第二十八話 対面
三人分の足音がやけに大きく聞こえたが、もともとこの部屋の中は廊下と違って無音ではなかった。パソコンやクーラーの駆動音や、プリンタが紙を吐き出す音などが断続的に続いている。しんとした無音の空間よりも、こうやって少しでも何らかの音があるほうがクライドとしては無駄に気を張らずに済んで良かった。
「きっと見たら納得できると思うんだよね、リィの美しさ。僕の芸術」
触手だらけの死体や恨めしげな死体の顔を思い出し、クライドは微かに身震いした。視界に水槽を入れないようにしているが、明らかに中にはひとつひとつ異形の骸が揺らめいている。
本当に、何がここまでこの少年を歪ませてしまったのだろうとクライドは思う。ミンイェンの兄への執着ぶりは、病的だとさえ言える。
「ほら、リィ。クライドとノエルだよ」
気付いてみれば、クライドは既に水槽群の前にいた。近くでみると、それぞれの水槽に奇怪で薄気味悪い姿になり果てた生物が浸けられている様子がはっきりと解る。中でも、熱帯のカエルのような鮮やかな色をした生物(正しくは「元」生物)が特に目を引いた。赤と緑の迷彩柄に似たまだら模様に皮膚を冒されているのはコウモリらしく、恨めしそうに口を開けてこちらを向いている。
気味の悪い死骸は、まだたくさんある。もとはどんな生物であったのか、判別すらつかないものの方が多かった。クライドの目線と同じくらいの高さに積まれた水槽には、ところどころに猟犬らしき面影の残る死骸が入っている。これは、最も原型をとどめている死骸のうちのひとつだった。
しばらく当初の目的を忘れ、クライドは液浸標本に見入っていた。しかしミンイェンに腕を引かれ、これから見るものが人間の死体であることを思い出す。ぞくっと背筋を悪寒が走った。
「リィはこっちだよ、クライド?」
不思議そうに言われたが、なかなか彼の方を向くことができずにクライドは黙りこんだ。
どうすべきだろう。ミンイェンがどれだけ美化して言おうとリィは既に死体だ。ミンイェンは全く疑問にも思わずに兄の死体と毎日一緒にいるのだろうが、普通に考えればそもそも家族の死体を薬液に浸けて保存している時点で十分狂っていると思う。
「もうすぐ一緒に暮らせるよ、待っててねリィ」
希望に満ちた明るい声。時々聞こえる微かな笑い声。顔を見れば満面の笑みを浮かべているに違いない。ミンイェンは、とても幸せそうだった。
よほど兄が好きなのだろう。だからミンイェンは、兄が死体になってしまってもそばに置きたいと望んだのだ。もしも蘇生が失敗しても、ミンイェンは永遠に兄の死体と一緒に暮らしていくと思う。そしてミンイェンは、何度でも兄を生き返らせようとするに違いない。
と、ノエルが小さく声を漏らすのが聞こえた。痛ましい反応だった。先にリィの姿を視界に入れたのだと気づくが、ノエルですらこの反応なのだ。見たら大きな衝撃を受けることは必至だ。しかしここで踏みとどまったら、未来の自分が困る。クライドは意を決し、水槽に目を向けた。
息をのみ、ただ目を見開いて凝視する。水槽に浸けられた、透き通るような青白い肌をした少年の死体を。
東洋系の、優しそうな顔をした少年だった。ミンイェンにはほとんど似ていない印象を受けたし、リィの髪はミンイェンのそれと違って真っ直ぐだった。他の死体は全裸で傷も縫合の形跡も曝け出されているのに、リィの遺体にはちゃんと服が着せられていた。白いシャツと黒のズボンという、まるでどこかの学生のような格好である。
水槽に浸かった少年は、かなり不気味だった。あまりの気持ち悪さに、足元が少しふらついた。けれどクライドには、何だか死体に対する耐性ができてしまったようなのだ。死体を見たから気持ち悪かったのではなく、それがリィだったから不気味だった。
リィの遺体は他の死体と違って、改造されたり分解されたりしていなかった。だからクライドは、即座に吐かずに済んだ。死体自体は綺麗で、顔色は悪いけれど確かにミンイェンの言うとおり眠っているようだった。
けれど、もしも周りに他の標本が何も置かれていなかったなら、状況は違っていただろう。クライドは多分、リィを見てその場に蹲るぐらいのことをしたと思う。そして、ミンイェンの存在がなければもっと状況は違っていた。もしもミンイェンがリィの弟ではなかったら、それほどショックも大きくなかったと思う。
「兄貴、なんだろ」
声を絞り出す。
兄が、弟より幼い。それが酷く奇妙で、不気味だった。だからリィを見て、クライドは強い衝撃を受けたのだと思う。
ミンイェンは十九歳には見えない童顔だが、リィはそのミンイェンより明らかに年下に見えた。小柄とはいえ一応ちゃんと男性に見える身長や体型のミンイェンに対し、リィの体つきは明らかに子供のようだった。いや、実際に子供なのだ。きっと虐待の影響で満足に食べていなかったのだろうと推測されるリィは、十五歳にしては小柄だった。それで余計に、不気味さが増す体格差が生まれている。
