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第十八話 白い密室

 どれくらいたったのだろう。クライドが目を覚ますと、船の揺れがおさまっていた。なおかつ、自分はソファではなくベッドに寝ているようなのだ。レンティーノがあの細腕で船室に運んでくれたのだろうか。柔らかいマットレスの感触を寝ぼけながら捉え、違和感に気づく。

 潮風の匂いがしない。

 代わりに鼻腔を満たすのは、病院の匂いだ。エタノール系の消毒薬の匂いといえば良いだろうか、明らかに船の上ではない。――何かが起きた。

「な、何だこれ」

 跳ね起きたクライドは、自分の目を疑った。視界に白いものしか映らなかったからだった。

 自分が寝ているベッドも、枕もシーツも敷布団も、果てはベッドの脚となっているパイプまでもが全て真っ白なのだ。ベッドは壁際にあったが、ベッドの隣接していない方の壁には簡素な洗面台が取り付けられていた。無論、その洗面台も真っ白だった。白くないのは鏡だけだが、鏡にも真っ白な壁が映っている。

 ぞっとした。寝ている間に、色彩感覚がなくなってしまったのかと錯覚した。けれども自分の血の通った手を見て、濃緑のTシャツや色落ち気味のジーンズを見れば、自分が色の感覚を失っていないことをちゃんと確認できた。クライドに異常がないとするなら、異常なのはこの部屋にあるもの全てだった。

 見渡すごとに、この部屋はどんどん怪しさを増した。床も壁も白で、異様なことにこの部屋には出口がないのである。一体自分は、どうやってここに閉じ込められたのだろう。ベッドサイドを見れば靴がちゃんと置いてあったから、クライドはそれを履いて歩き出す。

 簡素で真っ白な部屋だった。窓も出入り口もなく、四方は真っ白な壁に閉ざされている。現実的に考えればあり得ない、こんな窓もドアもない密室に人が入るのは不可能だ。よほど特異なことをしないかぎり、部屋に人を入れたまま出入り口をなくすなんてことはできないのだから。どこかに必ず出入り口がある。探してここから出なければ。

 クライドは、壁にべったりと指を沿わせて歩いてみた。何かの手がかりを発見できれば、窓やドアがでてくるかもしれないなんてファンタジックなことを考えていたのだった。

 指先の感覚をたよりに、部屋を一周回る。洗面台の隣が引き戸になっていて、そこがシャワールームであることを発見した。けれどその他に解ったことといったら、やはり出入り口がないということだけだった。ひとつだけ閃いた考えがあるとするなら、それはベッドやシャワールームが密接している壁に出入り口はないだろうという仮説である。

 ベッドに飛び込み、仰向けになってクライドは頭をかかえた。柔らかなマットレスの中でスプリングが軋み、薄い布団が跳ねてベッドから転がり落ちるが、気にもしなかった。

 どうしてこんな所に閉じ込められているのだろう。レンティーノはどこへ消えてしまったのだろう。彼もまた、こんな空間に閉じ込められているのかもしれない。彼の安否を確かめる方法が、何かあるはずだ。

 そう考えてから、クライドはレンティーノと電話番号を交換したことを思い出した。携帯と財布はクライドが最後に触った時のままでポケットに収まっていて、誰にも触られた形跡はないようだったので安心した。圏外になっているので落胆したが、思い直す。船を降りたということは、ここは既に外国かもしれない。

 やったことがなかったので使い方のヘルプを見ながら、どうにか携帯のローミング設定を変える。数秒で電波のマークが回復したので、さっそく携帯と思しき番号に電話をかけてみた。この番号は使われておりません、と無情な音声が繰り返し聞こえた。そんなはずはない、彼は電話番号を手打ちではなく無線通信に乗せて送信してくれたのだ。試しにサラの家にかけてみても、ブリジットの家にかけてみても同じように番号は使われていませんと言われ、ようやく設定が間違っていると気づく。確か、特殊な操作をしないと外国の番号にはかけられないと前にノエルに言われた。

