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第十一話 離別

 どこか遠くから、呼ばれている感じがする。しかし、クライドはそれに応じようという気になれなかった。

「……ド、クライド!」

 耳元で聞こえた声に飛び起きる。今のはグレンの声だ。

「何だよ、酔いはさめたかグレン?」

 笑い気味に言ってみれば、グレンはにやりと笑う。薄明るい宴会場は、少し前に見た時とちょっと雰囲気が違うような気がした。原因は、カーテンを閉め切った窓の外にあるようだ。カーテンの隙間から、白い光が見える。何かの照明だろうか? 漁船の照明をテストしているのかもしれないと、寝ぼけた頭でぼんやり思う。

「お前何時だと思ってるんだよ、今」

「え?」

 ポケットの携帯を取り出してみると、液晶画面には七時三五分という表示がある。辺りを見回してみれば、酒瓶が沢山転がっていた。泥酔していた漁師たちは、あのへろへろな状態から立ち直る間もなく遠洋漁業に出向いたらしい。周囲には、漁師ではない街の男性が何人か熟睡している。

「俺、寝てた?」

 今更こんなことを訊くのも可笑しいが、クライドは寝ていたようだった。壁際に座ったまま寝ていたせいで足がしびれて、伸ばすのが辛い。痛みに顔をしかめていると、後ろからアンソニーが笑う声がした。

「うん、物凄く気持ち良さそうに寝てたよ。エディたち、真夜中に海へ出て行ったんだ。クライドも起こそうと思ったけど、あんまり気持ちよさそうだから起こすのやめちゃった」

 振り返ってみると、寝癖で髪がぼさぼさになったアンソニーがいた。彼もおきたばかりらしく、眠い目を擦っている。グレンは立ち上がって、アンソニーの髪を手で撫で付けている。同じ金髪碧眼の二人が兄弟に見えてきて、クライドは少し和んだ。

 そうか、夜中から出航か。それは大変そうだ。あの様子だとエディはきっと、眠らずに船に乗ったのだろう。健康に悪いと思うが、中途半端に寝て起きられなくなるよりは良いと思う。

「あれ、そういえばノエルはどうした?」

「熟睡中」

 何だか楽しそうに、グレンはクライドの横を指さす。彼の指につられて隣を見ると、ノエルが壁に凭れてうつむいていた。骨ばった首筋が露わになり、目元は鳶色の髪ですっかり隠れている。

「昨日どうだったんだよ、帰ってきたノエル」

 そう尋ねてみると、グレンとアンソニーは顔を見合わせてにやりと笑った。

「俺も眠すぎて細かくは覚えてないけど、サラにお休みのキスしたか? って聞いたら『まだ当分先』って素で返されたのだけは一瞬目が覚めた。ぶっちゃけてんじゃねえかあいつ」

「ノエルね、シェリーに『サラのナイト』って言われたの満更でもないって言ってたよ。僕すっごくからかいたかったんだけど、絶対後が怖いからやめといた!」

 ああもう、両想いが実るのを待つばかりではないか。もはや数日以内に、彼らは恋人として新しいスタートを切るとクライドは思う。

「時間の問題だよな」

「間違いない」

 どうやって二人の距離を縮めようかと作戦会議を始めると、その声がうるさかったのかノエルはすぐに起きてしまった。もともと物音や人の気配には敏感な人だ、眠りは浅いのかもしれない。

「……おはよう」

「おう。ナイトのノエル君、姫は無事に届けてきたか?」

 にやにやと笑いながらグレンがそう尋ねると、ノエルは寝起きのわりに眠そうに見えない目を細めて小さく笑った。

「道中、何事もなかったよ。何かあったらすぐに魔法を使える体勢でいたけれど、平穏に済んでよかった」

「よく考えたらあの時間に女子二人とノエルって、めちゃくちゃ危険な帰り道だったよな。兄貴と女子二人ならまだしも、ノエルはぶっちゃけ見た目が貧弱だろ」

「おいグレン、自分の彼女を送って帰ってくれた恩人に向かって随分だな」

 思わずクライドが突っ込むぐらいには失礼なグレンだった。貧弱な外見をノエル自身も気にしているというのに。ノエルは肩をすくめて苦笑していたが、それほど傷ついた様子がなくてクライドはほっとする。

