第二十話 知らない世界
備品庫に向かう途中の廊下で、クライドは何名かの研究員とすれ違った。彼らはクライドに会釈したが、一人か二人はクライドに気づかずにどこかへ行ってしまった。この研究所では、人と人との繋がりがあまりないのかもしれないとクライドは思う。
真っ白なしんとした廊下を歩き続けると、備品庫についた。ノエルに合いそうな丈の白衣を一着とり、クライドはノエルにそれを渡す。
「どうだ?」
試着しているノエルに訊ねると、彼は微笑みながら頷いた。どうやらサイズは合っているらしい。ノエルは薬品棚に目を留め、いくつかの小瓶をポケットに忍ばせた。クライドには解らなかったが、使えそうな薬品があったらしい。
「現在地はここだね」
ノエルは備品庫にあった平台に先ほどの地図、というか建物の見取り図を広げ、備品庫と書かれた地点を指差した。クライドは頷き、ポケットに入っていたボールペンを彼に渡した。ノエルはペンを左手に持ち、1020号室と備品庫を太く囲う。グレンのいた1068号室と、クライドのいた1096号室も太く囲ってもらった。この階は十階らしい。紙の隅に「十階見取り図」と書いてあった。けれど、この建物自体が何階建てなのかはまだ解らない。
クライドたち三人がいた場所は、同じ階の同じフロアだ。アンソニーも、高確率でこのフロアの中にいるとクライドは思う。カードキーが全ての部屋に使えるのなら、一部屋ずつ試していけばそのうちアンソニーにたどり着くことが出来そうだ。ただ、中に研究員がいる可能性を考えなければならないだろうが。
「クライド、カードを貸して」
そういわれたので、クライドはノエルに白いカードを渡した。テレフォンカードか何かのような素材で、良く見ると片面の隅にに小さな銀色の矢印が書いてある。
「何がいいかな…… これにしようか」
ノエルは棚にあったプラスチック製の定規を取った。そしてそれを半分に割り、再び棚を探して薬のビンを持ち出してくる。何をするのかと見ていれば、ノエルは薬のビンの蓋をとった。ビンの蓋は鉄製で、塗装がされていないので銀色に輝いている。
「なあノエル、何やんの?」
グレンが不思議そうに問うと、ノエルはちらりと彼を見て微笑した。
「まあ見てて。いくよ」
ノエルは定規とビンの蓋を平台に置いた。そしてそれに手を被せ、軽く目を閉じて何かを念じている。彼の手の下で、定規とビンの蓋がさらさらと崩れていくのが見えた。これはノエルが使える、分解の魔法だ。
さらさらに崩れた粉末状のものから手を離し、ノエルはクライドが渡したカードキーを掌で撫でた。軽く息をつくと、彼は手についた粉末を落とす。
「ちょっと骨が折れるみたい」
曖昧な笑みを浮かべながらカードを平台の上に置いて、ノエルは再び粉末の上に手を被せた。クライドはそんな彼の背中に右手を当てて、魔力を移す想像をした。少しの血を魔力に換え、ノエルに分ける。そうしながら、クライドはじっと彼の手を見ていた。
粉末はまるで生き物のようにうごめきながら、ノエルの手の下で徐々に長方形を形作っていった。どうやらノエルは、カードをコピーしているらしい。彼の魔法には沢山の魔力が必要だから、クライドは彼の骨ばった背中に手を当てたままでいた。
ノエルが作っているカードは、透明なプラスチックを原料にしているためか、妙にクリアになっていた。けれど、磁気カードにするための鉄粉を入れているために、端の方だけ黒っぽい。
彼は最後に、何か呪文らしきものを呟いてカードに加工をした。電磁力を流す魔法を使ったようだ。
「……できた」
ノエルは若干青白い顔になってはいたものの、表情は嬉々としていた。カードの出来には満足しているようだ。
「使えるか?」
「試してみよう」
グレンの問いに笑顔で答えたノエルは、白衣のポケットに手を突っ込んで颯爽と歩き始めた。クライドは二枚のカードとアンソニーの分の白衣を手に、彼の後を追う。そして、手近な部屋でカードキーを試してみた。
見事に使うことが出きて、ドアから空気の軽い音がした。ノエルが嬉しそうに笑い、グレンは感心したように何度か頷いた。そして。
「失礼しまーす」
あろうことか、グレンが中に入っていった。クライドは止めることも追うことも出来ずその場に留まり、ノエルと顔を見合わせる。
