第二十六話 哀しきメモワール
ミンイェンは注射器を片手に持ったまま、過去に自分の身に起こった出来事と、それによって失ったもののことを語った。
大事なもののために、大好きな人のために頑張ってるんだよ。なんて殊勝なことを抜かすミンイェンだが、その実体はクライドにしてみればとんでもないものだった。
話はミンイェンの十歳だった頃に遡る。異父兄弟の『リィ』という兄と一緒に暮らしていたという彼は、酒浸りの父親からひどい虐待を受けていたらしい。
酒代を稼ぐために昼夜問わず働いていた母はあまり家におらず、幼いミンイェンとその五歳年上の兄はたった二人で父の暴力に耐えていた。先ほどノエルがエレベーターで言っていた『特進システム』に該当している頭脳派だった幼い兄弟は、すでに将来を約束されて企業に囲われる予定だった。貧しい家を離れ、虐待から逃れ、何もかもがもうすぐよくなるはずだった。
けれど、事件は起きる。その日、兄弟は父親の酒を買うために酒屋に行った。
「酒屋の店主は僕とリィをいつも気にかけてくれていた。怪我の手当てもしてくれて、虐待からの保護を行政に掛け合ったりしてくれて、すごくいい人だった。いい人ってね、たいてい不幸になるんだ」
ミンイェンはそう言う。目元が隠れた彼の感情が、どの方向に振れているのか口許だけでは読み取れない。明るく子供っぽく振舞っていたのは、もしかすると計算だったのだろうか。そんな風に思えてしまうぐらい、先ほどまで分かりやすいと思っていたミンイェンの感情が読めなくなる。
「不幸に?」
そう言って続きを促すと、ミンイェンは口角を上げた。
「そう。死ぬ」
からりと放たれた言葉に、懐疑的な目を向けていたグレンも神妙に聞いていたノエルも押し黙る。ミンイェンは気にせず続けた。
下校時刻をすぎてもなかなか帰ってこないミンイェンたちに痺れを切らし、泥酔した父親が酒屋に乗り込んできた。そして、ミンイェンを殴ろうとした父親を止めた店主は、逆恨みされて刺し殺された。ミンイェンは大体そんなことを言った。淡々と、事実のみが述べられた。
「蘇生措置の意味がないことぐらい、十歳の僕にも分かった。泣いても喚いても、思考を停止しても何の解決にもならない。僕は賢いから、特進システムの最年少適用者だから、店主の死をすぐに理解した。そして冷静に父親を観察して、逃走の機会を伺った」
平板な声。語られる感情の抜け落ちた行動。あれほど感情的に振舞っていたミンイェンは、急に俯瞰したように突き放した視点から自分の過去を淡々と言葉にするようになった。思わぬことだったが、その様子から目が離せなくなる。クライドは既に、彼の話を真剣に聞き始めていた。
隣でグレンが相変わらず懐疑的な目をしているが、この少年がどういう経緯でこんな風になってしまったのかを知りたい気持ちが、クライドの中で徐々に強くなっていた。
「脱出を目前にして父親がリィに掴みかかった。リィは何とか応戦して、二人が取っ組み合った」
「うん」
「もみ合いながら父親は、床にアルコールを撒いて火をつけた。おそらくリィに火をつけようとしたんだろうと思うけど、泥酔しきっていたから父親に明確な意図なんかなかったのかもしれない。うまくかわしたリィは、少し離れたところからそれを見ていた。火だるまになった父親が出口の傍で暴れていて、火の手は一気に僕らを取り囲んでいた」
「……それで?」
「リィは酔ったあいつを押しのけて、酒屋を脱出する決断をした。僕はそれに続いた」
そこで口ごもり、ちらりとクライドを見上げるミンイェン。もさもさした癖毛の前髪の間から、少しだけ彼の目が見えた。茶色というよりは黒に近い、濃い色をしている。暗いその目がクライドをじっと捉える。
「酒屋から出てこられたのは僕だけだった。リィはあいつを突破できずに、僕を庇ってナイフで刺された」
ノエルが少し俯くのが視界の端に映る。グレンは黙ったまま、微動だにせずミンイェンを見ているようだ。
「リィを助けるために僕は店の入り口に戻った。血まみれのリィを助けようとしたら、あいつは僕に酒瓶を投げつけてきて……」
淡々と紡がれる言葉が止まる。にこり、と感情の読めない口角が上がる。ぞっとするような笑みだった。
「あんまりにも邪魔だったから刺しちゃった」
確かに彼はそういった。聞き違いだと思いたかった。
「刺した?」
