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第二十一話 小さな首謀者

 目的は達成したも同然。そう高をくくってデスクに向かい、仕事をしている最中のことだった。

 パソコンのキーボードを叩く音だけが響く部屋に、血相を変えた研究員が入ってくる。ミンイェンは顔を上げて、その様子に首をかしげた。研究員は焦った様子で、ある衝撃の事実をミンイェンに伝えた。

「クライド=カルヴァートが、いない?」

 研究員は確かにそういった。信じられない。ミンイェンはかつてあの白い空間の中で暴れに暴れたが、結局出られなかった。そういう思いを、クライドもすると思ったのに。

「ええ、ミンイェン様。困ったことになりました、脱走した模様です」

「ふざけないで! ちょっと君、何してるの? 早く他の人に知らせに行って!」

「か、かしこまりました」

 研究員を追いたて、ミンイェンは壁を蹴りつけた。脚力のないミンイェンにとって、それは自分を痛めつけるための動きでしかなかったのだが。予想外の痛みに悶え、ミンイェンは暴れだしたい衝動に駆られる。

 じんじんと痛む右足を抱えて飛び跳ねながら、ミンイェンは舌打ちした。全く、どうしてこうも上手くいかないのだろう。もう少しというところで、必ず邪魔が入る。

「クライドの馬鹿。どうして僕に協力してくれないの? 逆らうメリットないでしょ!」

 一人で怒り、叫ぶ。頼みの友達は仕事に熱中しているので、話しかけに行くのもはばかられる。一応メールを送ってみたが、気づいていない人が大半だろう。ミンイェンは怒りに任せて叫び散らしながら、広い研究室の中を早足で行ったり来たりした。

 こんなとき、ミンイェンは痛感するのだ。クライドに対して投げた煽りの言葉が、今の自分に一番当てはまっているということを。

 いつもわがままを言ってばかりで、友人にはたくさん迷惑をかけている。それはちゃんと自覚している。いつかきっと彼らに愛想をつかされて、自分は独りになる。それも、承知している。

 けれどミンイェンには、こんな付き合い方しかできないのだ。目的のためには、倫理から順番に人間性を捨てていった。真心なんてもう、きっとどこにも残っていない。それでも一緒にいてくれる友人が、いつ自分を見限るか正直なところ読めないのだ。

「ああもう! 全部クライドが悪いんだから」

 そう、何もかも。あの非協力的なくせに恵まれすぎた、混血の少年が悪いのだ。マーティンの嫌いなグレンもあの大卒も、もう一人いた年下の少年も、あんな捻くれた少年のどこがよくて決死の覚悟でついていくのだろう。ミンイェンには理解できない。

 けれど、どんなに理解できない虫の好かない奴でも、クライドはミンイェンにとって必要だ。いや、ミンイェンが今まで温めてきた『計画』にとって不可欠なのだ。

「ミンイェン」

「ああ! レンティーノーっ! 来てくれたんだ、助かる」

 背後のドアを振り返ると、上質な黒のスーツに身を包んだレンティーノがいる。レンティーノは黒よりも茶系のスーツが似合うが、今日は気分を変えているらしい。ミンイェンはレンティーノに駆け寄り、長身の彼を見上げた。

「どうしたのですか、急に」

「クライドが逃げた!」

 言ってみれば、レンティーノは一瞬固まった。そしてゆっくりとこちらを見下ろして、優しい微笑を浮かべる。安心させてくれようとしているのだと解ったが、ミンイェンの心の中はまだざわついている。

「……ある程度は予測できたことです。捕まえましょう、ミンイェン」

「勿論だよ! 意地でも協力させてやる」

 何としてでも捕まえて、何としてでも協力させてやる。そして、大切な人を取り戻す。目的の達成まで、何年かかったっていい。何年でもクライドを縛り付けて、何度でも協力を強いるのだから。帰してやるとは言ったし嘘はついたつもりがないが、結果的に彼のすべてを搾り取ってもそれはやむを得ないことだ。

 レンティーノと頷きあい、クライドが逃げそうな経路に研究員を配置するところから始める。十階見取り図を広げて、赤のボールペンでポイントをチェックする。

 研究員はたくさんいるから、その気になればクライド一人のために百人の研究員を派遣することだってできるのだ。ただ、けが人を最小限にとどめるために、最も少ない動員数でクライドを捕まえるパターンを考えなければならない。

