第二十二話 捜索
クライドはエレベーターに乗り込み、仲間と共に下層を目指した。このビルには地下五階まであり、屋上もあるようだった。一階行きのボタンを押したのはグレンで、ドアを開閉するボタンを押したのはアンソニーだった。
「ボタン押すの、好きなんだ」
照れたようにアンソニーが笑うので、クライドもつられて笑った。こんな風に余裕を持てるようになったアンソニーは、真っ白い密室で暴れていた彼とはまるで別人のようだ。彼が元気を取り戻してくれて、本当によかった。
「これは、何だろう」
ノエルの呟きが聞こえたので、クライドは彼のほうを振り返った。彼が指差しているのは、クライドも一応視界の隅で確認はしたが、特に気にも留めていなかった張り紙だ。よく見ると、それは手書きらしかった。
書いてあったのはディアダ語ではない。エルフの能力で読めてしまうから気に留めていなかったが、エルフの力を使わないことを意識して眺めてみれば表記の仕方がもはや記号の羅列で何一つ読み取れなかった。
「ノエル、これってどこの言葉?」
「これはリャンツァイだね」
ノエルがそう教えてくれた。すると、グレンがへえと感心した声を上げた。
「リャンツァイって、あの東の発展途上国?」
彼が尋ねれば、ノエルは首を捻って少し笑う。
「発展途上とは言いがたいかな。農村部や漁村は確かに発展途上と呼べるけれど、首都はそれなりに発展しているよ。情報技術もだんだん先進国に遅れをとらないようになってきているし、工業の技術もここ数年で爆発的に進んできているから。現に昨年度の機械類の輸出額は、東洋一だしね」
「良く知ってるな…… 社会科の先生みたいだ」
「情報を集めるのは、半ば僕の趣味でもあるんだよ。より多くのことを知って、より多くを理解したいっていう気持ちが常に僕の中にあるから」
感心しているグレンに、ノエルは笑顔で答えた。昔からノエルは本当に知識を集めることに関しては貪欲で、世界の全てを知ったとしてもきっと足りないに違いないとクライドは思っている。
「リャンツァイが成功したのは『特進システム』という教育方針が大きかったようだね。才能ある賢い子供をどんどん飛び級させて、企業で囲って金銭を支援して高学歴に育てるんだ」
「すっげえ。ラジェルナも真似すればいいのに」
「特進を使える家庭とそうでない家庭で貧富の差が絶望的に開いているというので、倫理的に問題視されている面も多々あるみたいだよ」
「すっごい! こういうのを知識欲っていうんだよね、ノエル!」
にっこりと笑いながら言うアンソニーに、グレンが意外そうな目を向けた。クライドとしてもアンソニーの口から知的な言葉が出るのは意外だったが、それを言ったら失礼なので声には出さずにおく。グレンは遠慮なく、意外さをあらわにするのだろうが。
「あ、何だお前。ちゃんとまともなこと言えるじゃん」
「何それ、ひどい! 僕をバカだと思ってるの?」
「ははは、わりいわりい。そんな真剣にキレんなって」
思ったとおり何の遠慮もなく、グレンはアンソニーをからかうような発言をした。二人のやりとりを見ていると緊迫しているはずの状況も少し気楽に構えられる。
一同が和やかな雰囲気になったところで、エレベーターが一階に着いた。一階は見たところ普通の会社のようで、エレベーターを降りた途端に拍子抜けしてしまった。
エントランスの受付には、若い男性と女性の二人がいる。二人とも白衣ではなくスーツを着て、にこやかに立っていた。ディアダ語とエフリッシュ語で『受付』と書かれた、白地に金文字のプレートが、二人の丁度間あたりにある。クライドは彼らを観察し、声をかけられたら面倒なので彼らと目を合わせないようにしながら、他の場所も観察した。
この研究所に来て初めて、外の景色が見える場所に来た。ガラスの自動ドアからみえる景色は都会のもので、外を車が忙しなく走っているのがよく見える。ドアの近くにスーツの男が一人いて、タバコを吸っているのも見つけた。
