3.おまじない? そんなの迷信よ
多恵の家から戻った香は、そわそわと夜になるのを待った。夕食の席で両親が見合いについて話すのを聞きながし、素早く食べ終わると部屋に駆け戻る。おトラおばばが食後のお茶を部屋に持ってきてくれたが、そこにデザートは乗っていなかった。
「カステラを取っておいたはずなんですがねぇ。どうやら大きなネズミに食べられてしまったようでねぇ。ごめんなさいねぇ。お香さん」
香は着物の袖を落ち着かなく摘まみながら、驚いたふりをして見せた。おトラおばばが部屋から出ると、胸を撫でおろす。
「ふぅ、よかった。どうやら、私だとバレてはいないようだったわ」
デザートなしでがっかりしたが、香は文机の引き出しにしまっていた小瓶から飴玉を一つ取り出すと、それをデザートに一服した。
口の中の欠片がお茶に溶けて小さくなると、習字紙と墨を用意する。筆にたっぷりと墨をつけて、力強く書いた。
縁 春山花太郎 切
そして、それを真っ直ぐ一本の線で消した。
香も半信半疑で書いては見たものの、線で潰れた名前を見るとなぜか満足感を覚えた。
香は得意げな笑みを浮かべると、息を吹きかけ、パタパタ振って墨を乾かした。
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『おまじない? そんなの迷信よ』
多恵の提案に、香は顔をしかめて言った。
『天は自らを助くるものを助く、と言うでしょう? まずは動いてみることが大事なのよ』
多恵はそう言って、数々のおまじないが載った本を見せた。多恵の姉が収集したもので、徳川時代に書かれた古いものも混じっていた。虫食いのページをめくりながら、多恵はいくつかの方法を香に勧めながら言った。
『いいこと? 決して誰かに見つかってはダメよ。用心深く、注意して、周囲に気を配って行うのよ』
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真夜中。香は、ふと目を覚ました。文机の上のランプの炎はか弱く、消えかけていた。
体を起こすと畳の上に寝ていたせいで、あちこちが痛い。
「お布団で寝なきゃ風邪ひいちゃう」
手を伸ばしてランプの火を消しかけたところで思い出した。
「まだ、おまじないの途中だったわ」
別のランプに火を移して明るくすると、文机の引き出しに隠しておいた、花太郎の名前を書いた習字紙を取り出した。それを浴衣の懐に忍ばせると、ランプの明るさを調整して、そっと廊下に出た。
家は寝静まっていた。ぼんやりとしたランプの光に照らされた廊下は、いつもの家とは違うように見える。香は異郷に迷い込んだ気分になって、何度も部屋に戻ろうかと思った。
廊下の小さな軋みにも身がすくむ。台所に入ると、やっと一息付けた。土間に下りて棚を漁る。見つけたビスケットを口に入れかけて、思いとどまった。
「私はネズミさんじゃないんだから。それにお菓子を探しに来たわけじゃないのよ」
ペシペシとビスケットを持つ手を叩いて呟く。後ろ髪を引かれる思いで箱の中に戻すと、目的のものを見つけ出した。
壺の蓋を開けると、ランプの光を反射して塩の粒がキラキラと輝いて見えた。懐から出した習字紙を広げて、壺に入っていた匙で塩を盛る。一匙……。
「もう少しいいかしら。多い方が効果もありそうよね」
香は二匙、三匙と塩を盛る。
片手で持つのに苦労するようになると、ようやく満足した。習字紙を折り込んで持つと、勝手口から庭へと出た。
虫の声も聞こえてこない静寂。曇り空に月は見えず、生ぬるい風が肌をさらう。香は庭木の影から、得体の知れないものが飛び出してきやしないかと身を震わせた。ずしりと重い習字紙の存在が、逆に心強く思えた。
「迷信よ、全部迷信。お化けなんていないわ」
香は繰り返して言いながら、家の北側へと回った。
適当な木の陰に穴を掘ろうとして、はたと気が付く。穴を掘る道具がない。辺りを見回しても使えそうなものはなく、納屋へ探しに行く気にもなれなかった。
香は奥まった木の根元に習字紙を置くと、木の葉をかき集めてかぶせた。すっかり習字紙が隠れると上出来だと思った。どこから見ても落ち葉の山にしか見えない。
「どうか縁談がご破算になりますように」
手を合わせて祈ると、香は足早に部屋へと戻った。
布団に潜り込むと、高揚感に包まれて眠りへと落ちた。




