5.私は神さまに見捨てられたんだわ
朝から雨が降っていた。
花山家から使いが来たのは昼も近い頃だった。香は、ついにおまじないが効いたと喜んだ。こっそりと客間の声を盗み聞きする。いつ断りの言葉が出てくるかと胸を躍らせた。
しかし、告げられたのは見合いの日取りを早めてほしいという頼みだった。母は二つ返事で了承した。
香は足元が崩れていくような気がして、逃れるように家を飛び出した。
多恵のところへ行こうと人力車を探すが、雨のせいか見つからない。
「私は神さまに見捨てられたんだわ」
一言文句を言ってやろうと、途中にあった神社の石段を上った。
夏とは思えない冷え冷えとした風が鎮守の森の木々を揺らし、枝葉から雫を振り落とす。人っ子一人いない神社の境内は雨音以外の音が聞こえず、耳がしびれてしまいそうだった。
香は自分で歌を口ずさんで耳を慰める。
「今日もコロッケ、明日もコロッケ。これじゃ年がら年中コロッケ。おトラおばばに頼んでみましょ」
香は傘の柄をぎゅっと握り込んで、濡れた石段を上った。
頂上に着くと小さなお社がぽつんとあった。社務所はないのに参道の脇に、たくさんの絵馬が掛けられている。何の気なしに絵馬を読んだ香はハッと息を飲んだ。
お百度参りで願いが叶ったという、お礼が書かれていた。他の絵馬も多くは似た内容だった。
「神さまに直接頼まないとダメだったのね!」
香は手水鉢で手口を清めると、一度目のお参りをした。
「どうかお見合いが破談となりますように」
それから階段まで戻り、またお参りする。
二度、三度、十度と繰り返す。
雨が激しく打ち付け、石畳で跳ね上がった雫が足元をじわりじわりと濡らしていく。それでも香は構わず続けた。
五十度目を超すと足がもつれ始めた。水を吸った裾が足をからめ取り、幾度も転んだ。息が上がり、着物は汚れ、顔は涙と泥にまみれていた。
それでも香は百度のお参りをやり遂げた。
「ありがとうございます、神さま。私、私、頑張りましたわ!」
香の胸は達成感でいっぱいになった。不思議な高揚感に包まれ、きっと願いは叶うと信じられた。
雨はやみ、西の空にさした光が薄っすらと雲を赤く染めていた。
「今日もコロッケ、明日もコロッケ。これじゃ年がら年中コロッケ。おトラおばばに頼んでみましょ」
香は鼻歌を歌いながら石段を下りて行った。
しかし、半ばまで来たとき。
ぐらりと空が揺れた。足が地面から離れて、ふわりと体が宙に舞う。
このまま飛んで帰ろうかしら――。
香は鳥になった気分で思った。
次の瞬間、強い衝撃が体に走り、ぐるりと世界が回転した。そして、柔らかく温かな布団の上に倒れ込んだ。
「まあ。私、本当に鳥になって、お布団まで帰ってきたんだわ」
香はぼんやりした頭で言った。
その耳元で笑い声が響く。驚いて香が顔を上げると、見知らぬ男性がおかしそうに笑っていた。年上なのに少年のような屈託のない笑顔。
香は混乱して辺りを見回した。家でも布団でもない。石段の途中で男性の膝に座り、彼にもたれかかっていた。
香は小さく悲鳴を上げて立ち上がった。くらりと眩暈を覚え、足が崩れる。階段から落ちかけたところを男性が支えて、軽々と抱き上げた。
「無理はするな、熱がある。家まで送ろう」
「そんな……ご迷惑はかけられません」
間近にある男性の顔にどぎまぎしながら、香はしおらしく言った。
「ご迷惑だったら、初めから言いやしないさ」
優しい声音が耳をくすぐる。
男性は待たせていた自分の車に香を乗せると手ぬぐいを差し出し、香の肩に自分のジャケットを羽織らせた。
「ありがとう、ございます」
香が礼を言うと、復唱するようにお腹も鳴った。顔を拭く振りをして手ぬぐいに顔を埋める。
「食欲があるなら大丈夫そうだな」
男性は運転手に声をかけて、前の座席に置かれていた紙袋を取ってもらった。ほのかな甘い香りに、香はそっと顔を上げる。
男性は中から大きな大福を取り出すと、笑顔で香に言った。
「甘いものは心への栄養だから、病人は遠慮なく食べな」
香は礼を言って、素直に受け取った。触れ合った指先から、大福以外のものも受け取った気がした。