思ってみれば、ドアが開いたのに誰も入ってこなかったら研究員が不審がるに決まっていた。中に研究員がいないことを祈ったが、どうやら祈りは通じなかったようだ。
「あら。新入りかしら、何の用?」
声の主は女性らしい。この研究所には、女性もいるようだ。
「昨日入ったサンプル、何号室でしたっけ」
「どれのこと?」
「あの、一番若い子供。青い目の」
グレンは、どうやら聞き込みをしているらしかった。クライドは彼がまさしく『サンプル』の内の一人であるということが、いつばれるかと思って冷や冷やしていた。けれど研究員の声からすると、グレンは正体を疑われている様子はなかった。
「私も解らないわ。担当は茶髪の子だもの。綺麗な子よね、貴方ほどじゃないけど」
「ああ、そうですか。じゃあ一番若い奴の担当、誰なのか教えてもらえます?」
グレンは軽い調子で、上司に命令されて嫌々アンソニーを探しているようなことを言った。研究員はその話を、丸ごと信用したようだ。
「ライナスならきっと知っているわよ。彼は1080号室にいるわ」
「ありがと! 姉ちゃん、頼りになる」
ころっとグレンの態度が変わる。ちょっと寒気がした。グレンはクライドの見た限りで、初めて女性に対して好感をアピールしたのだ。
普段のグレンは、女の子に対して変に馴れ馴れしくしなかった。それに彼は、シェリーに対してもこんな風に媚を売るような声で喋りかけていたことはなかった。このプレイボーイ気質の声色は、勿論彼の演技だろう。
「ふふ。いつでもここにいらっしゃい」
「どうも。それじゃあ」
女性のかなりご機嫌な声が聞こえた後、グレンが白い壁の中から出てきた。クライドはすかさずカードキーを使ってドアを閉ざした。白い壁はもう、本当にただの壁になった。
使用できることが立証されたカードキーを製作者であるノエルに渡せば、ノエルは満面の笑みを浮かべた。
「……姉ちゃんっつーよりおばちゃんだったけどよ」
防音なのをいいことに、グレンは言った。そして、にやりと笑う。
「収穫ひとつあったぜ。壁に貼ってあった紙に書いてあったけど、この建物は三十階建てだ。最上部に、偉い奴が集結してるらしい」
「へえ」
相槌を打てば、グレンは先ほど出てきた部屋の方をちらりと肩越しに振り返る。彼女が出てこないか確認したようだった。
研究に没頭しているのか、彼女はそれきり部屋から出てこない。廊下を見渡しても研究員の姿はどこにも見えないし、足音すらもしなかった。白くて、ただ無音の空間。
このまま沈黙していたら、この白と同化してしまいそうだとクライドは思った。そう思った矢先、グレンの声がして安心する。
「とりあえず、ライナスって男捜すぞ」
「1080って言っていたね」
「そうだな。ノエル、地図貸せ」
グレンとノエルがこの階の見取り図を覗き込んで1080号室を探している間、クライドはじっとその場で耳を澄ましていた。どこかで足音がしたら、それはおそらく研究員だ。正体を探られないように、完璧な演技をしなければ。
やがてノエルとグレンが道を見つけ、クライドを導いてくれた。クライドはよく用心しながらも、どこまで進んでも全く変わらない白いだけの廊下に見飽きていた。
「あ、ここかな」
「そうみたいだ」
ノエルと会話していると、グレンが一歩前に出てドアをノックした。返事を待ったが、防音効果のついたドアの前でそんなことをしても無意味なだけだった。
クライドはカードキーでドアを開けた。自分の立っている場所からドアに向かって風が流れ込む感じがしたので、ドアが開いたことが解った。グレンがにやっとして、傍目にはまだ白い壁があるように見えるところへと突入していく。
「ライナスさーん」
「靴の汚れを拭え! うわ、な、何だその頭は! だらしない髪型をしおって……」
先に入ったグレンが、凄い剣幕で怒鳴られた。クライドは思わず足を止め、ノエルを見やる。ノエルは呆気にとられていたが、やがてドアの向こうへと消える。
「ほう、お前は模範的だな」
「光栄です」
ノエルが褒められた。クライドは二人の成功を祈りながら、白い壁の向こうから聞こえる会話に耳をそばだてた。
