第十七話 進むべき道は
レンティーノは、傍目に見れば真面目そうに運転している。けれど、どこをどう間違えているのか、彼は相変わらず恐ろしいぐらいのスピードで都会の路上を突っ走っていた。映画に出てくるカーチェイスのようだ。
太陽が西に傾けば傾くほど、クライドの緊張感は高まった。時間の流れを否応にも感じ、シェリーのことで頭がいっぱいになるからだった。とうとう夕陽が沈んで緊張がピークに達した時、唐突に車が止まった。
クライドは、またしてもダッシュボードにむかって発射された。ただ、今回はシートベルトを握りしめていたおかげで胸が圧迫されるだけで済んだ。
車が止まったのは潮風と排気ガスのにおいがする港で、レンティーノは車をとめたのに降りることはしなかった。代わりに運転席の窓を開けて、係員のような人と話をしている。指示された駐車場らしいところに車を停めて降りると、レンティーノは鞄をひとつだけ持ってターミナルビルへ向かった。クライドも一緒についていく。
カウンターではパスポートを見せるように言われたので、クライドは係員にパスポートを提示した。思えば、クライドがこうして正当な手続きを踏んで外国に入るのは、初めてである。押してもらった出国スタンプが妙に誇らしい。レンティーノはクライドを置いてもう一度車に戻り、今度はそちらの出国審査を受けているようだった。その間クライドはターミナルビルの免税店を見て、様々な言語で書かれた案内板を読んで過ごしていた。レンティーノが戻ってくると、さっそく船に乗り込むことになった。
暖色の明かりに彩られた船室には、様々な客がいた。ガラス張りになった場所から外を見れば、右舷も左舷もカップルの溜まり場になっている。通路を見ればビジネスマンらしい男性が携帯を片手に話しながら歩いていたり、ノートパソコンを小脇に抱えた若い男性がコーヒーを飲める席を探していたりした。座れる席は人数分あるのだろうが、見事にグループとグループの間を一個飛ばしにした席しか空いていないので二人で座れそうな場所は限られている。
クライドは、こんなに人が多い空間でくつろごうとは思えなかった。何時間も歩き詰めだったので猛烈に疲れてはいたが、もう少し立っていようか。
「船の上から眺める星空は、格別に良いものなのですよ。周りに邪魔をする光源がありませんから、星が綺麗に見えます」
レンティーノはクライドの視線をたどり、右舷側を見ながら言った。クライドは感心したが、あの恋人たちの中に混じってレンティーノと一緒に星を眺める気にはならなかった。
歩いているとちょうど近くのカップルが席を立って右舷へ向かっていったので、クライドは空いたその席でレンティーノと話すことにした。レンティーノはクライドの隣に腰掛けると、胸ポケットから携帯を取り出そうとしてふと手を止めた。
「……ない、ですね」
「え、どうしました?」
「どうやらネクタイピンを落としてしまったようです。すぐ探してきますので、ここで待っていてください」
レンティーノはすっと軽やかにソファから立ち上がると、すたすたと歩いていってしまった。クライドは呆然と彼を見送り、それから少し退屈になった。
一瞬だけサラに電話しようかという気も起きたが、この状況を一体どうやって電話するというのだろう。もしノエルとはぐれたなんていう現状を電話したら、サラに余計な心配をかけることになる。
やがてレンティーノが戻ってきた。彼のネクタイは、きっちりと銀のピンで留められている。どうやら、ちゃんと見つかったようだ。
「すみません、クライド。ご迷惑をおかけしましたね。車の運転席の下にありました」
「見つかってよかったですね」
「ええ。昨年の誕生日に、友人から頂いた大切なものですから」
レンティーノは微笑すると、クライドの携帯に目を留める。
「携帯電話、持っていらしたのですね」
「うん。メールより電話の件数が圧倒的に多いんですけどね」
気が抜けていたので、中途半端に丁寧な言葉遣いになってしまった。
レンティーノは気にした様子もなく、自分の携帯を取り出して開きながらにこやかにクライドに話しかけてくる。
「よろしければ私の連絡先をお伝えしましょうか。はぐれるようなことがあったら困りますし、何か困ったことがあったらすぐに連絡していただきたいですから」
「え? あ、どうも」
彼から番号を教えてくれるなんて。なんだか意外だ。気後れして電話することはないのだろうと思いつつも、クライドは頷いた。この先も人探しを続けるのだから、知り合いは多い方がいい。レンティーノはクライドの携帯の設定を開くように言い、慣れた手つきで何か設定を加えてから自分の携帯を操作した。ものの一分ほどで、レンティーノは携帯をポケットにしまった。
「送りました。受け取りをお願いします」
「えっ? 今何やったんですか」
「近距離無線通信の機能を使いました」
「凄い…… これで登録できるんですね」
「ええ、受け取りボタンさえ押していただければ。こう見えて、電子機器の扱いは得意なのですよ」
「思うんですけど、めちゃくちゃ意外ですよね。古い本に囲まれて、なんだかこう、古文書の解読とかやってそうに見えるのに」
「古い書物はとても好きですから、クライドの予想も当たっています」
和やかな会話が途切れ、クライドは少し俯いた。船に載ってしまったのだから、もう焦っても仕方ない。それでも、一秒でも早く地上に降り立ってシェリーを探したかった。
そんなクライドの気持ちを見透かし、慰めてくれようとしているかのようにレンティーノは穏やかな姿勢を崩さなかった。