 もう一度ヘルプを呼び出して調べ、『国際コード』を探し出す。各国共通の三桁の番号を先頭につけなければいけないらしいので、試しに当初の目的地であるエナークの番号を入れてからレンティーノに電話するとようやく呼び出し音が鳴った。よかった、繋がった。そしてここは、エナークなのか。

 しばらく呼び出し音が続いていたが、諦めかけたぐらいのタイミングでやっと向こうが電話に出た。

「もしもし、レンティーノさん? 今どこです?」

 ()き込んで話しかけると、電話の向こうがしばし沈黙した。沈黙の意味がわからず、クライドは混乱する。

 レンティーノは誘拐される途中で携帯を落としたのかもしれない。知らない人が電話に出たのか、クライドが喋りかけている相手が誘拐犯なのか。電話の向こう側で、レンティーノが監禁されていたりするのかもしれない。そんなことがあったら、どう対処すれば良いだろう?

「……やったああっ! やっとクライドが僕のところにきてくれた!」

「え?」

 電話に出たのはレンティーノではなかった。声のトーンからして、レンティーノよりいくつか年下だと思われる少年なのだ。しかも恐ろしいことに少年はクライドの名前を知っており、流暢なディアダ語を喋った。くわえて、いかにも招きたいと思っていたというような口調。

 はっとした。シェリー誘拐に絡んでいる人物が、こうしてレンティーノとクライドをも誘拐したのかもしれない。やはりあの鉢巻男は人質をつれた囮で、囮を追わせることによって、この少年はクライドをわざわざエナーク方面まで誘導したのだろう。

「てめえ、シェリーをどこへやった!」

「あ、なんだばれちゃったか。勘がいいなあ、褒めてあげるね! 彼女はまだ喋れる状態だから、安心して」

 少年はあどけない声で、気楽そうに言った。まるで、拷問でも与えたかのような言い方。まだ喋れる? ということは、喋ることが出来なくなる寸前までシェリーを痛めつけたということなのか?

「……っ! お前、シェリーに一体何をしたんだ!」

「さあ? 僕は知らないよ。カノジョでもないのに凄い行動力だね」

「ふざけんじゃねえ!」

 少年のからかうような口調に、おのずと怒りが湧いてくる。けれど、少年は楽しそうに笑うだけだった。クライドがどんなに怒っても、どんなに怒鳴っても、少年はただ笑うだけだった。

「逃げようなんて考えないで。僕は君を殺したくてここに呼んだんじゃないんだ、やってほしいことがあって」

「呼んだ? あんな姑息な方法、『呼んだ』じゃなくて『おびきだした』だろうが! シェリーを今すぐ返せ、返せよ!」

「それはだめだよ。返したら、君は僕に協力してくれなくなっちゃうでしょ」

「誰がお前みたいな卑怯な奴に手を貸すか! いい加減にしろ」

「いい加減にしろ、それこっちの台詞。今、彼女の命を握ってるのはこの僕なんだよ? 立場をわきまえてよ。あんまり偉そうにしてると、あの子を喋れなくするけど。いいの?」

 少年は随分と偉そうに、クライドの脳裏にシェリーの存在をちらつかせた。クライドがこれで動けなくなることを、解っていてやっている。それが言いようもなく悔しくて、クライドは悪態をつく。

「……くそ、汚い手使いやがって」

「そうでもしなきゃ、君は僕を助けてくれないでしょ」

「は? 助ける? ふざけたこと言いやがって。じゃあ何だお前、助けられる分際で、未来の恩人を監禁するのかよ。笑わせんな」

 冷笑しながら、クライドは真剣に怒っていた。何を協力させたいのかは知らないし知りたくもないが、協力云々の前に、まずは交渉が基本だろう。それをいきなり、友達を誘拐するだなんて。普通そういうのは、交渉決裂したときに使う手段だ。というか、普通は誘拐なんて汚い手は使わない。

