第十四話 影
まだ午前中だが、すぐに片付けなくてはならない仕事がいくつかある。マーティンは少し考えて、頭の中でタスクを組み上げた。最優先のクライド=カルヴァートの件はほとんど一日がかりだから手早く効率的に片付けてしまいたいが、残念なことに相手が生き物なのでデスクワークのように単純にはいかない。粘り強く観察し、行動パターンを予測するのだ。
ここまではおおよそ予想通りに動いているらしいと報告されているので、油断のないようにチェックポイントに潜んで待とうと思う。この無駄な待ち時間がマーティンは嫌いだ。
黒い野球帽を深く被って、マーティンは腕組をして路地裏に佇んでいた。GPS機器に表示された点がだんだん近づいてくる。大通りを遡って倉庫の方面に来る魂胆だろう、読み通りだ。
俯いていると首筋を流れる汗が気になる。目立つ青い髪は団子状にまとめて帽子に入れ込んでいるので、暑いことこの上なかった。舌打ちしながら何気なく腕に目をやれば、黒の半袖から覗いていた腕は日に焼けて赤くなり始めていた。この路地裏に入る前は、散々歩かされた。
携帯していた日焼け止め用の軟膏を指に少しとって塗りながら、マーティンは野球帽のつばを少し上げる。交差点を乱暴に曲がっていく白い軽トラックに、同僚が乗っているのが見えた。
わざと目撃情報を残させる目的で、派手な格好をさせて無駄に大回りさせたのだ。睡眠薬を投与したあのシェリーとかいう小娘は、朦朧としつつも起き上がってわめくぐらいの元気はあったから、薬品体制がないという結社の報告は誤りだったのかもしれない。それとも、使った睡眠薬との相性の問題か。
元エルフだという研究しがいのありそうなサンプルだが、生け捕りが目的なので解剖できないのが残念だ。さて、そろそろ行動開始しなければ。
すべるように大通りをぬけて別の路地に入り込み、そこで自分の姿を変える。自分と全く違う姿を念じればいいのだ。閉じた目をゆっくりと開けば、視界の端をちらついていた蒼い髪が金色に変わっていることを確認できる。
このまま躍り出ても消しきれない魔力ですぐに見破られるので、マーティンはポケットに入れていた合金のネックレスを首にかける。あの海賊上がりの同僚が持っていた『お守り』を改良したものだ。つけている間は首が重くて仕方ないが、魔法で人を騙すにはこうするしかない。
結社の『作戦会議』では、あの赤毛の小娘を誘拐するところがスタートだったはずだ。どうせ誘拐するならあんなぺったんこの子供よりも、もう一人の候補として挙がっていたジュノア人の方がまだテンションが上がる気がしたが、彼女の特徴が薄いので却下になった。痩せすぎのシェリーよりはもう一人の方がやや女らしい体型をしているが、どうも亜麻色の髪では目立たなくて『目印』になりにくいという意見が優勢だった。確かにそうかもしれない。
どちらにせよ、あのジュノア人だってまだまだ体つきも中身も『女』ではなくただの子供なのだ。去年見かけたときに『胸のサイズが倍になったら相手してやる』と言ってみたら、怒るでもなく言い返すでもなく、ひどくショックを受けた顔をしていた。思い出すと面白い。同じことをあの半分ジュノアの血が入ったインテリ男の前で言ってやれば、涼しい顔をぐしゃぐしゃに歪めて激怒するに違いない。それはそれで見てみたいが、目的は別にあるのだからあまり寄り道はしていられない。
愛飲のタバコを唇にくわえ、金髪のラジェルナ人に姿を変えたマーティンは被っていた野球帽を脱いだ。脱いだ帽子を置く場所に困り、三秒考えてその辺りに放り捨てた。そして、ポケットのライターを取り出して石を弾く。
暗い路地裏で、マーティンはクライドとその仲間が来るのを待っていた。歩く速度から考えて、十分ほどで到着する。読み通り仲間割れして派手に喧嘩して、見事に踊ってくれているあの一行はいい玩具だ。このところ退屈な仕事ばかりだったから、久々に楽しい。
時計を確認しようと左手腕に視線を落としたちょうどその時、ポケットに入れていた携帯が震えた。任務のたびその辺りに捨ててしまうので携帯に番号は登録していないが、相手は誰か解っている。弟兼友人、社長兼チーフ。そんな、マーティンの『ボス』だ。前にいちどボスと呼んでみたら相手が照れたので、それから時々ボスと呼んでからかってやっている。ボスは一体、何の用で電話をくれたのだろう?
