第一話 魔幻の町
気だるい午後だった。標高のせいか普段は乾燥気味なアンシェントタウンの夏にしては、異常に思えるぐらいに蒸し暑い。拭っても拭っても嫌な汗が首筋を伝って落ちる。
部活を終えたクライド=カルヴァートは、代わり映えのしない田舎道を歩いていた。手に持ったネットに入れたサッカーボールを膝で蹴り上げながら、今日の試合の結果についてぼんやり考える。一勝一敗、すっきりしない勝ち方だった。
家は街の中心部からやや上ったところにあるから、来た道を振り返ってみればいい景色が見える。紺色の屋根が連なる景色は高台から見下ろせば壮観で、晴れない気持ちはやや落ち着いた。
着ているユニフォームは激しいゲームの末に砂まみれになっていて、白かったはずの靴下はいまや真っ黒になっている。膝小僧の擦り傷は、今のこの町では簡単には消えてくれない。つい治るところを想像してしまうのはよくない癖だ。
うつろな目で前を見る。砂利の敷き詰められた道の上に、陽炎がたちのぼっているのがみえた。腕にしているデジタル式の腕時計を見ると、ぼんやりして現実味がなくなってきていた頭に少しだけ現実が戻ってくる。七月二十四日、二時三十七分。鐘を巡る旅の始まりから、一年と三ヶ月が経過しようとしている。
クライドは春先に、もう十七歳を迎えていた。随分前に計った時の身長である百六十七センチから五センチほど伸びて、現在では身長が百七十二センチになった。それなりに、体つきも成長したと思う。この一年三か月は初めてこの町を出て、冒険をして見識を広め、命の危機や世界の危機も乗り越えて様々なことがあった。
あの旅から帰ってきてからというものクライドはずっと今日の試合をひとつの区切りだと思っていた。それが終わった。とうとう、再び目的に向けて動き出すときが来た。
「明日から、夏休み……」
クライドの通うアンシェント学園は、明日から長期休暇に入る。仲間たちと話し合った結果、今回の旅はちゃんと『旅行』になりそうだから、夏休みをフルに抑えて挑もうということになっていた。それぞれ帝王との戦いを経て深い傷を負っていたが、それもすっかり癒えた。まあ、自然治癒では一生治らないと判断して結界を出て魔法の力を借りたメンバーもいたのだが。
ボールを蹴りながら歩き、やがて足を止めた。自宅に着いたのだ。泥だらけになったサッカーボールを玄関の隅の方に置いて、クライドは家に上がった。
リビングのドアを開ければ、ソファに座っていた父が顔を上げてこちらを見て笑った。
「おかえり、クライド。また泥んこになってきたな。シャワー浴びて来い」
アイスティーのグラスを片手に、父が嬉しそうに言う。やはり涼しそうな顔をしている父でもこの気温では暑いのだろう、当然か。グラスは汗をかいているし、普段は服のボタンをあまり開けない父がシャツのボタンを上から二つ開けていた。
クライドも挨拶を返して、シャワーを浴びにいく。脱衣所にユニフォームをぞんざいに脱ぎ捨てたクライドは、お湯ではなく冷水の蛇口をひねった。頭から冷たい水をかぶり、体中についた砂を落とす。
ひりひりと染みる傷に顔をしかめた。膝にばかり気を取られていたが、水で呼び覚まされた痛みによって肘もすりむいていたことがわかる。この町の中なら、血の魔力が暴走する心配をしなくていいのが気楽だった。それに、うっかり傷が治る想像をしたところで血は消費しないし、傷は治ってくれないのだ。
ウルフガングの結界に守られたこの街では、魔力は動かない。それがクライドにとっては、ほんの少しだけ残念だがとても喜ばしいことだった。この町で魔法が使えないのは、他でもないクライド自身が命を賭して戦った証なのだから。
しばらくシャワーに打たれてから、バスルームから出る。そして、タオルを腰に巻きつけてリビングに出た。服を用意しておけばよかったと思いながらも、猛烈に喉が渇いていてキッチンへの歩みを止められなかった。
「やせっぽちだなお前は」