「うわ…… なんか君、思ってた以上にむかつくね」

「お前に言われる筋合いはねえよ。レンティーノさんはどうした」

 この電話だって、レンティーノのものだ。それを勝手に使いながら、悠々と偉そうに語るこの少年が本当に腹立たしくてクライドは壁を殴りつけたい気分に襲われていた。

 けれど少年は泰然と、こちらの神経を逆なでするような間延びした口調で言った。それはもう、この状況を楽しんでいるとしか言いようのない嬉しそうな声だった。

「レンティーノなら隣にいるよ! なあに、代わりたい?」

 一瞬、何も答えられなかった。言葉がみつからなかった。隣にいる。シェリーを誘拐した少年の仲間として、この電話の向こう側にいる。

 それを聞いて初めて、クライドは自分の認識していた状況が随分と間違っていたことを思い知った。レンティーノは、最初からクライドをここに連れてくる目的で声をかけたのだ。息が詰まるようだ。感謝すべき感動の再会でもなければ、穏和な紳士の登場でもなかった。

 大体、何だ。考えてみれば、事がうまく運びすぎだった。クライドはここに連れてこられるために、シェリーが誘拐されたその時から茶番につき合わされていたのだ。いや、人質がいるから茶番どころではない。今頃気づいた自分に激しい怒りを覚え、クライドは壁を一発殴りつけた。

 少年の言い分が嘘でなければ、誘拐も身代金目的などではなくて最初からクライドが目的だったのだ。なんて卑怯なんだろう。わざわざシェリーを巻き込まなくても、クライドが欲しいならクライドだけを誘拐すればいいのに。

 友達が誘拐されたら、普通の人なら警察に直行して祈りながら待つだろう。だが、そうしなかったクライドたちの行動は最初から読まれていた。彼らはクライドたちが感情的になってシェリーのために奔走すると踏んでいたようで、確かにそれは悔しいぐらいに当たっていた。

「あはは! レンティーノは僕の大切な友達だよ。すごく優秀なんだ! 誰もレンティーノのこと、敵だなんて疑わないでしょ?」

「お前、本当にぶん殴る…… どこにいやがる」

「クライドはずいぶん派手に喧嘩して友達が一人もいなくなっちゃったみたいだね。可哀想に。あー可哀想に! あはは!」

 話していると、確実に彼はクライドの怒りを煽る発言をする。冷静になれ、たぶん策略だ、そう思おうとしても苛立ちが止まらない。唇を噛んで黙り込むと、少年は相変わらず意地の悪い笑いでクライドを煽る。

「ねえねえ、どんな気分? クラスの人気者で、誰とでも打ち解けて、話し相手に不自由しない君がたった一人になっちゃったんだ。居場所がないってどう? 案外心地いいんじゃないの? ふふっ」

「ここから出せ」

「だめだめ。君にこの研究所を壊されたくないんだ。会いに行くから大人しくそこで待っててね! ああ、早く会いたいなあ」

 この少年は、間違いなくこの場所を研究所といった。レストランでレンティーノに尋ねた疑問への、答え合わせだった。くたびれた白衣とよれたワイシャツでデゼルトは研究者に扮していたのだ。わかるか、と舌打ちしそうになる。

 しかしレンティーノは全て解っていた上で、クライドにそれとなく狂言誘拐の可能性をほのめかしたのだった。優美な笑みなんて浮かべながら、最初からクライドを騙すつもりで。何て男だ。

 考えながら、クライドはふとあることに思い至る。ならば、レンティーノが呼んだ仲間はノエルをどうしたのだろう? ノエルも一緒に、この研究所に捕まっているのだろうか。ならば助け出さなければ。

 クライドを追っているということは、グレンとアンソニーも少なからずここにいる可能性がある。彼の反応を見れば、いるかいないか多分解る。

「ノエルはどこだ」

「今頃解剖されてるかもね」

「トニーもいるんだな?」

「さあ、どこでしょう。もう死んじゃったかも」

「グレンは」

「ああ! 彼なら解るよ。マーティンに遊ばれてるんじゃないかなあ? マーティン、グレンの事大嫌いだから」

 やはり、皆ここにいる。彼の態度が演技でないのなら。彼はとても正直で、声のトーンで嘘か本当か大体判別できた。この少年は、どちらかといえば隠し事が下手なタイプだろう。クライドの近くにも、そういう少年がいる。例えて言うなら、嘘のつけないアンソニーだ。

 クライドは思案した。グレンを助けに行くには、そのマーティンという男をどうにかしなければならない。……マーティン?