思わず聞き返すと、彼はこくりと頷いた。
「割れた酒瓶で。でもまだ暴れていたから、ナイフでとどめを入れたんだ。きっちり息の根を止めてやった」
特に感情の乗らない声で、ミンイェンはそう言った。束の間、沈黙が降りる。
どう反応していいかわからなかった。もしかすると、こんな話は嘘なのかもしれない。考えあぐねていると、グレンが静かな声で沈黙を切り裂いた。
「お前、殺人だぞそれ」
「正当防衛だ! だいたい、毎日殺されかけていたのは僕たちの方じゃないか」
真剣に怒りを込めたその声に、ぴくりとノエルが反応する。急に感情を取り戻したようなミンイェンの声を最後に、また沈黙が降りる。クライドは水を打ったようにしんとした空間に、居心地の悪さを感じた。グレンは相変わらず無言でミンイェンを見ていたが、その視線はやはり友好的とはお世辞にもいえないものだった。
ミンイェンは表情を消し、それから少し迷うような様子を見せてから困ったように呟く。
「ごめん…… 聞いてほしいのはあの男のことでも、リィの悲しい最期のことでもない。理解の前提として必要だから話しているけれど」
「とりあえず、続き話して」
取り乱したことを謝るミンイェンに、話の続きを促す。ミンイェンは小さく頷いて、再び話し出した。
「僕はリィを背負って、火事が起きている店から逃げたんだ。酒屋を出るときにはすでに冷たくなりはじめていたってことに、気づかないふりをして」
「うん」
「それから研究員に殴られて、気づいたらここにいた」
親身に聞いてやれば、ミンイェンはまたもや重大な問題発言をする。研究員に殴られただって?
「……え?」
「最初は僕、実験台としてここにさらわれて来たんだ」
ならばどうして、今は研究所の人物を総動員してクライドを追いかけたりできるのだろう。クライドの見立てでは、ミンイェンは確実にこの研究所の最高権力者だ。もしかして違うのだろうか?
だとしたら、真の最高権力者は一体誰なのだろう。一つ解っていることがあるとするなら、その人物はミンイェンよりあらゆる意味で強いだろうということだけだ。
これ以上面倒なことは増やしたくないが、そうなりつつある状況だ。できれば最高権力者はミンイェンがいい。彼なら説得すればシェリーを返してくれるかもしれないが、彼以上に強力な敵が現れたらもう太刀打ちできない。
「実験台が指導者なのか?」
グレンが怪訝そうにミンイェンを見た。ミンイェンはぎこちない笑みを浮かべ、小さな声で『実験台…』と呟く。
「そのとおり。先代は色々あって亡くなって、僕は全部引き継いで最高権力者としてここにいる」
そう言い終えると少し言葉を選ぶ様子を見せてから、ミンイェンはさらに続ける。
「先代はリャンツァイの特進システムを利用して若くて優秀な科学者を集めていて、僕やリィも攫われなくてもいずれはここに行きつく運命だったんだ。僕たちをさらったのは、虐待の通告を受けて様子を見に来ていた先輩研究員だったってことみたい」
彼の言う色々な過去や誘拐の詳細については、あえて触れなかった。聞いてもどうせ、暗い過去しかでてこないのだ。
ミンイェンはクライドが何も訊ねなかったことを親切心からくるものなのだと思ったらしく、クライドに向かって笑みを浮かべた。
「結局僕の大切なリィは、息を引き取った。だけど僕、リィのために色々やった。実験台にもなった。先代がリィの蘇生のために努力してくれるって言ったから、僕はそれを信じて頑張っていたんだ。でも、先代は何にもしてくれなかった。挙句、僕やマーティンを洗脳しようとまでしたし、レンティーノは解剖されかけた」
相変わらず感情の読めない口許でミンイェンはそう言った。そして、うすく笑みを浮かべる。蘇生? 洗脳? 解剖? 不穏なワードを畳みかけられ混乱するクライドに向かって、ミンイェンはぞっとするほど無邪気な声で続けた。
「だから、開発中の洗脳装置を乗っ取った。それで研究員たちを洗脳して奪った。それが直接の原因で、先代は自殺したよ。僕に全部くれてやるって言質をもらった!」
乾いた笑い声を上げるミンイェンに、グレンが明らかに敵対心の宿った目を向けた。そんなグレンの視線を真っ直ぐに受け止めて、ミンイェンは口許に微笑を浮かべる。
「僕ね、生きているだけで色んな人を苦しめるんだ。大事な人は死んじゃうし、友達は傷だらけになる。それって意味があることかな。僕が存在を始めた意義ってなんだろう」
