ。クライドの後ろに立っていたのは、紛れもなく知っている人だった。会ったのは大分前だったから、記憶の中だけでは声も顔もよく思い出せなかった。けれど、見た瞬間にそれが美容師志望のセルジであるとわかった。
「久しぶり。髪が伸びたね、また切ろうか?」
ちょっとの間あっていなかった友達にばったり出くわした時のような、軽い調子で対応される。クライドは面食らって、私服姿の彼を上から下まで眺めた。
髪は前に見たときより長くなっていて、ワックスを使ってうねりをつけてある。服装は当然だが、前に見た本屋のエプロンではなかった。彼は青いピンストライプのシャツの下にグリーンのタンクトップを着て、何か文字が彫られたプレートのネックレスを首にかけている。ズボンは黒のスキニージーンズで、前に見たときよりもこなれてスタイルが良く見えた。履いているのは、黒いスニーカーだ。
全体的にセルジは、とりたてどこか可笑しいところもない普通の人だった。普通と言っても、あまり目立つところがないというだけの話で、部分的に見ていけばファッションのどこにも独自のセンスが見て取れた。
「セルジさん、なんでここに」
「何でって? 舞台美容って学ぶのにお金がかかるんだよね。授業がないときはここで働いているんだ。今から休憩だし、お昼にするところだよ」
セルジは少し屈んで、スニーカーの紐を結びなおし始めた。そんなセルジを見下ろして、クライドは瞬きもせずに考える。
前からここにいたような口ぶり。ここで働いていると言ったが、ミンイェンが言う通りエナークの有名企業だというのなら、ここにいれば資金は十分に稼げるだろう。そうすると、どうだ。バイトなど、ほかにする必要はないのではないだろうか?
「じゃあ、本屋のバイトは……」
「元々、研究所勤務の空き時間にファストフード店でバイトをしていたからね。ファストフード店をやめて、本屋に行ったんだ。それも研究所の仕事のひとつ」
あっさりと返ってきた答えに、クライドは絶句するよりほかなかった。研究所の仕事のひとつ? 本屋のバイトが研究所の仕事の一つであるという理由がわからない。どうしてあんな場所でバイトをすることが、研究所の仕事になるのだろう。
そう考えて、研究所の仕事はクライドを捕獲することだったということに思いあたる。そうだ、製薬会社と研究所は別物だ。セルジは研究所で働いていると言ったのであり、製薬会社で働いているといったのではない。
「って、何だよそれ。出会ったときから俺をはめてたってことか」
「はめてたわけじゃなくて」
「じゃあ何なんだよ!」
思わず怒鳴りつけると、セルジは少し困ったように笑う。その笑みですら人を見下しているようにみえて、クライドは神経を逆撫でされたような気分になる。険しい表情でセルジを見るが彼は意に介した風もなく、何か考え事をするように斜め上を見上げていた。
「話すと長くなっちゃうな。あ、ついておいで。社員食堂があるから、今日のお昼はそこで済まそう」
「戻る」
「まあまあ、そう言わずに」
本当はなれ合うつもりなどなかったが、腕を引っ張られたので仕方なく着いていくことにした。エレベーターに向かって数歩だけ歩いたところでセルジの手を振り払い、クライドは深々とため息をつきながら彼の後に続く。
社員食堂は、クライドが最初につれてこられた十階にあるようだ。セルジはエレベーターに乗って、十階へ向かうボタンを押した。
最初に出会ったときは好感の持てる人だったが、セルジはもうクライドの中で信用できない人間になっている。彼もレンティーノ同様、裏切り者なのだ。二人は確かにいい人だったと思う。けれど、それは演技だったのだ。クライドは、二人の演じた『いい人』に騙されていたのだ。そう思うと、腹立たしくて仕方ない。無意識に、クライドはセルジから少し距離をとっていた。
エレベーターという狭い閉鎖空間の中で、裏切り者と二人きり。クライドは居心地の悪さを感じながら、壁に凭れる。
「僕には兄がいた。兄は成績も優秀で、容姿も抜群に良かった。それに何より、親から目一杯愛されていた。兄は僕にないものを、全部持っていたと思う」