「あのくるくるした金髪のサンプル、どこだっけ? 俺ら新しく配属されたんだけど、地図なくしちゃってさあ」
グレンはいつものように、砕けた調子でライナスに話しかけている。クライドはそんなグレンがまたライナスを怒らせたりしないか、少し心配だった。
ライナスは怒るというより呆れたのか、グレンに場所を説明してやっている。ノエルが相槌を打ちながら、時々詳しい場所を尋ねたりしているのも聞こえた。
「それじゃ、ありがとさん!」
「生意気な新入社員だ。貴様はもう二度ここにくるな」
「失礼します、ライナスさん」
「お前はいつでもおいで」
二人は随分と待遇のされ方が違うようだが、部屋から出てきた二人は両方とも上機嫌そうだ。グレンは扉を閉めるなり、堪えきれない笑いを漏らす。
「なあノエル、何だよあの髪型」
「グレン、抑えて。あれが彼のファッションセンスだよ」
「大分狂ってる。工作用の糊で固めてるだろ」
「クライド、君は部屋に入ってこなくて正解だった。資料として君の写真が机に貼られていたよ」
「お、そうだったのか。よかった」
クライドとノエルが会話する傍ら、グレンはひとしきり笑っていた。しばらくして彼がようやく落ち着くころになって、ノエルが話を進める。
「アンソニーは、丁度この部屋の裏側あたりにいるみたいだよ」
ノエルは言って、折りたたまれた見取り図を広げた。クライドたち三人が閉じ込められていた場所から、アンソニーだけが離れている。
クライドは白衣のポケットに手を突っ込み、身を翻した。一刻も早く、彼に会わなければならない。この研究所の人間の中には、ノエルの担当のような男もいるのだ。
廊下を早歩きして、アンソニーのいる部屋を探す。部屋番号は1004で、大きな研究室の隣の部屋だ。
「そろそろだ、クライド」
「ああ、近いな」
後方にいるグレンと会話しながら、クライドはドアに書かれた小さな数字をひとつひとつ確かめる。1001、1002……。
「ここだ」
静かに足を止め、クライドは1004号室の前に立った。ゆっくり後ろを振り返ると、グレンとノエルが開錠を待っていた。深呼吸し、カードキーを溝に通す。空気の音。そして、部屋の中へ風が流れ込む感覚。
はやる気持ちを抑えながら、クライドは部屋の中に駆け込んだ。そして、息をのむ。
「トニー」
見慣れた金髪の少年は、部屋のベッドに座り込んでいた。彼が座っているベッドはクライドやグレン、ノエルの部屋にあったものと同じだったが、なぜかシーツがぼろぼろに引き裂かれていた。壁にはある場所だけ赤黒く汚れているところがあり、部屋に備え付けられた洗面所の鏡は粉々に割れていた。
一体、何があったのだろう。考えながら、クライドはアンソニーの方に向かって歩み寄る。後ろでノエルがキーを使ってドアを閉めた音がした。
「トニー?」
声をかけても反応しないアンソニーは、虚ろに目を見開いて息を荒げていた。近寄ると、彼がぼろぼろに裂かれたシーツの切れ端を抱えていることに気づく。
「おい」
さらに近寄って、彼の肩に手を置く。
「うわああああああ!」
いきなり叫ばれ、クライドは驚いて壁の方に飛びのいた。アンソニーは震えながら叫び続け、引き裂かれたシーツをまとってベッドの上に丸くなった。その異常な行動に、後から来たノエルとグレンが固まっているのが見て取れた。
「ト、トニー? トニー、大丈夫か!」
「うわああああ! こないで、いやだっ、やめてええ!」
「トニー、俺だよ!」
錯乱状態のアンソニーを前に、クライドは声をかける他にどうすることもできなかった。けれど意を決して、丸まったアンソニーの肩に再び触る。すると彼の身体が、びくりと震えた。
「トニー、俺だ、クライドだ」
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ来ないで、来ないで」
嫌だ、来ないで。そればかりを延々とリピートするアンソニーに、クライドは途方にくれた。震えながら自分の身体を抱くようにして泣き叫び、クライドを認識してくれないアンソニーは、ぼろぼろになったシーツを強く強く握り締めている。
ふと見れば、彼の右手に傷があるのが見えた。右手の拳…… つまり、壁を殴る時に使う拳にだ。
「トニー」