「なんだ、ボス」
「マーティン、もうコンタクトした?」
コンタクトレンズの省略なのか、接触したかどうかの確認か。さすがに付き合いが長くても、咄嗟に突飛な質問を食らうと意図を把握できないこともある。聞き返そうとすると、相手から説明された。
「ほら、行きにあげたはずだよ? ラジェルナン・ブルーのカラコン」
あ。
思わず呟くと、電話の向こうでボスはため息をついた。小さいくせに偉そうな、彼の顔が脳裏に浮かぶ。彼は今、電話機を持っていないほうの手を腰にやって、ふくれっ面でマーティンの返答を待っているのだろう。
マーティンの目は蒼い。蒼いが、大半のラジェルナ人のそれのような空色をしていない。例えて言うなら、濁った染料のような青だ。時々、こんな色のペンキに塗られた遊具が公園にあったりする。
生まれた時からこんな色だったのだが、人はこの目を見てよく不思議そうな顔をする。自分の瞳が変な色をしているのだと、マーティンはちゃんと自覚していた。この目を見れば、自身の出自の影響で他人の目の色に敏感なクライドは、マーティンの正体を即座に嗅ぎつけるだろう。忘れていた、うかつだった。
「今からする」
「忘れてたでしょ。あーあ、ツメが甘いんだから! うまくやってね、マーティン!」
「まかせときな」
言いつつ、こちらから電話を切った。ポケットに携帯を戻し、戻しながらポケットの中にあるもう一つのものに触れた。カラーレンズの装用は、実はまだ二回目だ。だが、手鏡も使わずにつけることができた。しばらく視界がぼやけていたが、やがて焦点は定まっていつもと同じようになる。何度か瞬きしていると、目的の少年がやってくるのが見えた。相変わらず貧乏そうな古いTシャツを着て、例のジュノアの血を引くインテリを引き連れている。
マーティンは、喘息の薬の吸入器に似た物をポケットから取り出した。中身はクリプトンをメインに調剤してある。吸入すると、声を低くすることができるのだ。特殊な改良をしてあるので、効果は吸入から三十分後ぐらいまで期待できる。
身体は自由に変えられるし、目の色はカラーレンズで隠せるし、声だっていじることができる。あとは、自分の演技力次第だ。
「あの」
クライドは、老婆に話しかけている。あの老婆は、耳が聞こえていない。なぜなら、先回りしたマーティンが洗脳の魔法をかけておいたからだ。あの老婆はマーティンに操られていて、マーティンが魔法を解くまで絶対に外部の音を聞き取ることができない。
人工魔力は役に立つが、使えば使うほど頭痛と吐き気が酷くなった。更に酷くなると血を吐くこともある。数日立ち上がれないぐらいなら気合でなんとかするが、意識が飛んだ時だけは焦った。敵陣でそんな醜態を晒しては、自分以外の命にもかかわる。九年共にしたこの力にはもうすっかり慣れているから、限界がどこかは自分で分かる。まだ余裕だ。
少しふらつく足元を気にしながら、マーティンはクライドに話しかける。上手くいった。彼は食いつくように、マーティンに情報を求めてきたのだ。
クライドは必死にマーティンの同僚について話し始めた。こちらはもう誰がどこにいるか解っているので、適当に相槌を打った。
結社に直接クライドをおびきだすための、おとり作戦。一般的には卑怯だとされる手段だ。だがそれを使うことに抵抗はなかったし、むしろ楽しいとマーティンは思っていた。大切な人を突然奪われる、その気持ちをあのぬるま湯に漬かったようなガキ共に思い知らせてやるのだ。
本当はクライドよりも先に、イノセント=エクルストンの弟であるグレンに会いたかった。あのイノセント=エクルストンの面影が色濃い男の、絶望に歪む顔を見たい。けれど一番のターゲットはクライドだから、我侭は言っていられない。
クライドとその仲間は、至極あっさりとマーティンの言葉を信用した。そして、狙い通りスウェントへ向かっていった。ここまでは、完璧に計算どおりだ。
やっと食後のデザートタイムだ、グレン=エクルストンを探しに行こう。マーティンはにやりと笑んで、また別の男に姿を変えた。今度は、漁師風の日焼けした男になってみたのだった。