「失礼か? 『見た目が』貧弱なだけだろ。実際のところは強いからな。メンタルと魔法が」

「君に失礼な物言いをされるのにはもう慣れているよ。褒めてくれてありがとう」

「そうかやっぱり失礼かこれ。悪かった」

 素直に謝ったグレンは、飄々としている。ノエルも笑って、立ち上がって伸びをした。彼が顔を洗いに行きたいというので、なんとなく流れで身支度を整える時間になった。

 クライドは顔を洗うために水道を探していたが、宴会場の二階が宿泊スペースになっているのを発見した。階段を上がればシャワールームがあり、洗面所には未使用のタオルや歯ブラシセットがたくさん置いてある。一セット拝借して、料理のにおいが気になったので軽くシャワーも浴びた。着替えを持っていないことに落胆したが、まあ、後で船で着替えればいいだろう。

 シャワールームを出てみると隣のシャワーも使用中で、見覚えのある服が脱ぎ散らかしてあるところを見るとグレンが入っているようだ。一番奥から『冷たっ!』とアンソニーの声がして、ノエルの姿はなかった。

「おいグレン、ノエルは?」

「あー? 船戻るって。どうしても着替えたいんだと」

「ああ、サラに会うもんな」

 クライドはどうせなら自分も着替えたいと思って、グレンとアンソニーを置いて船に戻ることにした。船まで歩いて十分程度だったが、クライドが戻ってみたときに船室のシャワールームはまだ使用中だった。船室で荷物を広げて適当に着替えていると、髪も肌もすっかり乾いた状態のノエルが入ってくる。

「お、ノエル。風呂入ってたんじゃないのか」

「乾かしたんだよ、魔法で」

「ああそっか、いいなそれ。俺もやろっと」

 目を閉じて想像する。湿った髪が軽さを取り戻す感覚を。そうするとクライドの髪はすっかり乾いて、日差しを受けて汗をかいた不快感も和らいだ。

「サラとシェリーは?」

「昨日、九時に港で待ち合わせってことにしておいたけど」

「そっか。じゃあ、グレンたちが着いたらもう出ようか」

「そうしよう」

 時刻は八時半だ。待ち合わせ場所までそう遠くないから、グレンたちが合流してもまだ時間があまるだろう。実際、それから五分後にグレンとアンソニーが合流して、時間が余ったので彼らも着替えをしたがそれでもまだ八時四十分だった。

 待ち合わせ場所まで徒歩五分だったが、到着予定が待ち合わせの十五分前なら妥当だろう。船室にこもっていても暑いので、クライドたちは出かけることにした。

「今日どうする?」

 グレンは軽くそう言ったが、これはしっかり決めておきたい内容だ。グレンに視線をやれば、彼は楽しそうに笑う。

「とりあえずシェリーとサラと合流したら、一日くらいは遊ぼうぜ。冬に行った遊園地楽しかったし、夏限定のアトラクションもあるんだろ」

「確かにそうだな、いきなりバイバイじゃサラが泣く」

「シェリーもサラに会いたがってたし、ここにいるノエル大先生だってまだ言葉を尽くし足りないだろ?」

 にやにや笑うグレンを微笑んで流しながら、ノエルは話を本筋に戻した。

「一日遊ぶのには賛成。今回の目的は緊急じゃないんだ、一回ちゃんと横になって寝る日を挟んでからでもいいんじゃないのかい」

 確かにノエルの言うとおりだった。ちゃんと横になって寝て万全の体力に整えてからでもいいと思う。

 今日は一日遊ぶ日にして、夜には魔法の特訓をすることにし、明日以降向かう場所をざっくりと決める。イノセントの情報を加味すると、エナークを目指すためにまずは首都方面に向かうのがよさそうだという結論に至った。首都にはノエル以外全員、初めて行くことになる。ノエルも空港しか利用したことがないらしいので、街中を歩くのは初めてらしい。