エントランスには観葉植物やスチール製のオブジェなどが飾られていて、ここだけは洗練されたスタイリッシュな空間になっている。白い無機質なだけの上層とは、まるで別の建物だ。エントランスには、ちゃんと窓もあった。四人で手分けして、何かの手がかりを捜すことにする。クライドは建物の出入り口付近でないところを捜した。
トイレや洗面台はすみずみまで掃除されていて、まるで誰も使っていないかのようだった。トイレの手前を横切って歩くと、廊下の突き当たりに出た。そこには事務室のような場所があり、そこではワイシャツの上にベストを着た男性が書類の処理に追われていた。
一見してこんな所にシェリーはいないだろうと解ったし、この辺りにシェリーがいた痕跡もないとすぐに解った。エレベーター前に戻ると、他の三人はもう調査を終えて戻ってきていたようだった。
「地下に降りてみるかい? ここにはシェリーはいないだろうから」
「そうしてみようか」
ノエルの提案に頷いたクライドは、再びエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まる寸前、エレベーターの前を携帯電話を持ったスーツ姿の男が通ったのが見えた。
「変なスーツを着た男の人に声かけられたよ。灰色なんだけど、漂白剤のせいで黒い色が抜けたみたいな色してた。その人にどこの班か訊かれたから、入ったばかりですって答えといた」
エレベーターの白い壁に凭れながら、アンソニーは言った。クライドはふと何かを疑問に思ったが、何を疑問に思ったのか忘れてしまったので黙る。すると、今度はノエルが口を開いた。
「僕もスーツの女性に声をかけられて、何処へ向かうか訊かれたよ。仲間を探しているって答えたら、彼女は立ち去った」
「俺、私服の女見たぞ? このフロアで、白衣の奴は見てない」
グレンもノエルも、白衣ではない人物に出会ったようだった。クライドは、疑問に思って首を捻った。ここに来てから見た人間は少なかったが、クライドが見た限り全員が白衣を着ていたはずだ。
考えてみれば、研究所に受付があるのもおかしいと思う。こんな場所に、来客も何もあったものではないだろう。
「俺は書類に埋もれた、ベストを着た男を見た」
答えながら、この事実について考えた。一階のみ、白衣着用者がいない。他のフロアなら当然のように白衣を着て真っ白な廊下を歩いている研究員が、ひとりもいない。
「会社みたいだよな、ここ」
グレンは言った。クライドもそれに同意だった。
「けど、実体は人体実験を行っているアングラな研究所だよ」
ノエルは言い、首をかしげた。すると、アンソニーが真っ白な天井を見上げ、ううんと唸る。
「もしかしたら、一階は会社のふりしてるんじゃないの? 僕なら魔力の研究なんて、世間にあんまり知られたくないし」
確かに彼のいうことは、的を射ていると思う。彼にしてはめずらしくだ。クライドはそれが正論かもしれないと思ったが、ノエルは懐疑的だった。
「でも、会社のふりをするためだけに人件費をさけるかい? 僕なら研究所で何をしているかはふせて、世間には食品添加物の研究とか言っておくよ」
「その方が効率いいしな」
グレンも深く頷いて、言った。
「ところでこのエレベーター、動いてないけど? 誰か気づけよ」
笑いながら言い、彼は地下五階行きのボタンを押した。エレベーターは、途端に下降を始めた。彼を見てノエルが笑い、壁にもたれる。こうして見ていると、彼には本当に白衣が似合う。
アンソニーは深く何か考え込んでいるようだった。あどけなさの抜けてきた、けれどもまだ十分に童顔だといえる顔に、少しの苦渋が窺えた。
エレベーターを動かしてからすぐに、クライドたちは地下五階に着いた。エレベーターのドアが開くと、とたんに妙な臭いが鼻を突いた。塩素と硫黄が混ざったような匂いだった。
「う、何だこの臭い!」