その声に、牛乳を一気飲みしながら振り返る。苦笑気味に言う父は一年三か月前に比べればある程度顔色が良くなったが、まだかなり痩せている。もう少し太らないとそのうち栄養失調で病院送りになるのではないかと本気で心配になるほどだ。
はだけた胸元にはくっきりと鎖骨が浮き出ている。骸骨を連想してしまって、少しくらっとした。父は色白だから、そんな連想が怖いくらいに当てはまる。
「父さんに言われたくない。もっとちゃんと食えよ」
「親の心配より自分の心配をしなさい」
笑い合い、クライドは服を着る。リビングに戻ると父はまた顔を上げる。
「父さん今日仕事は?」
「代休だよ。休日出勤の」
「春の?」
「ああ。代休の存在をすっかり忘れていてね」
「そっか。お疲れ様」
町に戻ってきてすぐ、父はアンシェントタウンの役場で事務の仕事をするようになった。もちろん、秘密裏に魔道課へも配属されている。今年の祭では、誇り高い休日出勤で存分にエルフの力を発揮して結界の維持に務めていた。
父はエルフであった証の尖った耳を、長めに切り残しておいた髪で隠していた。かつてのシェリーのように長さもあると厳しいだろうが、父の耳は人間の耳とほとんど大きさが変わらない。それでも役所には普通の人間もいるので、いずれ耳の形を丸くする魔法を同僚にかけてもらうと父は言っていた。今年の祭りのときにはタイミングを逃したというから、きっと来年になるだろう。そうでなければ、父は同僚と一緒に結界の外に出なければならないのだから。
そこまで考えて、クライドが一緒に旅行するという手もあることに気づく。今回の旅で街の外に連れ出してみたら、ブリジットにも会えるしいいかもしれない。
けれど、社会人に夏休みなどない。勤続一年の父は、有給をどれぐらい使えるのだろう。
「さて。明日から夏休みだな。どこか行きたいところはあるか?」
「あ…… 父さん。明日、さっそく旅に出るかもなんだ。前に言ってただろ。エナークに行くやつ。一緒には…… こられないよな」
父はううんと悩むような仕草を見せた。それから申し訳なさそうにこっちを見て、苦笑する。
「そうだな、少し難しいかな。結界の維持だけが魔道課の仕事じゃないから…… そうそう長い期間休むわけにはいかないんだ」
「だよね」
残念だが、一緒に出掛けるのはまた次の機会だ。生きてさえいれば次の機会はいくらでもある。やっと、一緒に暮らせるようになったのだから。
どんよりしそうだった気持ちを振り切って顔を上げる。
「じゃあ、明日は準備期間ってことで色々買出しに行きたい」
「そうか、じゃあ明日の夜は奮発してちょっと豪華にしようか」
笑いながらいうクライドに、父は笑顔でそう答えてくれた。再会してからというもの、父は何かにつけてクライドの世話を焼きたがる。世話を焼かせる盛りだった幼少時代に傍にいなかったから、今になってしまったが父親らしいことをしたいと考えているのだろう。
「いいよそんな。でも、ありがとう父さん」
ありがとう。そんな一言で、父はとても幸せそうな笑みを浮かべるのだ。クライドにとってそれは、些細な喜びだった。また父と別れてしまうのは寂しい気もしたが、大切な仲間がクライドについてきてくれる。
だから、また歩みださなければならない。今度は世界平和なんかに関係なく、ただ一人の男を助けるために。ただ一人の少女の願いを聞き入れるために。
「何かあったらいつでも呼べよ、クライド。お前には、いつだって父さんがついてるんだ。大事な一人息子だからな」
「やめろよ父さん、もう子供じゃないんだ。よっぽどのことがない限り呼ばないから」
心配性な父に笑顔でそう返し、クライドは二階の自室へ向かう。
帝王との戦いでぼろぼろになっていたイノセントを見舞うため、冬の休暇に一度港町へ向かったことがあった。彼がジャスパーやジェイコブと共にクライドたちから奪った漁船と荷物は、このときに返してもらった。孤島が壊滅的なダメージを受けて廃墟と化したことを聞いたときには、悪党とはいえあの城にたくさんいたであろう人たちのことを思って胸が痛んだ。