 クライドの脱走経路について頭を働かせていると、後ろからいきなり首をつかまれた。反射的に首をすくめると、相手が後ろで笑う気配がした。振り返ると、見慣れた青髪がこちらを見下ろしていた。

「おいミンイェン。どうした、緊急招集なんかかけてきやがって?」

「マーティン! クライドが逃げちゃったんだ」

「チッ。どこまでも手間がかかるガキだ」

 マーティンはとたんに不機嫌になり、ポケットからタバコを取り出そうとする。そんなマーティンをレンティーノが止めて、タバコを吸う代わりに十階見取り図を見るよう促した。タバコを仕舞いながら、マーティンはじっと紙切れを見つめている。そんなマーティンに、ミンイェンは声をかける。

「ねえ、とりあえず工務班を探して? 部屋がふたつも壊されてるんだ」

 クライドもグレンも、馬鹿みたいに壁を突き破って外に出たのだ。こんなことは前代未聞で、ミンイェンは凄いと思うと同時に呆れた。二人ともあんな閉鎖的な街で前時代的な教育を受けている田舎者だから、都会人のルールが通用しないのかもしれない。

「それは僕から言っておくよ、ミンイェン。ドアくらい、きっとすぐに何とかなるよ」

 そう答えたのは、いつのまにか部屋にいた黒髪のセルジだった。ミンイェンは彼の顔を見て、その恋人である女優の顔を思い浮かべる。

「セルジ、シェリーはノーチェのところ?」

「そうだよ。今は寝ているみたい」

 ほっとして、ミンイェンは微笑んだ。彼女まで逃げたら、計画が丸つぶれだ。ここまで来るのに、九年もかかったのだ。あと少しで手が届く今、この計画が頓挫したらミンイェンは困る。

 ……そうだ。気が変わった。

 シェリーがいる部屋だけを厳重に警備して、そこ以外の警備を手薄にしてクライドたちを泳がせるのだ。そうすれば、クライドたちは絶望感に押しつぶされそうになりながら走り回るに違いない。

 研究所は広い。闇雲に探すしかないクライドはきっと、走り回ってくたくたになってしまうだろう。彼とグレンさえ大人しくさせてしまえば、あとは非力な二人しか残らない。全員たやすく捕まえられるようになるはずだ。

 そうすれば、もうすぐそこに明るい未来が待っている。ミンイェンは嬉しさに微笑を浮かべ、こうしている今も研究所内を走り回っているであろうクライドを思う。早く捕まって、協力して欲しい。

「へえ……」

 後ろから変なトーンの呟きが聞こえ、ミンイェンは首だけで後ろを振り返る。こんな呟きをするとき、マーティンは絶対に卑猥なことを考えているのに違いないのだ。

 長年彼にからかわれてきたミンイェンだから、マーティンが次にどんな言葉でからかってくるのかもう読める。読める自分がちょっと空しい。

「マーティン、また変なこと考えてる! だめだよ手を出しちゃ、シェリーは人質なんだから」

「はっ。あんな貧乳、女じゃなくてガキだろ? グレン=エクルストンの女だし虐めてやりたいが、あいにくガキ相手に興奮できるほど飢えちゃいねえよ」

 うっと言葉に詰まる。マーティンはいつだって、ミンイェンをからかって遊ぶのだ。変なことを言うか、わざと言わずに困らせてくるかのどちらかで、必ずミンイェンの反応を見てマーティンは笑う。こんな時に助けてくれるのはハビだが、ハビは今はいないのだ。

 マーティンを軽く睨んでいると、ぽんと肩を叩かれた。そちらを向くと、レンティーノが微笑していた。

「マーティン、客人を侮辱するものではありませんよ」

「はあん、レンティーノ。お前、ロリコンか」

「おや、私にその手のからかいは効きませんよ。ご存じの通り、私から性愛は欠落していますから」

 今度は助け舟を出してくれたレンティーノに絡み、マーティンはにやにやと笑う。人をからかうことを生きがいにしているのかと思うほど、マーティンはしょっちゅう誰かに絡む。そして、相手の反応を見て笑うのだ。彼は本当に二十三歳の青年なのだろうかと、疑いたくなってくる。こういうときのマーティンは自分より幼いとミンイェンは思う。