「僕、薬品には弱いんだよね。ここ、換気してないのかな」
グレンとアンソニーが嫌そうに言って、白衣の袖で鼻と口を覆った。クライドも彼らに倣って、白衣の袖を通して呼吸をすることにした。
地下五階は相変わらず白い空間だったが、ここにはちゃんと黒のはっきりした文字で色々なことが書いてあった。地下第一研究室、地下第一実験室、地下休憩所。それから、地下第一備品庫に薬品保管庫など、見渡せば色々なところに文字があった。すべて、ディアダ語とエフリッシュ語の二通りで書かれている。
ここに充満している妙な悪臭は、おそらく実験室から流れているのだろうとクライドは思った。もしここにシェリーがいるとしたら、どうなるだろう。有害物質に蝕まれて、苦しんでいるなんてことがなれば良いが。
「早くシェリーを見つけよう」
「ああ、そうだな。けどこの研究所、広すぎないか?」
「そうだな。手分けして探すか?」
三人に提案してみると、彼らも賛成してくれたようだった。クライドは、この妙な悪臭に有毒性がないかどうかが心配だった。あるとすれば、ここにいる自分達は物凄く危ない。もしここにシェリーが囚われていたら、危ないどころの話ではなくなる。命があるかどうかだって、あやしいのだ。だから早く見つけなければならい。
「チームはどうするんだい? 一人だと、捕らえられる確率が高くなるよ」
「ノエルは十分強いけどな」
壁にもたれながら左手の人指し指を立てるノエルに向かってそう言うと、彼は肩をすくめて首を横に振った。
「僕は体力も魔力も少ないから、大勢を相手にしたら何も出来ないよ」
「そうか、倒れたら困るな」
それならノエルと組むのは、体力のあるグレンが良いのかもしれない。
「グレンは魔法を使わなくても喧嘩で勝てるだろ?」
言ってみれば、グレンはにやりと笑って同意してくれた。彼は自分の力を理解して、理解した上でそれを存分に発揮している男だ。だから自分が喧嘩にかなり強いということなんて、誰に言われなくても気づいているのだろう。
「それ言うなら、クライドなんて無敵じゃん。グレンと互角だし、凄い魔法使うでしょ?」
「クライド、この際誰と組んでも強さは同じだと俺は思うぜ。元々、全員自分の身は自分で護れるメンバーだし。敵は多いから、二人で一組。これでよくないか?」
グレンに言われて、確かにそうかもしれないと考えた。ここにシェリーがいたら、それは誰か戦闘能力の高い人を組ませなければ危ないだろう。だが、ここにいる全員が強い魔法を使えるのだ。能力差なんてきっともう殆どないのではないかと、クライドも思い始めた。
「そうと決まれば、コイントスだね。コインを二枚使って決めよう。僕とクライドが一緒にコインを投げて、表同士と裏同士なら僕とクライドが組む。裏が出たらグレンと、表が出たらアンソニーと組む。これでいいかい?」
「了解」
ノエルは、クライドに銀貨を手渡してくれた。クライドはそれを弾いて、手の甲に伏せた。ノエルも同じようにコインを弾き、手の甲に伏せた。二人同時に手を退けてみる。
「決まりだね、クライド。僕はアンソニーと行く」
「よし、行こうグレン」
クライドとノエルで相談し、数台あるエレベーターを有効活用することになった。ノエルたちはこの階を含む奇数階を探索し、クライドはこの上の階からスタートするのだ。
エレベーターに乗り込むと、ノエルとアンソニーは手を振ってくれた。クライドは頷いて、自動的に閉まっていく扉の間から二人を見つめる。彼らは白衣を翻しながら、真っ直ぐにエレベーターから離れていった。
「エレベーターには換気装置ついてるんだな」
隣のグレンに言われて、顔を上げる。確かに、エレベーターの天井には四角い通気スペースのような部分があった。こういうものを地下にもつければ良いのにと思いながら、クライドはエレベーターの壁にもたれ、右手でパネルを操作して地下四階行きのボタンを押した。