いきなり何の話をしだすのだろう、この男は。クライドはそう思いながら、することもないので無言でセルジの話すことを聞いていた。彼はクライドが聞いているのかいないのか、確認もせずに続ける。
「目立たなくていつも普通だった僕は、親から過度の義務を背負わされてね。兄のようになりなさい、兄を見習って生きなさい…… そんなことしか言われなくて。終いには、大学教授以外の進路は許さないとまで言われた。兄は僕のことなんて弟だと思っていなかったから、両親に責められて反論も出来ずにいる僕を笑っていたんだ」
エレベーターが止まる。セルジはクライドを肩越しに振り返り、外に出るよう言った。クライドは彼をちらりと見て、無駄に反抗的な態度をとりつつエレベーターを降りる。
社員食堂へは、エレベーターを降りたすぐ近くにある、前に見た十階見取図にはなかった通路を通っていった。エレベーター正面、右よりの壁(に見えた場所)には、例の白い実体のない壁があった。カードキーを使わなくても通行できるようになっていて、セルジはまるで壁なんて見えていないかのように白い壁に突っ込んでいく。慌てて、クライドも彼の後を追った。何度通っても、この実体のない壁には完全に慣れきることができない。
「うちは言い方は露骨だけど、金持ちでね。毎日たくさんの習い事をさせられた。忙しくて、学校と習い事以外の場所になんて行く暇がなかった」
「ふぅん……」
小さく反応を返すと、セルジはそれだけのことで少し嬉しそうにした。クライドは少し気まずくなって、セルジとの距離をまた少し開ける。嬉しそうにされても困るのだ。
「でもね、定期的に美容室には行かせてもらえた。その時出会った美容師さんは、すごく話が面白い人で。僕は窮屈な暮らしの中に、ちょっとだけオアシスを見つけられた気になった。それからどんどん、美容師への憧れが強くなっていって」
「それで、美容師になりたいって思ったんだ」
「そうなんだよ。でもその美容師さん、しばらくするとメイクアップアーティストに転向して…… テレビにも出るようになって、遠い世界の人になってしまった」
聞くつもりはあまりなかったのに、結局普通に聞いてしまっていた。クライドは自分自身に舌打ちしたい思いでいたが、それは結局自分を裏切ったセルジに対しての八つ当たりに直結する行為だと悟り、ため息をつく。子供のような自分が、また少し腹立たしくなる。どうすれば正しいのか、正しい接し方はあるのか、クライドには解らない。
「僕はずっと、その人を追いかけ続けている。そのためにここに入ったから、研究に大した思い入れはなかったんだよ。これナイショね」
にっと子供っぽく笑って、セルジは片目をつぶる。クライドはその発言を意外に思い、セルジの研究所とはあまりに無縁そうな半生について考えを巡らせる。
そうしているうちに社員食堂に到着した。食堂には十数人の社員がいて、それぞれ仲よさげに談笑している。思いのほか生活感のある空間が存在していたので、クライドは少し驚いた。
「もう少しすると、もっと混むよ。早めにご飯食べちゃおう」
セルジは楽しそうに言いながら、近くの席に座った。そして、座らないクライドを見て首をかしげる。
「どうしたの? 座って」
周りを見れば、研究員の何人かがこちらを見ていた。そして、何人かはセルジに会釈している。あまり居心地のよい空間とはいえなかったが、クライドは渋々セルジの隣に腰を落ち着けた。
「はい、メニュー。お薦めは煮込みハンバーグかな。数が少なくて早い者勝ちなんだ。ちょっと質素だけど、チャーハンもいける」
「え、俺も食べるの?」
差し出されたメニューを見てそう言ってみれば、セルジに何を言っているんだという顔をされた。
「基本、研究室の中には食べ物って置いてないよ。能動的に食事できる場所はここだけで、ここも夜十時に閉まるから」
とはいえミンイェンにごねてみれば何かしら用意はしてもらえるだろうと思う。クライドは少し考えて、ここまで来てしまったらセルジに世話してもらうほかないと結論付けた。どうせここの研究員は全員ミンイェンと通じているのだから、話は通る。そのうちグレンやアンソニーたちも来るかもしれないし、ノエルはレンティーノと共に早めに食事を済ませたかもしれない。
