第二章:起動 2-1:不毛の村
崖崩れの現場は、まるで悪夢の残滓のようだった。
粉々に砕け散った護送馬車の木片が、あの忌まわしい赤土の上に、痛々しく散らばっている。私を荷物のように押し込んだ衛兵たちは、私よりも馬の心配を優先していた。幸い、馬は脚に軽い擦り傷を負った程度、衛兵たちも打撲で済んだらしい。むしろ、荷台ごと叩きつけられた私が、この通り五体満足で立っていることに、彼らはわずかな、しかし隠しきれない「面倒臭そうだ」という感情を瞳に浮かべていた。
(……これが、異世界の体の頑丈さ、というものかしら。それとも、前世の記憶が蘇った衝撃で、アドレナリンが出ているだけ?)
全身の打撲は、熱を帯びてズキズキと痛む。だが、それ以上に、畑中みのりとしての二十六年間と、ファティマ・フォン・バルケンとしての十六年間の記憶が、頭の中で激しくせめぎ合い、奇妙な高揚感を生み出していた。
「ファティマ様、申し訳ございませんが、最寄りの村まで、あと半日ほどは歩いていただくことになります」
衛兵の一人が、事務的に、しかしその声色には「追放者にこれ以上構ってはいられない」という苛立ちが滲み出ていた。
「ええ、構いませんわ」
私は毅然と答えた。パーティー用の薄い靴はすでに泥で汚れ、踵も折れている。だが、前世、組合員さんの広大な畑を一日中歩き回った、あの農協職員の足腰を舐めてもらっては困る。
衛兵たちは、大破した馬車に見切りをつけると、私を真ん中に挟むようにして、再び歩き始めた。それは「護衛」というよりも「監視」であり、早くこの厄介な荷物を目的地に届けたいという意図が透けて見えた。
道中は、地獄という言葉が、まだ生ぬるいほどの光景だった。
空は、王都のあの突き抜けるような青とは似ても似つかない、薄汚れた鉛色。まるで、この大地が流し続けた血と涙が蒸発し、空に染み付いて、分厚い絶望の層を形成しているかのようだ。
風が吹くたび、ヒュウ、ヒュウと、岩の隙間が泣いているかのような音がする。その風は、肌を撫でるたびに体温と水分を容赦なく奪っていく。そして、その風が運んでくる匂い。王都の緑豊かな森が放つ、生命力に満ちた土の匂いではない。
(……鉄錆と、腐敗……いや、違う。これは……無機質すぎる。何かが『死んだ』匂いじゃなく、何も『生きていない』匂い……)
足元の赤土は、踏みしめても、サリ、サリ、と乾いた音を立てるだけ。指で摘んでも、団粒構造が一切形成されていない、ただの「赤い砂」。保水力も保肥力もゼロ。前世の知識が、この土壌がいかに絶望的かを即座に分析する。
(……ダメだ、これ。長年の雨風で、土壌のアルカリ分や有機物がすべて流れ出て、強酸性になっている。これでは、作物が根から養分(チッソ・リン酸・カリ)を吸収することすらできない)
痩せ細った木々が、まるで助けを求める亡霊のように、灰色の空に向かって枝を伸ばしている。かろうじてついている葉の色は、健康な緑ではなく、黄ばみ、端が茶色く枯れかかっていた。
(……マグネシウムか、鉄分の欠乏症。この土壌では、微量要素も絶望的に不足している証拠ね)
聖女の【豊穣の祈り】。王都では、あれが絶対の力とされていた。だが、私から言わせれば、それは化学肥料の乱用だ。土壌という「母体」を徹底的に無視し、作物という「結果」だけを無理やり搾り取り続ければ、土は必ず死ぬ。
その、成れの果てが、このバルケン領の姿なのだ。
(……皮肉だわ。王都の豊かさは、この辺境の犠牲の上に成り立っていたというわけね)
ファティマとしての私を追放したあの場所は、地力を「前借り」し続け、そのツケをこの最果ての土地に押し付けていた。
歩き続けて、どれくらい経っただろうか。
太陽が、鉛色の雲の向こうで力なく傾き、世界が赤黒い影に沈み始めた頃、衛兵が「……見えました」と、疲労の滲む声で呟いた。
視線の先、丘の麓に、まるで地面から生えてきた毒キノコのように、くすんだ石造りの家々が数十軒、身を寄せ合うように集まっているのが見えた。
あれが、私の「領地」となる村。バルケン領の、麓の村。
しかし、村に近づくにつれ、私の胸を占めたのは安堵ではなく、息が詰まるような圧迫感だった。
村の入り口には、粗末な木の柵が立てられているが、その半分は折れ、魔獣避けというよりは「ここが我々の限界です」と示す墓標のように見えた。
家々の石壁は崩れかけ、屋根の木板はところどころ剥がれ落ち、冷たい風がそのまま吹き込んでいるだろうことが容易に想像できる。煙突から立ち上る煙も、数えるほどしかない。日が暮れかかっているというのに、この寒空の下、食事の支度すらままならない家がほとんどだということだ。
そして、何よりも異様なのは、その「静けさ」だった。
村特有の、子供のはしゃぐ声も、家畜の鳴きG Eも、鍛冶の音も聞こえない。聞こえるのは、あの乾いた風が、家の隙間を通り抜ける、ヒュウ、ヒュウという、まるで亡霊の嗚咽のような音だけ。
私たちが村に入ると、物陰から、まるで怯えた小動物のような視線がいくつか向けられた。痩せこけた子供が、私の泥だらけだが明らかに場違いなドレスを一瞥し、すぐに母親らしき女の陰に隠れる。その母親もまた、土気色の顔で、瞳に何の光も宿さず、ただ私という「異物」を、感情のない目で見つめている。
彼らの顔は、誰も彼もが土気色だった。栄養失調で頬はこけ、その瞳には、光がない。ただ、生きているから息をしているだけ、といったような、深い諦観が刻み込まれていた。
彼らが着ているのは、麻布とも呼べないような、ボロボロの継ぎ接ぎだらけの「布」。
(……ひどい。これは、生活が苦しいとか、そういうレベルじゃない。これは……緩やかな、死だ)
農協職員として、過疎化に悩む山間の集落も見てきた。だが、ここまで「生」の活力が失われた場所は、見たことがない。
私の汚れたドレス姿と、武装した衛兵という組み合わせは、彼らにとって新たな「徴税官」か「厄災」の到来にしか見えなかったのだろう。
衛兵が、村の中心にある、かろうじて「集会所」とわかる程度の、少しだけ大きな家の扉を、剣の柄で乱暴に叩いた。
「開けろ! 王都からの使いだ! 村長はいるか!」
その高圧的な声が、死んだ村に虚しく響き渡る。
しばらくの沈黙の後、重い扉が、油の切れた蝶番を軋ませる、まるで拷問のような音を立てて、ゆっくりと開いた。