「ここ、人工魔力の結社だったのか」

 呟くと、少年は怒ったように言った。

「なにそれ、そんなの全然僕らの目的じゃない。確かにここでは過去に人工魔力を創っていたこともあるけど、そんなことのためにこんなに頑張るわけないでしょ」

 何だか、怒るポイントが違うと思う。そう思ったが口には出さずにおく。そして、彼の言った意味について考えた。

 もしも魔力を創ることが目的でないのならば、何だというのだろう。だが、訊ねるのも(しゃく)に思えた。グレンたちがここにいるなら、先に彼らを見つけてからシェリーのところに乗り込んだ方が確実に彼女を助けられるだろう。だが、どうしよう? 肝心の自分がどこにいるのかさえ、クライドには解っていない。

 この少年に頼んだとしても教えてくれないだろうし、クライドとしてもこんな卑怯で利己的な少年に頼みたくはなかった。自力で何とかするしかない。自力で、この真っ白な密室から出なくてはならない。シェリーは人質だから、よほどクライドが事を荒立てない限りは生かして餌にするだろう。ひとまず無事でい続ける可能性が高いことに安堵して、頭がさえてきた。

「あ。レンティーノ、クライドに何か言う?」

「ええ。貸してください、ミンイェン」

 電話の向こうで二人が会話している声がした。少年の名前はミンイェンというらしかった。クライドは誰が見ているわけでもないのに身構え、レンティーノに話しかける。

「何の用」

「すみません、クライド。貴方を罠にはめるようなことをしてしまったことは、謝ります。ですがきっと貴方は、お願いしたところでそうやすやすとエナークまできて下さらなかったでしょう」

「当然だろ。何されるか解んないんだから」

 いきなり謝られて拍子抜けするが、謝るような器量があるのなら最初から平和的な交渉を試みてほしかった。レンティーノは理知的な交渉が得意そうだから、彼が真摯に訴えてくれればもしかしたら『協力』の可能性はあったかもしれない。

「安心してください。私達は協力をお願いしたいのであり、貴方に傷ついて頂きたいわけではありません。勿論、協力していただければシェリーさんは無事にお返しします。彼女は別室で、私の友人と話していますよ。結構仲良くなってしまったようです」

 最後の方は笑いながら、レンティーノは言う。彼はクライドに対する友好的な態度を、ここにきても変えることはなかった。

 彼はいつから、クライドを追う立場だったのだろう。出会った時からそうだったのだろうか。それとも、再会するまでの間に『ミンイェン』に丸め込まれたのだろうか。

 この人とも、仲良くやれたかもしれなかったのに。ハビが離れていってしまった時と、同じような悲しみが胸を満たした。けれどいくら悲しんでみても残念がってみても、結局はクライドもレンティーノも別世界の人間で、進むべき道はきっと正反対なのだ。

「……俺に、何するつもり?」

「ひみつ。ばいばい、クライド!」

 訊ねればミンイェンと呼ばれた少年の声がして、一方的に電話が切られた。あの少年は、本当に馬が合わない奴だと思う。この先何が起こっても、こいつの言うことだけは聞きたくない。

 それにしても、厄介なことになった。クライドは(しばら)く携帯を見つめていたが、ふと部屋の中に自分の荷物がないことに気づく。着替えもなければ、タオルなどもない。今ある持ち物は携帯と財布、そして腕時計だけだった。この腕時計は出がけに慌ててつけてきた、本当はハビに返すはずだったアンティークの腕時計である。