「まあまあ、マーティン。そのくらいにしなよ。ミンイェン、ハビが今日はこっちに泊まるって言ってたよ」

「本当に? やったあ!」

 セルジの言葉に、ミンイェンは心の底から喜んだ。マーティンの素行不良について考えることは即座に忘却して、献身的な親友のことを思い浮かべて笑う。

 ハビは仕事が忙しくて、毎週水曜日だけしか研究所に一日いることはない。毎朝早朝に数十分だけ現れ、あとは夜に数十分。彼には、それだけしか会えない。

 彼は毎朝この研究所からデータを持って行き、毎晩ちゃんと解析したものを届けてくれる。彼は、カフェに勤めながらもちゃんと研究員としても働いてくれている。

 だから、会って話がしたくてもなかなか会うことができない。その彼に、久々に長く会えるのだ。ミンイェンが喜んでいると、マーティンがわざとらしいため息をついた。

「はあ、解りやすい奴」

「何か言った?」

「別に」

 嫌味な笑いを浮かべたマーティンを尻目に、ミンイェンは見取り図を見下ろした。クライドに気づかれないように、このフロアの中でエレベーターから一番遠い部屋を警備しなければならない。

「ノーチェは部屋で待機ね」

 クライドたちにとっての『囚われの姫君』は、大女優ノーチェ・スルバランの部屋にいるのだ。だから彼女は、そのままそこでシェリーを見張っていてもらおうとミンイェンは考える。シェリーはノーチェに少し打ち解けてきているようだし、この調子でどんどんノーチェと仲良くなって欲しい。

 調査済みだ。シェリーは目立つ赤毛を今の色にする際、昨年の映画で染めていたノーチェのビジュアルを参考にしている。若い女の子の間で国籍を問わずノーチェの知名度は上がっているから、ノーチェを監視役にあてがって正解だった。

「僕もそこにいちゃだめかな」

「勿論良いよ、シェリーが寝てるならノーチェも暇してるだろうし」

 セルジの申し出を快諾しながら、ミンイェンは心の中で微笑する。口には出さないが、セルジは一刻も早くノーチェの部屋に行きたいに違いない。

 もしもクライドたちがノーチェの部屋にたどり着くことがあったら、ノーチェが乱闘に巻き込まれることもあるかもしれない。だからセルジは、恋人としてノーチェを案じているのだろう。彼のそんな騎士ナイトらしいところに、ノーチェは惚れているのかもしれないとミンイェンは思う。

「出入り口は早く封鎖しておかないと、外部に逃げられてしまいますね」

「そうだね。じゃあ、働きバチさんにお願いしようかな」

 ミンイェンの腹心である『働きバチ』は、インテリらしくない男だ。格闘技の選手のような人で、腕力が恐ろしく強い。そのままボクサーに転職しても良いのではないかという風体の彼は、ミンイェンのために良く働く。彼に携帯で連絡を入れ、すぐに出入り口に向かってもらう。

「セルジも、ノーチェのところに行ってあげて」

「解った。じゃあ、後でね。健闘を祈るよ」

「お互いね!」

 セルジはやわらかな微笑を残し、足早に研究室を出て行った。

 ミンイェンは携帯を手に取って、手の空いた研究員をノーチェの部屋付近に配置した。エレベーター付近に一人の研究員を置いて、クライドたちが昇ってきたらすぐに連絡を取れるようにしておく。

 セルジがいなくなったこの研究室には、マーティンとレンティーノが残っている。粗暴な少年たちが駆け回っている今、二人にはずっとここにいてもらいたいというのがミンイェンの気持ちだ。

 だが、もしクライドがここに乗り込んできたら、二人は無傷ではすまないかもしれない。それを考えると、部屋を厳重にロックして一人で閉じこもっていた方が良い気もする。ミンイェンは考えながら、真っ白なベッドの隅に腰掛けた。

「どうかしたのですか、ミンイェン」

「え? ああ、何でもない」

「何でもないって態度か? 言いな、何を考えてた」

 二人に見下ろされ、ミンイェンは身を(すく)める。二人に本心を話したら、きっと傷だらけになっても自分の傍に居てくれるという返事が返って来るだろう。彼らはそういう優しい人で、どんな時でも全てのものから護ってくれた。そんな彼らには、いつでも救われてきた。