その頃はまだグレンもイノセントも兄弟そろって肩の怪我が治っていなかったので、クライドはブリジットの魔力を借りながら想像の魔法で彼らの肩の傷を治した。純粋な見舞いというよりも治療を兼ねた旅行だった。
グレンはアンシェントタウンに戻ってきてから冬になるまで、バスケの試合では必ずといって良いほど卑劣な手を使われていた。いつも彼の肩は体当たりをかまされたりボールを当てられたりして、傷ついてきたのだ。そんな状況をもうクライドは見ていられなかったし、グレンの前では気丈なシェリーが密かに泣いているのを知っていた。
もし彼の腕が動かなくなったら、バスケができないどころかピアノやギターが弾けなくなる。彼は自分の作曲した歌で歌手になるという夢を、叶える前に捨てることになってしまうのだ。だから貧血になるまで魔法を使ってグレンの傷は傷跡も残さずに綺麗に治したのだが、兄のイノセントの方は深く抉れていて直しきれなかった。痛みは感じなくなったというから、あとはブリジットに経過を任せようと思う。
「あったあった、これだ」
クローゼットから適当に出してきた服をきた後、部屋の奥を引っ掻き回して去年の旅に使ったバッグを探し出す。バッグを見て少し迷ってから、もう少し大きい物を探すことにした。小さくて物が入らないのは困るが、大きい分には問題ないだろう。
昨年の旅では荷物が少なかったせいで色々困ることもあった。今年は父が働いてくれているおかげで大分小遣いも溜まったが、それでも無駄に使うわけにはいかないだろう。燃料費もかなりかかることが解ったし、四人分の食費についても考えなければならない。それになおかつ、今回は旅のメンバーが増えるのだ。
「クライドー、友達が来ているぞ!」
旅について思案していると、階段の方から父によばれた。部屋を出て階段を降りると、居間で父と話している少女の姿が見えた。シェリーだ。
シェリーは、人間界では目立ちすぎていた鮮やかな赤毛をくすんだ赤に染めていた。染めたのは他でもないクライドで、冬に漁師町に行ったときに彼女に頼まれたので魔法を使ったのだ。ファッション雑誌のカバーガールを参考に、シェリーの髪が抑え目のベリーレッドになるところを想像した。これならおしゃれで染めているように見えるし、伸びてもあの鮮やかすぎる赤い髪には戻っていない。我ながら、彼女にかけた魔法は大成功だ。
シェリーは今、クライドの家からあまり遠くない一軒家に一人で住んでいる。ほとんど他人と関わらない性格だった彼女も、近頃ではやっと近所の人になじんで自宅でお茶会などをやっているらしいと隣の家の人から聞いた。ベーカリーでバイトをしているシェリーは、接客業での必要性からか言葉遣いもだいぶ丸くなっている。
「おいシェリー、どうしたんだ?」
「っ、クライド」
声をかけると、シェリーはいきなり目を潤ませた。理由がわからないが、ほぼ確実にグレン絡みだろう。シェリーはグレンの態度に振り回されることはよくあるが、客や近所の人たちのような関わりの薄い人たちから受ける不利益で泣いているのを見たことがない。
とりあえず、彼女を二階の自室に連れていった。そして勉強机の椅子に座らせて、自分は向かいのベッドに座って訳を尋ねてみる。クライドの自室はソファを置けるほど広い部屋ではないが、泣いているシェリーとリビングで話し合うのは父がいる手前気まずい。
「どうしたんだよ」
「約束の時間にうちに来なくて、一時間待ってもこないから街に出てみたら…… 女の子とカフェにいた」
怒りと悲しみが半々といった様子で、シェリーは目を潤ませてそう言った。主語が飛んでいても誰がこんなことをやらかしたのかは明白だ。クライドは耳を疑う。
グレンはシェリー以外の女性に騒がれても、以前どおりあまり興味を示さない。意外と警戒心の強い彼だから、女子にあまり心を開かないのだ。それが、まさか浮気のようなことをしているなんて。