思わずクライドは、アンソニーを引き起こしていた。彼とまともに目を合わせるのは、港町を出たあの時以来初めてだった。
アンソニーは涙で濡れた顔で、クライドを見てまた身を捩った。けれどクライドは、そんなアンソニーにまた逃げられないように、彼を強く抱きしめた。安心させるというよりは、押さえつける意味合いの方が強い。
「怖かったな、でも大丈夫だから。もう大丈夫だから。皆いるから。一人じゃないから」
何故、こんなことになってしまったんだろう。この何もない、白いだけの空間に閉じ込められて、アンソニーは壊れてしまった。急いだけれど間に合わなかった。友達を、また辛い目にあわせてしまった。
泣き叫ぶアンソニーを胸に閉じ込めておきながら、クライドも泣きたい気分だった。泣く代わりに、叫ぶ代わりに、アンソニーを強く抱きしめて頭を撫でる。クライドには、そんなことしかできなかった。小さい子供を宥めるように、クライドはアンソニーの頭を撫で続けた。
「っ、げほ、げほっ」
叫びつかれたのか、アンソニーはむせる。そして、ようやく大人しくなった。けれどまだ彼の身体は小刻みに震えていたし、彼はまだ泣いているようだった。
「もう大丈夫かな」
「う…… 僕を帰して。皆のところに帰して!」
「俺がいるだろ。グレンも、ノエルもいる」
「絶対偽物だ、誰も僕のことなんか助けに来てくれない」
どうやらクライドは、まだ彼に認識されていないようだった。ため息をつきながら、彼の背中をさすってやる。どうしようか、このままアンソニーがクライドのことを思い出してくれなかったら。
「何だよ、ひでえ奴だな。俺らそんな薄情者かよ?」
「そうだよアンソニー。君が一人で苦しい時には、僕らがいつでも助けるよ」
不満そうなグレンと、優しげなノエルの声がする。顔を上げると、二人が歩み寄ってきた。アンソニーは相変わらず震えていたが、おずおずと顔を上げた。
「お。トニー、気づいた?」
軽い調子で話しかけると、アンソニーの目が潤んだ。
「絶対、絶対本物だよね? 僕のこと裏切って、どこか行ったりしないよね? もう僕を、一人にしたりしないよね?」
「当然だろ、馬鹿だな全く」
泣きじゃくりながらクライドのTシャツを濡らすアンソニーに、グレンが微笑みかけた。そして、アンソニーの頭をぐしゃぐしゃとなでる。
クライドの両脇で、ノエルとグレンがアンソニーを優しく見守っていた。アンソニーはよほど不安だったのか、よほど辛かったのか、声を上げて泣き出した。
「クライドっ」
「そうだよ、トニー」
「グレン!」
「おう。何だトニー」
「ノエル?」
「僕はここにいるよ、アンソニー」
代わる代わるクライドたちの名前を呼んで、存在を確かめるようにじっと見つめて、アンソニーは涙を拭った。ようやく彼に、クライドたちの存在を認識してもらえたらしかった。
アンソニーは訥々と話を始めた。酷い仕打ちに遭っていたようだった。
どうも彼の担当はかなり粗暴だったようで、アンソニーの怯えた様子に腹を立て、最初は物音を立ててわざと脅かしてくるだけだったらしい。だが段々、泣くばかりのアンソニーに苛立ちを募らせ、暴力が始まったようなのだ。
「泣き声が気に食わない、黙らないなら黙らせる、っていわれた。壁に押し付けられて、首絞められて、けど僕は生きてた」
「よかった、お前が生きてて」
グレンの言葉に、アンソニーが強く頷いて俯いた。そして、照れくさそうに呟く。
「きてくれて、ありがとう。皆、ヒーローみたいだよ。どこにいても、どんな状況でも、絶対助けてくれるから」
「今度はお前がヒーローになる番だろ。まだ、シェリーがいない」
言いながら彼に手を伸ばすと、暖かな手がクライドの手を握った。平常に戻ったアンソニーを連れて、クライドは廊下に出る。アンソニーに持っていた白衣を渡して、準備は整った。
この場所のどこかに、シェリーがいる。一刻も早く彼女を助け出そう。
「次、どこ向かおう?」
「地下か最上階ってとこだよな、人質って言ったら」
「解らないよ、グレン。案外このフロアにいるかも」
「全然関係ない階に閉じ込めて、僕らを混乱させてるのかも!」
様々な憶測が飛び交っている状態だが、一行は一旦エレベーターで一階に下りることにした。