 けれど、だからこそ傷つけたくないと思うのは失くしたはずの真心だと思っていたい。あまたの残虐な人体実験で心をすり減らした結果、目的のために必要なことならどんなに倫理から外れたことでも出来るようになった。そんなミンイェンのためになんて、心優しい人たちが傷つく必要なはい。

「帰って良いよ、二人とも。仕事続けてきて?」

 そう言っても、彼らがここに残るだろうということは予測できた。だからこそ、胸の奥が痛んだ。これからまた、彼らを危険にさらしてしまうのだ。誰でもない、非力なこの自分が。

「帰らねえよ。てめえみたいなガキ、放っとけるか」

 口調こそ荒いが、マーティンはいつでもこうやってミンイェンのことを気遣ってくれる。聞こえるのは舌打ち交じりの言葉でも、目の前に見えるのは優しい光を湛えた瞳なのだ。

 彼も過去に、大切な人を失くしている。かけがえのない人をもう失いたくないという思いは、ミンイェンと同じだ。だからといって、彼が傷ついてもいいかといったらそうではない。

 俯いて白衣の裾をぎゅっと握り締めていると、その手の上に痩せた大きな手が被さった。顔を上げれば、優雅な笑みを浮かべたレンティーノと目が合う。

「そばにいさせて下さい、ミンイェン。貴方の友として」

 深く聴覚に染み入ってくるこの声は、ミンイェンにとってかけがえのないものだ。今まで何度となく彼のこの声に救われてきたし、勇気付けられてきた。

 実験台を脱して人間として成熟したレンティーノはミンイェンと真逆を行く。ミンイェンがどんどん人であることを捨てている傍ら、その良心を拾い集めるようにしてレンティーノは真人間になっていった。そんな彼を『しもべたち』のように肉壁にする気はない。

「怪我するかもしれないよ? 僕のせいで」

「それでもです。前に言ったではないですか、私はいつでも傍にいると。貴方にとって私達は、そんなに信用の置けない人間なのですか?」

 そう言われて顔を上げる。レンティーノは悲しげな目で、ミンイェンをじっと見つめていた。ミンイェンは彼にそんな顔をして欲しくなくて、けれどどうすれば良いのか解らずに途方にくれる。ミンイェンは大切な目的のためなら、それ以外のすべてを捨てる冷酷さを兼ね備えている。そのことを二人だって、よく分かっているはずなのに。

「おいクソガキ。あいつらのデータは知ってるだろ。四人束になってかかってきても勝てるっつーのか?」

「……むり」

「では、決まりですね。ミンイェン」

「ごめん。ここに、いて」

 小さく呟いた。彼らの優しさに、甘えたくはない。けれど、傍に居て欲しいのも事実だ。レンティーノはミンイェンを見て嬉しそうに笑って、隣に座ってくれた。微笑み返しながら、ミンイェンは正面に立ったマーティンと隣に座るレンティーノを代わる代わる見る。

「チッ。謝るな」

 声と同時に、マーティンの大きな手が頭の上に乗った。そのまま、わしゃわしゃと頭をなでられる。心持ち身を竦めるが、ミンイェンはマーティンのそんな行動が嫌いではなかった。彼はいつもミンイェンを弟のように扱うから、こんな風に頭をなでられるのも今日が初めてではない。

 こんな風に、ミンイェンの成功を心から願って身体を張ってくれる友人たちがいる。彼らを傷つけたくなければ、スマートに実験を終わらせればいいというだけの話ではないのか。フィジカルが非力な分、頭を働かせて真っすぐに目的に向かえばいい。そうするしかない。

 クライドにだって都合はあるのだろうが、ミンイェンは九年もの間実験の成功を信じ続けて生きてきた。その成功には、クライドの協力が不可欠なのだ。彼が協力を拒むなら、無理にでも協力させてやる。

 脱走したクライドが捕まったら、すぐにでも実験に移ろう。そう考え、ミンイェンは真っ直ぐに前を見据えた。

 クライドを屈服させ、実験に協力させることができるようになるまで、長くはかからないだろう。今のミンイェンは、そんな根拠のない自信に溢れていた。

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