「都会か、わくわくするな」

「グレン、さっそくスカウトされたりして! 目立つもんね」

 アンソニーとそう言葉を交わしていれば、目的地についた。サラとシェリーはまだいないので、会話が続く。ノエルはグレンの長身を見上げて、知的な緑色の目を細めて笑った。

「グレン、『HoLLy』のモデルをやらないかい? 君に他に声がかかる前に、確保しておかなくちゃね」

「お、早速スカウトだ」

 軽い調子で言って見ると、グレンは満面の笑みを浮かべる。しかし、答えはノーだった。ここで頷いておけば、本当に有名ブランドのモデルになれるだろう。それなのにだ。

「遠慮しとく、俺は歌手志望だから。モデル上がりのシンガーって、実力なさそうだろ? それに、撮影って結構時間かかりそうだし」

「そうだね、一枚撮るだけで結構かかった。カメラマンが凄くこだわる人で」

 ナチュラルに頷いているノエルだが、クライドは首を捻った。まるで自分が撮影を体験したかのような、この言い方。もしかすると、ノエルはモデルまでやっていたりするのだろうか?

「ってノエル、モデルやったことあるの?」

 クライドが訊きたかったことを、アンソニーが代弁した。ノエルは苦笑しながら、軽く頷く。やはり、そうか。クライドは、ノエルのことを本気で凄いと思った。彼は、体格と運動神経以外の殆どに恵まれている。だからこそ、完璧を目指す孤高な性格になってしまったのかもしれないが。

「先月、父さんに強制されて一枚撮ったんだ。でも、もう絶対にやらない」

 ノエルはアンソニーに向かって、もううんざりだと言いたげな表情をおくっている。そんなに嫌な記憶だったのだろうか。写真一枚ぐらい、もう一回撮ったって良さそうなのに。

「いいじゃん、ノエル格好いいんだから」

「じゃあ君は、全世界の『HoLLy』専門店に自分の半裸をさらけだしても平気なのかい?」

 残念がるアンソニーに対して、ノエルは苦笑しながら言った。なるほど、ノエルはそれで撮影が嫌になったのか。確かにノエルの骨っぽい体型は、モデルには向かないかもしれない。本人もそれがコンプレックスなのだろう。

「別に気にすることじゃないと思うけど」

 グレンは至って普通にそういう。彼の体型なら、堂々と半裸で雑誌に載ることが出来ると思う。それにグレンなら、どんな服でもクールに着こなせそうだ。

 三人の会話を聞きながら、クライドは何となくポケットに入れた携帯を見た。もう九時をすぎているのに、シェリー達がまだこない。

 急に胸騒ぎがしてきた。クライドの知る限り、シェリーは絶対に待ち合わせには遅刻しない人だった。それに二人とも、本来ならそれぞれの想い人に会いたいと思って早く来ようとするのではないだろうか? クライドはそれを見越して早く出ようと皆に言ったのだ。

「なあ、シェリーとサラ遅くないか?」

「確かに。どうしたんだろう、寝坊かな」

 クライドの声にはアンソニーが答えてくれる。ノエルが微かに不安そうな目をして、あたりを見回した。サラだって遅刻するタイプに見えないので、ノエルはクライドと同じことを考えていると思う。グレンもノエルと同じように辺りを見回していたが、急にぽんと手を打った。

「あ。電話掛けてみろよ、クライド」

 そうだ。サラの家に電話をしてみれば、二人がまだ家にいるかどうか解る。どうかこの胸騒ぎが気のせいであって欲しい。クライドは、そう思って携帯をポケットから取り出した。

「解った」

 メモリーを呼び出して、サラの自宅に電話する。出たのはサラの母親だった。クライドは自分がサラの友達であることを告げて、待ち合わせ場所に来ない二人がまだ家にいるか確認してみる。

「サラもシェリーも、家にはいないわよ。三十分前には出たんじゃないかしら。てっきり、もうそっちに着いているものだと思っていたのに……」

 サラの母親は、心配そうに言った。クライドは軽く頷いて、あたりを見回す。こうしている今にも、彼女達がここに来てくれればそれで全て解決する。しかし、彼女達の姿はどこにもみえない。どう考えてもサラの家から港まで三十分もかからないし、何かトラブルがあればシェリーが公衆電話を使ってでもクライドに連絡してくるだろう。何度確認しても、着信履歴はない。