「は? あいつ何やってんだよ」
「聞いてよクライド、この間も……」
シェリーの話を真剣に聞いていると、部屋の電話が鳴った。うるさいので放置していると、やがて電話は止まる。たぶん父が出たのだろう。だが、すぐに階段を上ってくる音がする。
「おいクライド、グレンからだぞ。急ぎの用事っぽい、保留にしてある」
「ありがと父さん」
父が階段を下りていく音がしたので、肩をすくめながらシェリーを見て『切っちゃう?』と聞いてみたが、シェリーが本気でどうするか考えこむので笑いながら子機を取る。ちらりと見えた発信者番号は、見間違いでなければシェリーの家からになっていた。
「もしもし?」
「クライド、シェリー来てないか? 留守なんだ、約束してたのに…… 怒って出て行ったとしたら居るのはお前かノエルんちだ」
グレンは焦ったようにまくし立てるが、クライドは半分呆れていた。背後でシェリーの家に置いてある鳩時計の音がしたから間違いない、この男は留守のはずの彼女の家に上がりこんで電話してきているのだ。そろそろ携帯を買えと思う。
「お前、それ大幅に遅刻したんだろ? まず謝れよ。ていうか、それシェリーんちの電話だろ。ことわりもなく勝手に使うな。とりあえず代わる」
言いながらシェリーに電話機を渡す。シェリーはおずおずとそれを受け取って耳に当てた。シェリーが半分泣きそうになりながら怒りをぶちまけ、それにグレンが謝り倒しているのが聞こえる。どうやらグレンは、クラスで仲の良い『ショッキングピンク』と言うあだ名の女子に恋愛相談をしつつ、シェリー宅へ持っていく手土産を選んでいたらしい。それにしても、遅れるのであれば連絡は必須だろう。山岳民族の聖地と揶揄されるアンシェントタウンにだって、公衆電話ぐらいある。
「ごめん、ほんと悪かった。時計忘れてたんだって。レシートみてビビってめっちゃ走ったんだからな」
「あんたが誰と会おうとあたし、何も言わないけど…… 今日はあたしと会う日でしょ」
「俺がお前に会う日を楽しみにしてなかったことなんかあるか? すぐ向うから待ってろ、クライドいるからデートじゃなくなっちまうのはこの際しょうがねえ」
何がしょうがないだ、と思いながらもクライドは含み笑いする。呆れた様子のシェリーが何か返す間もなく、電話は一方的に切られた。しばらく無言で受話器を持っていたシェリーが、大きな溜息をついてクライドに子機を返した。
「合鍵、渡してるのか?」
それはないと思いながら聞いてみると、シェリーは案の定首を横に振った。そして、苦笑気味に窓の外を見やる。
「多分あの人、二階の窓から入った」
「彼女の家に不法侵入かよ!」
「ノエルの家を別荘だと思っているぐらいだから。仕方ないって諦めてる。鍵閉めておいたはずなんだけど、どうやって開けたんだろう」
相変わらずすぎるグレンの横暴さに思わず笑ってしまう。彼のことだからピッキングぐらい平気でやるだろう。グレンの傍若無人で若干厚かましいところについて話していると、だんだんシェリーは笑みを浮かべてきた。
「はー、あたしって馬鹿だな。あんなに怒ってたのに、会えるって思ったらちょっと嬉しくなってきた」
「惚気タイムが始まったからもう大丈夫だな。全く、びっくりしたんだからな」
「ごめんクライド、いつもありがとう」
いつもそうだ、シェリーの不満や愚痴はクライドが受け止める。クライドのほうも恋愛相談はシェリーが一番話しやすかったので、二人はそれぞれの恋について積極的に相談しあっていた。今回も無事に収束してよかった。
シェリーと話して、折角だからノエルとアンソニーも家に呼ぼうということになった。一度充電台に戻した子機を、また手に戻す。二人の電話番号は電話帳などを見なくても暗記している。それぞれに電話をかけると、二つ返事ですぐ来てくれることになった。
クライドとシェリーは階段を降りて、一階で三人の到着を待った。