 とにかく、この部屋から出なくてはならない。クライドは一つでも多くこの部屋の情報を入手して、それを元に部屋から出る必要があった。

 クライドはまず、部屋の広さからはかることにした。部屋は広い長方形をしていて、長方形でいう縦の長さは大股で五歩、横は八歩ぐらいである。学校ぐらいの広さがないと、こんな部屋はいくつも作れないと思う。建物は大規模で、なおかつ直方体をしていそうだ。そう考えると、首都で見た高層ビル群が頭に浮かんでくる。これは、高層ビルの部屋なのだろうか? 窓がないから高さは分からない。

 クライドはシャワールームを物色し、バスタブの栓を繋いでいるチェーンを取った。何かに使えるかもしれない。ベッドの下には細い針金が落ちていた。用途は思いつかないが、一応持っていたほうが良さそうだ。他にも洗面台のキャビネットにあった歯磨き粉や、部屋の隅に落ちていた紙切れなどをポケットに詰め込む。ベッドと壁との隙間にボールペンが落ちているのを見つけたから、それはポケットに入れずに片手に持ってクライドはベッドに座った。

 使えそうなものを取れるだけ取ってから、クライドはこの部屋から出ることを考える。携帯の時計を覗けば、今が七月二十八日の午前九時を少し過ぎたところだというのが解った。しかし、よく考えれば国際電話の番号がエナークで通ったのだから、ここはエナークだ。設定を触って時計の表示をエナークに変えると、まだ二十七日の午後九時だった。半日ほども眠っていたのは疲れのせいか、さもなくば薬品の影響かもしれない。どちらにしてもとてつもなく時間を無駄にした気がする。苛立ったクライドは何も変化を見せない壁を蹴りつけた。それから、ふと壁を蹴った姿勢のまま足を止める。

「……そっか、壁の厚さだ」

 ミンイェンという変な少年と電話していたときに殴った壁は、まさしく壁だった。けれど、今蹴った壁は何となく薄い感じがした。音の感じで、壁の厚さが違うのがわかる。多分、壁が一番薄いところがドアになっているか、もしくは隣の部屋に繋がっている。一番厚いところは、外壁や基礎部分になっているのだろう。

 クライドは、壁を拳で叩きながら部屋を一周した。壁が薄くなっていればコンコンと軽い音がしたし、壁が厚いところになれば、手が痛くなるだけで音がしない。音がするとすれば、それは低くて鈍い音だ。

 気になるところにボールペンでバツ印をつけながら一周部屋を回れば、何となく部屋の概要が分かってきた気がする。拾っておいた紙に、ボールペンで四角をかいた。その中に、ベッドを意味する長方形を書く。

 ベッドの頭の方は壁にぴったりとくっつけられているが、その壁はクライドの調査によると、この部屋を囲っている壁の中で最も厚い壁だった。ベッドを意味する長方形の右隣に、触れるか触れないかのぎりぎりの線を引く。線から右は斜線で塗りつぶし、シャワールームと書いておく。この図だと、ベッドの足側に立てば、左側がシャワールームになる。それを確認し、クライドは続きを書いた。

 ベッドの足元からみれば見て右サイドになる、洗面台のある壁は微妙な厚さだった。しかし、ベッドの足元になる壁には薄いところと極端に薄いところがあった。左サイドの壁よりも、ここが怪しいとクライドはにらむ。

 紙をベッドの上に放置して、ボールペンはポケットに入れた。そしてクライドは、ベッドの足もとにあたる壁まで歩いた。ひときわ大きくつけておいたバツ印が、一番壁が薄そうな場所だというしるしである。

「さて、これを…… どうするか!」

 呟きながら、最後の言葉と同時に壁を力一杯蹴りつけた。壁は確かにへこむ感じがしたに、表面的には何も無いように見えた。

 クライドは蹴っても無駄かと思い、ベッドサイドまで後退した。そこから助走をつければ、勢いで外まで出られるかもしれない。大きく深呼吸し、走り出す。

 壁に体当たりする瞬間に身体を丸め、肩から壁に突っ込んだ。勢いをつけすぎて、クライドは本当にそのまま壁ごと外に出ることが出来た。清潔感あふれるエタノールの匂いが、廊下にまで広がっている。クライドは立ち上がり、ずきずきと痛む身体を押さえながら今までいた部屋を振り返った。