「レンティーノのお父さん、ミンはね。蘇生したあと年を取らなかった。ちょっと不具合があったみたい」
唐突に何を言い出すのかと思えば、ミンイェンはリィに全く関係なくレンティーノ関連の話をし始めた。リィから目を離し、クライドはミンイェンを見た。ミンイェンはリィの傍では、あの『合理的モード』を手放して年相応に楽しそうな笑みを浮かべていた。
「二十歳になるかどうかの見た目で、ミンには自分と瓜二つの十歳の子供がいた。僕は最初とても驚いたけれど、見ていたら慣れたよ。リィと僕をみて、クライドはきっとそういう類の違和感を覚えたんだよね」
ミンイェンは自嘲気味に笑うと、リィの水槽に手をついた。そうして近づくと二人の身長差は余計に目立ったし、その奇怪さも増していく一方だった。
「リィ、早く一緒に月を見ようね。この部屋は君の好きなもので埋め尽くしてあげる」
クライドに話しかけるトーンよりもやや高めの、甘えるような声でミンイェンは囁く。水槽に頬もつけて、ミンイェンは薄く微笑みを浮かべた。しかし、ミンイェンが甘えるように縋りついている相手はどう見ても子供で、それがかなり奇妙でクライドは思わずミンイェンから目をそらす。
これからクライドは、やってはいけないことをやろうとしている。そんな気がする。
「……クライド、顔色が悪いよ。大丈夫かい」
ノエルの平静な声に軽く手を挙げて応え、クライドはリィの水槽をじっと見る。ノエルはそんなクライドを心配そうに見て、ベッドを指し示して座るよう気遣ってくれた。クライドは頷いてそこに腰掛けて、ふらつきはじめた視界の中に再びミンイェンとリィの姿を捉えようと努力する。普通に物を見ていてもピントが合ったり合わなかったりして、視界がひどく揺れた。あまりに乱れた視界のせいで、だんだん気分が悪くなってきた。
「ミンイェン、部屋に帰って休みたい」
「うん、わかった。ばいばいリィ、後でまたくるね」
ミンイェンはすっと立ち上がり、水槽の中で目を閉じているリィに軽く手を振った。無論リィが反応するわけでもないのだが、ミンイェンは一方的に嬉しそうな顔をしている。見ていて痛々しくなってきた。
「あ、部屋割りはあれでいい? 一人の部屋が欲しいなら、空けてあげるけど。特にノエルはあんまり他人と寝たくないタイプだよね」
提案されたものの、クライドにとっては考えるまでもないことだ、部屋はそのままでいい。あんな、奇妙なほど白い部屋に一人で閉じ込められるなんて、二度とごめんだ。
「このままでいい。もう僕らを分断しようとしないで」
クライドが答えるよりも先に、ノエルが答えていた。同意を求めるようにこちらを見るノエルに深く頷いてやれば、ミンイェンは了承したようでそれ以上部屋割りの話を持ち出すことはなかった。
三人で揃って部屋を出て、グレンとアンソニーがいる場所を目指す。道中で、ここは研究所の最上階で、クライドたちの部屋の隣にはマーティンがいるとミンイェンに聞かされた。きっと見張りだ。
白い長い廊下を歩き、クライドは元の部屋に戻ってきた。部屋に入ると、すぐにグレンの服に目が行った。真っ白い部屋の中に、唯一目についた濃い色がグレンのTシャツだったのだ。
「おかえり、クライド。ノエル。二人ともひでえ顔だ」
「僕なりに少し考える時間がほしい。報告は後でもいいかい」
「そりゃ構わないが…… 怪我はないな。変なクスリ飲まされてないか?」
「その辺は大丈夫だ、グレン。本当に、『リィ』を見に行っただけ」
軽く会話をしていれば、ミンイェンはむすっとして両手を腰に当てて割り込んでくる。
「会いに行ったって言ってよ!」
「あー。うん。会いにね」
会話をしながら、クライドは耐えきれずにベッドに横たわった。疲労感と眩暈は治まる気配すらないが、ベッドにつけた背中から重力に従って、それらが少しずつ抜けていっているような錯覚におちいる。
「おい、クライド?」
「精神的なものだろうと思う。……あれはたぶん、実際に目にしないと異様さがうまく伝わらないよ」
「……そうか」
二人の会話がそれからどうなったのかはわからない。疲労感でだんだん意識も曖昧になってきた。考えてみれば、もう夜だ。時差が半日ほどもあるおかげでこの国では現在朝の十時なのだが、クライドの携帯の時計は午後十時をさしている。クライドは眩暈がつらくなり、目を閉じて意識を手放していた。
手放したとはいえ慣れない空間での睡眠は浅く、時折誰かの声を聞き取って意識は浮上した。すぐに微睡んでしまって断続的な眠りが続いたが、やがて聴覚ははっきりと仲間の声を拾った。
「……なのか?」
「へえー、僕も見る!」
ああ、アンソニーが起きている。そう思いながらクライドはゆっくりと眠りから醒めた。先ほどまでぼんやりと夢を見ていた記憶があるが、それがどんなものなのかは起きた瞬間に声に気をとられてしまったせいで忘れた。