クライドと出会った交差点を、市街地に向かって進む。GPSで探知するまでもなく、刺々しい魔力を隠しもしないグレン=エクルストンは見つかった。昔のロックシンガーのようなダサくて邪魔そうな長い金髪に、程よく筋肉のついた長身は目立つ。家出かと思うような大荷物を背負った巻き毛の少年も一緒だ。グレンは道行く人に、片っ端から質問をぶつけていた。マーティンは薬剤を吸入し、効果が切れそうになっていた低い声を保った。
「白の軽トラみなかったか? 探してるんだ、女の子が乗ってる」
上品そうな老女に声をかけるグレン=エクルストンを遠目に見ながら近づいた。あんな無礼な聞き方で誰かが答えるはずがないだろう、と我ながら珍しく一般論が頭をよぎる。しかし、マーティンにしても他人に敬意を払っているかといわれれば否だ。老女は迷惑そうにグレンから離れていき、グレンは荒々しい足取りで今度は反対方向から歩いてきた若い男に声をかける。
一旦は通りすぎるフリをしてみようと、マーティンはグレンとその仲間を視界に入れずに歩いた。すると、巻き毛の少年がマーティンのあとを追いかけてきて肩を叩いて注意を惹こうとした。普段なら迷わず殴り倒すか銃に手をかけるところだが、今日は演技で笑みを浮かべて振り返る。
「お、なんだ。ヒッチハイクの旅か?」
「人を探しているんです。白い軽トラックに乗せられた女の子を知りませんか? 運転手は若い黒髪の男で、赤い鉢巻みたいなのをつけています」
丁寧に尋ねた若干声が高めの少年は、そういえば去年マーティンに下らない魔法をかけて目を見えなくした最低なガキだった。思い出したらむかついてきたので、マーティンはわざと満面の笑みを浮かべて彼に歩み寄った。
「ああ、運転が荒いからよく目立ったよ。ここに来る途中にあったがな、降りて荷物まとめてたぞ」
一応、彼らも誘導する予定になっている。だからマーティンは、グレンとその仲間にもちゃんと道を教えてやらなければならない。しかし、ここでちょっとした遊び心が頭をもたげる。
からかってやろうか、こいつら嫌いだし。
「どこで降りたんだ」
若い男に逃げられたグレンが真剣な目でこちらに歩み寄ってくるのを見て、マーティンは笑いを堪えるのに必死だった。にやつきそうな顔を無理やり真顔に整え、真っすぐにグレンを見て答える。
「ホテルの前だよ」
心の中では一人で大笑い。真顔のマーティンをみてグレンが呆けた顔で固まり、あのくるくるした金髪の少年(資料で見たはずだが興味が薄すぎて名前を覚えていない)は、あからさまに心配そうな顔をした。
もう無理だ、耐えられない。声を上げてグレンを笑い飛ばしたい。彼のこの呆けた顔を写真にとっておけば、マーティンは三日後にも五日後にも一人でげらげら笑っているだろう。
「ホテルったって色々あるだろ! リゾートホテルを知らないのか? ん? それとも、そういう事しか頭にないのか? ははっ、若いねえ」
耐えられなくなって腹を抱えて笑っていると、グレンは面白いぐらいに簡単に怒りをあらわにした。ちゃんとデータにあった、彼は短気なのだと。
「ってめえ!」
尤も、データを見る前からグレンが短気なのは知っていた。何せ、あの殺人鬼イノセント=エクルストンの弟なのだ。そんな男が、冷静で思慮深い男であるはずが無い。
殴りかかろうとしてくるグレン。応戦しようと身構えると、くるくるした金髪の少年が、グレンを後ろから羽交い絞めにした。
「グレン、だめ! 抑えてっ、この人大事な情報源だよ!」
にやりと笑ってひらひらと片手を振ってやれば、グレンは渋々引き下がった。だが彼はまだ、縄張りを荒らされた野生動物のように、険悪な目つきをしている。
「ごめんなさい、僕の連れ、気が動転してるんです…… 教えてください。どのホテルの近くなんですか」
意外にこの小さい少年の方が、グレンよりもしっかりしているようだ。彼は取り乱さずに、じっとマーティンを見上げている。マーティンはまたこみ上げてきた笑いを必死に堪えながら、金髪の小さい少年を見下ろした。
先ほどのグレンは、本当に滑稽だった。よく笑わせてもらったのでマーティンは機嫌がよくなった。