「解りました、探してみます」

 答えて電話を切り、携帯をポケットにねじ込む。どんどん悪い予感がしてきた。クライドは、仲間三人に目配せして漁船から降りた。

「三十分も前にもう出たって。探そう」 

 するとグレンはすぐに反応して、東に向かって走っていく。走りながら一旦止まり、こちらを向いて叫んだ。

「俺、ウォルの小屋方面を探してくる!」

 その声に、クライドは頷いた。ノエルは西の方向に身体を向け、首だけでこちらを振り返る。

「じゃあ僕は反対側。アンソニー、君はブリジットの家に向かって聞き込みをして。クライドは」

「この辺りで、人目につきにくい場所。もしかしたらってことも考えられるから」

 彼に全部言われる前に、彼が言いそうなことを口にした。

 犯罪に巻き込まれる危険性。それは、平和なアンシェントタウンでは限りなくゼロに近かった。しかしここは、隣町や海から沢山のものが流れ込んでくる港町だ。サラとシェリーに、もしものことがあるかもしれない。クライドは走って、直感的に港の倉庫街へ向かった。

 嫌な予感が当たっていないことを祈り続けながら、たくさん並んだ倉庫の間に伸びる薄暗い路地を入念に調べる。ここにはいないかもしれない。サラもシェリーも魔力を持たない普通の女の子だから、魔力を辿って見つけられないのが歯がゆい。

 クライドが倉庫街から退こうとすると、どこかの倉庫で何か物音がした。壁を叩くような物音だ。音のした方へ動く。いくつかの倉庫には、鍵がかかっていなかった。そのうちの一つから、先ほどの物音が聞こえたのだろう。クライドは、慎重に耳を済ませて歩く。波の音に交じって、男の声が聞こえた。足を止めて方角を特定する。

 間違いない、一番海側の倉庫に誰か人がいる。確信したとたんにクライドは風を切って走る。

「サラ、シェリー!」

 倉庫の戸を開け放って叫ぶと、中で何か動くのを捉えた気がした。倉庫の外と中では明るさが激しく違うので、目が眩んで倉庫の中が真っ暗に見える。何か銀色のものが閃いたのを見た気がして、さっと避けるとクライドの頬を掠めて鋭利なものが飛んでいった。頬を触ってみれば、血がべっとりとついていた。刃物か何かを投げつけられたらしい。

 頬に生ぬるい液体が流れるのを感じ、クライドは立ちすくむ。エルフの血による瞬発力がなかったら、多分まともに食らっていた。

「クライドっ!」

 シェリーの声に、はっとした。やはり予想は的中してしまって、二人は刃物を持った人物と暗い倉庫で対峙していたのだ。怯んでいる場合ではない。

 暗闇に目が慣れてくると、倉庫の奥のほうで亜麻色をした髪が動くのが見えた。二人はまだちゃんと生きていて、クライドに助けを求めている。

「すぐ行く」

 駆け出すと同時に、さっと右に避ける。左で微かに何かが動くのを捉えたからだった。反射的に構えると、相手が見知った人物であることに気づく。

「……お前」

 言葉が続かなかった。まさか、こんなところでこんな人物に出会うなんて。

 彼は、所々がシワになった白衣を着ていた。ぼさぼさの黒髪は相変わらずだが、白衣の下にはワイシャツを着ている。以前会ったときにもつけていた赤い額飾りは、心なしか前より汚れていた。

 どう見ても、彼はダイヤモンド事件のデゼルトに違いなかった。忘れようにも忘れられない。この男が相方の自称海賊少女と痴話喧嘩を繰り広げ、グレンと乱闘し、そのせいでクライドとノエルで苦労して作り上げた267万ウェルツが目の前で灰になったのだ。

「チッ」

 デゼルトは舌打ちし、凄い速さでクライドの脇腹に蹴りを入れてきた。防ぎようがなかった。クライドは埃っぽい床に倒れ、何度も咽た。二人の悲鳴が聞こえる。何とか立ち上がらなければ。立ち上がって、助けなければ。

 そうだ、ここは結界の外ではないか。魔法で彼を足止めすればいい。クライドは片腕を使って起き上がり、サラに向かってナイフを振りかざしているデゼルトに向かって叫んだ。

「やめろっ!」

 想像する。デゼルトが天井から落ちてきた電気の配線にナイフを当てて、感電するところを。

 しかし、配線は落ちてきたもののなぜか想像通りにはいかず、ナイフが上手く絡まらなかった。ただ、一瞬デゼルトが天井に気をとられた隙にどうにか彼に当身を食らわせることならできた。視界の隅にシェリーの赤い髪が映る。シェリーはクライドがデゼルトの気をそらさなければ、きっと真正面からそのナイフを食らったであろうタイミングでサラをかばって飛び出してきていた。