「おはよっ」
アンソニーの声だ。ゆっくりと体を起こして長座の姿勢でベッドに座ると、アンソニーが楽しそうに笑いながらクライドに一冊の雑誌を見せてきた。
「これ! ミンイェンだって」
「そうだよ! すごいでしょ、僕の特集三ページも取ってあるんだ」
いつのまに打ち解けたのか、妙に仲が良さそうな態度でアンソニーとミンイェンが笑い合っている。クライドが唖然としていると、グレンが眉間にしわを寄せてやれやれとため息をついた。
窓のないこの部屋では、外の様子から時刻を察することができない。自分が何時間寝ていたのかは解らないが、最悪だった体調は大分回復していた。まずはベッドから降りよう。
ベッドから降りると、アンソニーが嬉々として雑誌を開いてクライドに見せた。どれどれと覗き込んで見ると、確かにそれはミンイェンの記事だった。
スタイリッシュなページだ。ミンイェンの写真もプロの写真家がとったようで、ミンイェンは写真で見るならちゃんと年相応の青年に見えた。目立つように書かれた『ヘイ=ミンイェン“大人じゃない、大人”――十八歳若社長の、奔放的ライフスタイル』という見出しがすぐに目に入る。プロの雑誌編集者の手にかかれば、ミンイェンの屁理屈も立派な格言に変わるらしい。
「不用意な奴だな。こういうので目立って裏の仕事ばれたらどうしようとか、考えたことなかったのかよ」
呆れるグレンに、ミンイェンは唇を尖らせて反論する。
「大丈夫だもん、口止め役ならいっぱいいるし!」
「そういう問題かよ」
思わずクライドがそう突っ込めば、ミンイェンはにこりと笑って雑誌を指差した。
「このあと経済紙の取材も来て、新しい契約に繋がった。正直たぶんレンティーノのほうが経営のセンスはあると思ってるけど、僕のやりかたでファージエは世界に通用する会社になったんだ!」
「ふうん。ラジェルナじゃ大した知名度ないけどな」
「それはアンシェントが田舎だからでしょ!? ノエルは知ってるもん!」
「賢者のノエル様と一般市民を一緒にすんなよ」
口論を始めるグレンとミンイェンから目を外し、部屋に視線を彷徨わせる。そういえばノエルの姿をまだ見ていない。一通り部屋を見てもグレンとアンソニーとミンイェン以外に人は見えないので、ノエルは恐らくこの部屋を出ているのだとクライドは思う。
「ノエルは?」
「レンティーノのところにいるよ! 読書会だって」
その答えに、クライドは少し驚いた。あんなに警戒心たっぷりに過ごしていたノエルが、クライドが眠っていた短期間のうちにレンティーノと打ち解けてしまったのだろうか。やはり、ノエルには順応力がある。二週間ここで過ごさなくてはならないことを考えて、ここで彼らと対立しても仕方ないとノエルは思ったのかもしれない。
「……でもさ、本って普通一人で読むものだよな」
「確かに!」
グレンの発言に軽く笑って応じるミンイェンを見て、あ、と思う。
あの研究室でノエルは口数が少なく、何かを考え続けているようだった。クライドが衝撃を受けて飲み込めなかったあの状況を、彼は咀嚼して理解しようとしているのだろう。だから、一度目の蘇生の関係者であるレンティーノと話しに行ったのだ。
そう思うとクライドも、少しだけ一人で考える時間が欲しい気がした。換気はされているし清潔な部屋なのだが、窓も無い部屋にずっといると息が詰まりそうだ。脱出を計画するなら、このフロアのことももっと見ておきたい。
ミンイェンはクライドを見て、きょとんと首をかしげる。
「クライド、ノエルに会いたいの? なら、二人は多分中庭か資料室にいるよ。屋上かも」
「そっか。屋上あるんだ」
「行ってみたい?」
クライドは間髪を入れずに頷いた。確か、エレベーターのパネルには屋上へ続くボタンがあったはずだ。屋上がないなら中庭にでも行こうか。とにかく、この閉鎖空間から早く出たかった。このままここにいたら、白い空間と同化して、終いには自分が跡形もなくなくなってしまいそうで怖いのだ。
「勿論だよ! あ、キー渡しておくからいつでも帰ってきてね」
ミンイェンは楽しそうに笑い、アンソニーに二冊目の雑誌を渡してからこちらに歩み寄ってきた。彼はポケットに手を突っ込んで、何枚かのカードを取り出した。そして、その中から一枚選んでクライドに寄こす。
「それじゃ、行くな」
カードキーを受け取って、歩き出すと後ろからミンイェンに呼び止められた。何かと思って振り返ると、ミンイェンは得意げに話し出す。
「屋上にはね、太陽光発電パネルがあるんだよ。研究資料の紙は全部再生紙だし、僕の研究所は環境にも優しいんだ!」
そうなのか。感心するが、まだまだミンイェンが続けようとしていたので、適当に相槌をうって背を向けた。そしてポケットの携帯の所在を確かめてから、クライドは部屋を出る。