「カディラ・オブ・スウェントっていう高級リゾートだ。軽トラはボロボロだったし、運転してた若い奴もあんまり金は持ってなさそうだから、あの嬢ちゃんとよろしくやるにしたってあそこには泊まれないだろうな。空港行きのシャトルバスがこのホテルの敷地内で発着しているから、それが目的かもしれん」
「ありがとうございます、探してみます」
「頑張れよお、若いの」
言い置いて、ひらりと身を翻す。直接空港だと教えてやってもよかったが、グレンをもう少し絶望の中でのたうち回らせたかった。カディラ・オブ・スウェントのシャトルバス発着場に誘導担当の仲間を一人派遣しながら肩越しに振り返ると、グレンとその仲間が口論しているのが視界に入る。気にせずに歩み去った。どうせあの二人にウィフト語は分からないのだ、電話の内容を聞かれていても何も問題はない。
笑ったせいで薬剤の効果が切れそうだった。それに、コンタクトもあまり長い間装用していたくない。思い出し笑いを繰り返しながら、マーティンはスウェント国際空港を目指した。靴屋の駐車場に適当に停めておいた中古車で、クライドたちの後を追う。信号待ちで止まった時、マーティンはコンタクトを外しながら『ボス』に電話をかけた。
「おう、ミンイェン。首尾よくはこんだ」
「よかった! マーティン、やっぱ頼れる」
無邪気にはしゃぐ顔が、すぐ脳裏に浮かんできた。いつもミンイェンは、人の手柄を自分のことのように喜んでくれる。そこが子供みたいで煩わしいが、ミンイェンはやはり弟のような存在だ。面と向かって言いたくはないが、可愛い。
「任せな、ボス」
「もう、その呼び方やめてよ。じゃあ、あとは空港で何とかしてね。首都に誘導したら、後は」
誘導役をチェンジ。そしてそのまま、雑事を済ませてからミンイェンと合流。全部解っている。だから、マーティンはスウェントであの四人を導けばもうエナークへ帰ってよいのだ。
早く仕事をして、早く帰りたい。この町にいると、イノセント=エクルストンにどうしても気が向いてしまうのだ。ここに根ざして生きていくことを決めた様子のイノセント=エクルストンはいつでも殺せる。今はクライドの件を優先しなければならないから、私情は押さえなければならない。
「会議の内容は全部頭に入ってる。じゃあな」
「ばいばい!」
元気良く電話を切ったミンイェンに、半分呆れて、けれど半分は安心してため息をついた。彼がいると、どうも殺意がそげる。強烈な殺意をイノセント=エクルストンに向けていても、ミンイェンのあどけない声を聞くとそちらを優先しなければならないと思えてくる。
「さて…… 要領よくやりな、銀目。仕事増やすなよ」
にやりと笑いながら、マーティンは停めてあった軽自動車に乗り込んだ。用が終わったら乗り捨てするために所有者がわからない車を手配した。エンジンをかけて倉庫街を出発したら大きくハンドルを切る。カーブを必要以上に大きく曲がって、乱暴な運転でマーティンはクライドたちを追った。
空港にたどり着く前に、クライドとそのインテリの友達(確か名前は何とかフォードだったと思う)を追い越した。制限速度を守ってのそのそ運転しているタクシーの後部座席で、二人は硬い顔で何か話していた。予想外に足が速いクライドと何とかフォードに、よしよしと思う。これなら今日中に全て片付いてくれるかもしれないと思ったところで、先ほどグレンたちにわざと空港を教えなかったことを思い出す。マーティンは、結局は自分自身に面倒を吹っかけていたのだった。
舌打ちしつつ、ダッシュボードに手を沿わす。確か、安物のライターがあったはずだ。無性にタバコを吸いたい。
「お。あったあった」
片手でハンドルを握り、もう片方の手でタバコを引っ張り出す。愛飲の『ネイビー』がもう尽きそうだった。もともとはどこかの海軍で支給されていた煙草らしい。他にもいくつか吸う銘柄があるが、一番気に入っているのはこれだった。唇にタバコをくわえ、プラスチック製のライターで火をつける。息を吸い込めば、いつもの香りが身体に染み渡っていった。抜け道を使って空港まで急ぐ。
乱暴に、しかし順調に車を走らせていると、空港に到着した。駐車場に車を停めると、潮の匂いがしない空気が生ぬるく肌を撫でる。銃が入ったバッグを持って、すぐに車から降りた。排気ガスと熱気が立ち込める駐車場から早く逃げたい。マーティンは、そそくさと冷房の聞いたエントランスに入り込む。
