7-3:境界の向こう側
一線を越えた瞬間、世界が変わった。
宰相、ゲオルグ・フォン・ブラントは、その変化を、肌で、いや、肺で、痛感した。
つい数秒前まで鼻腔にまとわりついていた、あの耐え難いほどの「腐敗臭」と「死の匂い」が、嘘のように、霧散したのだ。
代わりに、吹き抜ける風が運んでくるのは、湿り気を帯びた、豊かな「土」の匂い。そして、草木が放つ、青々とした、生命力に満ちた「森」の香りだった。
「……おお……」
護衛の騎士たちが、思わず、といった体で、自分たちの兜の面頬を上げた。 彼らもまた、この数日間の地獄の行軍で、初めて「本物の空気」を吸い込んだかのように、その場で立ち尽くしていた。
馬たちも、その変化に気づいていた。腐敗臭に怯え、神経質に鼻を鳴らし続けていた彼らが、ピタリと落ち着きを取り戻し、むしろ、この豊かな「緑」の匂いに、早く先へ進みたいとでも言うかのように、軽く蹄を鳴らした。
宰相は、馬車の窓から、ゆっくりと、その「異世界」の光景を眺めた。
道は、王都の街道ほど整備されてはいない。だが、荒れてはいない。商人ギルドのマルコが、あの後、必死で整備したのだろう。 馬車が通れるだけの道幅が、森を切り開くようにして、続いている。
その森が、異常だった。
王都周辺の森は、蝗に食い荒らされ、葉の一枚も残っておらず、まるで冬の枯れ木が立ち並ぶ「墓場」のようだった。
だが、ここの森は。
木々は、天に向かって、これでもかというほど枝を伸ばし、その葉は、健康的な濃い緑色に輝いている。 木漏れ日が、豊かな下草の上に、キラキラと光の斑点を落としている。
(……あの、忌々しい、蝗の群れは、ここを、通らなかったとでも、いうのか?)
(……いや、違う。あの『境界線』)
(……あの、ファティマという小娘のスキル(ちから)は、この森すら、『テリトリー』として、守り切った、と……?)
宰相は、もはや、驚愕を通り越し、自らの「常識」が、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じていた。
(……これこそ、真の『守護スキル』ではないか)
(……我々は、とんでもない『宝』を、自ら、ゴミ溜めに、捨てていた……!)
馬車が、森を抜ける。
視界が、開けた。
そして、
「…………」
宰相は、言葉を失った。
護衛の騎士たちは、全員が、馬を止め、その信じられない光景に、ただ、呆然と、立ち尽くしていた。
黄金。
見渡す限りの、黄金色の「海」だった。
季節は、秋。収穫の季節。
蝗害がなければ、王都も、今頃は、この色に染まっていたはずだった。
だが、目の前に広がる「黄金」は、彼らが知る「王都の豊作」とは、明らかに、その「密度」が違っていた。
(……なんと、いう……!)
区画ごとに、違う作物が、信じられないほどの「健康状態」で、植えられている。
その、すべてが。
王都の一等地で、聖女の祈りを注ぎ込まれて育った、あの「王家献上」の麦よりも、遥かに、太く。
遥かに、大きく。
遥かに、重い、実を、つけていた。
その、黄金色の穂が、風に吹かれ、サアアアアア、と、まるで、本物の海が、さざ波を立てるかのように、揺れている。
その音は、もはや、風の音ではない。
それは、「生命」そのものが、奏でる、豊穣の「音楽」だった。
「……ば、化け物だ……」
「……虫食いが、一つも、ない……」
「……病気の、気配すら、ない……」
「……神よ。ここは、天国だというのか……」
地獄のような「死の世界」を、三日間、旅してきた彼らにとって、この、あまりにも完璧すぎる「生の世界」は、現実のものとは、到底、思えなかった。
そして、彼らは、気づいた。
その、黄金色の「海」の中で、小さな「点」が、いくつも、動いていることに。
村人たちだ。
彼らは、ボロボロの服を着てはいるが、その顔には、王都の民が、とうの昔に失ってしまった「活気」と「笑顔」が、あった。
彼らは、歌うように、笑い声を上げながら、その黄金色の麦を、刈り取っている。 その、額に光る「汗」こそが、この「奇跡」を、作り出した「対価」なのだと、一目で、わかった。
宰相は、馬車を降りた。
ゆっくりと、その「黄金の畑」に、足を踏み入れる。
指先で、その、あまりにも「豊か」な、土を、すくい上げた。
(……黒い)
(……あの、赤土が? あの、死んでいた、不毛の『砂』が?)
(……こんなにも、柔らかく、……暖かく、……命の匂いがする、『黒土』に……?)
彼は、その土を、握りしめた。
その瞬間、宰相、ゲオルグ・フォン・ブラントは、七十年の人生で、初めて、本当の「敗北」を、悟った。
王家の権威も、聖女の奇跡も、宰相の老獪な知恵も。
そのすべてが、この、一握りの「黒土」と、それを、一年足らずで、作り上げた、あの「追放された小娘」の、圧倒的な「現実」の前に、塵にも等しい、と。