「……は、何だこれ?」

 クライドは壁を破ったはずだった。現に、へこんだ壁はクライドの足の下にあり、酷くひしゃげている。よく見ればこれは、壁というよりドアだった。そこまで確認できたし、決して見間違いではない。

 それなのに、クライドが見た部屋には壁があった。恐る恐る近づいて、壁に手を伸ばせば、クライドの手は壁の中に飲み込まれた。

「うわ」

 思わず声を発し、手を引っ込める。真っ白な壁は相変わらずそこにあったが、触れれば実体のないもののようにクライドの指を通した。何なのだろう、これは。ここは人工魔力の研究所だから、もしかしたらこれも魔法かもしれない。

 研究員に見つかったら不味いと思い、クライドは壊したドアを部屋の中に押し込んでおいた。部屋に戻って鏡を割り、その破片を武器として隠し持っておこうかとも考えたが、そうやって物音を立てたら誰かに気づかれそうで怖かったのでやめた。

 廊下は一面真っ白だったが、よく見れば小指の爪ほどの小さな番号が目線の高さあたりの位置に一定の間隔で振ってあった。クライドのいた部屋の壁には、1096という数字が書かれている。これはもしかしたら、部屋番号なのだろうか?

 廊下をずんずん歩いていくと、番号ではなく文字が書いてあるところを発見した。ディアダ語とエフリッシュ語で、『備品庫』と書いてある。手を伸ばしてみれば、壁の中に指先が入った。備品庫の物理的なドアは開いているようだ。

 中に研究員がいるのかどうかは疑問だったが、いたとしても魔法を使えば足止めしたり気絶させたりできる。そんな無謀なことを考えつつ、クライドは足音を忍ばせて白い壁を抜けた。一通り見たが、部屋の中には誰もいない。安堵し、クライドはそこにあるものを物色した。

 サイズの違う白衣がたくさんあり、研究に使うらしい紙やプリンタのインク、グラフ用紙などがきちんとそろえて置かれている。理科の実験で使ったようなビーカーや、得体の知れない薬品も沢山ある。クライドは手頃な大きさの白衣を拝借し、研究員に扮装することに決めた。

 顔を隠すものが欲しかったが、誰かが置き忘れた眼鏡以外にはありそうもなかった。眼鏡はちゃんと度が入っている普通の眼鏡だったので、目の良いクライドがかけるとかえって足元がふらつき、危ないことになった。想像でレンズを度なしに変えてもよかったが、眼鏡程度で変装になるのかよく考えてやはりやめておいた。ステンレス製のはさみや、白いグリップのカッターナイフなどを白衣のポケットに入れ、クライドはその場を後にする。

 無人の廊下には、人の気配がない。しかしどこかで物音を聞いた気がして、クライドは立ち止まる。壁を殴りつけているような、物音。誰かが暴れているようだ。

 物音のする方に歩いてみた。危険は承知だった。けれど、直感めいたものを感じた。音のするのはクライドがいた部屋の近くで、1068と書かれた部屋だった。

 クライドがドアだと思われる壁を叩くと、中にいた人は暴れるのをやめた。防音設備がととのっているようで、その人が何か言っているとしても何も聞こえない。クライドがもう一度ドアを叩こうとした時、誰かが走ってくるような足音を床から感じ取った。

――中の人が助走している。

 反射的に飛びのくと、クライドと同じ方式で誰かが飛び出してきた。

 クライドはどきりとした。見覚えのある筋肉質な背中と金髪。見覚えのある服を着ている。クライドが彼の十七歳の誕生日にプレゼントした、黒のTシャツだ。

「……お前、まさか」

 予感は的中した。ひしゃげたドアの上から起き上がったのは、紛れもなく友人のグレンだったのだ。

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