「何が良い?」
「何でも良い」
「じゃ、僕が選ぶ」
セルジはにこりと笑い、メニューを閉じてからカウンターへ向かった。彼の後ろ姿を見送りながら、クライドはテーブルにあった冷水に口をつけた。食堂の調理師と三言ほど喋ったのち、セルジは愛想良く彼に手を振ってこちらに歩いてきた。
「やったね、煮込みハンバーグ丁度ふたつで終りだったって」
言われて見てみれば、何人かの研究員が既にそれらしきものを食べていた。もしもこの研究所にクーラーがなかったら、煮込みハンバーグはここの人気メニューではないだろうとクライドは思った。
「で、セルジさん。美容師になりたい夢と、俺をはめたことってどう関係あるんだよ」
「あ。その因果関係はこれから話すよ」
「うん」
透明なグラスに手をかけて、クライドは冷水をまた一口飲む。氷を口に含んでみたが、意外に大きくて少しやり場に困った。暫く解けるのを待ってから、噛み砕く。
「とにかく家出して家族を捨てたかった。でも太い実家を手放すということは、習い事三昧でバイトもしたことがなかった僕にとっては資金の面でかなり苦難が待ち受けているということでもあった。稼げる仕事がなきゃいけなかった」
ポケットに手を入れて携帯を出しながら、セルジは言った。セルジの携帯はシンプルな四角いフォルムの携帯で、色は白と黒のツートンカラーだった。
「で、ミンイェンに直々に面接してもらって。馬鹿正直に、お金のためにここで研究をするって言った。そしたら受かってさ」
言いながら携帯を開き、セルジはメールを読み始める。何故メールを読んでいるのか解ったのかというと、セルジが小さく「マーティンは全く」などと呟いたりしたからだ。
「序盤はハビと一緒に、実験動物の管理とか試薬の管理をしていて…… だんだん、ミンイェンの目的に踏み込んでいって。さすがに初めての人体実験は堪えたけど、ミンイェンってその副産物のことを『芸術品』って言うでしょ。僕だって芸術畑の人間なんだから、センスの違いだねって思ったら段々平気になってきて」
「なるのかよ」
「僕もある意味、人間に絶望して冷めていたから。ケージに押し込められて給餌されて、僕らの都合で実験されて殺されていくウサギやモルモットと過去の僕は何も違わなかった。人間らしい感情を育てられていない分際で、人間ぶろうとしているのおかしいよなって思わない?」
「……や、思わないかな」
セルジはくすりと小さく笑い声を漏らした。
「まあ、僕はそう思ったんだ」
「俺はそう思わないけど、そう思う人がいるってことは分かった。なんかこう、……ミンイェンもそういうタイプなのかな」
「その通り。ミンイェンは目的のために倫理とか人間性を真っ先に捨てた子だ。もともと本当にウサギやモルモットのようにここに連れてこられた実験台で。僕らは共通点が多いんじゃないかと思った」
セルジは携帯を仕舞って、クライドを見下ろす。
「それにね。あの子はリィのためならどんな残虐な実験もするけれど…… 根っこの部分はずっと、リィと別れた10歳の頃のままなんだ。恐ろしいぐらいに頭が回るし、冷酷な判断も迷わず下せる。合理的に感情を殺せる。それでも、リィのことが大好きで一生懸命な可愛い弟の部分が残っている。それはきっと、ミンイェンの傍にいる人たちはみんな感じ取っているよ」
クライドは黙ってセルジの表情を見る。年の離れた弟を見守るように、穏やかな表情でセルジは続けた。
「僕をケージに押し込めて給餌して、自分の都合で扱った人たちは捨てた。代わりに、自由になってから出会った人たちが僕の家族だ。ミンイェンはリィにとっても、僕にとっても可愛い弟だよ」
「それで?」
「だから君をはめていた、というのは違うんだ。僕は弟の夢を叶えたかっただけ。弟が僕の夢を叶えて自由を与えてくれたのに報いるために。……君に対して、僕は驚くほど何とも思っていなかった。悪意も憐憫もない。関心がなくて」