ミンイェンの声は、淡々とそう続けて一旦止まった。白いだけの部屋は、またしばらく無音になった。
誰も、何も言わない。出すべき声を探しあぐねているようだった。クライドだって、彼にかけるべき言葉が解らなくて途方に暮れていた。彼の感情が読めない。飛び跳ねて見せたのも拗ねて見せたのも、困惑した様子も、やはりこの感情の欠落した様子を前にするとすべて虚構だったように思える。
けれど彼の淡々とした問いは、間違いなく本音なのだとも思える。それに虐待への抵抗の果てに父親を殺したことも、殺害された兄を蘇生させるために頑張ったという彼の言い分も、嘘にしては突飛過ぎた。
「僕はその答えを見つけた。きっとリィのためだ。リィに今度こそ、平穏な人生を与えるためだ」
平板だった声はここで、ようやく本音の熱量を帯びたように思えた。なるほど、と思う。
彼の目的は、きっと本当にそれだけなのだ。亡き兄と、虐待を受けることなく二人で暮らす。それだけなのだ。
けれど、たった一つのその目的は達成できないとクライドは思う。死人を生き返らせるなんて、現代の科学では無理だ。そして、できるならミンイェンはそれをとっくにやっているだろう。
「だからね、僕はリィを蘇らせる」
……頭の中で否定していたことをいとも簡単に言われ、クライドは唖然とする。
蘇らせるなんて常識的に考えて無理だ。どうして彼は、兄を生き返らせることを断言できるのだろう。
ミンイェンは肩越しにこちらを振り返って、にっこりと笑った。そしてクライドの正面に立つ。彼が妙な行動をしないようにという意図だろうか、グレンが目を光らせていたがミンイェンは全く気にした様子もなくクライドに顔を向けていた。
「研究して、実験して、魔力を使えば蘇生が叶うことがわかったんだ。動物実験はもう成功していて、理論上きみたちの協力があれば人間も生き返る」
「ああ、それで俺たちの魔力を使いたいと?」
なんだ、そういうことか。やっと解った。けれど、こんなことのためにクライドをわざわざ追いかけているなんて、ミンイェンの思考はかなり単純だといえる。魔力を使いたいなら別にクライドのものでなくても良いはずだ。そう、ミンイェンの仲間にだって魔道士はいる。マーティンの魔力を使って、兄を蘇生させれば良いではないか。
「でも、何で俺たちなんだよ?」
「きみがエルフのハーフだから。ハーフの魔力が一番強いんだよ、知ってた? 他の人じゃ足りないんだ、クライドならきっと」
「それで俺が選ばれたんだ」
「そういうこと!」
だったら、さっさとその兄とやらを生き返らせて帰ってしまおう。しかし、生き返らせることなんて本当にできるのだろうか。
「これで兄貴が生き返る保障はあるのか?」
「保証はないよ。でも、正解に最も近い選択肢がクライドなんだ!」
ミンイェンは無邪気に笑顔を浮かべてみせた。年上だとは到底思えない、子供らしい笑みだった。過去に触れるときには欠落する感情が、クライドと対峙すると簡単にあふれ出す。きっとクライドが、ミンイェンにとって明るい未来をもたらす存在だからなのだろう。
大きくため息をついて、クライドは首を後ろに仰け反らす。殺風景すぎる、白一色の天井が見えた。どうしようか。
この少年は確かに不憫な生い立ちを抱えており、同情すべき点はある。クライドだけでなくグレンやアンソニー、ノエル、シェリーのことも調べ尽くしているのだし、こんな風にすべてを掌握されている状況でシェリーを強制的に奪還して帰ることなんてできないだろう。従うしかない消極的な状態に追い込まれていることは間違いない。
ただ、意思表示をどうすべきか。個人的には、兄の蘇生という明確なゴールが設定されたので言う通り協力することで交渉のテーブルにつく気はある。
もしも協力を拒んだら、クライドは虐待を受け孤独になった少年を無下にした冷たい人間ということになるのだろうか。逆に協力してしまったら、クライドは自然の摂理に背いた罪人になるのだろうか。死人を生き返らせるということは、してはいけないことのように思う。けれど、誰かの最愛の人を生き返らせるということは、人助けになるのではないか。それは正しいことのように思えるが、クライドは正義を見失いつつある。
そもそも『死人』自身は、生き返ることを本当に望んでいるのだろうか?