「この研究所の連中は頭おかしいと思うぞ。考えてもみろよ、窓がない空間に一日中閉じこもってるんだぜ? 俺には無理」
「確かに。それほど皆熱心なのか? 研究してないと体がおかしくなる研究依存症とか」
動き出したエレベーターに少し戸惑ったが、笑いながら冗談交じりに言った。きっと笑ってくれるだろうと思ったのに、グレンは真剣な顔をして考え込む。そして、クライドを見下ろした。彼の真摯な空色の瞳が、笑みを消したクライドを捉える。
「たとえば俺がこの白い空間に閉じ込められて、ギターかピアノだけ渡されたとする。そうしたら俺、きっとずっと歌い続けると思う。だってそれしかできないんだろ? 不安っていうのもやっぱあるし、それを紛らわすためにはやっぱり自分の好きなことするしかないんじゃないかと思うし」
「つまり、ここの研究員は皆とじこめられてるってこと?」
今のは、グレンなりにこの状況を考えた末に出た言葉なのだろう。クライドはそれを踏まえた上で、彼からふいと目を逸らして考えた。クライドが導いた仮定には、数秒待っても返事が返ってこなかった。
ドアが開く。エレベーターは地下四階に着いた。
「そういうわけじゃないだろ。ミンイェンとかいう奴のこと、研究員が悪く思っていた様子はなかったしな」
ここでようやくクライドに呟くような返事を返して、グレンは先にエレベーターから降りた。クライドも彼の後を追い、白衣のポケットに手を突っ込みながら歩く。
少し歩いてすぐにグレンは止まり、こちらを振り返って笑みを浮かべた。いつもの悪戯っぽい笑みでも、甘く優しい微笑でもない。大笑いしている時のすがすがしい笑顔でもない。
例えて言うなら、途方にくれて笑うしかない時のような表情。実際、グレンの喉からは微かに乾いた笑いが漏れていた。
「クライド、これをどう見る?」
質問の後には乾いた笑い声。クライドは笑う気にすらなれず、目の前に広がる光景をただ呆然と見つめた。
「どうって、史上最悪としか言いようが……」
遅れて彼への返事を返し、思わずその場から数歩下がる。できればこの場所に長居はしたくないと、クライドは強く思った。
クライドとグレンの目の前に現れたのは、夥しい数の円筒形の水槽だ。天井に届きそうなほど大きなものから、腰ぐらいまでの高さのものまでたくさんある。それが何かのオブジェのように青白い光に照らされて、フロア一面に並んでいるのだ。中には透明な液体と、溶けかけた生物の残骸が静かに浸されている。それは学校の理科室で見たホルマリン漬けに似ていたが、水槽の大きさは理科室とここで大きく違っていた。理科室にあったものはもっと小さくて、もっと黄ばんでいた。
原型を留めているものもたくさんあった。肥大化したウサギ、背中からくらげのように触手を生やしたネズミ。ネズミの背中から伸びた触手の長さは、クライドの身長くらいある。他にもまだ、薄気味悪い標本はあった。無数にあった。それら全てが、無機質な青白い光に煌々と照らされていた。
「何の冗談だよ。俺、タチ悪い幻覚でも見てるのか?」
かすれた声で呟くグレンの声を聞きながら、クライドは全身に寒気が走るのを感じていた。
クライドには解っていた。グレンの視線が、最初からある一つの水槽にだけそそがれていることを。見たら絶対に後悔すると思うから、あえてその水槽だけは視界に入れないようにしていたのだが。それでもグレンにつられて顔をあげ、真っ直ぐに前を見て……
とうとう、見てしまった。
「やべ、眩暈……」
その場に座り込むと、眩暈と一緒に吐き気もこみ上げてきた。あり得ないと思った。あれは模型か何かなのではないかと思ってみたが、あのふやけた白い皮膚や虚ろに濁った目はどうみたって模型なんかではない。
早く逃げたい。ここから出たい。こんなところにシェリーなんているはずがない。いてほしくはない。
水槽の中から無言でこちらを見ていたのは、保存液に漬けられた男の死体だったのだ。