空港の受付にいる女性や、旅行客などを細かくチェックする。一番変装しやすくて目撃者らしくなれるのは一体誰なのか、見極めるためだ。旅行客はすぐに空港を出て行ってしまうから、空港で誰かを待っている人とか客室乗務員に変装すれば良いと思う。けれど、女に変装するのは基本的に嫌だ。演技のアラが目立って相手に違和感を与えてしまう。
トイレに行こうとしている若いパイロットの制服に目をつけ、マーティンは彼を尾行した。旅行客も他のパイロットもいない男子トイレに、マーティンが目をつけているパイロットが入り込んだ。持っていたバッグから銃を取り出し、後ろからパイロットの頭を殴りつける。がつんと鈍い音がした。パイロットは低く呻いて倒れ、気を失う。銃で殴るのは単純に、気絶させそこなったときに脅すのに使えるからだ。
気を失ったパイロットから制服を剥ぎ取って着て、一旦魔力封じを外すとマーティンはパイロットの容姿を掏る。魔力封じをつけながらトイレの手洗い場につけてある鏡を覗けば、目の色以外は全てが今のパイロットと同じ格好になっていた。先ほどまで着ていた服のポケットからカラーレンズを取り出し、マーティンは服をバッグに詰め込んだ。カラーレンズを装用して、また目の色を隠せば準備は完了した。あとはパイロットが目を覚まさないように、睡眠薬を彼の口に含ませておけば終りだ。バッグの底からカプセルを取り出し、気絶した彼の半開きになった口に放り込む。
パイロットの制服には名札がついていて、それには【レッドライン航空 ケネス=ブラン】と記されていた。年齢は、自分と同じ程度だろうか。それとも、この男の方が年上なのだろうか。いずれにせよ、吸入用の薬剤を少し多目に使って声をより低くするのが良いだろう。二度も相手を騙すとなると、やはり技術がいる。念入りに彼らを騙さなければ。
トイレの個室に荷物を入れて、中から鍵をした。そして鍵のかかった個室の上から外に出て、今度はとなりの個室にパイロットを入れた。中から鍵をしてタンクに足をかけて、面倒でも上から出る。パイロットのかっちりした制服で登るのと、魔力封じをつけ外しするのであれば正直なところ前者の方が楽だ。魔力封じは外すのはいいが、つけるときに不快なのだ。
魔法を使えば使うほど、マーティンの身体は蝕まれていく。もともとこの力だって、望んでつけられたものではない。ただ、仲間たちの盾となり鉾となるためには必要な力だ。望んでいなくたって共存しなければならない。
携帯とカラーレンズ用のケースだけポケットに入れて、マーティンはトイレから出た。客室乗務員に挨拶されたので、微笑して手を振ってやった。ケネス=ブランの性格は全く知らないので、とりあえず気障っぽい感じを演じてみようと思ったのだった。
エントランスを歩き回って、入り口を見る。金髪と鳶色の二人組はまだこないようで、大きな鞄を持った旅行客たちがせわしなく行き交っていた。
「間もなく三番ゲートにて、搭乗手続きが始まります。ヴァル・セイナ行き、二三五便に搭乗される方は、お早めに三番ゲートにお越し下さい。間もなく……」
空港のアナウンスを聞きながら、マーティンはにやりと笑う。クライドたちはまだだろうか。同僚のデゼルトは、多分少し前にこの国の首都であるヴァル・セイナ行きの便に乗っただろう。このあとマーティンは、単独で一旦島に寄る。潰しておかなければいけない人間が、島の別荘でホームパーティーを開くのだ。マーティンの仕事はまだもう少し続く。
マーティンは、クライドを辛抱強く待っていた。待っている間、ヴァル・セイナ行きの便は何度も出発していった。マーティンが変装しているケネス=ブランという男は、今日から休暇らしい。仲間らしきパイロットが、何度もすれ違いざまに「良い休暇を」と言っていたのだ。
喉が渇いたので自販機に硬貨を入れた。紙コップに飲料を注ぐタイプの自販で、商品は清涼飲料水が殆どだった。あえて珈琲を選んでボタンを押す。自販機の水っぽいコーヒーなど普段は絶対に飲まないのは、コーヒーを淹れるのが職業になっている友人がいるせいで間違いない。
「すみません、少し良いですか?」
来た!