「ふたりとも、無事か」

 どうしてだろう。魔法が、いつもより弱くなってしまっている。想像の通りに魔法が働かない。

 焦りが冷静な思考力を奪う。壁に凭れながら立ち上がると、息を荒げてサラを倉庫の奥のほうへ押しやりながら、シェリーが代わりに頷いた。サラは声も出せないほど恐怖しているのだろう、震えながら辺りに置かれた木箱に縋り付いている。デゼルトはシェリーに一歩近づき、ナイフを振りかざす。赤い髪が翻り、デゼルトが動くのと同じタイミングでシェリーは刃物をかわしていた。

「シェリー!」

「クライド、逃げて! サラを連れて! 早く!」

 クライドが距離を詰めればデゼルトが何か投げてきた。今度は腕の動きから読んで動けたので、投げつけられた金属片は頬をかすりもしなかった。しかしあと一歩でシェリーに手が届くというところで、デゼルトがナイフを握って猛然と突っ込んできたので避けるしかなかった。よろけて木箱に乗り上げ、角に顎をしたたかにぶつけたところでデゼルトがシェリーに手を伸ばすのが見えた。

「や、めろっ」

 クライドが転がるように木箱から降りるよりも一瞬早く、デゼルトは何か小さな光るものをシェリーに振り下ろした。ナイフではなさそうだったが、シェリーの首筋を狙ったそれは刺さったように見えた。クライドは目を見開いて、とっさにシェリーの首に何も傷がないという想像をした。暗がりの中でうまくいくかは微妙だったが、とりあえず出血は確認できなかった。しかし、シェリーはその場に座り込んでしまう。何か、注射器かアンプルのようなもので毒か薬品を注射されたのだとそこで分かった。

「だ、め…… 罠…… 逃げ……」

 かすれるたシェリーの声が聞こえ、もつれるように走ってシェリーに追いすがる。デゼルトはクライドに猛然とつかみかかり、頬をつかんで腹に渾身の力で蹴りを入れた。息が詰まる。わずかに身をそらしたが殆どまともに入った蹴りで咽せ、すぐには起き上がれなかった。それでも、立たなければ。想像で痛みを消し去って、立ち上がるとデゼルトの腕にシェリーが抱えられているのが目に入った。

 獲物を狙う鷹を思わす、デゼルトの鋭い目つきに思考が止まる。腕に抱えられたシェリーがぐったりとしているのを認識して、一瞬後に焦りが戻ってきた。デゼルトはシェリーを脇に抱えるようにして、倉庫から出ようとする。走って追いかけるが、デゼルトは女の子を一人抱えているというのに足が早い。それでも、逃がすわけにはいかない。

「シェリーっ! シェリー! 起きろ! 目を開けろ!」

 怒鳴りながら走る。埃っぽくて真っ暗な倉庫からでた所で目が眩み、一瞬足をゆるめてしまったのが命取りだった。クライドの目の前で、デゼルトはシェリーを抱いたまま軽トラックに乗り込んだのだ。すぐさまかかるエンジン音に唖然とした。

 嘘だ。行ってしまう。

 クライドは走った。ただ、ひたすら追いつきたくて走った。走って軽トラックの荷台に飛び乗ろうとするが、生身で車に追いつけるはずも無い。頭の中は、既に焦りで支配されていた。気の利いた想像など出来るはずもなかった。クライドの想像は移動には使えない。

 クライドは、どんどん離れていく軽トラックを全力疾走で追いかけた。想像で距離は縮められないとわかっているのに、届くことを思い描いてしまう度に頭がふらつく。走りながらナンバーを記憶し、首都方面に向かう軽トラックを追い続ける。通行人が怪訝な目で振り返った。徐々に距離が離れていく。デゼルトと、シェリーが離れていく。やがて、デゼルトの軽トラックは交差点を左に曲がった。クライドがその交差点に着いたときには、すでに軽トラックはどこかへ消えていた。

 ――まさか。まさか、こんなことになってしまうなんて。

 クライドはがくりと膝を折り、息を切らしながら道路の真ん中で項垂れた。

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