そう考えて、クライドはベッドに座ったまま目の前のミンイェンを見上げた。たとえ本当は生き返ることを望んでいなかったとしても、目の前のこんな弟を見たらリィはきっとこの世に舞い戻ったことを無駄ではないと感じるだろう。まあ、これはクライドの勝手な自己解釈なのだけれど。
「おいクライド、こいつの話に乗るのか?」
グレンが冷たい声で言った。彼は明らかに乗り気でない。むしろ、彼はミンイェンを相当憎んでいるようだった。
「わかんない、まだ考えてる。こいつが嘘言って、魔力を悪用するってことも考えられるし。人間ひとり生き返らせるって言ったって、俺には無理だと思うし……」
迷う理由ならまだある。やはり騙し討ちをしてきたミンイェンを根底から信じるわけにはいかないし、魔力が絡むのでこれは自分の命に関わる相談ごとなのだ。善意で引き受けてしまって、魔力を使い果たして死んでしまうのでは元も子もない。
そっと窺うようにミンイェンを見上げてみる。ミンイェンはクライドの視線に気づき、説得するためにか両肩をぎゅっと掴んできたのだが、グレンがさっと彼の手を払いのけた。ミンイェンは驚いたようにグレンへと顔を向け、むっとする。こうして年相応の感情を見せるときと、感情が全く読めなくなる時の差が激しくてうっすら怖い。
「嘘なんか言ってない! 信じてよ、僕はただリィを生き返らせたいだけなんだ! それ以外なんにも望んでいないんだ!」
そういって再びクライドのほうを向いて、ミンイェンはぽんと手を打った。
「そうだ! リィに会わせてあげる、ついてきてよ」
これは名案だと言わんばかりに、ミンイェンは自分で頷いている。あまりに子供っぽいその行動に、クライドはそこですかさず、手首にかけられた銀色の重たい金属をミンイェンに差し出した。
「これ外して」
そういうと、ミンイェンはあっと小さく呟いた。
「いいよ! 僕、もう君が脱走するとは思ってないから。ごめんね、囚人みたいな扱いで」
しょげるように謝り、俯いたミンイェン。あまりにあっさりと承諾され、クライドは拍子抜けしてしまった。その真意の見えない行動に、どう反応していいか解らなくなる。
「クライド、絶対僕に危害を加えないよね? 僕だけじゃなくて、僕の友達にも」
無言で頷く。するとミンイェンも軽く頷いて、ポケットから小さな銀色の鍵を取り出してクライドの手錠を外した。そして、グレンとノエルをちらりと一瞥する。
「君達もくる?」
その問いに、ノエルは少し考える様子を見せた。
「アンソニーがまだ寝ているんだ。どちらか残った方がいい」
「だな。俺がここに残る、非戦闘タイプが二人で密室に残るのは危ない」
「そうだね。魔力を封じられている今、僕ではアンソニーを守れるか怪しい」
「ノエルは俺より色んな事に気づくだろう。偵察頼んだぞ」
ふたりの言葉にはあからさまに棘が含まれていた。ノエルの言動にもグレンの言動にも、ミンイェンやこの研究所を明らかに危険視する色が見えた。
確かに安全だとは言えない。むしろ、今まで散々研究員たちに追い詰められたことを考えると、メンバーを分断するなんて危険だ。
けれど、今のところ彼の目的ははっきりしている。やり方は姑息だが、彼の訴えは極めて単純なのだ。彼の言葉を聞いていると、無視してしまう気にもなれなくなってくる。
「話はまとまった? それじゃあ、行くよ」
ミンイェンは、ノエルとグレンの手錠を外さないつもりらしい。多分、グレンに関しては手錠を外した瞬間に殴りかかってくると思って怯えているのだろう。実際、グレンはそういう事を平然とやる。
「クライド。いくらお人よしだからって、絶対油断すんなよ。こいつらには既に騙されているんだ」
わざとミンイェンに聞こえる声で言いながら、グレンはベッドから腰を上げた。見送りに来てくれるようだ。
ノエルはさりげなくミンイェンとクライドの間に陣取って、冷めた目でミンイェンを一瞥する。
「……もう。ちょっとくらい、信じてくれてもいいのになぁ」
ため息をつく小柄な十九歳に連れられ、クライドはノエルと共に白い部屋から外に出た。