振り返ると、あの眼鏡の何とかフォードがいた。クライドと一緒にいた、大卒のインテリだ。大して興味を惹かないプロフィールなので名前をうろ覚えで済ませているが、問題ないだろう。マーティンは喘息の吸入薬を吸うふりをして、声を低くするクリプトンを吸入した。
「二〇九五便でしたら、今出たところですよ」
そういえば、結社にこんな喋り方をする男がいる。マーティンは、彼の物真似をするつもりでこの少年と喋ることにした。少年は微笑して、首を横に振る。
「人を探しているんです。赤毛の女の子と黒髪の男の二人組みで、男の方は額に赤い布を巻いていて、白衣を着ています。女の子は背が低くて、灰色の目をしています。綺麗に染めたベリーレッドで、去年公開の映画で女優のノーチェ・スルバランがやっていたような髪色です。心当たりはありませんか? 何時間か前に、ここに来たと思われるんですが」
的確な特徴を挙げて、マーティンに訊ねてくるこの少年。データの中では、この少年があの四人を率いるブレインという感じがした。まさしくそうなのだろう、彼の喋り方や声のトーンなどはどこまでも知性的だった。
いけ好かない。
なかなか進展しない、ペンフレンドなんだかペットなんだかわからないあのジュノア人の女を、目の前でいじめてやりたい衝動に駆られる。
「ああ、男の方に乗り場を聞かれたので答えました。女の子は放心した様子で、手を引かれるがまま男に連れられていました。彼らはヴァル・セイナ行きの飛行機に乗っていきましたよ、三十分ほど前に出た便だったと思います」
これで、作戦は半分成功したも同然だった。あとは彼らが飛行機に乗るか乗らないかで勝敗は決まる。クライドの家は貧乏だから、彼は旅費がないといって徒歩で首都まで向かうかもしれない。マーティンの頭の中で、クライドはそれくらい無茶な奴なのだ。何とかフォードに金を借りるなり奢らせる奪うなりして、とにかく飛行機に乗ってくれないと困る。
「ありがとうございました」
きっちりとお辞儀して、何とかフォードは駆けていった。彼の視線の先には、クライドがいる。あのインテリがなにやら説明をして、クライドは深く頷いた。そしてそのまま、まっすぐ受付に向かった。よかった、ちゃんと航空券を買うらしい。後は、グレンともう一人の仲間を誘導すれば良いだけだ。
にやりと人の悪い笑みを浮かべて、マーティンは持っていたカップに入っていた珈琲を飲み干した。水っぽくて、あまり美味しくない珈琲だった。カップをゴミ箱に捨てながら、ポケットの携帯で結社に連絡を入れる。
「ミンイェン、第二段階行け。先にクライド=カルヴァートとなんとかフォードを送った。グレン=エクルストンともう一匹については追って連絡する」
「了解!」
……楽しくなってきやがった。
マーティンは一人で笑いながら、グレンとアンソニーの到着を待つ。それはさながら、密やかに獲物を狙うハンターのようだとマーティンは思う。
睡眠薬の効果は、多く見積もって五時間。既に二時間ぐらい経過している気がするから、あと三時間で彼らがここにつくことを祈ろうか。