「それで結局、俺たちをはめることになってるんじゃないか」
ばっさりと切り捨ててやれば、セルジは苦笑して肩をすくめた。
「君からすればそうだろうね。でも、君を苦しめたくてこんな目に遭わせたわけじゃないとは伝えたいかな。目的は君の持っている力で、君の命ではない。尊厳を傷つける気もない。報酬もちゃんと出すって、ミンイェンは言っていたけど」
「どうでもいいから、早く帰せ」
こんな所に長居は無用だ。帰ってサラたちに無事を知らせることが最優先だ。
ここにいれば出会えそうだと思っていたハビのことはこれまで意図して考えないようにしていたが、こうなってみるとハビもクライドを最初からずっと利用していたと結論付けざるを得ない。マーティンと既知でレンティーノは常連客で、研究所の以降で本屋でバイトしていたセルジとも面識がありながらこの件と無関係なはずがない。
今彼と会ったら、セルジやレンティーノにそうしたようにクライドはまた敵対心を露にしてしまいそうだ。目的を達するのは、今は無理だ。何だか厄介なことに首を突っ込んでしまった今、一時退却よりほかに打開策はないように思う。
「実験に協力してくれる気はある?」
「しなきゃ危害を加えるつもりだろ? だったらとっとと協力して、とっとと帰る以外にどうするんだよ」
なるべく普通に対応するはずだったのに、明らかな苛立ちを含む声になってしまってクライドはセルジから目をそらした。また子供のようなことをやってしまった。それを少し後悔しつつ再びセルジのほうを向いたときには、彼は既に実験の話をすっぱりと切り捨てていたようだった。
「あ。出来上がったみたいだよ、煮込みハンバーグ」
茶髪に碧眼のウェイターがやってきて、クライドとセルジの前に皿と食器を置いた。美味しそうな匂いが漂ってくる。この消毒液の匂いしかしない研究所でこんな匂いを感じることも出来るのかと、クライドは妙に感心した。
「お待たせしました。午後もお仕事、頑張って下さいね」
ウェイターはセルジに丁寧に頭を下げ、クライドに会釈して厨房に戻っていった。ごゆっくりどうぞなどと言わないところが、いかにもこの研究所らしい。
空腹感がいつのまにか押し寄せてきていた。クライドは用意されたナイフとフォークを手にとる。早く帰りたいが、二週間はここに足止めされると明言された。ここで焦って食事を終わらせても、セルジを振り切っても、事態は前に進まない。
「さて。たくさん話したらお腹空いちゃったな。食べようか」
セルジは微笑し、ハンバーグにナイフを入れる。クライドも黙って彼に倣い、食べ始めることにする。
空きっ腹にジューシーなハンバーグはよく沁みた。肉はふっくらと柔らかで、ソースには深いコクがある。小盛のライスもついていたので、クライドはその炊き立ての白米を味わって食べた。
食事しながら、辺りを色々と観察してみることにした。ここにいる研究員の殆ど、というか見たところ全員が男性で、人種は様々だった。黒人もいれば白人もいるし、黄色人種や混血らしき人もいる。彼らは皆、白衣を脱いだ姿で食事をとっていた。
食事を終える頃には、彼らのスタンスをおおよそ理解して少し溜飲が下がっていた。とはいえシェリーを誘拐し、サラに怖い思いをさせたことを『はいそうですか』と赦す気はない。彼らとどのような距離感で接すればいいのかわからないまま、クライドは一応食事の礼を言ってセルジと一緒に食堂を出た。支払いは彼がしたのだ。
「君はどこに行くの?」
「屋上」
「そっか。風は涼しいんだけど、屋上は日差しが強いよ。日射病にならないように気をつけてね」
そんなやりとりを終えると、エレベーターは止まった。クライドはセルジに軽く手をふり、階段に続く扉を開ける。背後で「髪切りたい時はいつでも言ってね」という声がしたが、振り向いたときには既に彼は真っ白い廊下を曲がってどこかの部屋に入っていくところだった。
前を向き直れば、真っ白な階段が目の前に続いている。真夏の日差しに照らされた、まばゆい白が目に痛い。クライドはその一段目に足をかけ、後ろ手にドアを閉めた。