「快速ですが、やはりエナークは遠いです。ラジェルナの時間で言えば、深夜二時頃の到着になるでしょうね。エナークでは時間が半日程違いますから、現地では午後二時頃だと思います。到着までは不安でしょうが、早く着くことを祈ってください」
携帯をポケットに仕舞いつつ、長い脚を組むレンティーノ。彼は微笑を絶やさず、船内の様子を優雅な仕草でゆったりと眺めている。
クライドは、そういえば受け取りの操作をしろと言われていたのを思い出して開きっぱなしになっていた携帯の画面を見た。受け取り許可をすればすぐに、レンティーノの名前と電話番号、それからメールアドレスの情報が登録された。電話番号は二つあったが、多分その片方は、自宅か会社の電話番号だろう。
黙っていると余計に考え事が尽きない。ノエルはどうしているだろう。寄ってくる女の子達を上手く振り切って、ちゃんと逃げることが出来ただろうか? そして、レンティーノが派遣した『友人』にちゃんと見つけてもらえただろうか。
ノエルならもしものことがあっても、クライドの人相だけを手がかりに追ってくることができそうだから良いとしよう。目立つ銀色の目に、都会らしくない服装なのでクライドのことはきっと通行人が覚えている。問題は、残る二人だった。
「大丈夫かな、皆」
独り言を呟きながら、船内の天井を見上げた。煌びやかな明かりに照らし出された天井は淡いクリーム色で、上品な様子の模様が描かれていた。
クライドの携帯は相変わらず電源が入っていないかのように沈黙していた。電波状況をあらわすアンテナのマークは、この場が情報の受信に最適だというしるしを出しているのに。
誰かが無事でこちらへ向かっているという、確かな情報が欲しかった。不安でどうにかなりそうだ。シェリーは無事だろうか。ノエルは大丈夫だろうか。グレンは、アンソニーは、サラは。
「きゃっ」
近くで小さな悲鳴が聞こえ、顔を上げるとクライドの目の前で女の子が転んでいた。見た目は四、五歳だろうか。花柄のワンピースを着ている。
クライドはそっと席から腰を浮かし、女の子を助け起こした。床はじゅうたん張りだから、女の子は膝をすりむいたりはしていないようだった。ソファから前かがみになった姿勢で女の子を見て、クライドは軽く首をかしげる。こうすることで視線の高さは同じぐらいになるから、クライドは女の子の透き通るような青い瞳を真っ直ぐ見つめることになる。
「どっか痛くないか?」
「う……」
訊ねると女の子は痛そうに顔をしかめて泣きそうになるが、クライドを見て毅然として首を横に振った。
こんな小さな女の子でさえ、辛いのを我慢して前に進もうとしている。それなのにクライドの頭の中といったら心配ばかりで、前進のことなどまるでない。この小さくて強いレディにならって、そろそろ自分も弱音を捨てなければ。
幼い女の子は泣きそうな顔のまま、ぺこりとお辞儀して走っていった。将来この女の子は、シェリーのように気が強いタイプになるのだろうと、何となく予想できた。
女の子が駆けていった先には、その両親らしい大人がいる。父親だと思われる茶髪の背が高い男性が、こちらに向かって一度だけ小さく礼をした。クライドも彼に会釈して、それきりクライドと女の子の家族は交流を失くした。
クライドは唐突に、彗星の軌道を思い浮かべた。何十年に一回だけ、地球の周回軌道と交差するその時にだけ彗星が見られると授業で習った。
人間関係なんて、実はみんなそうなんじゃないだろうか。
軌道はそれぞれ全く別の方向に決まっていて、一緒にいると思っていたのは錯覚なのだ。たった一瞬だけ軌道が重なったことを、まるで永遠のように感じてしまっていただけだ。女の子がクライドの前で転び、それを助けた瞬間も、グレンと過ごした幼少期からの時間も、どちらも双方の軌道が交わった『一瞬』の出来事に過ぎなかったのかもしれない。
ノエルやアンソニーだってそうだ。シェリーも、サラも。皆との間にあった、何年もの長い『一瞬』が終わろうとしている。
「んん、やばいな……」
軽く唸りながら呟いて、クライドは自分の膝に額をくっつけた。後ろ向きに考えたところでどうにもならないというのに、マイナス思考が止まらない。
「どうかなさいましたか?」
「あの、すみません。俺、今から寝るかもです」
というかもう、寝るしかないと思った。歩き疲れてくたくたで、身体は確実に休養を求めている。考えても考えても心が痛いだけなのだから、目を閉じて強引に世界から自分を切り離さなければ。
レンティーノは穏やかに微笑する。姿勢よくこちらを見下ろしている彼は、長い指で静かに携帯を取り出した。ちらりと見えた画面に何らかのメッセージの通知があった。本当は多忙な人なのだろう、それなのに拾ってくれて本当に助かった。
「着いたら起こして差し上げますから、ごゆっくり。船室にご案内しましょうか?」
「いえ、もう歩く気力もないからここでいいです。ありがとうございます」
「おやすみなさい、クライド」
静かな調子で語られる言葉のひとつひとつが、クライドの眠気を誘う。この調子で彼が本や詩を朗読してくれれば、すぐに寝付けるのではないかと密かに思ったりした。
思ったりしたが、そんなことをしてもらえなくてもクライドは既に眠い。歩きつかれ、考え疲れ、クライドはもう何もかも投げて眠りに沈みたかった。
目の前にいるレンティーノが何をしているのか考えながら、クライドは疲れた体を無理に曲げた変な体勢のままで眠りについた。